9 リング・ザ・ベル
9 リング・ザ・ベル
ゴーン鐘の音。
駅から数分、やってきたのは広々とした敷地を持つ、シンプルにして勇壮な門構えの名刹で、過去に文人が参禅したこともあり、だからといってお高くとまることもなく市民相手に座禅会などを開く、紅葉の頃には多数の観光客が訪れる。ソースはパンフレット。
「前からここに来てみたかったの。静かで、落ち着いてて、日常の喧騒を忘れられるっていうか、そんな感じ」と言う奏姉の服装が清楚なワンピースなのは未来の俺の凝り固まったエロゲ脳のなせる業なのか。まあそれは良しとしよう。良しとして。
「クールジャパン! オテラサン、モエ、カネノコエ、ライセハハエ、イチロキタヘ」などと奏姉の横でかまびすしいのは俺ではなく外国人、それも野良外国人ではなく入学式などで会ったうちの学校の外国人、名をエイミー・アレクサンダーという。奏姉とは親しくしているらしく今日のデートにも初めから同行していて、というか、デートなのになぜ第三者が闖入しているのか、その理由は奏姉本人に尋ねないと分からないのだがおそらく俺と奏姉は幼なじみ、旧知の仲、気心知れた間柄故にデートという言葉が非常に軽々しく使われた模様で、彼女にとってのデートとは一緒に遊ぶぐらいの意味で恋人同士のという意味ではなく、結果金魚の糞と言うには灰汁が強すぎる邪魔者エイミーが付いてきてしまったのだろう。
「あ、アジサイきれい」「Photograph撮りましょう」「あ、いいかも」「はい、撮りましょう。ユウ、撮ってください」とエイミーが奏姉を連れてアジサイの前でポーズを取るのだから仕方ない、俺はスマホを構え、「こういう時外国ではなんていうの?」と尋ね、エイミーが「一足す一は、デス」と言うからにはそうなんだろ、「はーい、一足す一は?」と掛け声をかけるとエイミーはすかさず「田んぼの田」と言ったのであり、この外国人はおそらく日本語もぺらぺら、積極的、快活の少女、やたらとデースデース言って回る似非外国人キャラに近似していると思われ、「じゃもう一枚」「はーい」「二引く一は?」「三!」「って日本語ぺらぺらやないかーい」なんてふざけた笑いを笑い、感興とでも言おうか、愉快な芸人キャラでもあるのだなあと思考した俺は、この外国人キャラから貪欲に笑いを取っていこう、どっちがボケに突っ込み上手か試してみよう、なんてよく分からない色気を出し、「もう一枚撮ろっか」「撮りましょう」「行くよー、一足す一は?」「やっぱいいデス」「え、なんで?」「アジサイデスから」「……つまり?」「移り気デスから」トントントン、チンチチチンテントン、などと落語バトルを始めた。
って、だめじゃんそうじゃないでしょうと俺の中の冷静さが言い、え? なんで? と情熱が質問し、だめだよだって俺はここに奏姉とデートに来ているのであって大喜利大会に出場しに来たのではない、と冷静が唱え、でも俺には負けられない戦いが、芸人として上か下かを決める大事な試合が、プライドをかけた戦いが、などとのたまう情熱を捻じ伏せ、「おーい」「はーい」「じゃ今度は俺と写真撮ろう」と冷静がクールに言うのは写真を撮るのを口実に奏姉とくっつこうというこすからい算段だからで、「あ、うん、私が撮るね」とスマホ手に距離を取る奏姉に「なんでやねん」と突っ込みを入れ、「そうじゃなくて俺と奏姉で撮ろうよ」誘い向かった地蔵前、お地蔵さまは柔和な笑顔でなく思弁的辛気臭い顔でたたずみ、「なんかかわいくないね」と言うと奏姉は「そこがかわいいよね」とおたふく面のように和やかに微笑み、これがいわゆるキモカワ志向なんだろうなと思いながら地蔵の頭に手を遣り奏姉と並んで笑顔。
「じゃ、エイミーさん写真よろしくぅ」「さん付けしなくていいデスよ」「じゃエイミーよろしくぅ」「はい。それじゃ撮りマスね。一足す一は?」「田んぼの田」「って言ったら撮りマスからねえ」「がくぅ」「はい、いい写真撮れましたぁ。後でスマホに送りマスね」と言うエイミーとアドレスを交換し、ってしかしだから俺が仲を深めるべきは奏姉なのであって、と、すすす、すすす、歩きながら奏姉との間を詰め、「ねえ奏姉」と話しかけるのだが奏姉はその瞬間狙いすましたかのように「ところでエイミーちゃん」とエイミーに話しかけるのであって、って、これは故意なのだろうか、俺を意識して避けているのだろうか、でもそれならばなぜ俺をデートに連れてきたのか不明になるし、となると、これは本来ゲームにおいては省かれている中間部分、暗転して場面から場面へジャンプする部分なのではないか、だから奏姉とフラグ立つ気配が皆無なのではないか、であるならば絶えることなく話しかけながら次のイベントが発生するまで歩くべきである。生きようと私は思った。
三人仲良く境内散策、外国産ホテイアオイが繁茂する富栄養化した池を打ち眺め、本殿の奥に飾られた難解な仏像を拝み、釈迦涅槃像なる寝てるだけの絵画を見て、それからトイレに女子二人組が寄っている時に俺は本殿の中、少し外れた位置に設置されたテレビを眺めていた。テレビではお寺の年中行事が紹介されており、坊主がうどんを無言で啜るのがうどん供養である、声を出してはいけないのでおかわりの際は必要な玉数を指で申告するのである、みたいなPVを眺めていると「間違ってるデス」と背後から声がしてエイミー、何が間違っているのかと目で尋ねると彼女は「英訳デス」と言い、テレビ映像の下方には行事紹介の日本語ナレーションに合わせて字幕が表示されているのだけれどもそれが間違っていると言いたいらしい。「間違ってるの?」「間違ってマス」「なんだったらエイミーが監修すれば?」「コネがないから無理デスね。具申するまでたどり着かないでしょう」「具申て。でも、こんだけぺらぺらの人を活用しないのも間違ってるよね」「チョット意味分カリマセーン」「いや具申が分かるんだから絶対意味分かってるでしょ」「日本語難しいデース」「そのデースはやはりキャラ付け?」「チョット意味分カリマセーン」「具申って?」「自分より立場が上の人に意見を申す事」「いや分かってますやんめっちゃ頭いいやん自分」「まあ、あなたよりかはね」「って尊大。俺の学力知ってんの?」「頭悪そうな顔してマス」「なんやねん頭悪そうな顔って」「頭悪そうな鼻毛が出てて」「やば、鼻毛出とった?」「頭悪そうな三白眼で」「やば、瞳孔収縮しとった?」「頭悪そうな口元してて」「やば、引き締めな、って全部頭悪そう形容すればなんでもありやんか」とくだらない会話に興じていた俺らの前に現れた奏姉の目元は微かに腫れていて。
「どうしたの?」と吃驚しつつ尋ねるが奏姉は「うん」としか言わず、訳知り顔のエイミーも理由を喋ろうとせず、あれ? 泣くようなことあったっけ? とこれまでの会話つまりイベントを振り返り、しかし何のきっかけもなく混乱しているとどやどやどやっと人が本殿に入ってきて、いずれも鎌倉武士のような恰好をしており、トイレに向かう彼らにジーパンにジージャンという唯一の現代的衣装の男が「トイレさっさと済ませよ」と携行しているメガホンで言う。あ? なんだこいつら? と思考をシフトすると現代衣装と目が合った。現代衣装はメンチを切ってきた。俺も反射的に攻撃的な視線を返した。すると。
「あ、君いい!いい!いい!いい!」と寄ってきて何をするのかと思えば俺の服の裾をつかみ、「いやあ、君いい目してるよ、人殺しみたいな。昔っから虫殺すの好きだったでしょ? いかにも無慈悲そうってか、虫殺してそうな顔してるもん、いわゆるサイコパス? 君だよ君、こういう人を俺は探してたんだよ」と満面の笑み、「いや、ちょっと意味が分かんないんですけど」という俺の言葉にも怯むことなく現代衣装は食い気味に言う。「よし! 主役だ、主役にしよ!」
ゴーン鐘の音。
俺は鎌倉武士に扮装し、片膝をついてかしこまっている。
「姫。北条一族ももはやこれまで、稲村ケ崎で幕府軍を激しい戦いの後退けた新田義貞軍が、我々北条の者を駆逐せんと進行しており、間もなくこの寺に進行する模様。もはやこれまでです。敵に鹵獲されるは末代までの恥、自害して果てましょう」
姫に扮した奏姉は美しいまつげをぱちぱちさせながら棒読みで、
「私たちは、ずっと政治の中心にいて、それは鎌倉幕府の成立から現在までのおおよそ百五十年弱続いてきたのだが、私たちは新田のような乱暴狼藉の者に囚われ、好き勝手されるわけにはいきません。けど、私、死にたくないわ。せっかく我が世の春が始まったのに、明け染の頃、まだ性愛も知らないまま死にたくはないと思ってる」
と言い終わるとよよと泣き崩れてみせた。というか顔を抑えて両ひざをついてみせた。
何をやっているのか。
映画の撮影である。
現代衣装に強引にスカウトされた俺は台本を読んですぐに糞映画だと確信した、今の整理されていない台詞を読んでいただければ分かるだろう、あほ丸出し、頭隠して尻隠さずみたいな間抜けっぷりなのだけれど、まあ、それは彼らがプロではなくアマチュアの、近郊の大学の楽しければそれでいいや的パリピが結成したサークルと知ればさもありなんだが、とにかく、この糞映画に出演することを俺が決めたのは、主役やれと言われたから、ではなく、気持ちが入るよう姫役を任意で選んでいいよ、と言われたからで、そんないい加減な制作体制で立派な映画ができるものか、その無益な創作時間を勉強に回せ、なんて質の話とかはどうでもいいんだよ、映画の出来不出来に関係なく撮影を通して俺は合法的にヒロイン役といちゃいちゃできるのであり、となれば選択肢はただ一つ、奏姉をヒロインに選出し二人で疑似恋人関係を演じよう、そしてドラマでよくある「恋人役を演じるうちに本当に恋に落ちちゃった☆」現象を体験できれば儲けもの、そうでなくとも親睦は深まることでしょう、と踏んだのだった。
「はいオッケー」と言って現代衣装、この映画の監督は、カメラを覗き込み、ああ、とか、うーん、とか、ふしゅー、とか、詠嘆なんだか慨嘆なんだか愁嘆なんだか分からない声を出し、やがて「うん、ま、いいでしょう」としたり顔で言い、「ちょっと休憩入ろうか」と宣言した。
このパリピたちに捕まったのが午前十時頃、そして訳分かんない台本を読まされ鎌倉武士のコスプレさせられて早二時間、時刻は正午のお昼時、それまで撮影一辺倒だったので俺はようやっと安息、ふぅとため息をつきながら小手を脱いだ。すると小道具係の兄ちゃんが「預かります」とか言ってそれを回収するのであり、俺は「おぅ」と答え、なんだか自分が偉くなった気がして横柄な態度、「ロケ弁は?」とよく知らない、目上の大学生に尋ねてみた、ら、大学生は「あ、用意してるんで、はい」とへこへこ頭を下げるものだからやっぱり万能感ですかね、感じちゃいますよねー、今の自分なら何でもできちゃう的な? と鼻をぐんぐん伸ばしていたら「Hey! ユウ!」とエイミーが話しかけてきたので二人で生け垣を構成する石に座る。
「何?」「元気?」「見れば分かるっしょ」「死相が出てマス」「え」「討ち死にデス」「嘘」「嘘デス」「嘘なんかい」「でも鼻が伸びてるのはほんとデスよ」「え、マジ?」「鼻の下も伸びてマス」「マジで?」「鼻毛も伸びてマス」「それは知らんわ」「尻毛も伸びてマス」「いつ見たんだよ」「アレも伸びてマス」「やめなさい。やめなさい」などとしょうもない会話を交わしながらもうきうきわくわくが止まらないのは午後の撮影、姫と武士の、武士が弁慶のようにめった刺しになり、通常ではその場に倒れて死ぬところなのに超人的メンタルで長々と愛の台詞を姫に語りかけるシーン、その最後には接吻、つまりキスシーンがあるわけで、キス、二次元キャラが目を閉じるだけの、後は文章で説明されるだけだった行為を俺はこれから体験するのであり、しかもキスを経たということは間違いなく奏姉ルートに入ったという証左で、さすれば未来は安泰俺はハッピー、一条京子とか花音とか璃々とか関係なく、ってまたギターが頭をよぎったけど知らない見えない考えない、俺はこのエロゲらしいイベント、キスイベントを完遂し奏姉ルートをクリアするのだ、そうすればハッピーなんだ。と考えているうちにスタッフがロケ弁とのたまいうどんを運んできて、うどん!? と面食らったが俺は無言、そう、うどん供養だ、これは修行であり栄光への架け橋であり質朴な前祝いでもあるのだ、と黙して啜った麺は伸びていた。俺もスタッフも昼の陽も、何もかもが伸びていた。
伸びきっているのは奏姉も同じで、昼休み終了、撮影再開、追手から走って逃げるシーンで何やら不承不承といった感じで遁走し切迫感皆無、監督は渋面、「うーん」と呻き、「ま」と眉を持ち上げたかと思うとまた「うーん」と眉根を寄せ渋面、そしてまた「ま」と眉を持ち上げたと思うと再びの再び「うーん」と渋面、という有り様で撮影が進行しない、まあ、はっきり言って今までの、昼飯前までの奏姉の演技も酷かった、拙劣だった、でも、今現在は輪をかけて酷く、声を張ればいいと勘違いしている園児のほうがまだよい演技をしそうな体たらくで、俺は焦った。当然、この糞映画の質に興味はない、だから奏姉の世紀末演技に焦心しているのではない、俺の関心は一点、キスシーンのみにあり、どういうことかというと、奏姉がこの演技を続けた場合撮影が滞り、ラストシーンすなわちキスシーンにまでたどり着かない恐れがあるのであり、「うーん、ま、うーん、ま、」と監督は呻吟している、スタッフは憂鬱げ、今日夕飯何食べようかな、マルちゃんの赤いきつねうどんにしようかな、それともどん兵衛のきつねうどんにしようかな、ってどっちもうどんやーん、みたいな空笑を浮かべている、エイミーはスマホゲームに没頭し撮影自体に興味を失っている、こんな琵琶湖のヘドロ状態をどうやって澄んだ阿寒湖に戻すのか。
「も、ラスト撮っちゃうかぁ」と痺れを切らしたように監督が言った。ジーパンの膝が擦り切れていた。
監督は士気を保つためにクライマックス、気持ちが盛り上がるところすなわちラストシーンから撮影しようと提案したのであり、スタッフは色めき立った。わああって感じだった。ハッピーって感じだった。俺もわああって感じだった。エイミーもスマホから目を離した。奏姉は。
奏姉は一瞬泣きそうな顔をして、虚ろに頷いた。
「じゃラスト、シーン42、姫を背中に、太郎が仁王立ち、新田軍の兵士にめった刺しにされるシーンからの振り向いてキス」という掛け声に今まで暇を持て余しトイレなどに立っていた鎌倉武士たちが、槍や刀剣の模造品を手にがやがやわさわさし始め、「あ、太郎はそこ、そこ」という監督の指示通りの位置に立った俺はにわかに緊張、苦節十五年と数か月、雨の日も、風の日も、エロゲ一筋で過ごしてきた男が、今、リアルの女の子と、キスを迎えます。歌っていただきましょう、お寺で徒花。ちゃららららーらーらーら、ちゃちゃちゃんちゃんちゃん、と、紅白歌合戦で見る演歌風のイントロでリラックスするよう自らを仕向けるもだめだ硬直かっちこち、「あ、あ」と小さく発声してみて体が随意であると確認する有り様、まずい、まずい、と思いながら振り向けば姫である奏姉は目を伏せ気味に思いつめた表情、あ、やっぱり緊張しますよね、いくら姉キャラがリードする生き物だとしてもやはりビビってしまいますよね、と俺はビビりながら、否、と雷光閃いたように脳裏に或る考え。確かにエロゲにおいて姉キャラはリードしてくれる人が多い、しかし、いつだって主人公は男を見せなければならない、奮起せねばならない、拱手傍観受け身のマグロなど言語道断なのである。よし。腹は決まった。では。
とまだ若干の震えを残しながらも俺は向き直り、「あ、じゃ撮影入りまーす。シーン42。5、4、3、……」カチンコの音とともに鎌倉武士を憑依させ、わああと押し寄せる新田軍から姫を守るように仁王立ち、新田軍は手にした獲物を俺へと突き出し、その突き出し方がやはりこなれていない感じでどのあほ武士か知らぬが俺の乳首を刺しやがり、あっ、と吐息しそうになったが俺は今鎌倉武士、そんな軟弱惰弱の色情狂ではない、俺はくわつと目を見開いて達磨のような顔ですべての攻撃を受け止め、「うらあぁぁ」と気勢一発新田軍をたじろがせここでターン、背中に控える姫へ向き直り肩に手を置いてカメラも二人の顔をアップで写す、いざ!
というところで。
台詞が飛んでいた。「姫」と俺は熱情の籠った達磨顔で言った。奏姉は恥ずかしいのか俺と視線を合わせようとしない、抱いた肩は華奢に震えている、そうだ俺は彼女をリードしなければならないのだ、奮起セヨ、男ヲ見セルベシ、俺はもう一度「姫」と呼びかけ、しかし男見せようにも続く台詞が一向に思い出せず、うわ、まず、やば、と脳内が吹雪でホワイトアウト、しかし、now or never、ええいままよ、適当にカットしてくれるだろ、「姫、接吻しまするぞ!」と宣言しぐっと力込め抱き寄せようとした、その瞬間。
「こらぁ! お前ら! 何やってる!」
と怒声、それも太く低く渋い、よく通る怒声だったので俺はキスへ向かう手を止め思わず振り返り、すると、袈裟を着た坊主が数珠を振り上げこちらへ駆けてくる、その様を確認するや否や監督含めたスタッフ全員が「撤収!」と機材手に取り遁走、蜘蛛の子を散らすとはまさにこのことを言うのだなあ、と詠嘆してしまう見事な撤退っぷりで、って、眺めてる場合じゃねえよと気づいた頃には坊主はすぐそばまで来ていた。
「こらぁ!」と咆哮して坊主は、取り残された俺、姫衣装の奏姉、ここに至ってまだスマホいじってるエイミーの元まで走り来て、そのまま走り去った、という俺の願望ナレーションには従わず俺たちのそばに佇立した。俺以上に見事な仁王立ちだった。
「お前らか! さっきから神聖な境内で武士のコスプレなんかやってんのは!」
責める口調に「いやいや、違いますよ」と反射的に抗弁すると「自分の恰好見てみろ!」と即応され、打ち眺めたる自身の姿はまごうことなき鎌倉武士のコスプレで、「いや、なんつーか、アレですよアレ」「アレってなんだアレって」「アレはアレです、はい」「ああ、アレか」と坊主が納得する様子だったので「はいアレです」と頷いたら「アレじゃ分からんだろが!」と返す刀で怒鳴られてしまい、ですよねー、「神聖な境内で何をやってる。説明してもらおうか」と問いただされ、「えっと、映画の撮影してました。彼らが」と、スタッフ一同が逃走した方角を指さすと「誰が彼らだどこの彼らだいつの彼らだ」と5W1H的話をしたので近郊の大学のパリピどもで西北に棲む魑魅魍魎はっきり言ってあほです、と単簡に説明したのだけれど納得しないだろうなあと思っていたこの坊主は、やはり納得しなかった、ですよねー、「お前らだって関係者だろ、いいから宗務所に来い」と言った、というより強制したのであり、俺はエイミーを見た。エイミーはスマホを眺め、明日世界が崩壊しても別に何も、といった様子だった。俺は奏姉を見た。奏姉はコスプレ状態で鹵獲されたことを深く恥じ入り舌を噛んで死ぬ、という顔をしていると思ったがさにあらず、ぱあ、と、ヒマワリが咲くような期待と希望に満ちた表情だった。
連れていかれた宗務所、「お前らどこから来た」とか「何が目的で映画撮影していた」とか「公共の場という言葉の意味が分かるか」とか、まれに「仏教は好きか」といった勧誘絡みの質問をされ、あらかた情報を供出すると、まあしゃーねーなあと納得顔の坊主は説教を垂れ始めた。
「いいかお前ら、他人に迷惑をかけるようなことをやってはいかん。仏様はいつだって人民を見てる。人民が善い行いをしているか悪い行いをしているか観察していらっしゃる。で、悪い行いをしていれば当然報いがあるわけで、地獄だな。八大地獄、八寒地獄、様々分岐しているが地獄の苦しみという形容通りひたすらに苛烈に苦しいのが地獄だ。そんなとこ、行きたくないだろ? いや、分かるよ、お前らぐらいの年齢じゃ地獄がどうの天国がどうの言われても、はあ? って感じだろう。けどな、仏法を疎かにした罪は、たとえ若かりし頃、意味がよく分かっていなかった時に犯した罪だろうと必ずお前らに報いる。許可なくカメラを回すなんて、分かるか、自分に向けてカメラがじりじりしてたら不快だろ? それと同じで仏様をカメラに収めるのは無礼に当たるわけで、え? 境内で撮影はしたけど仏像は映してない? だから、まあ、厳密に言えば仏様を撮っていないかもしれない、けど、例えば、お前らの家で、庭にいきなり素性不明の不審者が闖入してカメラ回し始めたらどうだ? どう思う? な、不快だろ? だから仏を畏れ敬う気持ちで日々を過ごすべきなんだ、ましてや仏様の庭でカメラを回すなんて、言語道断だよ。だいたい、お前ら、男女が寺で遊ぶなんて、不謹慎だよ。デートなのか? 若者のことはよく分からんけども、あれだ、不犯って知ってるか。まずな、不邪淫っていう言葉があってだな、これは仏教で言う五戒、守るべき五つの法の一つなんだけども、早い話が異性と交わるなってことなんだがね、ただしこれは、倫理にもとる異性交遊はするな、という解釈を当てるのが一般的だ。しかしだ、話を戻して不犯、不犯というのは厳密に性交するなと言っている。つまりだ、中高生であれなんであれ、まぐわってはいかん、ということだ。意味分かるか?」
と、くどくど説かれて眠りかけていた俺ははっとした。坊主の説法に心打たれた。のではなく、説法後半に聞き覚えがあったのではっとしたのであり、「あれ? もしかして、おやっさん?」と坊主に訊いた。おやっさんが不犯をやたら説いていた記憶があり、袈裟やら何やらで恰好が違っているので今の今まで気づかなかったがよくよく見ればこの坊主はバンドのおやっさんに近似している。俺の問いに坊主は怪訝そうな顔つきとなり、「おやっさんって、お前とオレ、どっかで会ったこと、あったか?」と問うので、俺、すっかりなじんでいた兜を脱ぎ顔をはっきり見せると、坊主は目を凝らし、あ、ああー、と、明け染の空、夜の闇を追い出すように陽が昇る、といった感じの顔つきで、「お前、悠か。肝心の名前聞いてなかったけど、お前、ギターとボーカルの悠か?」と言った。「あ、うん。尾前悠だよ。ドラムのおやっさんでしょ? えー、本名は、なんたら何蔵じゃなかったっすっけ」「五里厄徳蔵な。ま、おやっさんっていつも呼んでたから名前憶えてないかもしれないが、同じバンドなんだからな、憶えてくれよな」
「悠くん、この方と知り合いなの?」奏姉がおずおずと、しかし身にたぎる興味を抑えきれないといった様子で尋ねる。「あ、うん。ほら、一緒にバンドやってる、ドラマー」と答えると奏姉は「そうなんだ」と気恥ずかしそうに、しかしどこか嬉しそうに微笑み、と、「悠」とおやっさんが割り込む。「何ですか」「さっきも言ったけどもだなあ、お前ぐらいの年齢の男子が女の子連れてデートだなんて、えー」「桂奏です」「桂さんや」「エイミー」「エイミーさんも、チャラついてたらだめだよ、不犯だから不犯。仏法を遵守しない奴にはだな」「おやっさんその話はさっきも聞いたよ」「あん? 大事な話だからな、言っとかないと」「つかおやっさんっのスキンヘッドってロックバンドだからだと思ってたんですけど、単に坊主だったからなんすね」「まあな。でもあれだ、一石二鳥っていうか兼業っていうか、ロック感あるだろ?」と頭に手を遣り嬉しそうなおやっさんは、すぐに真剣な表情となり、「にしても悠」と言う。「何ですか。仏教の話はもういいっすよ」「違う、バンドの話だ」とおやっさんは背筋伸ばして腕組みし、「璃々がな、荒れてるぞ」
「え」俺の脳裏にギターの砕け散る様がスローモーションで流れる。「悠の奴、電話に出ねえしメールも表面的な返信しかしやがらねえ、スランプだかなんだか体裁よく言い訳して、実は脱退しようとしてんじゃねえのかあいつ、みたいなこと言ってたぞ」「あ……あー」実際俺は、電話を避けメールもほぼ返しておらず、というのは、突っ込んだ話になるとギター破砕の件が否が応でも漏れ出ることになるからで、そうなると俺は破滅するわけで、と考えて、俺は、ああー、と平板に脳内発声し、続いて、ああー?と語尾上げで脳内発声し、よくよく考えてみれば、俺はギター破砕を頑なに隠し通そうと画策しているけれど、案外、かっるーいノリで、「ギター壊れちゃった。あ、妹が壊しちゃってー、ごめ☆」みたいに言えば璃々も許してくれるのではないか、という考えが、久々に見たおやっさんの顔を眺めるうち勃興してきたわけで、「あのさおやっさん」「ん? なんだ?」と難しい顔のおやっさんに俺は、ギターがクラッシュしたファクト及びディーテイルについて説明し、「ま、心込めて謝れば璃々も許してくれるよね☆」と璃々戦前の予行演習、かっるーく同意を求めた。
沈黙。
おやっさんは運慶作の吽形像のように固まり、生え際とおでこの境が分からぬ綺麗な禿げ頭から汗を噴出させ、かつて軽く目にしたことのある麻雀漫画の登場人物のように頭に縦線入れて青い顔となり、それから「やばいな」と、ぼそり呟いた。
「えー☆」なんて俺が軽いノリを継続するのは予想外に深刻至極な反応のおやっさんを見て現実を受け入れたくないという逃避行動を起こしたためで、「でも璃々ちゃんならダイジョブじゃなーい?」と脳みそが食器洗い用スポンジでできていそうなJKを演じ続けるのだがおやっさんは笑わなかった。「やばいな」と繰り返した。
「やばいぞ、悠」と、思弁から現実へ帰ってきた様子のおやっさんは、言った。「あのギターはな、誕生日に両親からもらった、大切なギターなんだ」「ぁ、それは知ってるぅ」と言う俺におやっさんはなおも続ける。「それでだな、璃々はあのギターで、音楽を始めたんだ。分かるか? 初めて手にしたギターだったんだよ。思い出もいっぱい詰まってて、だから大切にしてきた、メンテも怠らない、で後継機を買ってからは飾り物のように大切に扱ってきた、それこそへその緒のように。そりゃ、璃々にとっては音楽のへその緒だからな。そんな感じに保存してきたギターを、だからお前みたいなぽっと出の奴に渡したのは驚きだったよ、俺たちでも不用意に触れば怒られるのに。期待の表れだったのかもな。けど、お前はそれを壊した」「妹です」「妹が壊そうが悠が壊したのと同じだよ。お前、璃々はキレるぞ。ただでさえお前が連絡取らねえから荒れてるって時にギター壊したとか」「だ、だからぁ、桂奏姉の食堂でバイトしてぇ、貯めたお金で新しいの買うからぁ」「新しいギター買ったら解決ってもんでもないだろ」「……」「思い出は修復きかないってか、そもそもお前金用意できるのか」「……うるうる」「ふざけんなオレは一銭も出さねえぞ」「……だからバイトを」「始めて? 安く手に入って二十万、それだけ工面するのにどれぐらいの期間が必要だ? 璃々はもう、あの荒れ具合からして待てないぞ。一週間だって待てない、ほったらかしにされてたらキレる」「あの、そんなにまずいっていうか、キレた場合はどうなるんですか」と、スポンジJKを継続する気力を失った俺は丁寧語でしょげ返りつつ、でもしょげ返っていればおやっさんもむごいことは言わないだろう、なんて打算もありありで尋ねた、わけだが、おやっさんは不動明王のように眉を、カッ、と吊り上げて言う。「悠は知らないけどな、昔ライブハウスで対バンやった時、相手のバンドのボーカルが璃々の歌聞いて、小学二年生が教室後ろに貼るお習字、って面罵した時の話な。璃々は楽屋戻ってすぐ、ボーカルを締め上げた。どうやってっていうと、挨拶するように軽やかに相手に近づいて行って次の瞬間飛び膝蹴りを顔面に決めた。人間ってあんなに跳べるもんなんだな。それで、ボーカルが失神KO、床に大の字になったらそいつの顔中にマジックで放送禁止用語を書いて、それだけじゃ収まらずに相手の腹にも書きなぐって、下半身にまで行こうとするからさすがにオレが止めに入ったよ。すぐには止まんなかったけどな。相手のボーカルは朦朧とした意識だったから念のため救急車で病院に運んでもらった。その凶暴性? がロックだなって感じた奇特なオーナーのおかげでそのライブハウスは出禁にならずに、オレらも解散せずに済んだんだけどな、以来狂犬璃々だとか凶悪バンド呼ばれるようになって、璃々も武勇伝みたいにそれを受け入れて、ってか凶悪バンドを自称してるみたいな話になってな、オレ仏教徒だっつの」途中からおかしくなったのかおやっさんの表情は和らぎ、最後は、たはは、と笑った。
笑い事ではなかった。このまま放置すると璃々がキレる、であるならば早々に連絡を取らねばならぬ、けれどもしかし、連絡を取ればギター破砕が露見しやはり璃々がキレる、これは、業界用語で言うところの「詰んでいる」というやつで、そうだ、そういえば塾で勧誘してきた時に言ってた凶悪バンドちゃらいう話は実際のエピソードに基づいていたのだ、となると、やばい、実にやばい、赤のメッシュ入れてる時点で尖がってる奴に違いなかったのだ、警戒しなければならなかったのだ、しかし俺はその警告信号を軽く受け流し璃々に接近してしまい、百手ぐらい進んだ盤面で王将が詰んでいることにようやく気付いた阿呆なのであり、璃々キレる、飛び膝蹴り、病院送り、そして廃人、自分は完全に人間でなくなりました。と、人間失格まで思考がたどり着いた瞬間、ヴィー、ヴィー、とスマホが震えぞぞぞ、璃々からかもしれない、いや璃々からだ、きっとそうだ、と思った俺の脳裏に目を吊り上げ憤怒の形相の璃々が浮かび、憤死、溺死、焼死、餓死、悶死、狂死、といった死にまつわる単語が赤とんぼのようにひゅんひゅん飛び回る意識下、卒倒来ればいいな、卒倒しちゃえば嫌なことを一時的になかったことにできるのにな、と切に願いながらも暗闇は訪れず、嗚呼、嗚呼、と打ち震えながら対峙したスマホ画面には「尾前花音」、妹の名前がでかでかと表示されていた。
ほっとした。体から100ccぐらい空気が漏れる音が聞こえた。「ちょっ、失礼しまっ」とおやっさんに断り、俺は愛する妹からの電話を取った。「お兄ちゃん?」と紛れもない花音の声。自分はもう、涙しそうでした。もう一度「お兄ちゃん?」と声がしました。「うん」と自分は答えました。「お兄ちゃんだよ」と、授乳される乳児のような安堵で言いました。「お兄ちゃん?」と三度繰り返し妹は、「ちょっとお兄ちゃん!」と出し抜けに包丁を研いだ時のような鋭い金属音で怒鳴った。
「え? どうしたの?」「どうしたのじゃないよお兄ちゃん! あの女が今うちに来てんだけど! どういうことなのお兄ちゃん!」「え? あの女って?」「あの女っつったらあの女しかいないでしょ!」「だから、誰?」「あの泥棒猫に決まってんでしょ!」「ごめん、お兄ちゃんほんとに分かんないんだ」「はあ? なんでよ! 璃々とかいうバンド女よ! 鶏のとさかみたいな赤メッシュ入ってる」と言ったところで花音の声は遠ざかり、ごとごと、と数回言ってから「悠!」と声がした。璃々の声だった。妹から電話を奪ったらしい。「ちょっと悠! 今家?」遠くに妹の何か言う声がして、あ?と応答する璃々の声は明らかにキレていた。「悠! あんたギターの練習してんじゃなかったのかよ! スランプがどうしたとか言ってやっぱバンド辞めるつもりでしょ! ふざけんなよこらぁ! 外出ってどこ? ちゃんと声出ししてんの? やってないでしょサボってんでしょあんた! ていうかなんか言えよ!」猛り立つ璃々に俺は猫だましを食らった力士のごとく立ち尽くしてしまい、電話の向こうでは揉み合っているのか時折鼻息のような空気音が聞こえては消え、それからおりゃあ!と喊声がして女の悲鳴がし、なんだなんだ、「だ、大丈夫?」と恐る恐る尋ねると「悠!」と璃々、「壊したってどういうこと! 悠が私のギター壊したってほんと?」と切迫した声で尋ねるので「いや、妹が壊した」と即座に言い返すと璃々は、はあ?と信じない様子で、「もうバンド辞めるからギター要らないしって、それで粉々に破壊したって言ってんだけど!」と憤怒するので「違うんだ」と俺は宥め、「何が違うんだよ!」「俺辞めるとか言ってないし、ってかギター破砕したのは妹であって俺じゃなくって」「けどあんたの妹があんたが力いっぱい床に叩きつけて壊したって!」「それが違うんだって! 璃々に嫉妬した花音が叩き壊したんだよ! あ花音ってのは俺の妹の名前!」と真実を告げるが「そんなはずない!」と璃々は聞き入れず、「このひ弱な妹に壊せるはずないでしょ!」「知らねっつの実際壊したんだっつーの!」「あ、このくぼみでしょ!」「何が!」「居間のここ! へこんでる! あんた女の子がこんなへこみ作れるわけないでしょ!」「だから知らねっつの! そういう設定かなんかなんだろ!」「はあ? 設定?」「ヤンデレってのは怪力なんだよ立ち絵がどんなに華奢でも!」「何言って、きゃっ、この、離せ、この!」なんて何かと格闘を始めた様子、って、戦っている相手はあいつしかいないだろう、バタッと音がした後に「お兄ちゃん!」と声がしたのは花音、「何よこのとさか女! 私たちの巣に土足で踏み込んで! 殺していいお兄ちゃん? この女殺していいよね?」と物騒な物言いなのはヤンデレだからで、「ちょっ、ま、ま、ま、ま」「待てない! ぎゃあ!」と悲鳴、一瞬間あって再び「悠!」と璃々の声、「今すぐ帰ってきて説明しなさい! あんたが帰ってくるまでこの家から出ていかないから! おらフライイングニーだ!」どたっ、ばたっ、と音がしてやがて通話が切れて俺は鎌倉武士のコスプレ姿で宗務所に佇立していて。
帰ったら死ぬな、と思った。死にたくないな、と思った。俺の焦燥を、おやっさんは見て見ぬ振りをした。俺は困窮していた。脇汗が尋常でなく、病気だろうかと思った。今のは割とどうでもいいことだなと思った。人間、命の危機にも割と関係ないこと考えるんだな、という趣意の文章を『河童』で読んだ。これも割とどうでもいい話だった。でも、今日帰ったら死ぬな、という思いはどうでもよくなく、むしろ公理と言ってよかった。
「うち、来マスか?」とエイミーが言った。
溺れる者は藁をもつかむ、という諺を思い出した。これも割とどうでもいいことだった。