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8 ワイ・ドンチュ・ゲッタ・ジョブ?

 8 ワイ・ドンチュ・ゲッタ・ジョブ?


「らっしゃっせーぃ」

 いらっしゃいませと言うと素人臭く聞こえるところを崩して玄人風、出だしをア音にすることで発声し易く、語尾に小さな「ぃ」を追加することで気さくな兄ちゃん感を増し増し、あとは怯えることなく押し出すように声を出す。以上が陰気でなくかつこなれた挨拶をする上で重要なことである。

 なぜ俺はかような職業上のコツをゆるゆると語るのか。

 客が入店したらばいらっしゃいませを言わなければならないからである。

 と言っても意味が分からないだろうから順を追って。あの夜の後の話。璃々から借りたギターを粉砕された俺はギターを新しく購入しようと考えたわけだが余力なし、日頃の素行の悪さ故貯金というものがなく、宵越しの銭は持たねえを地で行っていた俺は、と記すとなんだか確固たるポリシーを持って銭を費消していたかのように聞こえるがそんなことはなく、俺は本や服や駄菓子を特別な思想もなく思い付きで買って買って買って気づけばすっからかんのおけらちゃん、でも、まあ、来月になれば小遣い入るし、いっか、なんて金銭的自堕落生活を送ってきた、故に二十万円なんて大金をポンと工面できるはずもなく、じゃあどうするのか。璃々に正直に謝ることにした。なんなら新しいギター貸してくんないかな、なんて色気を持って電話した。受けた璃々は「え? あのエレキギターの代わり? あるわけないじゃん。ていうかあれ、誕生日に親に買ってもらった大切なギターなんだから、大事に使ってよね。ていうか何? まさかあのギターに何かあったの?」などと攻撃的雰囲気を漂わせるので俺は謝罪まで行きつかずもにょもにょごまかしてしまい、だって、思い出ある親のプレゼントが壊れてしまったなんて、言えるわけがないではないか! と数秒間ヒーロー的苦悩に身を浸してからすぐに「やっちったー」と頭抱え絶望、これはごめん一言じゃ切り抜けられない、やっぱ新しいギター買って弁償しないと許されないな、と考えて考えたのがアルバイトで、二十万なんて大金を捻出するにはそう、アルバイトしかないではないか、と確信、まずは璃々を「最近、ちょっち不調っていうか、スランプっていうか、ギターね、ギターの話。だから、一人で修行させてほしい。今みんなと演奏っても意味ないから。俺らのバンドは活動休止ってことで、って、え、え、え、え、大丈夫大丈夫、解散じゃなくって活動休止だから、all right? OK? You got it, man? そそそそう、活動休止だから、休止だから。なんかロックバンドっぽいでしょ、活動休止って」なんて後半は言ってる自分も納得できない謎理論により説き伏せしばらくバンド活動休止つまり璃々と会わないつまりギター破砕がばれない状況へと誘導し、今までバンド練習に使っていた時間をアルバイトに回すこととした。

 余談だが当然勉強どころの話ではなく、一条京子とは口もきいてもらえないどころか同じ空気を吸うのさえ露骨な嫌悪の表情をされてしまい、でもいいのだ、俺は璃々を攻略するのだから、と開き直りながらもどうしても意識してしまうのが妹花音で、ギター破砕によりバンド関係に、つまりは璃々に接近できなくなった俺を小気味よく眺めている彼女は最近ゼクシィを俺の目につく場所に置くという精神攻撃を仕掛けてきていて俺は半ノイローゼ、夢に見るのがヤンデレ系彼女最終イベントたる主人公殺害、歪んだ愛をいかんなく発露するシーン、それは例えば包丁で刺殺、それは例えばさば折りで圧殺、それは例えば無免許運転の自動車で共に崖から投身自殺であり、そんな厄災の夢を見て深夜二時、はっ、と目覚め以降寝付けず結果睡眠不足で一日を過ごす、もうお肌ボロボロだよね、なんて生活を俺は送っていて、死にたい、いっそ死にたい、なんて考えるのは半ノイローゼ通り越して俺のほうも狂気に囚われているからではないかという意見は真っ当至極だがそれについてまじめに考えると余計に死にたくなり、死にたいと感じるってことは狂っているということになり、と永久機関が発動するので俺は妹について考えるのを極力避けている。

 避けているけども一応、アルバイト先を探すうえで大切にしたのは妹の了承であり、というのは璃々に関して見せた執拗な追及のような、アルバイト先の女の子との情事に対する疑い及び執着、また、それに付随して発生する俺に対する攻撃衝動、これらを回避するためには、花音が「そこならいいよ」と納得するバイト先を用意せねばならぬ。そのような深慮により見出されたバイト先が、桂奏一家が切り盛りしている食堂であり、俺はどうしてもバイトさせてクリオネと奏姉を拝み倒して、しょうがないなぁ、の一言を引き出し、そして今こうしてボイをやって客などが来たらこなれた「らっしゃっせーぃ」を発声するのである。ここまで長かったね。

「おっす。元気でやってるぅ?」

 と不分明な声で挨拶するのは大盛で、彼は幼少の頃よりこの食堂に通う所謂常連客、週に三回はここで食べると知ったのは割と最近の話なのだけれどもそれは置いといてなぜ大盛がかくのごとくもごもごと籠った聞き取りずらい声を出しているのかというと大盛はここ数か月で三十キロ以上の激太りを果たしたからで、それにより声帯が圧迫でもされているのだろう、デブキャラのような声を出すようになったのである。「お前今何キロ?」「93kg」と言って席に座る大盛はまるで風呂でインタビューに応じる関取のようで、「お前間食やめたら?」と何度も忠告しているのに彼は「うん。そうだね」と聞き流してポケットから取り出した飴ちゃんを三つ同時に口に含み、ばりぼりと噛み砕き始める。その緩慢な動作は妙に人を苛立たせるものがあり、「早く注文しろよ。いちいち確認しなくても知ってんだろが」とメニュー表をいじくりだす大盛の尻を言葉で蹴っ飛ばすと奏姉がすっ飛んできて、「大盛くん、元気?」「あ、元気です」「そっかぁ、よかったぁ。あ、悠くん、注文は私が取るから、悠くんは八番テーブルの片づけお願い」と大盛を引き受け俺を遠ざけるのは、まあ、通常の感覚っちゃあ通常の感覚、至極もっとも常識人なのであり、このまま大盛と俺が親友の間でのみ交わされるフランクな会話を繰り広げた場合、「あの店はウェイターが談笑ばかりして働かない」「使えないどころか、客を威嚇さえしている」「そんなお店、行きたくない。ランチは他で取ろう」という評判がネガティブな方向で人口に膾炙し早晩レストラン鯨食は右肩下がり、客が来なくなり閑古鳥が鳴く、伽藍堂、やがて廃墟となり心霊スポットとなり無謀と勇敢をはき違えた若者たちがたむろするようになり最後は不審火出火、赤々と燃えてすべてはうたかた、残ったのは環境基準値を超えるベンゼンに汚染された土壌だけでした。なんて暗黒物語が待っているのであり、だから奏姉のカットインは従業員目線で非常に適切で、しかし、ゆるゆると、その腹肉のように締まらない動作の大盛にじりじりすることもなく常に笑顔で対応する奏姉を見ていると、あ、いいな、と梅の花の蜜を吸って回るメジロを見かけた時のような好感を覚えるわけで、大盛の、「カツ丼特盛」というナマコみたいな声にかしこまる様を眺めながら、俺は八番テーブルの片づけに向かった。

 丼鉢を厨房に片づけフロアーに戻るとまた新たな客が入ってきたので「らっしゃっせーぃ」と声を張ると入ってきた客は一瞬、はっ、と動きを止め、それから顔をしかめて嘆息、帰るかと思ったら俺に攻撃的な言葉を投げかけてきた。「さっさと席に案内しなさいよ、蚤」

 いったい、常識を解する人間が、このような侮蔑的挨拶を行うだろうか。否。こんな高慢かつ冷笑的な、何よりも俗物的な挨拶を行うのは、おおよそ霊長類から離れた行いで、となると目の前の客は蛮族、あるいは文字通りの獣でしかないのですがね、君はどう思います、ロジオン・ロマーヌイチ?

「はあ? ロジオン・ロマーヌイチって『罪と罰』でしょ、あんたみたいな低能が知ってるんだもん、あたしも知ってるわよ、けどドストエフスキーはもっと格調高い文体よってかそんなのどうでもいいから早く席に案内しろっつってんのよ、百日紅」

 来店者は勝気そうな吊り目に、先端を固めれば人を刺傷することができそうな凶悪ツインテールの持ち主、高慢家の傲慢家にしてツンデレ科ツンデレ属の戸狩照様であった。

 俺はためらった。たとえ従業員という、客に隷属しなければならないポジションに在しているからといって魂まで売り飛ばしこのモンスター客に奉仕しなければならないのだろうか。俺にもプライドというものがある、人間としての誇りがある、矜持がある、それを、かような人非人に屈従し、言われるままにへーこらへーこら頭下げ、ご注文お決まりでしょうかなどとへりくだっては末代までの恥、尾前家の汚損、泥濘に向けて土下座をするのと同義の屈辱、であるから俺は百日紅女の要求をきっぱり拒絶して見せる必要があり、しかしそうすると環境基準値を超えたベンゼンがなどと煩悶していると遠くから「悠くん!」と声がして奏姉がこちらに駆け寄ろうとしている、そうだ、桂奏一家の命運を考えろ、お店とは客あっての商売なのであり客をないがしろにするのはプロとして恥ずべき事、私事でいかなる軋轢があろうともきちんと案内、仕事をこなしてみせること、それこそが本物の職業人の矜持である! 学生とは違うのだ! と心の中で啖呵を切って現実界では小走りに来る奏姉にすべてを任せようとしていた俺の計画を崩壊させたのがチャラついた兄ちゃんで、兄ちゃんはさらさらのヘアを手櫛でさらっ、さらっ、とかき乱しながら「すんませーん」と奏姉を呼び止め、電車の車掌が指さし確認する感覚で、「この、カツ丼ってどんなんですか? あ? ご飯の上にカツレツが載ってる? うん? それをオムレットのように卵で閉じている? ふんふん、でご飯はどれくらい? ああ、こんぐらいの、中ぶりな丼鉢に入ってるのね。あじゃあこのカレヰライスは」とメニューを一つ一つ閲し始めたのは真実真正に料理の正体が分からないからではなく、奏姉と話をしたい、言葉を交わしたい、あわよくばフレンズになりたいなあという邪悪な下心を有しているからで、結果こちらの救援に向かっていた奏姉は足止めを食う形となり、店入り口では戸狩照様が席へのご案内を今か今かと待ちわびている状態で、その顔に浮かぶ笑み、零れ現れた犬歯から、戸狩照様も俺の人間としての尊厳と職業上の義務との葛藤を理解していて、救援は来ない、ではお前が案内せねば誰が案内するのだぁ、と俺が魂を売る瞬間を心待ちにしていることが明らかなのであり、ぐぬぬ、俺は、俺は人間として、しかしボイとして、ぐぬぬ、と脳のシナプスが焼き切れるまで思弁した俺は、「こちらにどうぞ」と笑顔でお客様を席にご案内した。

 発狂したのか。

 否。人間、我を張るのも大事だが時にはしなやかに対応しなければならない。表面上は魂を売ったように見えても心の中でぺろりと舌を出し、人間性を売り渡さなければそれは敗北ではなく、あえて逆に相手の懐に入ったふりをして見事自らの流儀でやりきってみせれば、それは従属の上の勝利なのである。

 と自分でもよく分からない論理展開で自らを説得というか納得させやることはボイとしての仕事を完遂すること、俺は戸狩照様を席にご案内しお椅子を軽くお引きしてお座らせおメニューをお差し出し「ご注文お決まりになりましたらお申し付けくださいませ」と一言、場を辞してカウンター奥へ、悠揚迫らぬ動作でお水を、業界用語でお冷と呼ばれるただの水をコップに注ぎやはり悠揚迫らぬ態度で一度小さな咳払い、それからやっぱり悠揚迫らぬ動作で、若干のモデルウォークを交えながら戸狩様の座りたる食卓に向かいお冷を斜めの位置から音のせぬようにサーヴし、戸狩様が注文のために顔を上げる、ことをしないのでもうちょっと時間を潰そう、では、他の食卓の上を布巾で拭きませう、なんて自分は時代がかった調子でよろぼい歩き固く絞った布巾で別のテヱブルの上を拭キマシタ。檸檬ノ香リガシマシタ。と、退屈し始めたところで戸狩様がようやく腹をお決めなすって「すいませーん」と俺を呼んだ。

「はい、伺います」と爽やかに返答し一歩二歩三歩四歩の閑歩かなと頭で俳句しつつ戸狩様のそばに立ち、「あのさあ」「はいなんでしょう」「おしぼりは?」と言われ、「あ」、なんて間抜け声が出てしまったのはすっかり失念していたからで、「ただいまお持ちします」なんて慌てふためいておしぼりを持ってきた俺はすでに精神的に劣位に立っており戸狩様のワンサイドゲーム、「ちょっと、このテーブルの端っこ、汚れてるんだけど」「はい、ただいま拭かせていただきます」「お冷になんか浮いてね?」「あ、それは檸檬片で、ただの水を出すのも芸がないので香りづけをしているといいますか」「いいから代えろっつってんの」「はいすみませんかしこまり」「ました付けろよました」「へえ、かしこまりました、今すぐお代えします」とへこへこ頭を下げ、新しく水を注いだコップを食卓に据え、「失礼しました。ではご注文のほうをどうぞ」と言うと戸狩照様は傲岸不遜に笑い、「いつもの。裏メニューで」と言うのであり、は? 裏メニュー? 聞いたことがないんですけど? と疑問した俺は奏姉に視線を遣りヘルプを求めたのだけれど奏姉は未だチャラついた兄ちゃんの前、「え? ちなみにカツカレーってのは何なの? え? ああ、カレーの上にカツが載ってんのね。ちなみにカツはロース? フィレ? 俺脂身苦手だからフィレがいいんだけど。え? ロース? マジかよ。やばくね。ビビるわ。ってことはカツ丼もロース?」なんて不毛な会話に掛かりきりになっている、救援には来ない、で戸狩様は早くしろやみたいな横柄面で俺をぶしつけに眺めているのであり、進退窮まった俺は「あ、裏メニューですね。分かりました」と紳士然と応じて厨房に引き下がった。

 厨房で腕を振るう奏姉の父に裏メニューです、と言った。何を言っているんだこの馬鹿は、という顔をされた。もう一度、お客様が裏メニューを所望されています、と言った。何を言っているんだこのあほは、という顔をされた。もう一度、裏メニューお願いします、とは言わなかった。なぜか。

 俺は試しにあったのだ。戸狩の奴は裏メニューなど存在しないことを知っていながらあたかもそれが存在するように注文し、慌てふためく俺を眺めほくそ笑み、そして仕事だ仕事と腹をくくった俺に仕事上の失敗を経験させることで恥辱を与えたのだ。

 俺は昔、ミッション系の女学校に男が女装して潜入する、その上で恋愛を行うエロゲをプレイしたことがある。おかげで俺は女装に目覚めた。というのは傍論、今は関係ない話でじゃあ何の話がしたいのかというと、試し。聖書が教えるに、我々人間は神を試みるようなことをしてはいけない。それは不信仰から来る行いで、心根のねじけた行いであり、そんなことをしているようでは天国の門はあなたに開かれない。俺はエロゲでそう習った。そう、試みるという行為がそもそも相手に対する不信感の表れであり、それはつまり礼儀を失した行為であり、卑しい行為であり、恥ずべき行為なのだ。しかし戸狩照は何をやったのか。俺を試す、試みるということを行ったのである。それは唾棄すべき行いで、人倫にもとる行いで、つまり神をも恐れぬ行いであり、呪われよユダ、お前たちは皆私を知らないと言うだろう、ペテロは鶏が三回鳴いたら言を翻すだろう、って、あれ? でもお客様こそが神なのであって、あれ? とぶるぶる怒りに震えながらも自家中毒、混乱し始めた俺に奏姉の父は顎をしゃくり早くフロアーに戻れの合図、俺はくるくるした頭でフロアーに戻り目にしたのはようやく兄ちゃんから解放された奏姉が戸狩照様と談論する姿。

「だからぁ、あの気の回らない店員に頼んだっつってんじゃん」「申し訳ございません。うちは裏メニューというのはやっておりませんので。すべてのお客様に公平であるよう、そちらのメニュー表に書かれたもの以外お出ししておりません」「でもあの店員、自信ありげに引っ込みましたけど?」「彼はまだ新人なので、知らないことも多いのです。たぶん裏メニューなるものが本当にあると考えたのでしょう。お客様が、いつもの、と仰ったのでなおさら勘違いしてしまったというか」「何? あたしが悪いって言うの?」「いいえ。きちんと教育しておかなかった、こちら側の責任です。申し訳ありません」「……それは、その……」「代わりに私が承ります。ご注文のほうはお決まりですか」「……えっと」と、決まりの悪そうな顔で戸狩照様はメニューを閲し、「えっと、海鮮丼で」と言ってすぐに顔をしかめたのはおそらく、さして食べたいわけでもないのに勢いで海鮮丼を注文してしまったからで、というのも、やはり、と言うべきか、戸狩照様は注文する品を検討しない状態で俺に裏メニューなどと囁いた、そりゃ悪意を持ってはめるつもりだったんだからね、彼女の脳内には出てくるはずのない裏メニューを注文することしかなかった、つまり正式なメニューに関してはほぼ無知であったのであり、それがいきなり何をご注文なさいますかと問われ、焦った彼女は今現在自分が真実食べたい物を考える間もなく脊髄反射で海鮮丼と答えてしまったに違いない。

 その醜態は小気味よかった。ざまあみろと思った。でも。

 それ以上に奏姉にきゅんとした自分がいた。


 姉と妹。たいていのエロゲには姉キャラと妹キャラが存在するのだけれど、きゃぴきゃぴぐいぐいな妹キャラに比して姉キャラというのは静寂、落ち着き、包容力がある、というとプラスに聞こえるが俺みたいな若造に言わせるとどこか湿っぽい、所帯じみた、家庭科の授業のにおいがするわけで、では、派手なマクドナルドハンバーガーと地味な筑前煮、どちらを攻略しますかと問われれば俺はまっすぐ、飼い主のcomeに駆け出す犬のようにまっすぐ妹キャラを選択する、選択してきた、そしてこれからも選択していくことだろう、と思っていた。けれども今日の戸狩照絡み事件、頼れる姉キャラ、というものを見せつけられた俺は不覚にも胸きゅんしてしまい、今まで親しい幼なじみぐらいに思っていた奏姉が急に異性として認識され迫ってきて、う。と苦しげに呻くのは、俺が今まで軽侮してきた、年下の女性が職場の上司に引っかかり十歳年の差カップル成立、でもそれ傍から見たらただのおっさんやねんで、現象を体験してしまったからで、ショック、Youはショック、愛で空が落ちてくる、と昔のアニメの主題歌を歌えば閉店後のレストラン鯨食、奏姉のお父さんが合唱してくるのはお父さんはパチスロ好きで散財ばかりしているからでって語る俺はいつの間にか「奏姉の父」ではなく「お父さん」と呼んでいるのであり、完全に意識してしまっている、まずい、と動揺しているところに奏姉が話しかけてきた。

「今日は大変だったね、悠くん」「え、あ、何の話?」「何の話って」うふふと奏姉は上品に笑い、「お客様に絡まれてたじゃない」「ああー、うん、戸狩照ってんだけど、やたら絡んでくるんだよね。もううざくてうざくて」「ふふ。確かあの子、悠くんと同じ学年だったよね」「そうそう、生意気っていうか、ツン期だからといってあれほど悪逆無道とは思わなかったよ」「ツン期?」「ツン期。戸狩照はツンデレキャラだから」「そうなの?」「もうこてこての。ツインテールなのがベタもベタでなんつーか、俺ってあほなのって」「ん? どうして戸狩さんがツンデレのツインテールだと悠くんがあほってことになるの?」と素朴に訊かれおっとっとこれがエロゲだと認識しているのは俺だけで登場キャラは知らなくていい話だ、「あ、でも」と話頭転回、「今日の神対応、すごかったよ、地軸の傾きが増したかと思ったもん」と褒めちぎると奏姉は照れたように「そんなこと」と髪に手を遣る。「いやいやいや、ほんと、スカッとしたっていうか、でもほっとしたほうが大きくって」へへっ、なんて悪戯小僧のように笑って見せると奏姉は「そう?」と首を傾げ、それから柔らかな笑顔で言った。

「悠くんのそういう笑顔、久しぶり」

「え?」顔が充血するのを感じる。

「最近、悠くん、表情が硬かったから」

「え? そう、だっけ?」触れた自分の頬はグミよりも柔らかい。

 ふふ、とおかしそうに笑って奏姉は、食卓の上にあげた椅子を一つ下ろし俺に勧め、もう一つ下ろし自らが座った。「最近の悠くん、何かに追い立てられてるっていうか、後がない、みたいに、張り詰めてるっていうか」と言う。

「そっすかね」と軽く答える俺の脳裏に二十万のギターが映る。ガーンと雷鳴のごとく轟いて破砕されたギター。

「うん。これはお姉ちゃんとしての勘、なんだけどね」奏姉は流れた髪を耳にかき上げる。「悠くん、昔から、不安があると目が合いづらいっていうか、目を合わせなくなる癖があるの。それからさっきみたいに、軽く、チャラく受け答えるとか。自分は大丈夫ですって必死に喧伝してるようで、少し痛々しいっていうか。もし、何か心配事があるのなら、私に相談してね?」

 ね? と奏姉は俺を覗き込む。

 自分は。

 自分は、落涙していました。二十万、二十万とやたら繰り返してきたのは心労の結果だったのです。追い詰められていたのです。そんな時、奏姉の言葉が、心配が、親切が、真冬の温泉のように自分の心に凝り固まった根雪を溶かしたのでした。滂沱の涙でした。自分は、時折喉を痙攣させながら、あの日破砕されたギターは璃々というバンド仲間の所有物で、それを弁償すべく労働することにしたのだが二十万円なんて当分返せそうにない、璃々には内緒にしている、しかしいつ秘密が露見するか気が気でなく、心休まる日がないのだ、と詰まり詰まり、まるで謝罪するかのような哀調で、語りました。自分はもはや赤子でした。赤子のようにわんわん泣くばかりでした。奏姉は温かくそれを見守り、助産婦のように相槌で慰撫しながら話を聞いてくれ、内容を咀嚼するように一度瞑目して黙想し、なんとなく、と言って目を開き、バイトするって聞いて、壊れたギターを買い直すのかなと思った。そういう事情なら私も幾許か、全額は無理だけれども、ギター購入のために拠出するね、と言ってくれたのでした。

 自分はただ泣くことしかできませんでした。人間愛、利他行動、それらはいずれも自分が否定してきた現象で、惰弱にして唾棄すべきものと考えてきた現象で、しかし、自分はそれらを目の当たりにし、冷血漢、我利我利亡者の自らに恥じ入るばかりでした。愚かだ、自分は結局は子供だったのだ、ガキだったのだ、井の中の蛙に過ぎなかったのだ、自分だけが正しいと信じ、力だけがすべてだと信じ、しかし、それは不正解、みその沈殿したみそ汁の上澄みのような表面的世の中でしかなく、脳内で鳴り響くアヴェ・マリア、すべては愛です、愛なのです。

「そんなに泣かれると、こっちが困っちゃうよ」

 奏姉は困惑顔、胸元で手を振ります。自分は

「ごめんなさい。久しく泣いていなかったもので」

 と言い、言ったそばからまた涙が溢れるので奏姉の顔さえよく分からなくなって、ただひたすらに、ごめんなさい、と、言葉を覚えたての幼児のように同じ言葉を繰り返すのでした。バンドやら璃々やら、憂いことは涙とともにぽろぽろと自分の中から抜け落ち、心が清浄されていくのを感じました。泣くことは快いことでした。と、泣き続ける自分にもらい泣きしたのか、奏姉まですすり泣きを始めてしまい、辛いことってあるよね、辛い時は泣こうね、と言います。自分も、辛い時は泣こう、みんな辛いんだ、生きるのって辛いんだ、と人類的なことを言って、延々と泣きました。

 少し落ち着いた奏姉が、まだ鼻をすんすん鳴らしながら、言いました。「そうだ、今度、一緒にデート行きましょう。私、行きたい所があって。悩みを捨てるの」

「行きましょう、是非に行きましょう」

「約束よ。約束だわ、悠くん」

「ええ、絶対にデート、行きましょう」

 と答えながら自分は、あ、これ、デートイベント発生じゃね? 奏姉ルート入ったんじゃね? と思った。俺は涙を流しながら、というか途中から演技的に涙を流して見せながら、やった、と胸中ガッツポーズを決めていた。


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