7 ロンドン・コーリング
7 ロンドン・コーリング
ちょろちょろちょろちょろと音を発しているのはドリップ式コーヒーメーカー、黒く淀んだキリマンジャロコーヒーが降り積もり湖を作っているのは昔から変わらない姿で、昔から何も変わらない、ある日、両親から頭がラリホーになるよと固く禁じられていたコーヒーなる嗜好品を嗜もうと俺は器具を設置、豆に熱湯を流し込んだら漏斗の上の豆は跡形もなく消えてしまい、あれ? 父や母はいつもこのようにして珈琲を抽出しているのに、何故? と困惑した俺に桂奏、奏姉が、それはインスタントコーヒーの粉末であり湯を注ぐだけ、インスタントにできる珈琲の粉なのであって、こちらが豆をごりごりっと挽いて作るコーヒー粉末、こちらを漏斗に敷いて熱湯を注げば、と熱湯を注いでみせドリップ式コーヒーの作り方を見せてくれた、あれが小学校の頃の話で、あれから幾年も経った我が家のキッチンにおいてあの時と変わらぬやり方で奏姉がコーヒーを抽出している。沸き立つアロマ。俺の心は冒険者。濡れた雪を噛むアイゼン。空気の薄い高山。Yeah, 征服したいよ頂点。
なんて、コーヒーのカフェインで若干ラリって空想に遊んでしまうのは世の中には狂人の願望が現実化することがあるらしいからで、食卓、真向かいに座る妹の花音は俺の知っている花音と全くの別人になっていた。デブで前髪シャッターの不細工妹は、げっつい美人、可憐な印象で保護したくなる妹キャラの典型へと変貌していた。
「悠くん、急に塾に通い出すし、と思ったらギター持って帰ってくるし、何をやってるんだろうなって。今までずっと家でごろごろしてテレビ見ながらわははは笑ってた悠くんが、急に勉強始めたのは、すぐ飽きるって分かってたけど、ギターと歌唱には熱中しちゃって、全然周囲が見えなくなっちゃったっていうか、人が変わっちゃったっていうか、私の言うことにもいつも生返事で、このままこの家から、というか、この世から消えちゃうんじゃないかって思ったそうなの。それが怖くて、食事も喉を通らなくって、それで気づいたら激痩せしてたらしいの」
奏姉が盆に載せたコーヒーカップを配膳し、花音の横に座る。ありがとう、と軽くお辞儀する花音はやはり見た目愛らしく、すると、今までの行動だけ抽出すると彼女はベタベタの、正岡子規が読んでこれは月並みで大変よろしくないと嘲罵した俳句ぐらいに月並みな妹像で、唯一の欠点だった外見問題はこれで解消され、となると俺の人生はかわいい妹に甲斐甲斐しく世話される幸福なエロゲ世界へと完全に移行したと考えてはばかりなく、なんだったらこの妹と懇ろの仲になっても構わないのであり、俺は奏姉の淹れたコーヒー飲んでふぅ、でも落ち着け、血縁問題がある、というのは、エロゲは空想の産物、拵えもの、フィクションにすぎないがしかし反社会的行為を組み込むのはなんたら省かが禁止しているはずで、例えば児童なんたら罪という犯罪になるので十八歳未満の登場人物との性的な描写は禁じられている。明らかにロリであっても年齢は十八歳以上なのだ。
それと同様、近親相姦に繋がる実姉、実妹との交接は描かれず、エロゲ中に登場する姉および妹キャラは異母姉妹であることが定例となっており、しかし妖精が言う俺の作ったリアルエロゲにおいては妹花音は実妹として登場していて、となるとあれか、犯罪行為であると承知したうえで花音と懇ろになる道もあるにはあるが、しかし、犯罪者となった時点で俺の未来は暗い水の底へ直行するのは目に見えている、となると花音を攻略する、という選択肢は無いわけで、ふぅ、まあ、いきなり外貌が美女に変わったからといって今まで鳥の糞みたいに思っていた妹を愛することなんてできないよね、そんな現金で卑怯な真似、僕にはできないな。と僕は考え、くぴっ、とコーヒーを飲んだ。脳内にキリマンジャロ山の氷河が描き出された。僕は氷の上を一歩一歩歩いた。吹雪がひどかった。倒れそうになった。その時花音の声が聞こえた。お兄ちゃん。なんだい、花音。お兄ちゃん、あの女は誰なの。あの女って?
「あの女って、璃々とか呼ばれてた奴。髪に赤いメッシュ入れて、だっさ、ていうかあり得ない、あんな女とバンドなんかやって、鼻の下伸ばしちゃって。そこの高そうなギターも、あの女からの贈り物なんでしょ。何? この歳で女に貢がせてるのお兄ちゃん」
俺をスタジオから強引に連れ帰って以後一言も発せず恬然あるいは超然とした様子で食卓に座っていた花音が突然、粘着質な声、嫉視と呼ぶべき双眸、ふるふる怒りに震える唇で尋ねてきて、俺は俺の璃々に対する下心を看破されたことに若干動揺しつつも「え、鼻の下とか伸ばしてないしぃ。璃々とはぁ、全然、ただのバンド仲間でぇ」と問題としない調子で返答したのだけれど花音は俺の言葉の端々に漂う不信感、語尾を伸ばす喋りにぬるっと嗅ぎ取るものがあったのだろう、「お兄ちゃんってさ、噓言う時いつも口調おかしいよね」と断定した。「ぎくっ」「そのオノマトペからしておかしい」「いや、いやいやいや、でも、ほらぁ、本当に俺と璃々の間には何もないわけでぇ」「本当に?」「ほんとにほんとに」「じゃこれから何かあるんだ」「いやいやいやいや、えっへ」「えっへなんて、今時、擬人化されたビーバーが巣を作るべく木を何本も削り倒して、後で特に必要でもない木まで倒しちゃったなと気付き、照れてしまった時に思わず、って時でもえっへなんて言わないよ」とやたら花音は粘着して璃々との関係を聞き出そうとするわけで、俺はふと考えた、回想した、昔のことを。
俺には小学校時代、大盛以外にも仲の良い友達Aがおり、共に下校したり、時には俺の家で遊ぶなんてこともあったのだが、彼は離れていった。理由は俺と一緒にいると花音に嫌がらせを受けるからであった。友人Aと家の庭で遊び部屋に戻った際、置いておいた彼のランドセルに焦げ付きの跡がついていた。何奴、と思う前にすぐ隣の花音の部屋から線香のにおいが流れてきて、仏壇などないのに線香、明らかにおかしいと思った俺が花音を問い詰めると、というか問い詰めるまでもなく第一声、「お兄ちゃん連れて行っちゃうんだもん」とじと目、続いて、ゴキブリに殺虫剤を噴霧するような冷酷な顔つきで「お兄ちゃん独占したら、またやるよ」と言った。何をまたやるのかは言わなかったが言わないでも状況証拠で分かることだった。ちょうど焦げ付きと同サイズの、燃焼している線香の束が灰皿の中で燻ぶっていた。
もはや何歳の頃の話か思い出せないがたしか二人小学生だった頃、仕事中毒のエロゲ廃人だった母がたまの休日、居間にいた俺にじゃれついてきた、というのは青年期のライオンがよくやる喧嘩のような触れ合いを思い浮かべていただければよいのだけれどもそんな母と息子の交歓時、居間に現れた花音は行くよや混ぜてといった宣言一切なく突然俺と母の間に割り込んできて邪魔をし、いきなり割り込まれればムッとするし母恋しかった面もあり俺は花音をよけて母とじゃれ合おうとしたのだけれど花音は徹底してその小さな体でガード、俺を母から遠ざけようとしたわけで、怒った俺は「何すんだよ」と言い花音の髪の毛を引っ張り泣かせ結果母から叱責を受けてしまい俺も泣いて、「喧嘩する子は外で反省なさい」とおっぽり出された庭で花音になぜ邪魔をするのかと訊くと「お兄ちゃんがじゃれついていいのは私だけなの」と喚きながら俺をぽかぽか叩いた。
どうにも暇で花音の留守に転がり込んだ花音の部屋、中学一年に上がった頃の話、部屋の中は整然としていてつまらない印象、勉強机の抽斗やクローゼット内にも面白げなもの、言うなれば秘匿したい急所、のようなものはなく、ま、盗人の真似事はよくないな、と改心し「借りるよー」と宣言後持ち出し俺の部屋に携行したコミック誌、開くと、さらぁ、とさらさらした物体が流れ落ち、驚愕、それは髪を束ねた物で、長さから誰の髪か凡そ見当はついたが髪を束ねている紙帯には「お兄ちゃん」と記されておりつまり俺の髪の集合、それで花音が何をやっていたかというと分からない、分からないが、その出所はというと恋愛漫画、イケメンとヒロインがリンゴーン、教会で誓いのキスをしているページだったのであり、俺は髪束を漫画に戻し、「俺は何も見てない。俺は何も見てない。俺は何も見てない」と唱えつつ妹の部屋へ、この恋愛漫画を所定の位置へ戻し、それからトラウマにならぬようその記憶を脳の奥底に沈め、俺は何も見てない、というマントラで表層をならし、いつしかこの出来事を忘却した。
上記三つのエピソードから何を言いたいのか。
尾前花音はヤンデレである可能性が高い。それも重度の。ということで、やたら璃々に執心するのもヤンデレの兆候、油断していると花音は俺と璃々の間に割り込み、かつて母と俺との間にやったように割り込み、お兄ちゃん何なのそいつ。どいて。殺せない。とか言い出す可能性もなくはないのであり、実際「あの璃々とかいう奴、絶対お兄ちゃんを私から奪う気だ。チャラそうだから色仕掛けとか、お兄ちゃんは悲しいけど私以外女を知らないからちょろく引っかかって、かわいそうなお兄ちゃん。そうならないよう私が守ってあげる。でも、あの泥棒猫から借りてるギターは返してきてねお兄ちゃん、絶対盗聴器仕掛けられてるから。ていうか塾行き始めた理由は何なの? まさかそれも女絡みなの? ……絶対そうだよ、お兄ちゃんが自ら進んで勉強するとかあり得ないもん、絶対女が絡んでる。誰? 誰なの?」とがじがじ爪を噛み狂気を横溢させますますヤンデレの様相、これはですねぇ、なんて語尾伸ばしで考えようとしたが考えが考えられない、なぜならば妹がガチのヤンデレであった場合、俺は常に監視下に置かれ、男女交際など夢のまた夢であり、夢が成就しなければ俺は陰陰滅滅たる後半生を歩むこと必定だからで、ふう、とコーヒーを一啜り、考えたのはサイモン&ガーファンクル、明日に架ける橋。そう、この場には奏姉が存在するのであり、和平の使者、彼女の説得により妹が俺を束縛するのをやめさせよう、と算段したのである。
俺は、璃々に対する花音の苛烈な罵言に驚いて消沈している、といった態で片肘を付き掌におでこを乗せ、俯いた視線の先で食卓の下、膝の上のスマホを自由な手で操作して奏姉に援護を依頼した。妹の口撃の中奏姉が動く気配がし、もう二呼吸ぐらいして奏姉が言葉を発した。
「まあまあ、花音ちゃん」「何?」「コーヒー飲んで。冷めちゃうと美味しくないから」「……」不承不承、といった態で花音はコーヒーを飲みそれから再度の口撃、「だいたい、お兄ちゃんが恋愛だなんてちゃんちゃらおかしい、土台無理な話だよ。女の人なんてエロゲでしか知らないくせに。だいたい、エロゲの女なんてファンタジー、男性に媚びた良妻賢母型かヤれればオッケーな尻軽ビッチしか出てこないじゃん。そんなんで恋愛とか、はぁ?って感じ」と啖呵を切ったところで奏姉が話し始めた。「でもね、花音ちゃん」「何? 奏姉は文句でもあるの?」「文句というか、その、妹が兄の恋愛に口を挟むのは不毛だと思うの」「……え?」「あのね花音ちゃん、日本の法律では三親等以内の婚姻が禁じられていて、妹がお兄ちゃんと結婚することはできないのよ」「……授業で習った」「そうなの。法律で禁止されているからには、花音ちゃんがどれだけお兄ちゃんを恋しかろうと、結婚できない、二人は結ばれてはいけない関係なの。家族という血縁関係ではあるけど夫婦という婚姻関係にはなれないの」「……だったら?」「だったら、悠くんを自由に恋愛させてあげるのが、妹のあるべき姿なんじゃないかな?」
いいこと言った。さすが奏姉、妹による恋愛管理の非理性性を上手に説いている、しかも否定するのではなくあくまでお兄さんを応援しましょうねという論旨の持って行き方で、これを断れば花音は真正の頑固者、理をわきまえぬ因業者とレッテルを張られ始終一般市民から嘲弄を受ける運命となり、だから諦める以外の選択肢はなく、完璧。と俺は頭部、肘をついた掌から顔を上げ妹を見た。妹は絶望顔を、していなかった。
妹はにたりと音がしそうな、ゴキブリホイホイにはまったゴキブリの死骸を、嫌悪しながらも好奇の目で見てしまう、といった鈍い歓喜の表情をしていた。何も言わず席を立ち妹は、ととととと、階段を上がり、だん! と何かを閉める音をさせ再びととととと、階段を下りてきた時には手に模造紙のようなものを持ち、食卓に座りそれを広げると肝心要と思われる位置を指さした。そこには家系図が描かれており、母と父とを繋ぐ線の上に花音の指は置かれていて、その線から下方に伸びる線、つまり実子を表す線は一本、悠、と俺の名前が書かれているだけで妹の名前はどこにもなかった。
「お母さんがね」と花音は勝ち誇った顔で言う。「四月に、家を出る前に大事なこと教えておくねって。実は私、この家の子じゃないの。本当のお父さんとお母さんは私が赤ちゃんの頃に交通事故で即死して、遺された私を尾前家で引き取ってくれたの。お兄ちゃんと変わらない態度、手厚さで育て上げてくれたの。お母さんはそのことを教えてくれて、だから私とお兄ちゃん、血縁関係は一切ない、赤の他人なの。その気になれば結婚できるし……結婚できるの? 民法とかよく分かんないけど、とにかく血縁の問題はクリアだし、ていうかお兄ちゃんだろうと愛さえあれば関係ないよねっ」
よねっ、にエコーがかかっていた。なんだその超展開は、と、今度は、は、が脳内でエコーし、やがて日が昇るように、だってエロゲだもんね、という考えが脳裏を勃興し、あっは、なんて空疎に笑った俺の斜向かいの奏姉の脳内にもやはり、よねっエコーがかかっているらしく、奏姉は白い肌をさらに白く、大理石のようにつるりとさせ、笑顔のまま硬直を起こしていた。「あの、桂奏姉」「うん?」「その髪ってカツラなの?」「え? どうしてそう思うの? これはね」「いや、そのかつらとちゃうわでいいから。真面目に答えなくていいから」といういつものフリは俺の自作自演ですべて終わり、その最中も奏姉は絵画のように静止、呼吸しているかさえ怪しかった。
「どう? これで血縁関係問題は消失して、結婚できないとか、無いし、私がお兄ちゃんの恋愛に口出ししちゃいけないっていう意味不明なルールは適用されなくなったし、むしろお兄ちゃんとくっつくのが条理っていうの? お兄ちゃんが私以外の女といちゃいちゃするなんて、正直ないんだよね。ていうわけでお兄ちゃん、そのバンド女とは別れて。二度と会わないって誓って」と快活に喋る花音はかわいくて、かわいくて、かわいいけどもやで。
俺はクールに思弁した。父から教わったエロゲ史2000年代中盤、ヤンデレキャラブームが、なぜか水を浴びてしまったゼニゴケのごとく繁茂し、世はヤンデレフィーバー、攻略対象キャラ全員がヤンデレ、束縛系だのメンヘラ系だの包丁持ちだす系だの細分化されたヤンデレたちと戯れるなんて激烈なエロゲもあったぐらいで、もちろんエロゲ業界に携わっている父も流行に乗ってヤンデレものを作ろうとしたわけだがそのシナリオを書いていて常日頃父が口にしていたこと、それは、どうやって鮮烈なラストを迎えるかなあ、という一事で、つまり、ヤンデレものはすべからく鮮烈なラストを迎える。なぜか。ヤンデレの真価は病みを発露する瞬間にあるからで、それはたいていの場合、エモノは様々異なれど主人公を殺害した瞬間なのであり、要するにヤンデレと主人公殺害は切っても切れぬ必然の関係性があるわけで、さて翻って現在、俺は我が妹に激烈に愛されている、病むほどに愛されているわけで、となると、万が一妹ルートに入ってしまった場合、俺は陰陰滅滅たる後半生を過ごすどころの騒ぎでなく、死ぬ、陰惨な殺され方で死ぬ可能性が高く、では。では、俺の取るべき行動は。
全力フラグバッシャー。
「なあ花音」俺は落ち着いた口調で、よく米国映画で描かれるヒーロー主にブラピのような面構えで妹に話しかけた。「何、お兄ちゃん」妹は愛らしく小首を傾げる。「お兄ちゃんはな、花音のことが、大好きだ」「えっ!」と手を口元に絶句する花音に、告げる。「でもな、花音。花音は知らないかもしれないけど、世間の圧力ってのはすごいんだ。だから」「だから諦めてくれって言うんでしょ。そう言うと思った」「あ、分かった? なら」「分かったけど分かんない。世間とか関係ないし。お兄ちゃんだろうと愛さえあれば関係ないよねっ」花音は居直り強盗のように清々しい顔をしている。居直り強盗なんて見たことないが。「いや、全然、ぜんっぜ、分かってないよ花音、お前は世間の恐ろしさを過小評価している」「してない」「いいやしてるね。まずお父さんお母さんが認めない。猛反対するだろう」「しないよ血縁関係なかったんだし」「それはだな」「ていうかあったところで押し通すよ私。愛さえあれば関係ないよねっって何回言わせるの?」花音は超然としている。「いや、でもほら、家追い出されるかもしれないよ」「そしたら河川敷で野宿しようねお兄ちゃん」花音はやはり超然としていて、じゃちょっと矛先をずらそう、「でもな花音、世間の恐ろしさってのは、どこに行っても俺たち、近親相姦って呼ばれるんだぞ」「別にいいよ」「石投げられるかもしれない」「投げ返すし」「いや、投げ返すって」「投げ返すでしょ、普通」やはり花音は超然としている。言葉を重ねるごとに目が据わってきた。この路線でフラグを折るのは無理だなと俺は判断し、戦略をフェーズ2にシフトする。
「あああ、あのねだね、花音」「何?」「あのだな、花音は、ダメなお兄ちゃんを今まで見てきた。そうだよな?」「まあ、うん、ありていに言えば」「そう。勉強も長続きしないことが見え見えな、浅学で浅薄のお兄ちゃんだった」「うん。だから? それと私がお兄ちゃんとくっつけないのと、どういう関係があるわけ?」「お兄ちゃんはな、でもギターを持って変わったんだ」「女のためでしょ」「ち、違う。最後まで聞いてほしい。お兄ちゃんは、今までクラゲのように流されるばかりだったお兄ちゃんは、音楽というデスティネイションを持ったんだ。そしてライフをハイクオリティなダイレクションへシフトし始めたんだ。ここまでアンダスタン?」「aha」「音楽によって僕の人生は変わりました。一本の芯、背骨を得たのです。無知蒙昧な、浅くて愚かな私は死んで、ニューウェーブ、新生した私には、もはや色恋など唾棄すべき俗事、そんなことにかまってる暇があったらギターの練習しろ、喉をからせ、音楽の道を究むるべし、と、今は亡きベートーヴェンが仰るのです。私は宿命的音楽者だと知ったのです」「……で?」「私は私の人生を、音楽に捧げます。あゝ、練習しなくては。心がうずく。アーヴェマリーーアー」と立ち上がりシューベルト作曲のアヴェ・マリア、これをまるでシャブ中、実際に見たことはないがシャブ中のごとく恍惚とした面構えで俺は朗唱して見せて、見せている時に妹は感動の極致、瞳を潤ませ洟をすすり軽くわななき俺の生きる道を理解する、なんてなことにはならなかった。
「なんてもっともな理屈つけながら璃々とかいう糞女とくっつく気なんでしょ!」
いきなり両手で食卓を叩くと花音はガタッと立ち上がり肩を怒らせながら壁際、ギターケースのもとへ歩み、ケースを開けてギターのネックをガッとつかんで振り上げたところで静止、「なんだかんだ言いながらバンド女と仲良くやろうって算段なんでしょ! そんなごまかし通じないから! 私を騙すなんてお兄ちゃん最低!」と雷のごとき剣幕、狂気の目付きは明らかにヤンデレのそれ、今にもギターを振り下ろさんばかりの状態で、え? え? どうしてこうなった? と混乱する俺に妹は「お兄ちゃんは私とバンドと、どっちが大事なの!」と訊き、あ? これはよく世の中の男性が言われる不条理台詞? でも何がどうしてこんな展開に? と目の前にニンジンをぶら下げられた馬のように惑乱しつつ「え? そんなの、え? どっちも大事だよ、ね?」なんて、質問されているほうが質問をするなんて愚かしい応対を取ってしまったがため、まあ、それ以外の、どんなに冷静な対処をしたとしてもヤンデレ相手にゃ最終的にこうなったろう、花音は鬨声とともにギターを振り下ろし、ガーン、なんて音がしてギターのネックからボディにかけてが砕けた。中古で二十万が弾け飛んだ。
花音が肩で息をしている。冷蔵庫のモーター音が微かに聞こえる。蛍光灯が白々しくすべてを照らしている。俺は奏姉に目を遣った。奏姉は蚊の鳴くような声で、無常ね、と嘆息した。
深夜。俺は璃々に借りたザ・クラッシュのCDを聴いていた。ギターを振り下ろすジャケ絵。曲名通りの、London callingという歌詞だけが聞き取れ、俺は陰鬱な曲調に合わせ意味も分からないままLondon callingと歌っていた。すべての陽気が死に絶え、黒装束の悪役が跳梁跋扈する気分だった。思わず訊いていた。
「なあ妖精さん」『はい、なんでしょう』「なんか、おかしくない?」『何がですか』「俺のリアルエロゲ、明らかにおかしくない?」『具体的にどこがおかしいのでしょうか』「正統派美人キャラに当たる一条京子が高慢性格糞女だったり、まあ璃々は真っ当そうだけど、愛すべき妹キャラの花音がどう考えてもヤンデレでしたありがとうございました。だし、なんつーか、このゲーム、全体に狂気感じるんだけど?」『そうですねえ』と妖精は思弁するような声を出し、『バグ、ですかね』と何気ない調子で言った。「バグ?」『そうです、バグです。未来の貴方が設計したゲームに、バグが発生していて、些細なずれとでも言いましょうか、が、大きな変化、例えば一条京子の性格が悪かったり、例えば妹の愛が病みベクトルに進んでいたり、といった貴方言うところのおかしな方向性に繋がっているのではないでしょうか』
音楽が流れている。London callingと歌ったのに合わせて俺もLondon callingと歌う。意味は分からない。でも、Londonがcallingなのに意味があるはずで、これがTokyo calling になると原曲の意図した訴えからずれが生じるわけで、でもしTokyo callingに改変した場合はもう一度意味が通じるように歌詞を組みなおさなければならない、するとLondonの頃にはぴしっと来ていた歌詞がずるずるとずれて、Tokyo calling 俺はそばを食う 寿司を食う 天麩羅、みたいな珍妙な詩になってしまう。おかしくなってしまう。
『そうです、そういうことです。だから貴方は正常なエロゲをプレイするためにTokyoの部分をLondonに修正しなければならないのです』「どこがTokyoなのかは?」『バグの位置などは分かりません。私はあくまでチュートリアルのために作られた存在ですから』「使えねえな」『未来の貴方の実力不足が原因なのですから、私を恨むのは筋違いですね』「ぐぬぬ」『このリアルエロゲにはバグが内在しているはずです。エロゲに相応しくない何かが混入しているのです。それを修正することが異常の解消に繋がるでしょう。私から言えることはそれだけです』
外で出し抜けに犬が吠えた。あるいはその犬がバグだったりするのだろうか。分からない、と僕は言った。いつの間にか語調が村上春樹だった。でも、この春樹に意味はなく、それは深夜に犬が出し抜けに吠えるぐらいに無意味だ。やれやれ、と僕は言った。いつの間にか人称が僕に変わっていた。エロゲに相応しくない何か。それは遠くにあるかもしれないし、身近にあるかもしれないし、どこにもないのかもしれない。あるいは、僕自身なのかもしれない。
と無意味な思弁を垂れ流して妖精の反応を待つが追加の指南は何もなく、まさか、詐欺設定とかは、ないですよね、最近の魔法少女モノみたく、なんてお伺いを立てても何も言わない、俺の耳にはただ犬の吠え声とLondon callingとが聞こえていた。チャッチャッチャッとギターの音。寂しい手元。破砕されたギター、その悲鳴。