6 ロッキン・オン
6 ロッキン・オン
俺と璃々は音楽について語り合いながら、というか、璃々が一方的に、チャック・ベリーが、ボブ・ディランが、ザ・クラッシュが、ザ・ヴェルヴェット・アンダー・グラウンドが、Tレックスが、スレイヤーが、ニルヴァーナが、サダ・マサシが、と喋くり倒ししきりに悠はどう思う? 悠はどう思う? と訊いてくるのをんんああそうっすねえ、悪くないかなあ、ってか好きだよけっこう、みたいなアバウトな返答でお茶を濁していたのが真実っていうのは悲しいかな、エロゲの主題歌とBGMに関しては多少語るところがあるが所謂流行歌、クラスのイケてる子たちがカラオケボックスで相唱するような曲はあまり知らなかった、おまけに洋楽と来たら埒外もいいところで、俺は失言しないか内心冷や冷やしつつ璃々との音楽談議に表面的に熱中してみせ、底の浅い知識を吸収し、音楽CDの賃借も行った。璃々はダウンロードよりストーリー性のあるCDだと言った。意味が分からなかった。
「ここここ」とたどり着いた厳めしい風貌の建物、璃々が招じ入れた先、貸しスタジオなる空間には男が二人いた。一人はいかにもロックやってますみたいなスキンヘッド、もう一人はモップのように汚らしい毛足がねじねじしてあるホスト風あるいはお兄系ファッションの男だった。
「おっす」「おう」「ちわ」とメンバーは挨拶を交わし、璃々の横で恐怖し縮こまっている俺に最初に声をかけてきたのはお兄系だった。
「何? 君誰系?」
逐語的に考えると意味の通らない日本語だったがグーグル翻訳じゃないから言いたいことは凡そ分かる、俺は一つ咳払い、おほん、「あ、俺、尾前悠って言います。連れて来られました」って来られましたってのも変な日本語だな、言い直そうと言葉を探していると璃々が「こいつ、尾前悠っていう、同じ学習塾に通ってる奴なんだけど、いいの、シャウトが。ほら」と俺の脇腹に軽くパンチを入れてきて俺が思わず「ぎゃう!」と叫ぶとお兄系は、はっ、としたように眉を持ち上げ、「もっぱつ」「おら」「ぎゃう!」「もいっちょ」「おら」「ぎゃうぎゃぎゃう!」「もっかい」「おら」「ぎゃうぎゃうぎゃう! って終わらへんし玩具にすな」俺がバシッと璃々を叩き璃々が「ぎゃう」と甲高い声で鳴いたのは余興として、お兄系は「はいはい、ボーカル候補ね」と、ノってる関取の稽古を眺める親方のように目を細め頷いた。
「そうなの。逸材よ逸材」とべた褒めの璃々にお兄系も偉く満足気で「いいじゃんそいつ。悠、だっけ?」と俺を見るので「あ、はい」「どこ高?」「小井亜井になります」「へー。何歳?」「あ、十五歳になります。今年で十六歳です」と尋常のやり取りを重ねられるのはお兄系が見た目ほどトんでいない常識人だからで俺は安息し、それを見たお兄系は微笑んで「オレは鎌崎堀斗。かまざきほっと、な。ザキさんって呼んでくれ。担当は」てろてろてろてろと速弾き、「ギター。二十八歳、コンビニでバイトしながら本気で音楽やってる。よろしくぅ」ずがーーーん。ストロークキめたザキさんは斜め上方に視線を向け、自らの奏でた重厚な音に恍惚としている様子で、あ、今、ってかほんとは見た瞬間から薄々勘づいてはいたけど、この人重度のナルシストだ、と俺は思っちゃった、すると。
「お前さあ、今ちょっとオレのこと、馬鹿にしたろ」
ザキさんは浮遊していた視線を俺に集中させ急変、肩を震わせ頬も震わせ声も震わせ出し抜けに俺に詰め寄って来たのであり、俺は慌てて「えっへ?」なんて、ヨクワカリマセーンのポーズで誤魔化しにかかったがザキさんは受け付けない、「お前こらぁ! 馬鹿にしただろこらぁ!」なんて野卑に叫んで怒りに打ち震えている。璃々に助けを求めると彼女も切迫した様子で、「やめなよザキさん、誰もザキさんのこと馬鹿にしてないから」と俺とザキさんの間に体を挟み込み、必死の宥めもしかし通用せずザキさん「殴っぞこらぁ!」脅す様はホストというよりチンピラで、まあ、なんて下品なんでしょう、とクイーン・エリザベスはベルルスコーニに仰ったそうだがって考えているうちにザキさんは拳を振り上げ所謂テイクバックを取ったのであり、今にも璃々が殴られそうなその瞬間、時が止まった。というのはあくまで比喩表現で本当に時間が停止したわけではないのだけれど、車を運転していた人が事故る瞬間一秒が何秒にも伸びるあれ、を今俺は体験しているのであり、なぜか、と言えばきっとこれはイベント、パンチされるヒロインをかばって好感度をアップさせるイベントに違いなく、となればここで俺は前に出てヒロインの代わりにガンジーのようにパンチを受ける必要があり、その選択を取るよう時間が親切に伸びているわけなのであり、場合によってはこのチンピラをのしてしまうのもありだなってだめか、バンドのメンバーを殴り倒したら後で遺恨がってか今まさに殴り倒されようとしてるんだけどね、なんて理屈をこねてないで璃々を押しのけ代わりに殴られるんだ! 俺よ、璃々で変われ!
と思考ばかり勇ましくて足が動かない。璃々ごめん。殴られてくれ。
と思った瞬間。
「堀斗!」
雷鳴が轟いたかのような音声がして、ザキさんの拳が止まった。ドラムスに埋もれていたスキンヘッドが立ち上がっている。「堀斗、やめなさい」と言われザキさんは、猫だましを食らったかのように四度ぱちぱちぱちぱち瞬き、するとまた柔和な兄ちゃんキャラに戻って「あ、ごめんごめん、オレ、ついカッとなっちゃって。癖みたいなもんで、ごめんな」と爽やかに弁舌するのはどういうわけかと璃々に目で尋ねると璃々は先程交換したメールアドレスに早打ちのメールを送って来て言うには「基本的にいい人なんだけどザキさん、未だに音楽やってんのか、定職就けよって馬鹿にされること多いらしくて。けっこう神経質だから気を付けて。さっき悠、明らかに嗤ってたでしょ」とのことであり俺は両手で頬を張り気を引き締め、で、あちらの方は、と卑屈なまでに腰の引けた目で尋ねるとスキンヘッドが名乗った。
「堀斗が悪かったな。気を取り直して。オレは五里厄徳蔵。ドラムス。よろしくな」
「あ、こちらこそ、よろしくお願いします」などと返答しながらこの虚飾の入らない自己紹介に、そうだよ、こういう武骨さ、愛想のなさこそがロックなのだよ、とよく知りもしないで感じ入っていると五里厄徳蔵は「おやっさんでいいよ」と言い、つまり自分のことをおやっさんと呼称してくれて構わないよと言うのであり、どこまでも気安く気色の良い人だ、と好感したが先程の件もあり職業など余計な話は振らなかった。
「じゃみんな」と璃々が手を叩き、「悠のシャウトがすごいってのはさっきのぎゃうで分かっただろうけど、一応決を採りたいんだけど、ボーカル担当ってことでメンバーに入れていいよね?」と問うとザキさんもおやっさんも頷くわけで、まあ、ここまで来て俺できませんなんて言わないし言えないけども一抹の不安があるのは昔から音楽の成績が振るわなかったからで、中学最後の合唱祭、俺が指揮者に抜擢されたのはクラスの人気者でも特別な才能があったからでもなくただ単にあまりのボエ~声に何人かが引っ張られ音程を外してしまうためだったのであり、また以前、大盛が、お前そっくりとCD渡してくれた歌手の歌声が、お汁粉を粒餡でなくこし餡でしかもごま餡で拵えてしまったかのような外れ具合だったこともあり、そんな男をボーカルに起用するとは狂気の沙汰ではないか、神経の繊細なザキさんがまた怒り狂うのではないか、との不安が消えず、「じゃ、なんか一曲、テストでやろっか」と璃々が言うのに俺は緊張、「誰でも知ってそうだから」と始まった演奏は蛍の光、なんだか俺自体がこの世から蛍の光してしまいそうでいよいよ心身が硬直する、となると形態学的必然で声が出ず、もう演奏は窓の雪まで来ているのに俺は一言も発することができずわなわな震えるばかりで、ベースを演奏しながら璃々が怪訝な視線を向けてくる、おやっさんが懐疑的に眉をひそめる、ザキさんが微かに舌打ちするのが聞こえる、でも本当にどうにもできなくて、終わったな。せっかく璃々といい感じになって、着々とフラグ建築も進んでいたのに、まさか歌唱なんてものに人生をってかリアルエロゲを左右されちまうなんて、へ、汚れちまつた悲しみに、今日も小雪の降りかかる。中原中也は文学に傾倒して故郷を離れ、やがて劇団員をしていた女と同棲し、しかしその女は中也を裏切り小林秀雄の元に走りやがって、くそっ。俺の璃々との甘々バンド計画も破綻だよ、くそっ。璃々攻略不能じゃねえか、くそっ。そして璃々も後年、あるいはすぐに別の男とくっついて俺は心に不治の傷痍を負い、約束されたバッドエンドを迎えるのだ、くそっ。「くそっ!」
叫んで俺は歌い出した、というよりやけっぱちにがなり立てた。「とまーるも、ゆーくーも、かぎーりーとーてー」
後は言わぬが花でしょう。となるところだがしかし俺はその花さえ手折る気持ちで呪詛の蛍の光を叫び続けた。
演奏が終わって、静寂。あまりのがなりに喉を若干痛めた俺は二三度咳をし、「ありゃっしたー」先程の璃々の忠告に従わず舐め切った態度で、それこそロックな不良調で言った。ザキさんが殴ってこようがなんでもいいよ、ってかもう殴ってくれよ、打擲してくれねえと収まんねえよ、とぎらぎらしていたら。
「すっげえじゃん!」
感激したらしい璃々がその場でぴょんぴょん跳ねている。「ロックだよ! 破調のシャウトじゃん! やっば!」
「いや、すげえよ、こりゃお宝発掘だよ、徳川埋蔵金レベルだよ、ふぉう」
「ん。いいんじゃねえかな。ってか、いいよ」
ザキさんもおやっさんもかような調子で、マジなのか、と俺は思った。どう考えてもだめだろう、と割と真剣に思った。俺がおかしいのかそれともこいつらがおかしいのか、あるいはロックとかいう音楽分野が破天荒なのか、どれが正解かさえ分からないが。
最高だよ、悠。やばい。あり得ない。キてるキてる。もう天下取ったわこれ。じゃギターもやろギターも。絶対イケるって。じゃーんってやるだけだから、じゃーんって。あはは。と、璃々がまくし立てるからには何かしらがよかったわけで、何かしらよかったとなると俺はボーカリストとしてみんなと一緒に活動できるということになるわけで、一緒に活動できるとなると俺の、璃々に対する攻略は続行するということになるわけである。
やった。
「えっへ、ギター? ちょっ、触ったこともないんですけど、え、マジで? マジでギターやんの俺? わ、貸してくれるって、ちょっ、うわ、これ高価なやつだったりしない? 二十万? マジかよやべーじゃん、あ、はいはい、あ、じゃあ俺しばらくこれ借りてていいんだ? うっそーめっちゃ練習するよーだって二十万でしょ? 中古? 中古なのに? ありえないんですけどー、でもあり得るんだそういうこと、はい、分っかりました、天地神明に誓って大切に扱います、では、はい? これがダウンストローク? じゃーんって、おお、鳴った、って当たり前ね、あほかっつーの、あ、弾き方は追々?」
なんて流れで俺は璃々から二十万円もする高級エレキギターを無期限で貸し与えられ、しばらく後に予定されているライブに向け、ボーカル兼ギターとして活躍することになった。俺はとっても輝いていた。璃々もきらきら輝いていた。すべてが輝いていた。わけだが。
練習が終わり片づけをしているとおやっさんが手招きで俺を呼び、スタジオの外、二人っきりになったところで俺に言った。「あのだなあ、悠」「あ、はい、なんでしょう」「お前、璃々が目的か」「えええええ、いやあ」なんて図星に俺はどぎまぎしてしまい、「璃々が目的ではないっていうか、璃々が目的というのは日本語的にどう解釈したらよいのでしょうか」と問えばおやっさんは据わった目、やや恫喝する調子で「そりゃお前、璃々と恋愛したいと思ってるだろ」と言う。「いや、まあ、えっと、音楽はきっちりやっていきたいと思ってますけどね」「そういう誤魔化しはいいんだよ」おやっさんはスキンヘッドをぱしっと叩き、「いいか、バンドが解散する要因は何か。一つはギャラ。これはインディーズのオレらには関係ない。じゃ何に警戒すべきか。恋愛だよ。メンバーが恋仲になることで安定した関係が崩れて行くんだ、分かるか?」「ええ、まあ、漠然と?」「なんで疑問形なんだよ。ていうかだな、高校生が、ってか」とおやっさんは俺の両肩に手をかけ、「不犯って知ってるか」と問う。「いや、なんすかそれ」「まず、不邪淫っていう言葉があってだな、これは仏教で言う五戒、守るべき五つの法の一つなんだが、早い話が異性と交わるなってことだ」「はあ」「ただしこれは、倫理にもとる異性交遊はするな、という解釈を当てるのが一般的だ。しかしだ」「はい」「不犯というのは厳密に性交するなと言っている」「はあ」「つまりだ、中高生であれなんであれ」おやっさんはぐっと俺を見据え、
「セックスしてはいかん、ということだ」
と言った。
輝いていた俺はいきなりの説教に困惑し、ルクスが下がってくるのを感じなんなら抗弁してやろうと思いしかし上手にできなかったのはおやっさんの圧力が台風の最大瞬間風速観測時並みにものすごかったからで、むむむ、納得いかぬ、と気合いを入れてなんとか発声した「じゃ、バンド内恋愛じゃなかったらいいんでしょう」という反駁は「悠。人生不犯だよ」の一言で片づけられてしまい、ちょうどその時「あ、悠。どこに行ったと思ったら。ご飯行こう。おごるよ」と璃々がスタジオから出てきて、「ん? おやっさん、何かあったの?」と訊くので不犯とか璃々目的の話をされちゃたまらない、「あ、たいしたことない、日常生活的なあれね」と俺はカットイン、「あ、わざわざありがと」と璃々が運んできたギターを借り受け背負い、「あ、お疲れっしたー」とおやっさんとスタジオを出てきたばかりのザキさんに軽い挨拶をし、「じゃ行こっか」と璃々と並んだ。ちょっと璃々に体を寄せた。おやっさんの眉間に皺が寄った。俺は僅かに璃々から身を離し、「何食べる? イタリアン? 和食? 中華?」と訊く璃々に、ペンネ・アラビアータが食べたい、と答えたのだった。
Wheel of fortune。運命の輪はゆっくりと回り出したのであり、俺はバンド練習に注力、スタジオでの音合わせで全力を尽くすのは当たり前として自宅、風呂場で歌唱を練習し、暇さえあれば璃々に借りたエレキギターを握り込んで鍛錬を積み早くも素人に毛が生えた状態に進化した。一週間理論? ああ、はい、一週間経つと飽きが来るのが人情ってあれですね。俺はしかしその理論を覆し、歌唱にギターにの音楽生活、さぼることなく練習したのはやはり璃々の存在でしょうか。それは、やっぱりありますねー。かわいい彼女と一緒にバンド練習できる。そりゃ、身が入りますよねー。実際、練習し、上達すればするほど璃々は喜ぶわけで、喜ぶ璃々を見るのは嬉しく愉快なことで、すると必然的に上達して璃々を喜ばせたいから練習するという、自らの尾を噛む神話の蛇機構に陥るわけで、しかし上達すること自体がある種の自己探求、麻薬的作用っちゅうんかな、があるわけでして、番頭さん、わしは昔、エロゲなんちゅう不健康不健全極まりない趣味に手を出していたんですがね、今度ぁ、バンド活動っちゅう、人生の明るみを歩き出したんでさあ。明るみかい、そりゃいいね。そうなんだよこれが小気味いいったらなんの、ギターを鳴らしゃ女が喜ぶ、がなってみればやっぱり女が喜ぶ、こんな簡単なことなら初めっからギター片手に歌っときゃよかったよ。そんなもんかい? そんなもんだよ番頭さん、何なら今演奏してもいいよ、行くよ、じゃんじゃかじゃかじゃん。やめてくれあんた、店の前でそんなのやられちゃ余計に客が寄り付かない、ただでさえ人が来ねえんだから、どっか余所でやってくれ。ああ、そうだね、ここじゃちょっぴり、明るみが足りねえや。
などとスタジオ、俺はコードを抑えフォークソング風に自家製新作落語を弾き語りしようとするがうまくいかないのはやはりまだ習練が足りないからで、しかし、ギター&ボーカルはたしかに俺の血肉となり定着し、俺を変革しつつある。三島由紀夫がなぜ肉体改造、ボディービルディングに手を出したのかは本人に訊いてみないと分からないが今の俺に分かること、それは、ある特定の分野で鍛錬することはその人の精神構造を変えることとなり、変化の先にはマッチョ化が待っているわけで、エロゲに没入していた頃の俺は柔弱の文弱、赤ちゃんのもにょもにょした腕みたいに柔らかだったのであり、しかし奴は死んだ。今いるのは音楽で心身を鍛えた猛者、強者、常勝を約束された男であり、ミュートでカッ、カッ、カッ、てゅーんでーでーでーんででででででででーんでーんでん。レニクラのロックンロール・イズ・デッドを演奏しようとしたのだが失敗した。マッチョのはずの俺がなぜ失敗したのか。
『雑魚だからですよ』と脳内に蟠るティンカーベル、妖精が言った。「何を言う。未熟ではあるが雑魚ではない」と抗弁すると妖精はニヒルに笑って『いいえ、貴方は相変わらずの柔弱文弱虚弱野郎、豆乳ぐらい中途半端な男ですよ』と言うのであり、なおも「いや、そんなはずは」と反駁するとメンバーが胡乱げに俺を見るのであり、俺は「ごめ、ちょっちトイレだわ」と中座、トイレに逃げ込んだ。
なあ妖精。『はい』。俺は世界を変えられるぐらいに強くなったんじゃないのか。『村上春樹みたいな問ですか。ならばノーと、はっきり言わせてもらいます』。俺は音楽活動を行うことで新しい俺に生まれ変わったんじゃないのか。『まさか。エロゲゲーマーの貴方が強健になるはずがないじゃないですか』。エロゲゲーマーって、俺は最近エロゲをプレイしてないんだが。ギターとボイトレばっかやってたんだが。『いいえ。貴方はエロゲをプレイしています。そして無意味な選択肢ばかり選択しているのです』。と、言いますと。『貴方がプレイしているエロゲは何ですか』。だからやってないっていうか、モンハン的なやつ? もう名前も憶えてないけど。『違います。貴方は未来の貴方が作ったエロゲを現在プレイしているのです。お忘れですか』。と妖精に言われた瞬間、暗闇の中小さな点だった光がぶわあっと広がっていくような、開闢する感覚があって、俺はリアルエロゲをプレイしていたことを思い出したのだった。
『趣味に没頭している場合ではないでしょう。貴方がやるべきことは何ですか。セックスです。それをないがしろにして自己実現にまい進するだなんて、目の前に調理済みのトマト鍋があるのにわざわざ生のぶなしめじを食するようなものです。もそもそしてたいそう食べにくくおまけに過熱していないので健康を害する恐れがある、なのにそれを修行僧のように黙然と食べている。それが今の貴方です。違うでしょう? そうではないでしょう? 貴方が食べるべきはトマト鍋の中身です』
例えの意味が分からなかった。でも俺が不味いことをしている認識だけは脳裏に浮かび上がり、焦る、「でもほら、音楽的上達により璃々との仲が深まるんだから、将来的には、ほら」と思いつくままに喋ると『そのまま外堀埋める生活に埋まってしまうつもりですか。スコップ入用ですか。むしろ熊手ですか』と突っ込まれてしまい、それは、ごにょごにょ、と言い淀むと妖精は追撃する。『一条京子はどうしたんです。勉強して彼女と付き合うのではなかったのですか』「それは……」ごにょごにょ、と尻すぼみってか頭からのすぼみになってしまうのは最近一条京子のことを忘れがちだったからであり、ギター&ボイトレに専心するあまり俺は勉強を疎かにし、足りなくなった睡眠は学校や塾の授業中に補充つまりは居眠りするなんて有り様だから当然学業の成績は芳しくなく300番台だった大盛にさえ「ウケるー」と笑われてしまう始末で、そんなゴミ虫の俺とあの高慢一条京子が会話してくれるはずもなく、どころか目を合わせると化石する、みたいに視線すら合わせてくれない状態で傷心なのだけれどもま、俺には音楽があるから、と自らに言い聞かすことでその傷をなかったことにする、という無感覚システムを取ったことで俺は魂の平衡を得、勉学や一条京子という俗世から遊離していた。そんな仙人生活だとアウトですかと問うと『そんな生活でバッドエンドに突入しなかったエロゲを貴方はプレイしたことがありますか』と逆に問われてしまい、しかし、なんでも効率重視で考えてよいのだろうか。昔、俺はバンドメンバーといちゃらぶするエロゲをプレイした。ベースの子がめっさかわいかった。いの一番に攻略した。だがえっちすなわちセックスまで発展しなかった。フラグを立てきれなかったからだ。コンプじゃないエンディングだった。でも俺は満足していた。美しい別れが待っていた。その前の一瞬の感情の一致があった。夕陽が赤々としていた。BGMが盛り上がっていた。切なかった。嬉しかった。悲しかった。愛しかった。そこにはすべてがあった。
『という思い出を後年、父母に語りかけ、「それなんてエロゲ?」と訊き返されることが常態化し、くそ、俺は何でもっと早くにリアルの女の子に手を出さなかったんだ、なぜ一緒にいちゃらぶしなかったんだ、なぜリア充を嫌悪するばかりで彼らの土俵に立とうとしなかったんだ、辛い、苦しい、悲しい、というのは全て、エロゲばっかやらせた両親が悪い。父が悪い。母が悪い。と怨念を溜めこみ自室に引きこもる。なんて人生を送りたくなかったら?』
行動。かな。かな、じゃないな、だ、だな。と俺はあっさり説得された。
おもんない新作落語をこさえている場合じゃあないぜ、俺はトイレを脱し再びレンタルスタジオの個室、退屈そうにおやっさんがシンバルをしゃん、しゃん、しゃん、と叩く中へと戻った。
「遅いよ」と叱る璃々に「めんごめんご」と謝る。「うんこ?」と笑うザキさんに「恐竜サイズのやつです」。おやっさんが、どん、と一回太鼓を叩く。
「じゃ、一曲、合わせてやろ」と璃々が掛け声し、おやっさんがカッカッカッカッとスティックを鳴らし曲が始まる。俺はギターをぎゅあーん、ぎゅおーん、ぎゅあぎゅおーん、とかき鳴らし頭にあるのはゲームの攻略で、高らかに歌いながら璃々へと接近、歌唱の切れ間に「璃々、帰りさ」とひそひそ声をかけるのは一緒に食事をせむと欲すからで、要するにそれが俺の思いついた行動なわけだけどもだがしかしけれどbut俺の声は聞こえないらしく、ってそりゃ当然の道理、楽器の音が雷鳴のごとく轟いているからで、「え?」と璃々が大きな声で訊き返してくる、もう一度「璃々、帰りさ」と声をかけるがやはり璃々は首を傾げ、そのまま歌のフレーズに入り俺はごくごく自然な様子で歌を継ぎ、すると璃々は何事もなかったかのようにベース演奏に戻ってしまい、ってこれじゃだめだ、俺は再度歌の切れ間が来たところで璃々にさらに接近、興が乗ってベーシストと絡むギタリストを演出しながら「璃々、帰りさ」と言うのだけども璃々はやはり「え? 聞こえない」と耳を突き出すばかりで、「だからぁ!」と俺はボリュームを上げて、しかしバンド内恋愛を禁ずるおやっさんに気づかれてはならぬ、再びボリュームを絞って「帰りさ」と言うがやっぱり聞こえない、くそぉ、と苦虫を噛み潰した顔の俺に璃々はべんべん弾いていたベースから手を離し、「何! 聞こえないんだけど!」と大声、「さっきから何? 言いたいことがあるならいいなっての!」と怒鳴ったがため演奏は止まり、「ん? どうした?」「なんかあったの?」とおやっさんとザキさんも興味を示してしまったこの状況、さて、俺が取るべき行動は何か。
ケース1。帰りに一緒に飯行こうぜ、と言う。恋愛禁止のおやっさんに見咎められる。以降非常に気まずい時間を過ごす。
ケース2。なんでもないよ、と爽やかに笑う。ふざけんな、と璃々あるいはザキさんが激怒する。場合によってはザキさんに殴打される。
ケース3。平家物語がちょっと意味分からないからちょっと教えてくんね?と尋ねる。今聞くことじゃねえだろと三人に総突っ込みされる。
エロゲ的に解釈するならば今上記三つの選択肢が表示されているわけだけれど、どれを選んでも失敗が待っているのは明々白々でではどうする? 他に何か善後策があんのかよ、と自問する俺、きっと睨みを利かせる璃々、髪を捩じっているのは怒髪の兆候のザキさん、おやっさんのスキンヘッドが蛍光灯を照り返しじりじり音がしている実に険呑、俺は何かしらアクションを起こさなければならない、でもどの選択肢を選んでも無残に敗亡する自分しか想像できず、しかしこのまま黙っていては心象を悪くするばかりで、ではどれが最適解、被害が最小化されるのか。ケース1なのか、ケース2なのか、はたまたケース3なのか。分からない、分からないってことは何事もなかったように無行動でやり過ごすべき、『という回避的性格が後年の貴方を作り上げるのですよ』って言われなくても分かってるってかもっといいタイミングで話しかけてよって「何って聞いてるんだけど、悠」、璃々の堪忍袋の緒がもはや限界、水を限界まで注入した安物の水風船のようになっていて、ハッ、どうせ破裂するなら派手に死のう、嫌だ死にたくない、だめだ意思の統一が、とるんるんに惑乱していたら。
どぎゃーん。
スタジオの個室のドアが跳ね開いて現れた女が叫んだ。「ちょっとお兄ちゃん!」
誰や、こいつ。