3 アイ・メッタ・フェアリー
3 アイ・メッタ・フェアリー
青天の霹靂、自分がチョップされるなどと微塵も思わなかったという顔つきを残して奏姉は先客があるから先に帰るねと教室を去り、俺は悪意なく他人の秘密を口外してしまった時のようないたたまれなさを感じながら数珠を拝領し大盛と下校した。
「お前さあ、チョップはまずいわ」「そら、そうだけど」「チョップはさあ、だってプレゼントくれた人をどつくってどういうことなの? 犬雉猿が桃太郎から黍団子もらいながら桃太郎を退治した、みたいな話じゃん」「その例え、ちょっと分かんない」「じゃああれだ、托鉢僧が施しくれた人をしばく」「それ、実は施しくれた人がSM好きのドMで、むしろ喜悦したんですよね」「どういう設定やねん」「托鉢僧のほうではまずい飯くれやがってドMがって酢蛸みたいに真っ赤になって怒ってるわけですよ、やはりSなんで」「意味分からんわ」と意味のない会話を交わしながら大盛はぱりぽり、帰路のコンビニで買ったポテチを食しているのでありその下顎の動きがまるで牛のようで、「お前、いつも食ってるよな」「え? うん」「そのうち牛になるんじゃねえの?」と忠告するも大盛はなんでもない調子で、ちょうど牛が尻尾をぷらんと振る感じで「オレ燃費悪いから大丈夫だろ」と答え、がさごそ、ポテチ何枚かを重ねて口に運んだ。大盛から漂う油の臭いに、俺は今朝のごみ捨て場を思い出していた。……。意味ありげだが特に意味はなかった。ただ余韻だけがあった。
大盛と別れて家に帰ると、こういうのを出待ちと言うのだろうか、いや入待ちだろうか文字的に、妹の花音が玄関先で俺を出迎えた。「お帰りなさい、お兄ちゃん」「おう」「お昼ご飯もうできてるけど、ご飯にする? お風呂にする? それとも、わ・た・し?」と花音は科を作るように内股となり腰を捩ってポージングしているのだけど、彼女の中では最高にコケティッシュなポーズをイメージしているのだろうけども現実はくびれのない土偶がマイケルジャクソンのグラビティゼロに挑戦しているが直立と大差なし、といった状態で、ってか兄妹なのに何言ってんのこいつ? キモイな、と胡乱な目を妹に向けるが花音の奴は前髪すだれの奥でウィンク決めてる有り様で、ぞぞぞ怖気の立った俺は「俺、ちょっと、後で食うわ」と断って玄関上がり急ぎ階段へ、二階の自室へ向かった。私待ってるね、一緒に食べよ! という妹の声が俺の背中を深々と刺した。
「疲れたぁー」と、さして疲れていないのに疲れたと声に出しながらベッドに仰向けに倒れ、天井、茫漠と広がる白を見ていると寂寥が湧いてきて、子供の頃、奏姉を含めて花音と遊んでいた頃、妹は愛らしかった。かわいかった。近所の公園、鉄棒で逆上がりの練習をしていると花音は近くで手を叩いて応援し、お兄ちゃん、お兄ちゃん、と、ってそれは今もなんだけど、あの頃は漫画うんこみたいな外貌でなくスリムな、優しげに少し垂れた目元の、玉のように輝く、自慢の妹だった。俺は奏姉に技術指導を受けながら、根性の面では花音の期待に依拠して逆上がりに注力、そして八月朔日、ミンミンゼミが高らかに鳴く中で、冷えた水を溜めたコップのように汗を噴出させながら、初めての逆上がりを経験したのだった。花音は喜んでいた。お兄ちゃん、お兄ちゃん、きゃっきゃっ、とあまり意味のあることを言わなかった、つまりそれぐらい嬉しかったということで、俺はそのことが嬉しくて、それから覚えたての逆上がりを回りに回って、酷暑も重なり最終的にゲロを吐いた。花音は俺の背をさすってくれて、自慢の妹、この逆上がり初体験の時には俺は父母の悪影響でエロゲを知っていた、知悉していたとまではいかなかったが世の中には妹キャラなるカテゴリーが存在し大人気を博す定番キャラとなっていることを薄々感得していて、だから将来、この自慢の妹を標準装備している自分には幸福が、エロゲ的幸福が訪れることを頑なに信じていた。それがこの惨状、今じゃ牛や豚といった家畜よりも肥え太り、肉売るの? 無理でしょ? 人ロース肉100グラム780円ですってか? 嗚呼、神はなぜこのような過酷な試練を与えたのだろうか。私の幸福はどこへ? エロゲ的幸福はどこへ? お兄ちゃんお兄ちゃん慕ってくれる妹はどこへ? ま、いるんですけどね、ははは。デブの不細工の怪力だけど。と虚無的に笑った瞬間、でも花音に関しては、完全にエロゲだよな、と瞬間的に思い、その瞬間。
『そうですよ、いるじゃないですか、エロゲ的妹キャラ』
声がした。
がばっと俺は起き上がり部屋を見渡すが誰もおらず変わったところもなく、んんんんんんんんん?と思っていたらまた声がした。
『大丈夫ですよ、落ち着いてください』
んんんんんんんんん?と思いながら室内を睥睨するもやはり何もなく、おかしいな、じゃあ考え方を変えてみよう、昨日と変わったことは? と考え思いついたのは高校生になったこと。では、人間は高校生になると幻聴が聞こえるようになるのか。一般の高校生は脳内に謎の声を聞きながら日々それと折り合いをつけ生きている。イエスなら楽しいような空恐ろしいようなだけど俺は高校進学と共に幻聴が聞こえ始めたというエロゲをプレイしたことはない、つまり普遍的にそんな症状などないということで、特殊能力として何者かの声が聞こえる設定のエロゲをプレイしたことはあるがそちらのほうが稀ってか完全に設定だった。
『ありますねそういうエロゲ。ファンタジー寄りの。でも、そういうエロゲとは、そうですね、若干違いますかね。リアルの話ですからね』
脳内に響く声に俺は完全に混乱し、なんだなんだなんだ、ベッドを降りてベッド下を覗き、『そこじゃないです』という声が聞こえるからには別の場所だと素直に思って他どこだと考え電光のごとく脳裏に閃いたのが奏姉のプレゼント、あの数珠で、霊的な物、昨日とは違う物っちゃそれだと慌てて鞄を漁り箱を取り出し数珠を取り出す。
『残念ながら、そこでもないですよ』と声、しかしその言葉の意味が頭に入って来ず、というか、昔から俺には咄嗟の行動変更が難しいという宿痾があり、当初の思考通り俺は数珠の頂点、玉に小さく空いた穴に目を寄せて、中を覗き込んでいた。仏様の坐像。うっすら笑っている。
『だからそこじゃありませんってば』声。
俺は数珠から目を離し、「じゃあどこだっつか、なんだお前」と半ば引きつった声を出す。すぐに宥めすかすような声がした。『大丈夫です、取って食ったりしませんから』
「ああ、あぁ?」
混乱する俺に声はやはり穏やかに言うのだった。
『私は妖精です。このゲームのチュートリアルを担当する者です。まずは妖精をイメージしてください』
「ふぇあ?」なんてあほのような声を漏らしながらも俺は母がかつて描いた、明らかにディズニーのティンカーベルをパクったイラストを思い出した。思い描いた。すると。
『そうです、それが私の姿です』という声と同時に、目には映らないもののティンカーベルのイラストが頭蓋の内に浮かび上がり、「あ、これですか?」と敬語で問うと『それです。イメージがあったほうが制御しやすいでしょう?』と笑いを含んだ声がした。握っている数珠を振ってみると、『だからそこじゃないです。人間はやはり物質思考を超越できませんね』とおかしそうに笑う。
沈黙。と共に俺は考えた。チュートリアル。つまり操作方法を紹介、指南するプログラムのことで、父母によれば昔はゲームに説明書なる教則本が付随してきたらしいが今の世はなんでもチュートリアル、ゲーム内でゲーム操作を指導する枠が設けられており、それは時に無機質なテキストであったり、時にファンシーな生き物やゲームの登場人物が説明に駆り出されたりする。で、妖精が言うに彼女はこのゲームのチュートリアルを担当しているとのことであり、で、このゲームって何? あれ? なんかさっきそういうエロゲじゃないっつってなかったっけ? そういう、が何を指すか分からんけども、ってことは、このゲームってのは……
「エロゲ?」
『そう、正解です』ぱっぱかぱーん、とチープな効果音が鳴り、脳内の妖精がウィンクしながら微笑んだ。『これはゲームです、貴方方の言うところのエロゲです』
「エロゲ? やっぱしエロゲ?」
『はい、断定的にエロゲです』
「あー、はい、エロゲですね」と再び俺は敬語で答え、ぬんぬんぬん、やっぱり意味分かんねえ、これはゲームですとかこのゲームとか、の、このってなんだよ? This is a penみたく初歩の初歩、言うまでもなく自明みたいに語ってるけどもこれってなんだよこれって? とひたすらに思弁していたら妖精は俺の思考を盗み取り、それこそゲームのチュートリアルのキャラのごとく揚々ビックリマーク付きで言った。
『このゲームとは、貴方の人生のことです!』
何を言っているのか分からねーと思うがとの前置きと共に妖精の語るには、このゲームは、高校入学と共に始まる、俺こと尾前悠制作のエロゲである。何を言っているのか分からねーと思うがと言いたくなるのも分かるが聞いてくれ、順序だって話しますと、俺こと尾前悠はこれといった希望もなく惰性による慣性飛行のまま高校を卒業、大学も卒業して一応真っ当に生きるかに見えたがしかし就職に失敗、人生の通常コースから転がり落ち零落落魄の人生、半引きこもり状態で生きていくわけで無残の極み、金はないから新しい電子機器も買えず服もモサいまま、そのEぬののふくみたいな雑魚初期装備で同窓会に出かけようものなら社会に生きる同窓生から水と油のごとく遊離し、極めつけは「お前今何やってんの?」責めを食らい辱められ、死にたい、いっそ死にたい、生きていることが罪なのだ、自転車で青葉の滝など自分には望むべくもないのだ、などと太宰治『人間失格』のフレーズが脳内をニコニコ動画のコメントのようにひゅんひゅん流れる有り様で実務的に死にたくなり、そして何より死にたくなるのが周囲が結婚子持ち率九割以上となる中自分が四十になっても交際相手がいないどころか童貞であることで、四十にして惑わず、などと孔子様は仰ったそうだが未来の俺は苦悩に苦悩を重ね、あ、ちなみに三十にして立つも怪しかった、ってそれはどうでもよくてとにかく四十にして童貞で惑乱していた俺は自らを慰撫するため父母にエロゲの作り方を習い、自分が主人公のエロゲを制作したのだった。まる。
妖精はそのように語った。不細工な文章。
「いや、よく分かんないんだけど」と顎に手を添え首を捻る俺に妖精は『何がですか?』と問う。
「いや、とりあえず君が、……妖精さん?」『妖精でいいですよ』「妖精さんが言う通り、未来の俺が俺を主人公としたエロゲを制作したとしよう、寂しい未来像だな、でも、未来の俺がエロゲ作ったからってどうして現在の俺に反映されてんの?」『それはですね、魔法です』と妖精は得意げに、『童貞に関する都市伝説、貴方も聞いたことがあるでしょう?』「え、なんだっけ?」『童貞のまま三十歳を超えると人間は魔法使いになるという伝説です』「え、なんだっけ?」『現実逃避も仕方ないと思いますが、都市伝説通り、貴方は三十にして魔力を得た。そして四十にして自らを主人公としたエロゲを作り、そして魔法力を行使して過去の自分にそのゲームを適用したんです』
つまり。時系列。未来の俺は高校を卒業、成長し、三十にして魔力を得、この呪われた人生をキャンセルすべく四十にしてエロゲを制作し、過去の俺の人生に適用した。過去の俺すなわち現在の俺は未来の俺が作ったエロゲをその身でプレイすることになっている。
『そういうことです。理解が速くて助かります』妖精が言う。
俺は考えた。思考した。エロゲ的甲斐甲斐しい妹。たかが入学でプレゼントまでくれちゃう幼なじみの奏姉。エロゲ的親友男子ポジの大盛。住宅街の角でぶつかるなんて陳腐極まれりな生意気キャラ戸狩照。様。そしておそらく正統派美人に位置する一条京子と同じクラス。
そうだ、すべてがエロゲ的な、余りにエロゲ的な展開なのだ、高校入学から今の今まで。
お兄ちゃん、まだぁ~? 一緒にお昼食べようぉ。階下から妹の声が聞こえる。
『貴方は先程、妹を起点に自分の人生がエロゲ的であると認識した。そこで私がゲームの案内人として登場したんです。エロゲ的な、ではなく、このエロゲそのものの世界に』
寒気がしてぶわっと鳥肌が立つのを感じる。と、妖精が半笑いで言う。
『心配しなくて大丈夫です、もっとプラス思考で。人生がエロゲだなんて、悦楽そのものじゃないですか。女の子と乳繰り合えばいいだけなんですから』
「そら、そうかもしれんけども」
『警戒心が強いですねえ』妖精は首を振り、それから人差し指を立て、『貴方が気を付けなくてはならないのはただ一点。童貞のまま高校生活を終えることです。貴方は後年自分がはまることになるドツボ人生を、バッドエンディングを、高校生の段階で回避しなければなりません。もしこのゲームにおいて貴方が攻略対象とラブラブになり、彼女のルートをクリアすれば、半引きこもりの高齢童貞という陰陰滅滅たる未来はキャンセルされ、エロゲ的ハッピーエピローグを迎えることができるんです。分かりますか、要するに貴方は誰かと恋仲となり、童貞を失えばこのエロゲはクリア、幸福な未来が約束される、ということなんです』
「えっと、つまり、攻略対象を決定して、フラグを立て立て、個別ルートに入った後、えー、つまり童貞を失う。ということは、あれっすか? あれっすよね?」
俺がやんわりぼかしたのを、妖精は克明に告げた。
『セックスです。何が何でもセックスする。ヤれば貴方の人生変わる』
お兄ちゃーん。お兄ちゃんまだぁ~? という声が階下から聞こえる。妖精の告げたキャッチフレーズが俗欲にまみれた自己啓発書のタイトルのように聞こえるけど、いいんだ、それでいいのだ、俺はこのエロゲを満喫する。今までのぱっとしない人生と決別し、愉楽と誘惑に満ちたエロゲを身をもってプレイする。そうすることで未来の俺がハッピーになり、とか御託はいいんだよ、俺は今日から女子との喋喋喃喃に没頭し、そして憧れの、画面真っ暗で何も分からなかった、嬌声の響く、あ、あ、ああ、あああーの睦事を体験するのだ。目指すべきは一点、全高校男子の憧れ、「セックス!」
俺は興奮を抑えられずわなないた。脳内でなぜだかFIFAのアンセムが流れていた。