12 アバウト・ア・ボーイ
12 アバウト・ア・ボーイ
網膜剥離だねと医者が言った。
奏姉に強引に迫った結果叩かれ爾来俺の左目は視力が低下した、らしい、その原因が網膜剥離だと医者は言うのだが実際のところ見え方は以前とさほど変わらず、しかし、瞼を閉じると瞼裏に、入学祝いにもらった数珠、その玉の中に座っていた仏様の姿が見えるようになり、仏様は暗がりの中金色に輝いて薄く微笑んでいる。俺を覗き込んでいる。いや、俺を見張っているのだ。
天地創造の頃より人間を観察してきた仏様は、当然、俺の、奏姉に対する強姦未遂を見ていらっしゃったのであり、仏様は情欲に身を任せようとした俺に仏罰として網膜剥離を与え、以後瞼裏に常駐することによって、私はあなたを見張っていますよ、というメッセージをより強力に発するようになったのだ。
では俺は奏姉に襲いかかった瞬間から罪人として仏様に監視されるようになったのか。否である、というのは先ほど述べた通り仏様は宇宙開闢より存在し人類発生もライブで見たし今現在地球人口がどれくらいになるのか俺は知らないけど一人一人をその神通力を宿した目で眺めているのであり、当然俺は生まれた時から監視されていたわけで、もっと言うと、仏の力によりすべては予見されていた、俺が精神衰弱から奏姉を襲うことは予期されていたことで、というか俺の家が焼失したり璃々のギターが破砕したり一条京子がゲスだったり、それに対する俺の反応というのも丸々すべて仏様は了解していて、ついに仏法を外れたその時に罰をお与えになったのだ。
では、俺が未来に罪悪を犯すと予見していながら仏様は拱手傍観、それを正すことをしなかったのか。というとやはりの否、俺はストア学派ではない、こてこてのマヨソースにおかか振ってさらに青のり、みたいな重篤運命論者じゃない、俺は自由意志を信じている、と話が横道に逸れたが何が言いたいかというと俺は奏姉を襲う未来を変えるチャンスを与えられていた、選択権を付与されていた、と主張したいのであり、で、そのチャンスまたは選択権、人生の岐路はどこにあったのかというと、だいぶ遡り夜、London Callingの音が聞こえてきたでしょうか、あの夜俺はバグの存在を妖精に教授されながらもそれについて真面目に考えず、眼前の出来事に夢中になりバグを改修しようと熟慮した行動を取らなかった結果として奏姉を力で襲う運命、エロゲにおいてさえ言語道断の選択にたどり着いてしまったわけで、俺はあの時から、バグを修正する、という大義を掲げ行動すべきだったのだ、そうすれば網膜剥離なんてなかったのだ。きっと仏様はバグを俺創作リアルエロゲに挿入することで俺の道を正そうとしていた。腐った性根を、カルマをため込む未来から遠ざけるためあえてバグを挿入されたのだ。未来の俺の拙い技術が生んだと思われていたバグが実は横着者の粗忽者、目の前にぶら下がったニンジンを食べよう食べようと刹那的に生きる俺への戒めだったとしたならば。バグ、つまりエロゲに相応しくない何か、を真剣に探し求めこれを発見後取り除くことにより俺は、俺の世界は仏罰を克服し、完成された、真のリアルエロゲライフを始められる、といってよいのではないだろうか。
バグ滅ぶべし。仏敵滅ぶべし。世界の救済を妨げるもの、皆滅ぶべし。
と気炎を上げるも、では具体的にバグとは何なのか。と訊かれると今時滅多に見なくなったフリーズという現象を俺は起こしてしまうのであり、バグって何ですか? と妖精に問うも返事がなく、というのは妖精は本人の申告によるとチュートリアル担当、だから攻略情報とかましてやバグが何なのかなんて知る由もなく、故に黙りこくっているのだろうと想像できるし、あるいはこうだ、妖精は具体的な、物質的な姿で俺の目の前に現れたことがなく常に脳内で見る状態だった、イメージ上の産物だった。言い換えるとこれは形而上の存在であり、となると実はこれは仏様の一形態つまり化身だった可能性があるのであり、となると俺が提唱している「仏様はずっと俺を監視していた」説が裏付けられるわけで、いよいよもってバグ滅ぶべし。となる。正道を歩むためにはバグ探しにまい進するしかないのだ。
と気合いを入れて、しかしどうしていいか分からず嘆息、俺は梅雨時の湿った教室で途方に暮れ、途方に暮れてはいたが頭は比喩の意味できゅんきゅん回転し、「次のページを、尾前」と教師に指され教科書、指定のページの英文を読み上げる。スヌーピーに関する話だった。チャールズ・M・シュルツの描いた漫画『ピーナッツ』は、うんたらかんたらちんたら、なんとかかんとかとんとか、すいぎょうまつうんらいまつふうらいまつ、くうねるところにすむところ、などと書いてあり、俺は落語家のごとく滞りのない弁舌で英文を読み上げ、教師から得た「はい、ありがとう」はどこか他と違う、信頼の醸成というか、えこひいきに繋がる生やかな何かがあった。
英語の授業が終わり昼休みの始まり、ふぅ、と蛍光灯の照る不自然な明るさの教室の中で弁当を食べ始めると間もなく大盛がやってきて、椅子を引き寄せ座りついたため息「ふぅ」は軽やか、と形容するかは分からないがとにかく一般人と異ならぬ調子で、というのは、大盛はいつの間にか減量を果たしいつぞやの力士体型が中肉中背に戻り声帯が圧迫されなくなったからだろう声質も通常人のそれとなり、「スヌーピーもさ、ドラえもんみたくぶっ殺してやるとか言ったことねえのかな」という質問の質までもあまりに大盛で俺は「お前ってさ」「ん?」「いいあほだよな」と哲学的な問いを投げかけてしまい、「いいあほってなんだよ」「いや、分かんないけどさ」と愚にもつかない話で盛り上がり、そうになったところで「ちょっと、いいかしら」と片手に弁当、机を寄せてきたのは一条京子であった。
俺を人非人のごとく散々に無視してきた、同じ空気を吸うことが耐えられないから私窒息死します、遺書は爺やに託しました、とでも言わぬばかりであった一条京子が話しかけてきたことに多少吃驚しながら、俺は「何?」と簡潔に尋ねた。「お弁当、一緒に食べてもいいかしら」と言う彼女に頷くと、「では、お言葉に甘えて」と一条京子は甘やかに言って弁当を展開、玉子焼き、ブロッコリー、牛肉の時雨煮、といった存外庶民的な中身に「そういうの、食べるんだ」と言うと一条京子は何か辱めを受けたかのように一瞬怯んだが、気を取り直して微笑、「やっぱり、私はお嬢様らしい物を食べていたほうがよいでしょうか」と、口調からは冗談にしたい意図がありあり露出していたので「いや、それでいいんじゃない」と答えると一条京子は一瞬不可解げな表情をし、「何?」と問うと少し気後れしたような顔をして、言う。「私、尾前さんのことを散々卑下してきたので」「卑下してきたって意識はあるんだ?」「あ……ええ、なので、皮肉を言われたり、もっと辛く当たられるのではないかと、身構えていたのですが」「うん、で?」「思いの外、親切に受け入れてもらえたので、少し驚きですわ」「それも卑下っちゃ卑下かもよ」「それは……」と一条京子は口元に手を遣り、それから「禅問答、続けます?」と首を傾け微笑む。俺は首を振った。
賭博師がひん剥かれて全裸になってしまうような照明の下、優雅に弁当を食す一条京子の姿はまさに掃き溜めに鶴、彼女を中心に黒く染まった霧が吹き飛ばされていくような爽快感があり箸の進む俺の対面で、ご飯をおちょぼ口でぱくっ、ぱくっ、とやってから彼女は言った。「私、尾前さんのことを誤解していたみたいで」「誤解?」と聞き返すと彼女は、ええ、と頷き、「この間の、遅れて受けた英語の実力試験、満点だったのでしょう?」と訊く。「まあね」と答えると「私」と言う。「一問間違いで96点だったんです。ケアレスミス、だったらよかったのですが、実力不足で間違えてしまったのです」「どこを?」「あの発音の部分です。I was your father.のIのほうにアクセントが来るのかと」「wasのやつね」「そうです、それです」と一条京子は嬉しそうに微笑み少し前のめり、「ところで尾前さんは、その、あまり良い質問ではないですが、英語を猛勉強なさったのですか」と訊くのでエイミー家でのお籠もり勉強の話をかいつまんで述べると一条京子の頬に一瞬不穏当な影が差し、牛肉を一欠けら口に運んで咀嚼、飲み込んでから一条京子は「やはりネイティブスピーカーに囲まれて実地訓練したほうが、言語は身につくものですね」と言った。ので、「エイミーに紹介しようか?」と問うと彼女は再び瞬間的渋面を作り、何か言いたげだけど言い出せない、という煩悶もじもじおトイレ我慢ポーズを取り、それからおずおずと申し出た。「その、よければ、私に英語を教えていただけませんか。その、エイミーさんではなく、尾前さんに教えてもらいたいのですが」
「あ、うん、まあ、別に、いいっちゃいいけど」と俺が答えると一条京子の顔に隠し切れない喜びが浮かび、そこにこんなことを言うのは水を差すようで非常に申し訳ないのだが「毎日じゃないけど、放課後、余裕がある時ね。俺にもやるべきことがあるから」と言い添えると、彼女がどんな顔をしたかというと存外の微笑みで、「はい。よろしくお願いしますわ」と口元を押さえるところはさすがの正統派お嬢様枠だった。
そんなこんなでバグについて思弁しながら放課後は一条京子に英語を教授して、という生活がルーティンワーク化した、ある日の下校路、梅雨寒の道端、見慣れない蝶がひらついていて、コンクリートを突き破って生えた植物の上に止まった。開いた翅は赤褐色、その末端部に大きな目玉模様があるからにはジャノメチョウか何かの仲間か、しかし、以前蝶を擬人化して恋愛するエロゲをプレイして多くの種を頭に叩き込んだ俺にも同定不能のその蝶は、少しの休憩の後またひらついてどこかへ飛んで行こうとする、その後を俺も追いかけ、というのは、まったく見覚えのない蝶、というものに直感的に、これがバグではないか、という思考が働いたからで、バグ、英語で虫はbug、バグ繋がりとは何たる偶然か、いや、この世に偶然などなくすべては必然、なぜならばこれは、くどすぎて耳にタコができ増殖してがん細胞化してあなたの健康を害しているに違いないがこれは俺創作エロゲなのであり、で、チェーホフとかいうおっさんが言うには劇中に拳銃が出てきたら発射されねばならない、のであり、ってよく意味分かんないっす、と放り捨ててきたのが今までの人生、しかし俺はこの奇怪な蝶の出現を前に熟考している、そして熟慮の結果、俺の眼前に無意味に意味深な蝶が飛ぶはずはなく、意味がないならば見慣れたモンシロチョウでも飛ばしておけばよいところあえて奇怪な蝶にするのには意味があるからだ、との結論が導き出され、俺はこの怪しげな蝶を三歩後ろから追いかけた。蝶は右へ左へひらつきながら、目的地の定まらぬように飛翔逍遥しているのであり、俺は俄かな興奮を覚えつつ目で足で追い、じゃあ、こいつがバグだったらどうやって修正するんだ? なんて根源的な問いが頭に浮かび、捕まえて飼育? 調教? 世界で初めての蝶showをギリシャの蝶の谷で企画? いいや、などと思弁するうちひらひらと舞う蝶が次第に民家の垣根を越えんとし始め、もしここでロストしてしまうと万が一、千が一、百が一ぐらいかな、蝶=バグであった場合、俺はこれを修正、仏罰を克服したうえで真っ当なエロゲ世界に生きる、というチャンスを失うわけで、ひらりひらり、待て、ちょっと待てそこの蝶よ、と思念するも蝶は俺の心知らずでついに垣根を越え民家に入らむとす、俺の手の届かぬ場所に逸出せむとす、そうなっては手出し無用、干渉不能の存在になってしまう、まあ、民家に不法侵入すればいいんだけど垣根をよじ登り敷地に侵入するという軽犯罪を犯すことになる、だから待って、越えないで戻ってきて、と思考しながら俺は、傘をひゅんひゅん振って蝶を道へ戻そうと努力した。のだが。
焦りが過ぎた。俺の傘は蝶を直撃し、これを叩き落してしまった。地面に叩き伏せられた蝶は青い液体を潰れた腹から垂れ流し、ぴくりとも動かなくなった。要するに殺してしまったのだ。
あ。と思った。マジかよ。と思った。髪の毛が一本抜けた。それは若白髪だった。とどうでもいいことに逃避する俺を現実に引き戻したのはやはり蝶だった。俺はこの推定バグの、蝶の遺体の回収を思いついた。家に持ち帰り図鑑で調べてみようと思った。存在し得ない蝶だったらばバグに違いない、その確認を行う必要があった。
死体を手に家に帰った。と言うとマイホームに帰ったかのように聞こえるが現実は仮宿、軒先を貸してもらっている状態で、俺は今、何の因果か戸狩照様のお宅に妹と住まわせてもらっていた。奏姉の宅はあの忌まわしい未遂事件以後去ることになり、じゃ大盛の家にでも行くしかねえかと思っていたところ戸狩照様から、もうほとぼりも冷めたんだし、妹の面倒を見る上でも、と、是非に請われて迎え入れられたのだった。
「お兄ちゃんお帰り」
玄関先で出迎えた妹は俺の手に死んだ蝶を見て、軽くのけ反り、「お兄ちゃん、私が虫苦手なの知ってるでしょ」と責めるので「見ないようにしろ」と命令し、続いてやってきた戸狩照がやはり「うわ、虫」と顔をしかめるので「見ないようにしろ」と今一度指令し上がり框上がって少し歩いた廊下の先、階段を登ろうとしたところを「ねえ」と戸狩照に呼び止められる。「何?」「あんたさ、最近」まで言って戸狩照は話し止み、「なんだよ。気になるだろ」と催促すると「その……一条京子と仲いいわよね」と言いやがったので俺は慌てて花音を見たが、ふーん、ぐらいの顔で嫉妬後狂乱後包丁を持ち出し俺を刺殺、する様子はない、ヤンデレ化の兆候は零、なんだか少し張り合いがない気もするが安全なのは良いことだ、戸狩照に視線を戻して「だったら?」と答えると彼女はむっとしたように顎を引いて俺をねめつけ、「ふん!」と腕組みしてからそっぽを向く、所謂ツンデレキャラの定型的反応をしたのだけれど今は構っている暇はない、俺はこの蝶がバグなのか判別しなければならない、「じゃあな」と割り与えられた部屋に向かうと「悠!」と戸狩照が呼んだ。「何?」と振り返れば彼女は、自分が呼び止めたことに驚いている様子で、何なんだ、「なんか用?」と重ねて問うとむむむむむとツインテールを逆立てスタジオジブリが描きそうなぶわっと顔になって後横にずらした視線で「あたしも、あんたと仲良くなってあげてもいいけど?」と言った。何を言ってるか分からなかった。「どういうこと?」と訊くと梅干しとして店頭に並びそうなほど顔を真っ赤にし、「何でもない!」と叫び茶の間の方角へ帰っていった。
よく分からん、だがそんなのはどうでもよくて今はこれだよ、俺は自室に籠り、奇怪な蝶の同定にかかった。といってこれは何々科の何々属の特徴ですねえ、なんて識別ポイントが分かるほど訓練も教育もされていないので、図鑑片手にこれじゃない、あれじゃない、それでもない、と見た目で判別する以外方法がない。俺は潰れた腹から出る青汁に机が汚れないようティッシュを敷き、その上で翅を開かせ鳥瞰スタイル、紋、というのだろうか、四つの目玉模様を頼りに図鑑を当たった。
道端で見知らぬおばさんに話しかけられ、このおばさん誰だっけ? と焦燥の内に黙考していると「聡の母よ」と子供の名を告げられるがこんな人だったっけ? でも本人が言うからにはそうなんだろうなあ、という時の茫洋感を感じつつも同定の結果どうやら蝶はクジャクチョウらしいぞと判明した。素人同定だが図鑑には他にそれっぽい種も掲載されておらず、正体はタテハチョウ科のクジャクチョウ属クジャクチョウだった。図鑑に載っていない、在り得ない蝶ではなく現世に普通に存在する蝶でがっかりするものの、突っ込みどころ、これが一点あり、クジャクチョウはもっと寒い地方、あるいは山地にしか分布しておらず、だから梅雨時の高温の中市街地を飛び回っているなんてのはあり得ないことで、このあり得ないを殺した俺はつまりバグを修正したことになるのではないか、と一縷の希望を胸に瞑目すればやはり左目瞼裏に薄ら笑いの仏様が現れるわけで、これはいまだ仏罰を克服できていない証、呪われた世界に生きている証左なのであり、と、ここまで考えてふと考えるのは、バグ、それは妖精言うところ、エロゲに相応しくない何か、である。では、エロゲに相応しくない何か、とは何か。何なのか。エロゲ脳のはずの俺をもってしても分からない。では、今の俺がとりあえずすべきことは何か。エロゲに相応しいものの発見、それに付随するエロゲに相応しくない何かの発見、つまりはエロゲの再定義ではないだろうか。
俺は蝶の乗ったティッシュをくしゃくしゃに丸めてゴミ箱に投げ、それから常日頃より携帯している財布の中身を見た。一万ちょっと。
雷が閃き、遅れて轟音が轟いた。遠雷に続いて雨が音を立てて降り始める。屋根を打つ雨だれの音が聞こえる。どこかでカエルの鳴く声がした。