表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/1

パート4


二五


「いったいなんのことを言ってるの」

 アンヌが慧人に訊いた。

「俺の親父の脳が、あのコンピュータに連結されているのさ」

「あなたのお父さん、というと、フォアライン博士の……」

「そうだ。ニューロン情報工学の草分けと謳われたフォアライン博士の脳だ。考えてみれば皮肉なもんさ──当の本人が、その技術の下僕として働かされているんだからな」

「いったい、どういうこと──」

 アンヌが、依然として不可解そうな表情を崩さずに言った。

「そいつを説明するには、ちと時間がかかりすぎる」

「なんなのよ。あたしには、なにがなんだかさっぱり解らないわ。それにどうして、あなたのお父さんの脳が、こんなところにあったりなんかしなくちゃならないのよ」

「とにかく、俺の親父は生きていた──この恐るべきバイオジェニックス・コンピュータの助けを借りてね……」

「いいこと。あなたのお父さんはね──」

 アンヌは、深く息を吸い込んで言った。「この戦争が激しくなり始めた二十年以上も前に、すでに死んでいるのよ。ツヴァィゼン博士が言っていたわ──フォアライン博士は、この戦争の犠牲になった最初の、そして実に惜しむべき頭脳をもった科学者のひとりだったって……」

「では、きみは父の遺体を見たことがあるとでもいうのか」

「そりゃないわ。でも」

「悪いが、いま、そのことできみと議論をしている暇はない」

 慧人はアンヌのことばを遮り、サレムを振り向いて言った。「サレム、教えてくれ。親父と話をするには、どうすればいい──」

「わたしには解りません。けれど、あのオペレータが知っている思います」

 サレムは、前方にいる背の高い白衣の男を指さして言った。

「よし。そこの男……。そう、おまえだ。親父の脳とアクセスできるようにしろ」

 慧人は、キーボードの前で狼狽え、足元を震わせている男に素早い動作でステム・デストラクターの安全弁を外し、銃口を向けて言った。「アンヌ、ほんの少しで済む。その辺りの銃を拾って、連中が余計なことをしないように見張ってくれ」

「了解」

 アンヌが、返答と同時に兵士たちの捨てた兵器のあるところへ走り、そのなかの一番威力のありそうなのをひとつ拾いあげた。それは、兵士ではないアンヌには初めて手にする、ずしりと重い大型のレーザー・キャノンだった。

 腰にくるその重さを感じながら、彼女は言った。

「いいわ。準備オーケーよ」

 慧人は、彼女が一連の動作を終了したのを見届け、バイオコンピュータを立ちあげている男を見た。そして暫く見守ったあと、その背に向かって荒々しく言った。

「おい、まだできないのか。こっちは、とっくにスタンバイしてるんだぞ」

「もう少し。いや、もうちょっとです。あと僅かで立ち上がります」

 男は、悲鳴に近い叫び声で言った。「ほら、もう視神経のラインが点滅し始めています。脳が覚醒し、活発な思考力を回復するには、まず眼の神経からインパルスを伝えてやらなければならないのです──はい」

「解説はいい。早く親父をだせ」

「は、はい。いま出ます。ああ、やっと呼び出せました」

 男がほっとした表情で、キーのひとつを圧して言った。

「どうぞ、お話しください──」

 慧人は、つぎの瞬間に真っ暗になった前方の空間に瞳をこらした。数秒ののち、そこには、あの部屋で見せられたのと同じ父の姿があった。ただ少し違うところは、その顔が悲しみを湛え、真っすぐにかれの顔を見ようとしないことだった。

「親父か、そうだな」

 慧人は言って、返事を待った。が、返事はなく、ちらと慧人に向けられたかれの眼は、つぎの瞬間には、またもとの位置に戻った。

「言ってくれ。どうして──」

 慧人がことばを続けようとしたとき、幼いときに聞いた、あの懐かしい柔らかさが脳内を蜜のように満たした。

『わたしはいまごらんのとおり、バイオコンピュータという鎖に繋がれて生きている』

 その声は、空気中を伝わる音の波動ではなく、互いに強い精神波を発し合い、その精神波を通じて会話をするために何年ものメタ・サイキアトリカル・トレーニング(超精神作用訓練)を重ねた心だけが聴き取ることのできる心話で届いた。

『わたしには、《わたし》という意志はあっても、その意志によって物体に作用を及ぼすことのできる力は付加されていない。したがって、自らの生命をその意志の力によって断つことはできないのだ……』

『なにが言いたい』

 慧人は、幼いときにこの父に教えられ、当時自分でも相当訓練したことのあるステムコンセントレーションメソッド(海馬回周縁集中法)を用いて訊ねた。

『疲れた……。わたしはもう、こうして生かされていることに──一種の戦争の用具として生かされてあることに疲れたのだよ、ケイト』

『つまり、殺してくれと──』

『そうだ……。わたしはもう年だ。いずれにしても、そう長くはない。だが、肉体をもつことを許されない身であるかぎり、本来死ぬべき年令を過ぎても、なお生かされ続け、利用され続けることだろう。わたしは、こんな惨めな状態のまま、戦争の用具として生かされる生を、これ以上永らえさせたくはない。せめて意志ある人間として、自分の意志で、その意志のあるときに、尊厳ある人間の死を自らの手で選び取りたいのだ……』

 慧人は、父の声を聴いた。それは、父の、人間としての最後の望みであり、世のなかでただひとりの肉親である息子への最期の依頼、そして遺言だった。

『お袋が悲しむことになる。彼女は、あんたが生きていることを唯一の誇りにして生きている……』

慧人が心話で言った。

『いや、彼女は、わたしに負い目を感じているだけだ。彼女は、わたしがこうなったのも、おまえが淋しい思いをしたのも、すべて自分の所為だと思っている……』

 慧人が答えずにいるのを見て、父は穏やかに続けた。

『母さんは、人を殺したいのではない。人を、いや、人類を救うためにこの戦いに参加している。母さん、いや、ヤワルジャ大佐には、遠大な夢があるのだ。その夢は果てしなく拡がる。人類の果そうとして果せなかった夢の第一歩が、彼女の手によって、いま拓かれようとしているのだ』

『だから、淋しくはないというのか』

『当初は、確かに悲しみもし、淋しくも思うだろう。しかし、彼女は強い。わたしのように疲れはしないし、むしろそれをバネにして生きるだろう。彼女は、ヤワルジャ大佐は、すでにこの国にとって、一種の英雄なのだ。母さんの、おまえやわたしに対する償いの心は、すでに人類への贖罪のこころにとって替わっている。母さんの死は、人類の犯したすべての罪に対して贖われようとしているのだ……』

 その声は暗く、重々しかった。慧人は、耳でなら無視できるそのことばを脳裡から消し去ることができなかった。人類の犯した罪──戦争。その戦争にまつわるさまざまの飢餓、欲望、殺戮、暴挙、略奪、異変、離別、孤独、猜疑心、妬み、幼い頃の淋しさ……。

 さまざまの想いが、さまざまの都市のさまざまの光景が、まだ家庭と呼べた頃のさまざまの調度類や用具の類いが、慧人の頭のなかを速やかに駆け巡って行った。

 さようなら、父さん──いつかまた会うときは、平和で穏やかな光が、庭いっぱいにあふれる家に母さんと一緒に住もう。

「なにをするの」

 ふいに手許のレーザーキャノンを取り上げられたアンヌが叫んだ。

「こうするのさ」

 慧人は、前方の立体像に向けてレーザーキャノンのトリガーを引き絞った。

父の首が横へ走ったビームによって断ち切られ、その胴体についた両手が虚空を漂い、ゆっくりと床に倒れて行った。ビームが乱射されるたび、コンピュータはまるで切り刻まれるキャベツのような音を立て、黄色い煙や紫色の火花を噴きあげた。転がった首が消え、周りが明るくなったときも、かれは狂ったようになって叫び声を上げ、鈴なりのようになったコンピュータに向かってレーザーキャノンを乱射し続けた。

「やめろ。やめてくれ」

眼を覚ました大尉が叫んでいた。

だが、その声は、かれには届かなかった。アンヌは別の銃を拾いあげ、大尉に向かって構えた。だが、その必要はなかった。ルブアリ・マム=メドレーエフは、コンピュータが完全に破壊されてしまったショックから、明いたほうの白目をむいて、ふたたび眠りに落ちていた。

「ケイト。もう、そのくらいでいいでしょう」

 アンヌが、なにかに取り憑かれたようになってレーザーキャノンを発射し続けている慧人に向かって叫んだ。

「ああ、そうしよう」

 慧人は、われにかえって言った。「これで、親父の脳も浮かばれるだろう」

「さあ、早く。ここから逃げてください」

 サレムが、開け放ったドアのそばに立って言った。「このままでは、あなたがたは逃げ遅れ、わたしたちの敵に捕まってしまいます」

 慧人の頭のどこかに、そのことばの意味を訊ねたいという意識が働いた。が、それは一瞬のうちに消え、かれは叫んでいた。

「きみも来るんだ、サレム」

「いえ、わたしはここに残ります。残って、わたしたちの敵の者たちを見張ります」

「それじゃ、犬死にだ。さあ、来い」

 慧人はサレムの腕を思いきり手前へ引き、その慣性を利用して彼女の身体をドアの外へと突き飛ばした。サレムの豹のように軽い身体は数メートルも飛んだかと思うと、廊下の上をくるりと一回転して止まった。ついで慧人が、ドアに手をかけたとき、何かが鋭く高い音を発し、もの凄い閃光とともに爆発が起こった。

「ケイトっ」

 アンヌが、ドアごと吹き飛んだ慧人を見て叫んだ。

 ドアのなくなった部屋から噴き出した煙が辺りを包み、アンヌとサレムの視界を奪っていた。アンヌは煙にむせび、涙を流しながら、慧人の名を続けさまに呼んだ。名を呼ぶたびに耳をすましたが、何秒経っても慧人からの返事はなかった。煙はますます濃くなって視界を遮り、廊下じゅうを真っ白な、眼も開けられない空間に染めて行った。

方向感覚どころか、心臓の拍動までがなくなってしまいそうだった。

「ケイト、ごほっ、ど、どこにいるの」

咽びながら、アンヌが声を限りに叫んだ。返事はなかった。

もう一度、その名を呼ぶ。返事はなかった。彼女は絶望的な気分になり、これまでとは打って変わった、弱々しい声で言った。

「生きているのなら、返事をしてよ。返事をしなかったら、ここにおいて行くんだからね。本当よ。本当にそうするんだから……」

「ア、アンヌ」

「ケイト、ケイトなの。生きていたのね」

「ああ。俺はここだ。ちょっと気を失っていただけだ」

 ことばとは裏腹な弱々しい慧人の声が、やや離れたところから聴こえた。「こいつを、この重い鉄の扉を、どっかへやっちまってくれ。こいつのせいで肩の骨が砕けちまったらしい。腕に力が入らない」

「よかった。生きていたのね。サレム、あなたのほうは大丈夫なの」

「はい、いまもちゃんと生きて、ここにいます」

「そう、無事だったのね。よかった。じゃ、かれの声のしたところがわかるわね」

「はい、わかります」

 サレムが四つん這いになった姿勢で、慧人が下敷きになっている扉の端にたどり着いて言った。

「ここです。ここに重い扉があります」

アンヌが揺すってみようとして、それがびくともしない重い鉄の扉であることを知った。確かに相当な重さがある。おそらく女ひとりの力では持ち上げられないだろう。

「サレム。あなたは、あっちへ行って。わたしはこっち。いい。レディ・ゴーで、同時にこれを持ち上げるのよ」

「いい。レディ、ゴー!」

 だが、それは二人の力を合わせても腰の高さくらいまでしか持ち上げられなかった。サレムがアンヌに、そのまま持ち上げているように言い、自分は中に入って背中で扉を支え上げた。すかさずアンヌが、レーザーキャノンをつっかえ棒替わりにしてサレムに持たせ、慧人の足をつかんでかれを引きずり出した。

「いいわ。オーケーよ」

外に出たサレムがレーザーキャノンを引きぬくと、鉄の扉は押し潰す獲物を失ったのが口惜しいとばかり、大きな音を立てて床の表面を叩いた。

 辺りに充満していた煙が、徐々に炎へと変わり始めているようだった。そこにいるだけで、頬が焼けるように熱い。

「危ういところだった──」

 慧人が肩をかばうようにして、アンヌに身体を任せながら言った。「もう少し出るのが遅かったら、三人ともなかの連中のようになっていただろう」

「でも、こんな重いのにぺしゃんこにされてしまったわ」

 アンヌが涙を拭った後の、幾筋もの線の入った煤けた顔をして言った。

「けど、そのお陰で死なずに済んだ。こいつがこんな分厚い金属でできていなかったら、俺たちはいま頃、あの世まで吹っ飛んでいたさ」

「でも、右肩が駄目じゃ、銃は使えないわ。それに足のほうだって、きっと──」

「なあに、俺程度の腕前じゃ、右も左も変わりゃしないさ。幸い、とっておきのデザートブーツを履いていたお陰で、足のやつは大丈夫と来てる」

「そう。安心したわ。一時は、どうなるかと思った……」

「ああ。その顔に書いてあるのを見れば解るよ」

 慧人は、アンヌのその顔をしげしげと見やると、いつもの軽口で答えた。「なんだって、こんなドジで間抜けな男をリーダーにしてしまったんだろう──ってね」

「そんなんじゃない。本当に心配したのよ」

「そうかね」

 アンヌは、眼を吊り上げて言った。

「そんなに言うなら、今度からは本当にお間抜け扱いにしてあげるわ」

 アンヌがその全部を言い終わらないうちに、けたたましいベルの音が鳴り響いた。三人が同時にびくっと身体を震わせ、顔を見合わせる。単に火災発生を知らせるベルなのか、それとも緊急事態発生を知らせるベルなのか、どちらとも判断はつかなかった。

 たぶん、後者なのだろう。だが、バイオコンピュータのあった部屋は、監視モニターがすっかり焼き尽くされてしまったせいで、敵にはいまどんな事態が生じているかは正確に把握できていないはずだ。慧人は思った。

「さあ、行こう、サレム。道案内だ」

 慧人は、サレムを先に立たせて言った。

 ようやく排煙機構や消火用の感知装置が作動しはじめたのだろう。

廊下では、あれほどだった煙が急激に衰えを見せはじめており、その上方に取り付けられたスプリンクラー様のものからは、勢いよく水が噴き出して来ていた。そのお陰で、廊下はちょっとした川の流れのようになっていた。三人は、降って来る雨のような水を全身に浴びながら、互いに手を取り合って走った。

 廊下は曲がったかと思うと、すぐ逆の方向に向かって続いていた。ある程度、地中の岩盤などの障害物を避けての迂回路だと思われた。慧人は、落ち着きを取り戻すにつれ、いつもの皮肉だが、有効な思考力を回復しつつある自分に気づいた。

 果して、しかし、これは現実のできごとなのか。考えてみれば、いままでの一連のできごとは、あまりにもでき過ぎている。

ひよっとして、俺はあのままずっと、あの大尉たちの居並ぶ前で、例の器械にかけられたままでいるのではないか。そして、これを現実と思い込むことで、敵に好都合な情報を提供するための──いわば綿密に計算されたプログラム上の──プロセスを歩まされているのではないのか……。

 もしそうだとしたら、これはすべてやつらが俺の脳に働きかけて創り出した事実無根の妄想──いや、虚構的現実に過ぎない。

 落ち着け、慧人。もっと落ち着いて、現実を直視するんだ。このままでゆくと、俺たちはどうなる。無事、味方の基地へたどり着くのか。そして、敵であるサレムとともに、その戦果を報告するのか。それにあの大尉は、果してあんなにも簡単に死ぬ運命になっていたのだろうか。

そう、あの親父の脳。いや、そればかりではない。

母親の存在。彼女が生きていたのだってそうだ。果して彼女は、ほんとうに自分の母親だったのだろうか。あの母親なくして、このサレムの存在はない。だが、アンヌはどうだ。彼女までもが偽物だと言うのか……。

「なにをしてるの、ケイト」

 慧人の目まぐるしく動き回る思考を中断するように、アンヌの鋭い、しかし、優しさの滲んだ声がかれの耳に届いた。「肩の傷が痛むの」

「あ、いや。なんでもない」

 慧人は言って、水嵩を増して来た廊下を足早に進んだ。そう言われれば、俺は負傷している。この現実はどうだ──だが、彼女が心配するほど、激しい痛みは感じない。それも、こうした異様な事態にあって、精神が異様に興奮しているからなのか。

 アンヌはこうなる前に言っていた。あなたのお父さんは、二十年以上も前にすでに死んでいると……。あれは、俺の騙されまいとする無意識の声なのか。

「どうしたの、ケイト。また足並みが揃わなくなっているわよ」

 アンヌの二度めの注意が走った。

 これが、夢──いや、虚構的現実であるのなら、このなかの誰が死んでもいいはずだ。いや、この俺さえも現実には存在しない架空のできごとに遭遇し、そのなかであがいているだけなのかも知れない。

そうだとしたら、他人やその他の事象は、単なる幻影に過ぎないことになる。果して彼女たちは──俺と行動をともにし、一緒に駆けてくれている彼女たちの肉体や精神は、俺という肉体や精神に、どんな影響を及ぼす役割を引き受けているのだろうか。また逆に、そうした彼女たちに痛みや喜びを感じさせることが、俺には可能なのかどうか……。

 あたかも気を失っている間に、その腕を切断されたのを知らされていない男が、指先の痛みを訴えるように、俺はいま、非実在の痛みを感じて走っているのだろうか。

それとも、こんなことを考えること自体が、すでに敵の術中にはまっていることを意味するのだろうか──。

 慧人は、雨中での激しい走行と多量の出血のせいで、だんだん気が遠くなっていくのをまるでほんものの夢でも見ているような気持ちで眺めながら、冠水した廊下に頭から倒れ込んで行った。


二六


 頭のうしろに、懐かしいような、いつまでもそうしていたいような、柔らかな温もりと揺れを感じ、慧人は徐々にその心地よさから自分を遠ざけ、意識を回復して行った。眼こそ開けていなかったものの、そこがどこか薄暗い、狭い場所のような気がした。

『どうやら、意識を取り戻されたようですね』

 女の声──いや、心話が言った。そのイントネーションには独特のものがあり、どこか聞き覚えがあった。優しく甘い、気づかうような問いかけ。ひょっとして、幼いころに聞いたものだったかも知れない。

『この声は……』

 慧人は口を開かず、心話を発している本人の心へ問いかけた。

『サレムです。お気づきになりましたか』

『ああ。だが、俺は眼を開けるのが怖い。それどころか、身体を動かすことさえ恐ろしい気がする……』

『恐れることはありません。わたしは、あなたのお母さまから、この心話を教わりました。あなたはわたしたちと一緒に逃げる途中、激しい運動と出血多量で気を失ってしまわれたのです。でも、もう大丈夫です。血止めの処置を施しておきました。そしてわたしたちが、こんなときのために用いる携帯薬も投与しておきました。この薬品は、太陽光のない地中生活に適応するために、あなたのお母さまが特別に開発された即効性の強壮剤です』

 実際に音声でしゃべるのと違って、心話では文法的な誤りも不自然な修飾語のかけ方もなかった。すべてが滑らかに心のなかに入って行った。

『俺は、まともな恰好をしているか』

『というと──どういうことをおっしゃりたいのでしょう』

『つ、つまり、俺の右腕はくっつくべきところに、ちゃんとくっついているのか』

『大丈夫です。わたしはあなたの無二のカマラード(戦友)です。嘘はいいません。安心して眼をお開けになってください』

 慧人は眼を開ける前に、恐る恐る左手を伸ばして右腕に触れてみた。

 あった。俺の腕はまだ離れずについている。かれは徐々に薄目を開け、暗闇に眼を慣らすようにじっくりと時間をかけて眼蓋を開いた。柔らかい腕が自分の身体を支えていた。サレムがそっと自分の身体からかれを離し、その顔を見降ろした。慧人から見るサレムのそれは、まるで東洋の有名な仏教寺院にある、女の像を彷彿とさせる貌をしていた。

「ここはどこだ」

 慧人は口を開いて言った。「それに、アンヌは──アンヌはどうした。彼女はどこにいる。さっきまでわたしたちと一緒にいたはずだ」

『あなたは、長い間、気を失っていました。そして、いろんな夢を見てうなされていました。でも、わたしには、他人の見ている夢までも見ることはできません』

 サレムは、落ち着いた優しい声で言った。あたかもかれの心を落ち着かせ、なだめようとでもするかのように。

「いったい、どれくらい気を失っていたんだ」

『およそ三時間ほどが経ちます』

「三時間も──。では、あの要塞はどうなったのだ。俺たちは、無事逃げられたのか」

『いいえ。わたしたちは、まだ逃げ切れてはいません』

「言ってくれ。ここはどこなのだ。そして、彼女は──アンヌはどこにいる」

『ここは通気口です。そして、あの人は……』

「どうなったのだ」

『ネフドスの兵たちと撃ち合いになったとき、はぐれてしまいました。わたしには、出血のせいで気を失いかけたあなたを背負って、ここまで逃げるのが精一杯だったのです』

「ネフドスが──あのネフドスが、息を吹き返しちまったのか」

『はっきりとは判りませんが、兵たちの様子からするとそうとしか考えられません』

 サレムは、覆いきれないほどの深い悲しみを心話にも滲ませて言った。『あの人、アンヌは囮となって、わたしたち二人を逃がしてくれたのです。その後は分かりません。それから三時間が経ちます。あなたは疲労困憊しており、休養が必要だったのです』

「そうか。アンヌが……」

 かれは絶句したまま、後の句が継げなかった。

 それも、あの大尉から救ってやった恩返しというわけか──。

慧人は、想像をはるかに絶するであろうネフドスの狂暴さを想った。あいつなら、どんな残忍なことでも平気でやりおおせることだろう。ましてステム・デストラクターのせいでおかしくなった頭には、どんな残忍なことも蟻を踏み潰すほどにも感じないに違いない。

「もし考えられるとすれば、やつはいまどこにいる……」

 サレムが、それに答えてなにかを言おうとしたとき、スピーカーから流れる男の甲高い声が響き渡った。それは、忘れもしないネフドスのそれだった。

〈──いま潜伏中の逃亡兵たちに告ぐ。おまえたちは、完全に包囲されている。そこからどこに逃げようと、この要塞からは逃げられやしない。諦めて出て来い。おまえたちの仲間のひとりは、すでにわれわれに捕えられている……。

 この女の生命を助けたければ、いまから五分以内に投降しろ。五分してその気配がなければ、この女の生命はない。血に飢えた男どもの相手をさせた後、ずたずたに引き裂いて、豚の餌にでもしてやる。

 繰り返す──。おまえたちの仲間は、すでにわれわれに捕えられている。この女の生命を助けたければ、いまから五分以内に投降しろ。五分経って、なんらかの合図がなければ、この女の生命はないと思え──〉

「あの人、アンヌは生きていたですね」

 サレムが慧人の顔を見、心話でない、弾んだ音声で言った。

「どうも、そのようだな。悪運の強いやつだ」

 慧人は、嬉しさを悪態にまぶして言った。

『なにか合図を送って、投降する振りをしてやりましょう。その合図で、あの人にわたしたちが無事でいることを知らせるのです。そうすれば、少しの間でも時間を稼ぐことができるでしょう』

 サレムは素早く考えを巡らせ、心話に戻って言った。

「駄目だ。やつは、いま当てずっぽうであれを言っている。やつには、われわれがいまどこに潜んでいるかが判っちゃいない。あまりに見つからないので、彼女を囮にしたと思わせての陽動作戦に出たに違いないのだ。結局のところ、アンヌはあれからうまく逃げおおせて、やつらの手には落ちていないとも考えられる。騙されるな──」

『でも、その逆のことも……』

「そのことは考えるな。いまは、どうやってやつらを出し抜くかだけに神経を集中するんだ。アンヌは死なないし、殺されもしない。彼女は、あんなやつに捕まってしまうほど善良な人間に育てられちゃいない」

 慧人は、自分自身でもアンヌが殺されている可能性を否定できないで言った。

 悪質な誘拐犯などによくある手だが、すでに人質を殺しておいてから、身代金を要求する場合もあるのだ。だが、慧人の希望的観測としては、アンヌには生きていて欲しかった。あんなやつの手にかかって死ぬくらいなら、ひと思いに豚の餌食にされたほうがよかったと彼女はいうことだろう。

 かれは一計を案じた。それは、サレムが言うのにも似ていたが、少し違っていたのは、慧人にしか解らない暗号でアンヌの無事を確認することだった。その暗号は、この作戦に出る前、クーガーを含めた三人の間でだけ取り決めていた、極めてクローズドな信号方式によるもので、ヘミノージアン語に精通した暗号解読のエキスパートでもない限り、それがなにを意味するかは即座には理解できない類いのものだった。

「俺はいまから、このパイプを叩いて音を出す──」

 慧人は、辺りに人の気配を探るように、注意深く周囲の壁を見回していたサレムに言った。「少し原始的だが、アンヌが生きていて、敵に捕まってさえいなければ、彼女は必ずこの暗号音に応えてくれるはずだ」

『なにも応答がなかったら……』

「なにも応答がなかったら──そのときは、捕まっているか死んでしまったかのどちらかだと考えて、打って出るしかない」

 慧人は、ゆっくりとした間隔をおいて、パイプを叩き始めた。緩急をつけた五つめを打ち終えたとき、かれはその手をすっと止めた。サレムには、それが不規則なリズム、というより単なる非音楽的な音のつながりにしか思えなかった。

 息をつめ耳を澄ますような、二十秒ほどの沈黙と間隙をおいて、かれは、強・強・弱、弱・弱・強・弱と七つの風変わりなリズムを長短の間隔をおいてパイプの上に刻んだ。聞きようによっては、人間がことばを発しているような、質問を発しているような、ひと続きの音だった。

 かれがふたたび息をつめ、耳を澄ますような沈黙と間隙とを置いた。そしてふたたび同じ動作を繰り返そうとしたとき、パイプを伝わる音がかすかに届いた。それは極めて遠くからのものだったが、慧人にははっきりとした言語となって聞こえた。

『ソ・チ・ラ・ハ、ダ・イ・ジ・ョ・ウ・ブ・カ』

「いまのは、なんなのですか。音が聴こえました」

 サレムが心配そうに音声で訊ねた。

「彼女は──」

 慧人が安堵の溜め息をひとつ吐き、サレムを見返して答えた。「アンヌは無事だった。やはり敵には捕まっていなかった。それどころか、こちらの安否を訊ねている──」

「よかったですね」

「ああ」

 慧人は返礼としての短い信号を送り、相手の『了解』の意味の音を確認しながら言った。「これでもう、われわれは安心して行動できるってわけだ」

『ネフドスたちは、いまの音を聞きつけているでしょう。そしてたぶん、音のしたふたつの方向に向かって兵士たちを差し向けています』

「そうだろうな──」

 慧人は、仲間が無事だったことへの感慨に耽る暇を与えず、早々とつぎの行動を促すサレムに持前の負けず嫌いな一面を見せて言った。「だが、まだ捕まるわけにはいかないさ。こっちには、まだまだやらなくちゃならんことがある」

『というと──』

「俺たちは、捕虜になりたくてここへやって来たんじゃない。そのことをやつらに思い知らせてやるのさ」

 これまで、父や母が生きていたことなど、目まぐるしいほどのできことがあった。

そのお陰で、あまりにも個人的な感情になり過ぎていた自分──。その身勝手を反省して、慧人は思った。少なくともいま、別のところで息を潜めているアンヌも、自分のように考えているか、もしくはすでに行動を起こしているに違いないのだ……。

 そもそも俺たちがここにやって来た目的だ。それは敵の心臓部である、この広大な用地をもつ要塞に決定的な打撃を与えてやることであった。そしてそれを契機として、和平への政治的解決法を北半球政府に与えてやることであったはずだ。

 猛烈に浸透しはじめているメディスクレニアニズム──。その黒い脅威から、百十億ものひとびとの幸福な生活を保証する。それが、北半球政府の約束したことであった。どちらの主義が正しいか、それは後の歴史家たちが、知たり顔に決めることだ。俺がやらなくとも誰かがやる。俺個人が歴史を変えられるわけではない。だが、これは大きな流れのなかの必然的な一滴であり、いつかは訪れる一瞬なのだ。

 たとえ母親であろうと、父であろうと、敵は敵なのだ。まず俺に与えられた使命は、彼女を倒すことなのだ。そうして初めて当初の目的は達成される。慧人は、心に比重を置かず、努めて頭に比重をかけながら思った。

 その決意は、しかし、父を殺したときほどに確固たるものではなかった。あのときはまだ、それを許してもいいという本人の意志が介在していた。が、今度の殺害は、そうではない。彼女は死を望んではいない。一度捨てた生命を失いたいとは思っていないのだ。

 第二の死は、彼女にとって本当の死だ。メディスクレニアンの、人類の希望の死だ。これを知れば、サレムはきっと反対するだろう。いや、それを知った瞬間、彼女は俺を撃つかも知れない……。

 慧人の心は、まるで強い風に煽られる風鈴の錘のように、理性と感情の間を激しく行きつ戻りつした。こうなったら仕方がない。サレムには悪いが、事実で納得してもらうしかない。慧人は思った。彼女にとって、あの老婆は母親的存在であるかも知れないが、この俺にとっても同じ血を分けた肉親のひとりなのだ。その苦しみは、同じ血を分けた兄妹なら解ってくれるだろう……。

 慧人がそこまで思いを進めたとき、音声によるのではない、心話独特の脳髄を伝わって来ることばが聴こえた……。

『いいえ。それはだめです。あなたのお母さんは、この地球に残って生きようとするひとびと、いいえ、人類そのものにとってなくてはならないひとです』

 サレムの声だった。慧人は驚いて振り向き、アンヌに向かってするように普通のことばで訊ねた。

「きみは、心話だけじゃなく、心語まで読み取ることができるのか」

『はい。思索するのひとの思いが強ければ強いほど、そしてその思索が明晰であればあるほど、そのデジタル化されたパルス音が音声を伴ったことばに変換されて、わたしの言語中枢に伝わってくるのです……』

『しかし、それは、一体またどうしてだ』

 サレムの心話につられて、彼もまた心話で話していた。『この俺だってまだ、きみの心語までは読めはしないのに……』

 サレムは、心話から心語モードに意識を変換して言った。

『あのネフドスが言ったように、わたしはフィクサロイドなのです』

『!』

『ですが、わたしの脳には、イシュタルの軍事行動プログラムなどではなく、あなたのお母さんが作ったバイオ機能素子が埋め込まれています。タンパク質を使った機能素子だそうです。難しいことはわかりませんが、これはあなたのお父さんの脳を生かし続けていたそれよりも、何十倍も優れた機能特性が発揮できるように改造されたものだそうです』

 彼女は、やや茶色がかったその眼で慧人の眼を真剣に凝視めながら続けた。

『あなたのお母さんは天才的な頭脳の持主です。そして、わたしたち地球に残って生きようとする人類の救い主です。ヘミノージアンたちは、地球を皮相的にしか、いえ、人間を大気圏に囲まれた地表的存在としてしか捉えず、地中や海中へ潜ることを恐れています。 そして、いまや人口が百五〇億以上にも爆発し続けているにも拘わらず、昔からの悪癖である独占欲を棚上げにして、各人が少しでも広い地表空間を占有したがるお陰で、地球がそれに応えられなくなったのだとさえいっています。

 いまかれらの眼は、《無限の宇宙》とやらに向けられています。つまり地球を、生まれ故郷を、捨て去る気でいるのです。それも自分たちが作り出した二酸化炭素による地球の温暖化が原因で陸地が狭くなったという、たったそれだけの理由で──。

 でも、わたしはこの地球が好きです。わたしたちはこの地球で生まれました。この地球で死にたいのです。この地球のあたたかな土のなかに、わたしたちは、わたしたちの亡きがらを葬ってやりたいのです。

 あんなに優れたひとを失えば、地球はきっと滅びるでしょう。ひとびとはますます地上でいがみ合い、殺し合うにちがいないのです。むしろ、わたしたちは手をつなぎ、彼女のいうことに耳を傾け、その理想を実現するべきなのです……』

 サレムのことばは、このように文字表記すれば長く感じられるが、時間にすればほんの数秒ほどでしか経っていないのだった。これは、心語で語りかける能力をもつ者にしかできない芸当だった。慧人は、かつて『直観』と名づけられていたそれが、科学的に処理されたときの実態を見た気がした。

『で、俺にどうしろというんだ……』

 慧人は意識を脳髄から外し、直観的に反応して問うていた。

『彼女の生命を救けてあげてほしいのです』

『というと、このまま引き下がれと──』

『いいえ、わたしは決心しました。わたしはあなたのカマラードです。あなたと一緒にあのひとを救けます』

『そして、どうするんだ』

『あのひとをあなたの基地に連れて行きます』

『それで──』

『あなたがたの国々にヘミノージアン全体が入れるほど大きなメガロバイオシェルター(巨大地中生活空間)を建設するのです。あなたがたの国には、それを可能にする経済力があります……』

 慧人は、応えようがないというように頭をふった。

 確かに、あのM第3惑星などに移住する超巨大な宇宙船やら旅客航宙艇やらを建造するよりはずっと安くつくだろう。あの膨大で、気の遠くなるほどの金額や年月を必要とする事業から較べたら、彼女のいうメガロバイオシェルターなど、ものの数ではないのかも知れない……。

『あなたのお父さんはおっしゃっておられました。人類の果せなかった夢の第一歩が、いま彼女の手によって拓かれようとしていると──。あなたは、その偉大なひとをこの世から消そうとしているのです……』

 こういう迫られ方は、あまり気分のいいものではない。頭脳に閃きがなく、思うように働いてくれない。心理的には、重苦しくてやるせないものを感じた。が、どう応えていいものか──かれには、俄かに結論が出せないでいた。

 あれこれと考えを巡らしているうち、ようやく視点が定まって来て、慧人は通常の音声会話で訊ねた。それは熟考の末の結論というより、期待され、要望されていることに対する論点はずしといっていいものだった。

「きみはどうする。そんなことをすれば、きみは仲間ばかりか、国そのものを裏切ってしまうことになる……」

「判っています。でも、もうすでにこの決断を下しました。その時点で、わたしはもう国を裏切った兵士のひとりとなったのです」

 サレムは辛抱強く、慧人の流儀に合わせて、通常の音声による会話で答えた。その声は心話とは違い、抑揚に満ち、官能に響いて来るようなやわらかさがあった。

「でも、わたしは自分の母である、あのひとまで裏切りません」

 サレムは、黙って自分を見守っている慧人に向かって、ますます真剣な眼差しを向けて言った。「それはあなたに対しても同じです。わたしを、そして、あのひとをあなたの国に連れて行ってやりましょう」

 少女の決意、いや、母を思うむすめの熱意がひしひしと慧人の情愛の繊維に伝わり、なんともいえない、甘酸っぱい想いがかれの心を満たした。何度も何度も夢にみた瞬間、そして、何度も何度も失望を味わった長い年月……。威厳をこめて、庇護者の顔をして、頭を撫でてやる──年下の肉親の存在。その瞬間こそが、いまここで起きているできごとではないのか。

 生まれて初めて知った年下の肉親の存在を前に、かれは三十数年前になければならなかったはずの思いを、いま味わわせてくれる歴史の皮肉を想った。ちっぽけな、だが、自分にとっては、一生癒えることのない疵と深い影響を与えるはずの歴史のはずみを……。

「よし、わかった。約束しよう」

 慧人は、真剣だが、抑制されたサレムの表情を見て言った。「彼女を、そしてきみを俺たちの国に連れて帰ると──」

 そこには、いつもの負け惜しみ的な諧謔味など微塵もなく、ごく自然な慧人の心情があふれていた。ほっとした表情が彼女の顔に現れ、彼女は音声を使わずに言った。

『それで、わたしはあなたの妹なのですね、カマラード』

『ああ、そうだとも。きみはまぎれもない、俺の妹だ』

 慧人は、両腕を伸ばして、その胸に顔を埋めて来たサレムを抱き締めて言った。

『ああ、嬉しい。わたしに兄がいると聞かされたときから、この瞬間をずっと待ち続けて来たのです』

「もっとも、年はいくぶん離れてはいるがな」

 慧人はサレムの背中を叩いて身体を離し、いつもの音声会話に戻って言った。「さあ、お涙頂戴シーンは終わりだ。俺たちの母さんを助けに行こう」


二七


 男は、数十メートル先に黒い影を認めた。

 ふたつの影は、腰を屈めながら慎重に歩を選んでいた。ひとつは、男も見知っているサレムという女兵士の後ろ姿だった。もうひとり、肩を押さえて歩いている男が、さきほどアナウンスのあった敵軍の兵士に違いなかった。

 男の意識には、イシュタルから来た、あのネフドスの言っていたことばが反芻されていた──。逃亡兵と捕虜を生け捕りにした者には、一階級を格上げし、俸給はいままでの二倍にすることを約束する……。

 いまこそ、その念願を果すときだ。これで少しは、女房や子どもにもいい思いをさせてやることができる。男は、作戦を練る必要を考えた。ステム・デストラクターを最低のレベルでやれば、生け捕りにすることはできる。だが、そのどちらを先にやるかが問題だ。男がやられたのに気づけば、女は即座に撃ち返して来るだろう。

 護衛兵としての彼女の腕前は、基地内でも有数のものだった。もし撃ち合いにでもなったら、こちらに勝ち目はない。どうせ女のほうは、あのフォアラインのもと女房とかいう東洋から来た科学者が、機械に孕ませて造った消耗品一号に過ぎない。

たとえデストラクターの当たり所が悪く、キャベツ(廃人)になったとしても、生きてさえいれば処罰されることもあるまい。

 男は十数メートル先に迫ったふたつの影を追いながら、ゆっくりと左の女の背中に狙いを定めた。と、つぎの瞬間、男は後頭部に熱い衝撃を感じ、短い悲鳴を上げてその場に倒れ込んだ。

 薄れゆく意識のなかで、男は倒れながらデストラクターを放ったが、それは空しく壁を撃ったに過ぎなかった。無機質の壁には、その機能を狂わせられるシナプスはない。が、男は、夢の中で確実に女が倒れたのを見て笑っていた。

 物音に素早く振り返ったサレムが、倒れた男の後方に立っている影に向かってレーザーキャノンを構えた。

「待て。撃つんじゃないっ」

 慧人が、彼女を制して叫んだ。その影の動きに、ある直感が働いたからだった。

「そこにいるのは、ひょっとして、クーガー、おまえじゃないのか」

 無言で灯火の下に顔を出したその影の主は、ほかならぬクーガーだった。

「無事だったんだな、クーガー」

 慧人は自分も歩を進めて、ぬっと差し出されたクーガーの堅い手を握った。

「よかった。迂闊にも俺は、おまえが爆雷にやられて死んだものと思っていた。だが、不死身のおまえが死ぬわけはないよな」

「俺は、任務を完璧にやり終えるまでは死なない」

 クーガーは、慧人の手をその何倍もの力で握り返し、例の懐かしい、唇の片方だけを吊り上げる憎たらしげな笑みを見せて言った。

「そうか。そうだよな、中途半端なことで死ぬおまえじゃないよな」

「その頬の、ご大層な傷はどうした」

「ああ、ネフドスって下司野郎に削られた」

「うむ。その様子からすると、相当痛めつけられたようだな。肩の骨が折れているようだ」

「ああ、重い鉄の扉で肩の骨を折られるは、サイキアナライザーにかけられるは、散々な眼に遭った。まるで廃棄物一歩手前のボロクズ状態さ」

 クーガーは、傍らの女兵士に顎をしゃくって訊いた。

「それで、この女は──」

「ああ、紹介しよう。サレムという。俺たちの味方だ」

「見たところ、ザンボア軍兵士のようだが……」

「ああ、その点は大丈夫だ。彼女は、俺の生命を二度も救ってくれた……」

「そうか。おまえがいうのだから本物だろう。で、アンヌはどこにいる」

 慧人は、その質問に一瞬、はっとなった。

「じゃ、さきほどの、あの信号は──」

「あの信号を送ったのは俺だ。ディテクターを使ってここまで来た。そしたら、あの兵士がおまえたちを後ろから狙っていた……」

「そうだったのか──礼を言うのが遅れてすまん。恩に着るよ、クーガー」

「どうやら、よほど死神に見放された存在のようだな、先生」

「ああ、死神のほうで俺を避けて通ってるみたいだ」

 慧人は改めてクーガーを見て言った。「それはともかく──」

 慧人は真顔に戻って、死んだと思っていた父母が生きていたこと、その母にサレムという子どものいたこと、アンヌが再び捕まっているらしく思われること、そして、その母を連れ帰ろうと決意したことなど、これまでの経緯を交えてクーガーに手短に伝えた。クーガーは黙ってそれを聞き、一切を飲み込んだ様子だった。

「──ということは、まず俺たちがやるべきは、アンヌを探し出さなければならないということだな」

 クーガーは訊ねるともなく、呟くように言った。「まだ生きているとして考えられるのは、彼女はいまのところ、身体の動きを封じられているということだ。でなけりゃ、さきほどの暗号信号に応えられていたはずだからな」

「ああ、確かに。縛られてさえいなければ、アンヌのことだ、きっと敵のコンピュータを奪ってでも信号を送って来ることだろう」

「身体の動きを封じられているとすれば、どんなことが考えられる」

「わたしに、ある心当たりあります」

 サレムが、なにかに思いあたったのか、緊迫した表情で言った。「きっと、ヤワルジャ大佐の執務室に大佐と一緒に閉じ込められているです。あのネフドスという男、イシュタルから来たといっていますが、そのイシュタルの将軍は、ヤワルジャ大佐のやり方を快く思っていない最右翼のひとりです。このどさくさを利用して、大佐を亡き者にせよとの命令を受けている思います」

「そうか、どおりでタイミングよく出くわしたと思ったぜ」

 慧人が水面へ顔を出したときの、あの絶妙なタイミングと背筋に走った冷たさを憶い出して唸った。「やつは、端っから親父とお袋を殺す気でここへ潜り込んだんだ」

「解釈ごっこはそれくらいにして、急ごう」

 クーガーがステム・デストラクターの筒先をかざし、首を振って言った。「敵の仲間うちがどうなっていようと、俺たちの知ったこっちゃない。それよりアンヌやおまえさんのお袋を助けるのが先決だ」

「よし、急ごう。サレム、そこへ案内してくれ」

「はい。こちらです」

 サレムは真っ先に立って、二人がちゃんと従いて来ているかどうかを確かめるように何度も何度も後ろを振り返り、屈めた長身を一度も伸ばさずに小走りで走った。

 走らされるのは、これで何度めのことだろう──。吐く息が喘ぎ、両足の筋肉がまるで自分のものではないかのように痙攣し、走るのをやめたがっているのがわかる。

 だが、今度はクーガーも一緒に駆けてくれているせいで、彼は、どこかしら心強いものを感じながら走っていた。上官として、ある意味では情けないことであったが、クーガーなら、きっとこの場を巧く切り抜け、自分たちを救い出してくれるに違いないと……。

「伏せろっ」

 慧人の半ばもうろうとした意識のなかへ、クーガーの鋭い声が飛び込んで来た。

 クーガーは慧人を脇へ突き飛ばすと、床へ転がった。そして、転がると同時に数十メートル先の影に向かってステム・デストラクターを放った。眼を凝らすと、一人が倒れていて、残った二人がレーザーキャノンを眼の高さのところまで持ち上げようとしていた。つぎの瞬間、ふたつの影がまったく同時に後ろへのけ反った。悲鳴も漏れなかった。いっぽうへ眼を転じると、中腰になったサレムが構えていたステム・デストラクターを腰のホルスターに戻すところだった。

「相棒、このお嬢さん、なかなかやるじゃないか」

 クーガーは寝転んだままの姿勢で、場所が場所なら口笛でも吹くような口吻で言った。

「確かに。彼女はどうやら、俺たちにとっては救いの神のようだな」

 慧人は半ば身体を起こし、抜けたようになった腰を床につけたままで言った。

「ああ、そのとおりだ」

 クーガーは、いつにない明るい声で言った。「これで、おまえさんさえしっかりしてくれりゃ申し分ないんだがな」

「ああ、分かったよ。どうせ、俺はごらんのとおり、役立たずの老いぼれさ」

「まあ、そう卑下することもあるまい。ご老体にしちゃ、なかなか立派にこなしてるさ」「そうだといいがな──」

「いずれにせよ、これであんたは、三度も彼女に救われたってわけだ」

 慧人が立ち上がるのに合わせて、クーガーが手を貸してやりながら言った。

「ま、そういうことになるな」

「大事にしてやれよ、あんたの唯一の妹だ」

 クーガーが慧人の、痛くないほうの肩を押しやって言った。慧人がふいを衝かれてよろめいた。まだ足元が安定していないらしい。

「ああ、感謝してるさ」

 慧人は傍らのサレムを見やり、少年のようにはにかんだ笑みを浮かべて応えた。

「これからは、今まで出来なかった分も大事にするつもりさ。もっとも、ここを脱出できたらの話だがな……」

「なあに大丈夫、俺がついてる。心配するな」

 クーガーが言う。「なにせ、俺は老い先みじかいあんたと違って、十以上も若いからな。スタミナは充分だ」

「てやんでえ、誰だって年は取る。きさまもそのうち、俺と同じ穴のムジナだ。そんときに吠え面かくな」

 慧人がそう言ってさらに悪態をつこうとしたとき、クーガーは、すでに眼の前のサレムにつかつかと歩み寄っていた。クーガーは、慧人でさえも想像できないくらい人なつっこい表情を眼の前の少女に見せながら、手を差し伸べて言った。

「まだ正式な挨拶が済んでいなかったようだな、お嬢さん──」

 サレムは咄嗟にことばが出ず、大きく眼を見開いた。

「俺は、クーガー。ご覧のとおり身体もごつく顔もごついが、根は優しくできている。この先生ともどもよろしく頼むぜ」

「こちらこそ、カマラード・クーガー」

 サレムは気を取り直したように、かれの手を握って言った。「わたしは、あなたのお友達の仲間。さきほど戦友同士になりました……」

「うむ。よろしくな、カマラード・サレム」

 サレムは、そう言ってさらに力を込めて来たクーガーのごつい手から、おずおずと手を離して俯いた。彼女は最初、満面の笑みを浮かべて応じたのだったが、その笑顔も手を離すころになると、赤く染まり、はた目にもいじらしいくらいになっていた。

「おいおい、俺の大事な妹をあまり怖がらせるんじゃないぜ」

 そのやりとりをにこやかに見ていた慧人が、クーガーの無骨な剽軽さをからかって言った。むくつけき戦場の男どものなかにあって、行動に際しては男勝りで勇敢この上ないこの少女も、こと異性と意識した男と面と向かっては、都会娘のような免疫ができていないのだ。慧人は、サレムの意外な一面を知って、却って救われた気がした。

 いまのことがなかったら、いくらクーガーとはいえ、完全には気を許しはしなかったろう。どこか疎んじられているような、いつも監視されているような、厳しいクーガーの視線にさらされて行動する。それ自体はさして苦痛ではなかったが、あくまでもフィクサロイドとしての怜悧さだけで、自分たちを判断される。

それが、慧人にはぞっとしないのだった。

「ともかく、この調子じゃ、敵はいつどこで襲ってくるか判らない」

 クーガーが慧人の思惑をよそに、話題を現実問題に転じて言った。

「そうだな」

 慧人がほっとし、やや間延びした声で応じた。

「この廊下を曲がらずに真っすぐに行く。しばらくすると、大きなホールに出ます」

 サレムがいつもの真剣な表情に戻り、慧人を見上げて言った。「そこは全員を招集して号令をかけたり、偉いひとたちが集まって会議が開かれたりするところ。ひょっとすると、そこでわたしたち待ち伏せされている可能性あります。というのも、その先にあるのが、さきほど言ったヤワルジャ大佐の執務室だから──」

「そうか。じゃ、作戦を練る必要があるな」

 慧人が彼女の緊迫感をよそに、のんびりした口調で言った。

 沈黙、というより、目まぐるしいばかりの思考の波が三人の頭に訪れた。

「そうだな──」

 まるで、髭の伸び具合を確かめでもするかのように、顎の下を撫でていた慧人が再び口を開いた。「ここいらで、ちょいと変わったことをしてやろう。迷路みたいな、こんな廊下を子ネズミのように走り続けるばかりじゃ、少々マンネリって感じだからな」

「どうするんだ。なにかいいアイデアでも思いついたのか」

「ああ──」

 慧人は自信ありげに頷いて言った。「俺にいい考えがある。二人とも耳を貸してくれ」

二人は、慧人の顔の数センチの距離にそれぞれの顔を近づけ、ほとんど聴き取れないほど小さなかれのことばを聞いた。

 ついで、二人が互いの顔を見合わせて頷くのを見て、慧人は手を差し延べて言った。

「力を合わせてやろう」

 二人が同じく、息のみを用いた音声でそれに和した。かつては、何度もアンヌを交えて言い交わしたことばだった。

 これからの行動はすべて無言で行われ、命令の伝達や指令はすべて身振りか表情で示されることになる。そのわけは、あの不自然なパイプ音だ。頭のいい暗号分析技官なら、いまごろコンピュータにかけて、その意味を解読してしまっているかも知れない。

 だから、せっかく苦心して編み出した音声によらない暗号信号も、これ以上使うわけにはいかないと判断した上での作戦だった。慧人はだまって、二人に顎をしゃくった。

 数十分後、音もなく戻って来たふたりは、慧人にオーケーサインを出した。

 これで敵の陣地内にあるという不利な条件を除いては、敵・味方の条件がほぼ一致したのだ。少なくとも、ネフドスの頼みとするエリントセンサーの一部または機能のほとんどすべてが混乱するはずだった。

 コンピュータ内蔵の精密機械というのは、それが人為的な妨害に遭わない限り有能だが、電磁波や破壊のためのプログラムなど異質なものが入って来たりすると、たちまちそれに感染して、ただの粗大ゴミと化す傾向をもっている。いまから、そして、これからが純粋に知恵対知恵の、真に原始的で人間的な闘いが始まるのだ。


「駄目です、軍曹。センサーが突然、混乱し始めました」

 エリントセンサーを操作していた男のオペレータがネフドスに叫んだ。「これでは、かれらの動きをチェイスすることができません」

「畜生ぉ。どこかの接続を変えやがったんだ。よく調べてみろ。やつらがさっきまでいた周辺の、どこかに回路基盤があるはずだ。そいつをシラミ潰しに探せ」

「ああ、軍曹、大変です。別のチェイスモニターも回路が遮断されてしまいました」

「くそっ。甘く見過ぎた。このままでは、ほとんどの機能がやられちまう。急げ、予備の回路基盤を使って、やつらの居所を捜し出すんだ」

「だめです。予備の回路基盤も破壊されています。これで、すべてのセンサーに混乱が生じてしまいました」

「アブサラームっ。さっきの暗号は、どうした。まだ解読できんのか」

 ネフドスは、火のように真っ赤になって、背のひょろ長い男の肩越しに怒鳴った。

「まだです。ひょっとすると、これは北亜語族の軍事暗号ではないのかも知れません」

 アブサラムと呼ばれた男は、首だけをネフドスにねじ向けて言った。

「おまえの意見を訊いているんじゃない。コンピュータの結論を訊いているんだ」

「は、はい、解っています。ですが、どうもこれは北亜語系列のものでもないようです」「早くしろ。極東の片田舎のことばでもなんでもいい」

「はい。いま、その線で当たっているところです」

 そのとき、激しくドアが開いて、技官の恰好をした男が飛び込んで来て言った。

「大変です。給気装置が変調を来し始めています。コントロール・ルームのオペレータが脳をやられて眠っているのを発見しました。それにともなって加温機にも故障が生じてしまった模様です。もう制御がきかないところまで行っています」

「で、なにか荒らされているのか」

 技官とは対照的に、ネフドスは落ち着き払った声でかれを睨めつけて言った。

「いいえ、なにも──。し、しかし、空気清浄室のドアが開けっ放しになっていました。ひよっとすると、かれらはいまごろ通気口を使って移動しているのかも知れません……」

 技官のことばには嘘があった。

 というより、自分に不利なことを省略して報告するという防衛本能があった。というのも、実はかれは、戦場ではあるまじきことだが、兵士のひとりと熱烈な恋に落ちていた。その彼女とのつかの間の情事にうつつを抜かしていて、交代時間が三〇分以上も遅れたことを故意に報告しなかったのだった。

 だが、直属の上官でもなかったネフドスはそのことを見抜けず、却って納得がいったように技官のことばを頷きながら聞いた。技官は、三〇分前に交代していれば、まだなんとかなった自分の責任が追及されずに済んだのを内心喜んだ。

「なるほど、そうか、それで廊下のチェイスモニターには出なかったのか。ようし、作戦変更だ。全員、通気口の出口に向かえ」

「敵兵を捜索中の全兵士に告ぐ──」

 ネフドスの傍らにいた女兵士が、即座に手元のレシーバーに向かって言った。「敵は、通気口を利用して逃げていることが判った。各自最寄りの通気口出口に向かえ」

「そして、こちらの命令があるまで、そこで待機するように言え。いいな、もし命令前にやつらが現れても勝手な手出しをしないようにしろ」ネフドスが付け加えた。

「お言葉ですが、軍曹。このままでは、この要塞は爆発してしまいます」

 ネフドスのやり取りを見ていた技官が焦りを隠せず、額の汗を拭いながら言った。

「あんな敵兵の一人や二人、捕えたところでどうなるものでもありません。どうか、すぐに全員に退避命令を出してください。いまなら、まだ間に合います」

「うるさい。判断を下すのは俺だ」

 技官の予想に反して、ネフドスはさきほどよりさらに技官を睨めつけ、怒気を帯びた声で言った。「いいか、俺はきさまが誰かは知らん。だが、メドレーエフ大尉亡き後となっては、今後の作戦指令は──すべて、この俺が出す。ようく覚えておけ」

「お願いです、軍曹。いままで、あの通気口に入って助かった者はいません。放っておけば、かれらは勝手に死んでしまいます。それより、われわれの──」

 技官が後を続けようとして、息を吸ったとき、ネフドスのもっていたステム・デストラクターの引金がカチリと引かれた。技官の黒眼が天井に向けられたかと思うと、さらにその頭の裏側を覗こうとでもするかのように消えてなくなっていた。

「こいつをどこかにぶち込んでおけ」

 ネフドスは、まるで気を失った軟体動物みたいに、だらしなく床に転がった技官の尻を思いきり蹴飛ばして言った。

「この臆病者の役立たずめが──。俺は、出会った最初から、あのケイトとかいうヘミノージアン野郎の、人を虚仮にした態度と口の利き方が気に入らなかった。とくに俺たちと同じような、あの髪の色と眼の色をしているのが気に入らん。こうなったら、誰がなんと言おうと構うもんか。この俺の手で完全にやつの息の根を止めてやる」

「軍曹、暗号の意味が解りました」

 暗号解読に神経を集中していたアブサラムが、かれの数メートル後ろを歩き回っているネフドスを振り返って言った。「やはり軍曹殿のおっしゃっていたように東洋語の一種で、アナグラムを巧みに利用したものでした」

「莫迦もんっ。そんなものが、いまさらなんの役に立つというんだ」

 ネフドスの苛立ちが頂点に達し、叱声がアブサラムの頭上に飛んだ。「そんなことより、この部屋の熱さをなんとかしろ」

「え」

 アブサラムは不安そうに辺りをきょろきょろと見回し、怪訝そうな視線をネフドスに戻して言った。「いまなんとおっしゃったので……」

「その返答は──」

 ネフドスはことさら声を低くして、その形相に凄みを利かせて続けた。「つまり、いままでのできごとをなにも見聞きしていなかった──ということだな。おまえの頭というやつは、一体どういう構造になっているんだ。この熱さが判らんのか。この熱さは、加温機が必要以上の温風をこの部屋に送り込んでいるためだ。それをなんとかしろといっているんだ」

「そ、そう言われれば、確かにいつもより熱いような……」

 技官は、急に噴き出して来た額の汗を袖で拭って言った。「し、しかし、わたしは、その方面ではまったくの門外漢でして、そのう──」

「そんなことは百も承知だ、莫迦者」

 ネフドスはつかつかとアブサラムに歩み寄り、その胸ぐらをつかんだかと思うと、それを技官の顎も砕けよとばかりに上へ突き上げて言った。

「この、ウスノロの役立たずめが。いいか、わけが知りたいのなら、教えてやる。あのうすのろオペレータが、余計な口出しをしたお陰でキャベツになったのを見ただろう。ここには、ほかにコンピュータをいじれる者がいない。だから、おまえがやるんだ。加温機の調整がおまえのなけなしの技術で無理なのなら、皆で行って水をぶっかけてでも冷やして来い。解ったか。解ったら、さあ、行け。行くんだ」

 ネフドスの声は、もはや絶叫に近いほどだった。技官は命あらばこそとばかり、悲鳴を上げながらすっ飛んで行った。


二八


 アブダルはほうぼうを探し、ようやく行き着いた先で、かつて自軍の兵士だった、裏切り者のサレムを含む敵兵の姿を発見して息を呑んだ。サレムは、ルメラやラク・ルーと同じように、いわゆる可能性としてのわが子であるという認識があったからだった。

 最初、この話がヤワルジャ大佐からの通達ということで要請があったとき、かれは一も二もなく、愛する国のために喜んで自分の血を引く同士を殖やすことに同意した。

血族の一致と団結は、南亜諸国のシンボル的存在である旧都イェルサレムが十字軍によって何度も奪還を試みられる以前から、家族の紐帯のつぎに大切なものとされており、なによりもまず、国を護る戦いにおいて、最大限に威力を発揮する武器となると教えられていたからだった。

 が、ルメラやラク・ルーがひと思いに生命を断たれたのではなく、もっとも忌むべき性的な辱めを受け、あの熱砂地獄に素裸の状態で葬り去られたことに、かれは言いようのない憤りと救いのなさを感じていた。

 それは、肉親の情からの憤りというより、もっとなにか決定的な、メディスクレニアン全体の存在を穢されたような国辱的な侮辱を感じたのだった。

 アブダルは、ひょっとしてわが血を引く娘であるかも知れない女兵士の横に立つ、りゅうとした大男に目星をつけた。というのも、傍らにいる齢四十にも達しようとする、およそ兵士らしからぬ男が指揮官であるとは思いもしなかったからだった。

 三人の敵兵たちは、手に手にレーザーキャノンを持ち、広いホールの入り口を固めている兵士たちに気づかれないようにして、じわじわとネフドスの周りにいる兵士たちの輪ににじり寄っていた。イシュタルから来たネフドスは異様に殺気立ち、興奮しており、つぎつぎと矢継ぎ早に命令を下していた。

 だが、肝心の命令を伝える兵士たちは、はた目にもそれとわかるほどに脅え、ぴりぴりとし、明らかに狼狽していた。それに、かれの命令が一向に守られているとはいえなかった。というのも、ひとつには、彼女たちがサレムをネフドスのいうような裏切り者──悪しむべき逃亡兵だなどと思ってはおらず、相変わらず血を分けた同士のひとりとして、心情的に敵意を持てないでいたからであった。

同じ軍のもとで辛苦をともにして来たアブダルには、そのことがよく了解できていたが、イシュタルから来たネフドスにはそのことに思いが至らないようだった。

 ネフドスは完全に民族中心主義者であり、音に聞こえた排他的民族主義者であるイシュタル将軍の生えぬきの部下だった。イシュタル将軍の息のかかったルブアリ・マム=メドレーエフ大尉が亡くなってしまったいま、たとえ上層部のものであろうと、積極的にかれを支持する者はいないはずだった。

 いっぽうの派閥の領袖ともいうべきヤワルジャ大佐は、いわば理論的な側面で、みんなから崇められるシンボル的存在ではあったが、軍事的な発言権や指揮権を持たされた者ではなかった。少なくとも、いままではそうだった。

もっとも、彼女自身、自分がそうした派閥争いのいっぽうの極として捉えられることを厭がったし、そう呼ばれることを拒否した。確かに彼女は、軍事行動の指揮を取るにはあまりにも年を取り過ぎていたし、そうした任に向いた性格でもあり得なかった。

「気をつけろ。後ろから敵が狙っているぞ」

 アブダルは叫んで、いままさに物陰からネフドスを狙い撃とうとしているクーガーめがけてホールの中央に踊り出た。

 みんながいっせいにこちらを振り向いて、ついで自分たちの背後にいる三人の男女を見た。アブダルのレーザーキャノンがビームを発射し、クーガーのそれが火を放った。アブダルが倒れ、クーガーが床のスロープを転がった。

「クーガーっ」

 慧人が叫んだ。それを合図にしたかのように、いっせいに撃ち合いが始まった。

 耳をつんざくビームの発射音、それに続く悲鳴や怒号、器械かなにかが破壊され飛び散る音、パチパチと稲光がはぜるような音や立ち込める異臭、そして、煙……。

 いったいどこがどうなっているのか判らなかった。夢中になって応戦を繰り返しているうち、辺りは誰もいなくなったかのようにぴたりと静かになった。

 慧人は、這いつくばった姿勢から身を起こし、漂う煙の向こうに大勢の兵士たちがさまざまの恰好で倒れているのを見た。そしてそのなかに、クーガーが仰向けに倒れているのを認めた。

「クーガー、大丈夫か」

 慧人は走り寄って、かれを抱き起こしながら言った。その左肩は完全にやられており、抱え上げた慧人のズボンはみるみるうちに大量の鮮血に染まった。そして、その背中には痛痛しいほどの大穴が空いていて、そこからもどくどくと新しい血が噴き出していた。サレムがベルトに付いたポーチを探りながら小走りに近づいて来て、なにやら気付け薬のようなものを嗅がせた。

「おい。しっかりしろ。眼を覚ませ。ズハンガで会おうと誓ったのを忘れたのか」

 慧人はクーガーの頬を幾度も平手で打ち、さまざまのことばを浴びせながら言った。

 クーガーは徐々にうす目を開け、自分を見下ろすふたつの顔を交互に眺めた。そして、慧人に視線を戻して言った。

「俺は、まだ生きているみたいだな、相棒…」

「そうだ。おまえはまだ生きている。そして、俺たちと一緒にここを出るんだ」

 慧人は、また徐々に弱々しく眼を閉じて行きそうになるクーガーの、その傷ついた身体を荒々しく揺すぶって言った。

「いいか。おまえは、俺のカマラードだ。そして、基地へ帰れば英雄として迎えられる人間だ」

「だが、俺は英雄なんて柄じゃない」

 クーガーは力なく、唇の片方だけを吊り上げた例の含み笑いをして言った。「栄誉ある英雄の肩書は、勇敢な働きをしたおまえさんに譲ることにしよう……」

「駄目だ。俺より強いおまえが、俺より先に死んじゃいけない。おい、クーガー。眼を覚ませ。起きろ、まだ寝る時間じゃない。ちくしょう! 眼を開けろ」

 慧人はやみくもにクーガーの身体を揺すり、悪態の限りを尽くした。

 だが、その眼は二度と開かず、その顔も二度と笑わなかった。

「カマラード、脈拍が、完全に停止してしまいました……」

 クーガーの手を取っていたサレムが、ぽつりと言った。その眼には、うっすらとだが朱みが射し、顎には頬を伝った涙の滴が揺れていた。

「くそぉ、クーガーを殺ったやつはどこだ。どこへ隠れやがった」

 慧人は、手当り次第に俯せに倒れている兵士や、まだ呻きながら、床をはい回っている兵士の身体をひとつひとつひっくり返して叫んだ。

「こいつか、それともこいつか、それともおまえか」

「あ、あの男、アブダルです」

 サレムが這いつくばりながらドアへ向かおうとしている、ひとりの兵士を指さして言った。その兵士には、すでに肩から下の右腕がなく、左腕と撃たれていない右足の力だけで逃げようとしているのだった。

 サレムが叫ぶのを聞いたとき、血の川を泳ぐようにしていたその男の動きがぴたりと止まった。慧人はまともに、男の這いつくばった姿を見た。

 その姿は、実戦経験のないかれには、眼を覆いたくなるようなものだった。男は、乞うような眼でサレムを見た。そしてサレムがその頭を抱えてやると、男は弱々しく言った。

「サレム……。わたしは、おまえを裏切り者だとは思ってはいない。ただ、ルメラの敵を討ちたかっただけだ……」

「ルメラの──」

「そうだ。ルメラは、唯一確実にわたしの娘だった……」

 アブダルは、苦しい息遣いの下で言った。「ルメラは、ルメラだけは、本当にわたしとわたしの妻の卵子と精子が結合してできた子だ。ほかのどの男の精子でも、ほかのどの女の卵子でもない。わたしは、大尉に教えられるまでもなく、そのことは知っていた。

 いまよりずっと以前に、ヤワルジャ大佐、いや、博士の《ホームウーム》に忍び込み、インキュベイタリー・リストを調べたことがあったからだ。

 そこでは、偶然にも、実際の夫婦であるナンバーが組み合わせられていた……。わたしやわたしの妻が他人の子として育て、戦さに送り出した兵士にも拘わらず、それは純粋に自分たちだけの子だったのだ」

「それでは、ラク・ルーも──」

「ラク・ルーは、確かにわたしの妻の腹から生まれた」

「でも──」

「そう。おまえが想像するとおり、わたしの血だけを引いていた」

 アブダルはもう眼が見えなくなって来ているのか、しばしば眼を大きく見開いてことばを継いだ。「その愛するラク・ルーも、ルメラも、暴行を受けたあと、殺されてすでにこの世にない。しかし、これで、少なくともひとりの敵を討つことができた……」

「馬鹿な、ルメラは生きている」

慧人は、アブダルのことばを遮って言った。「わたしたちは、彼女を殺していないし、暴行をした覚えもない。彼女は、充分な化学治療と時間を惜しみさえしなければ、もとどおりになれるはずだ……」

 サレムがその先を言おうとする慧人に、人差し指を唇に当てる動作で制した。

「サレム。わたしには、もう思い残すことはない。かつての同朋であり、実際にわたしの娘であったかも知れないおまえの腕に抱かれて、こうして死んで行けるなら本望だ」

 アブダルは、血糊で張り付いたようになった腕を差し延べて言った。「さあ、躊躇らわずともよい。いますぐに殺してくれ」

 サレムはアブダルの手を取り、堅く握り締めた。そして、もういっぽうの手にもったステム・デストラクターをかれのこめかみに宛てがおうとしたとき、アブダルの手が力なくサレムの手に委ねられた。彼女は、無言のまま、ステム・デストラクターをホルスターに戻すと、アブダルの血糊で固まった細い手をその胸に乗せてやった。

 しばらくの黙祷を捧げたあと、サレムが立ち上がって言った。

「ルメラやラク・ルーを殺したのは、大尉たちです。大尉の命令で、彼女たちは殺されたのです。それに違いありません」

「俺たちへの敵愾心を煽るために、まだキャベツにもならないかれらを性的暴行を受け、惨殺された兵士ということにしてしまったわけか──」

「彼女たちは、わたしの幼友達でした」

「俺たちのせいで、きみには悲しい思いをさせちまった」

「いいえ」

 サレムは、短く言った。

 が、その心のうちには暗く沈んだ陰が漂っている。慧人は、一瞬のうちに起こった一連の悲しみを思った。頼れるクーガーは、もういないのだ。

 だが、感傷に浸っている暇はない……。

「さあ、いまのうちだ。アンヌを探そう。そして、俺たちの母さんをこの悪夢のような要塞から連れ出すんだ」

 そのとき、聞き覚えのある女性の叫び声が遠くから聞こえた。

慧人は、ふいと顔を上げ、問いの眼差しをサレムに向けた。その声は、明らかにアンヌのそれだった。

「大佐、いえ、ヤワルジャ博士の執務室がある方角からです」

 サレムが大きく眼を見開いて言った。「ネフドスが彼女を人質にして逃げようとしている。そうに違いありません」

「そうか、そこへ行こう。大佐の生命が危ない」

 慧人はレーザーキャノンを肩にかけて言った。探さずとも、敵はおのずからわが手に落ちてくれたのだ。

 かれは、累々と転がった兵士たちの死体やぬかるみのようになった血糊に足を取られないように注意して、ホールのドアを出た。そのとたん、眼の前ほぼ十センチほどの距離のところにレーザーキャノン特有の青白い光線が走った。

光線が来た方角に眼をやると、その先にネフドスの姿があった。

「一歩でも近づいてみろ──この女の生命はないぞ」

 ネフドスは、もういっぽうの手にもったレーザーガンをアンヌの顔面に据えて言った。 アンヌは、後ろ手に手錠ようのものをかけられているらしく、もがくように両腕を動かしていた。そしてその独特な眼の動きで、『あたしのことはどうでもいいから、さっさとこの男をやっつけて頂戴』と言っていた。

「さあ、手にもっている武器をぜんぶ捨てろ」ネフドスが言った。

「いい加減に観念しろ、ネフドス」

 慧人はレーザーキャノンを床へ投げ捨て、ステム・デストラクターを外しながら言った。「ここには、もうおまえしか残っていないのだぞ」

 それは一種のブラフだったが、そうでも言わなければ、かれをこの場につなぎ止めておくことはできなかった。

「あいにくだが、まだ俺は観念する訳にはいかない。俺には、これからやらなくちゃならん大事な仕事が控えているんでね。それに──おまえたちのようなひよっこに捕まえられるほど、俺は落ちぶれちゃいない」

「彼女を放せ」

 慧人は、再びつなぎ止めのためのことばを発した。「俺たちは、ご注文どおり、武器をぜんぶ捨てたぞ」

「駄目だ。この女にはおまえたちが死んだ後で、ゆっくりと地獄に行ってもらうことにする。さあて──これでも喰らえっ、ひよっこども」

 そのことばを発するとほとんど同時に、ネフドスは、右手にもったレーザーキャノンの引金を引いた。だが、それよりほんの一瞬前、ネフドスの左手がアンヌの鋭い跳躍蹴りに見舞われ、ステム・デストラクターが二・三メートル前方に飛んでいた。

 そのせいで、ネフドスの放ったレーザーキャノンは、空しく慧人の頭の上の白い壁を撃ち、直径十五センチほどの黒い穴を穿って、黒い煙を上げた。

「地獄へ行くのはおまえだ、ネフドス」

 素早くレーザーキャノンを拾い上げ、身を伏せた姿勢から態勢を立て直した慧人がネフドスに向かって狙いを定めようとしたとき、その肩に激痛が走った。

 くそっ。肩の骨が砕けていたのを忘れていた。いや、サレムの打ってくれた麻酔が切れたのか……。

「よくもやってくれやがったな、このくそ売女め」

 ネフドスは、慧人のことばも耳に入らなかったのか、特製のデザートブーツに蹴られてざっくりと口を開けた左手の傷を、さもいとおしそうにしゃぶって言った。血で赤く彩られた唇にどす黒い笑みが走り、飢えた狼のような、残忍な表情が浮かんだ。

「そんなに行きたいなら、きさまから先に地獄へ堕ちろっ」

 ネフドスが凶暴な叫び声を上げて、レーザーキャノンを構えたちょうどそのとき、アンヌは、壁にぶつかって停止したステム・デストラクターに向かって身体を投げ出したところだった。サレムもそれとほとんど同時に、やや離れたレーザーキャノンに向かって身を踊らせていた。

 アンヌは、ネフドスの怒声を聞いた途端、本能的に身体をひるがえして脇へ転がった。目指すステム・デストラクターの六〇センチほど手前の床に、アンヌの頭がすっぽりと入るほどの穴が空いた。炎が消えると同時に、黒い煙がぼっと立ちのぼる。慧人が、肩を押さえ唸りながらうずくまった。サレムがレーザーキャノンを手に取り、ネフドスのこめかみに向けてトリガーを引く。

 が、その青白い光線は、彼女のアクションに気づいて素早く身をかわしたネフドスの耳の上をかすり、その向こうの壁を穿ったに止まった。ついで、二発目を放ったが、それもかれの肩先を掠っただけだった。

「莫迦め、おまえたちのような傭兵風情にプロの俺さまが撃てると思うのか。銃を撃つというのはこうやるんだ」

 ネフドスが後じさりながら叫んで、まるで大昔のギャングが機関銃を持ったときのようにレーザーキャノンを乱射した。

 それから数十秒も経ったかと思われるころには、廊下は、眼も開けていられないほどになっていた。もうもうとした黒煙が辺りに立ち込め、誰がどこにい、どんな状態でいるのか解らない。ネフドスのやみくもな乱射が止んで、かれの足音が遠ざかって行くのを聞いたときには、辺りは完全に闇の世界になっていた。

「アンヌ、サレム。大丈夫か」

 慧人が、あまりの異臭と黒煙に咽びながら、ほとんど両眼を閉じた状態でふたりの安否を訊ねた。さきほどのあの広いホールでの戦闘ですら、あんなに煙が立ち込め、大勢の兵士たちが死んだのだ。小型とはいえ、レーザーキャノンのような火器を狭い廊下で乱射されれば、そこにいる者はひとたまりもないはずだった。

 幸いネフドスの撃ったレーザーキャノンは、辺りに黒煙が立ち込めてしまったのと激痛のせいで、片隅にぴたりと身を寄せていた自分には辛うじて当たらずに済んだ。そう思ったとき、慧人の背に言いようのない戦慄が突っ切り、かれは祈るような気持ちになった。

「サレム、アンヌ、生きているのか。頼む、生きているなら返事をしてくれ」

 今度は慧人がアンヌの安否を訊ねる番だった。辺りに炎が点在しているせいで、皮膚の表面が焼けるように熱い。廊下を満たしている空気の温度は、さきほどよりさらに上昇していた。額といわず、背中といわず、毛穴という毛穴、汗腺という汗腺のすべてから熱湯が噴出しているような気がした。

「ケ、ケイト……」

 何度目かの咳のあとに、アンヌの声が暗闇の向こうから呟くように言った。

「どこだ、アンヌ」

「こ、ここよ」

 その声を頼りに、かれは大きく手探りして、なにか人間の身体のようなものに触れた。かれはそのどこかどよんとした長いものの形に沿って、左に手を進ませた。それは先へ行くほどに太さを増しているようだった。人間の脚だ。苦しそうな呻き声が漏れた。

「アンヌなのか」

 かれは、その背中にあたるところに手を伸ばし、その背を支えて抱き起こした。「しっかりしろ。どこをやられたんだ」

 だが、その身体はアンヌのものではなかった。アンヌのそれは、もっと大振りで柔らかく量感に富んでいたはずだった。

「サレムか──サレムなんだな」

 慧人は、そのやや固めの肩を引き寄せて言った。「どうした。どこをやられた」

「あ、あし──右足の大腿部から下がなくなっているです……」

 サレムの苦しそうな、弱々しい声が答えた。それを聞いた瞬間、彼女の肩を抱く慧人の腕が磁力を失った磁石のように力を失いそうになった。

「それに、腹部にもレーザー弾を受けました。もう暫くすると、わたしは、この母なる砂漠の地に還ることになるでしょう」

「なにを言っているんだ。きみは、俺たちと一緒に、人類が一体となった新しいバイオシェルターづくりを手伝ってくれるんじゃなかったのか──」

「ここまで、お手伝いできただけで、わたしは充分。わたしのことは構わない。あの方を連れて逃げてください」

 サレムは、弱々しい声で自分を襲う痛みをこらえるかのように切れ切れに言い、慧人の腕を振りほどくような仕草をして続けた。「もうすぐ、ここは爆発することになりそうです。ヤ、ヤワルジャ博士をどうか……」

 サレムの身体から、それを支えていた芯のようなものがうせ、その腕が音もなく慧人の膝の上に下がった。

「サレム、しっかりしろ。サレム、サレムーっ」

慧人は暗闇のなか、芯のなくなったサレムの身体をしっかりと抱き締め、声を限りに彼女の名を呼んだ。アンヌがどこかで、なにかを言っているようだった。

だが、必死の思いで叫んでいる慧人の耳に届くはずもなかった。

 一体、何人の近しい人間の生命を奪えば、天はその気が済んだといってくれるのか──。かれは、込み上げる怒りに神を罵ることばを吐き、彼女のまだ温かく小さな身体を抱いて、その名を呼び続けた。だが、そのことばも嗚咽にかき消え、次第々々にか細く小さくなって行った。


二九


「ケイト、悲しくて辛いのは判るけど、いつまでもそうやっていたって、彼女は還って来はしないわ……」

 アンヌが慰撫するように、慧人の肩にその柔らかな手をおいて言った。

「それにきっと、あなたのこんな姿を彼女は喜びはしない。あなたに残された最後の道は、なんとしても、ヤワルジャ博士、あなたのお母さんを救け出すことにあるのよ。彼女も、クーガーも、そして恐らくあなたのお父さんも、それだけをあなたに託して死んで行ったのだから──」

 慧人は顔を上げ、アンヌの、煤と煙とで黒く汚れた顔を見た。

アンヌが無言で慧人の顔を見、決意を促すような真剣な表情で頷いた。慧人は、それが不要になったひとの横に転がっている武器、もはや、形見となってしまったサレムのレーザーキャノンを拾い上げ、アンヌの両手首を傷つけている手鎖を焼き切った。

 そして、ようやく見通しがきくようになって来た煙の靄のなかを、ゆるゆると立ち上がり、心配そうな表情で自分を見上げるアンヌに向かって、その腕を取った。

かれはアンヌを立ち上がらせ、両手を大きく広げたかと思うと、声も出さずにその身体をきつく抱きすくめた。これが戦争でさえなければ、そして、敵陣にいるのでさえなければ、かれはそのまま大声を出して泣き始めていたかも知れなかった……。

「さあ、行きましょう」

 アンヌが元気づけるように、慧人の背を優しく叩いて言った。

 慧人の眼は、四十間近い大人のものとは思えないほど打ちひしがれていたが、強いてそれを見まいとするかのようにアンヌは頭を振った。そして、自分の倍ほどもあるかれの手の平へサレムのレーザーキャノンを強く握らせ、一歩を踏み出しながら続けた。

「博士が監禁されているところを知っているわ。あのひとは、専従看護婦が必要で、車椅子なしにはどこへも行けない身なのよ」

「知っている──」

 慧人は母への思いが急に込み上げ、咽の奥が締めつけられたような声で答えた。

「実をいうと、きみには話せなかったが、彼女に会って話をした。彼女の姿は、想像していた以上にひどかった。顔の表情こそ、軍人らしく毅然として立派だったが、頬や眼の横には深い皺が何本も走り、身体はまるでミイラのようだった……」

「それなのに、あの男──」

 アンヌが慧人に合わせ、歩調を早めて言った。「ネフドスは、彼女から車椅子と看護婦を取り上げ、わたしと一緒に明かりもない部屋に閉じ込めたのよ。どうせ逃げられないと判っていて、博士には手鎖もかけなかったわ」

 慧人は、それにはなにも答えなかった。だが、アンヌの胸中には、寡黙の人となってしまったかれの無言に対する彼女なりの解答があった。

 ヤワルジャ大佐と一緒にあの暗い部屋にほうり込まれたとき、一瞬にして、アンヌは慧人の言っていたことを悟ったのだった。

 ザンボアの独立、いや、今日の南亜全体を支える建国理念の実質的提唱者であり、その難攻不落さと技術水準の高さとを全世界に知らしめたメガロバイオシェルター建設の謎の中心人物。それが、実は、あのツヴァィゼン博士の元共同研究者であり、もっとも頼りにしていたフォアライン博士その人の妻にほかならなかったのだ──。

そう思ったとき、彼女のなかのなにかが氷解した。

 ツヴァィゼン博士が開発しようとして果せなかった、バイオジェニックス・コンピュータが、皮肉にもフォアライン夫人の手によって完成され、フォアライン博士その人を生かし続けていた。しかも、全世界にそのひとありと恐れられるザンボア軍の、これまた謎の戦略案指導家、ツヴァィゼン博士に対峙する敵陣営の科学官ともなって……。

「どうかしたの」

 急に立ち止まってしまい、辺りに耳を澄ますかのように神経を集中しているらしい慧人を見咎めてアンヌが訊ねた。

 慧人が手の動作でアンヌを制した。その姿、その無言の様子は、あのバイオコンピュータに内蔵されていたフォアライン博士の脳に対峙していた様子にそっくりだった。

「母さんが──ヤワルジャ大佐が、俺に来るなといっている」

「なにを言ってるの。まさか、気でも狂ったんじゃないでしょうね」

「狂ってなんかいない。俺には、彼女が話しかけて来るのが聴こえたんだ」

「幻聴よ。サイキアナライザーにかけるため、いろんな注射を打たれた上にあまりにもいろんなことが起こったんで、頭のなかが混乱しているんだわ」

 アンヌは、かれが歩き出そうとするのを押し止めて言った。「少し休みましょう」

「聞いてくれ、アンヌ。俺は、小さいころ、MPTメタ・サイキアトリカル・トレーニングを受けたことがある。そして、それを十二になるまで続けた。だから、俺には特別な周波数をもった精神波を受信する下地と能力が備わっているんだ。

 いまでも遠く離れた人間と話をすることはできないが、近くにいる、特別な感情をもった人間となら、音声を使わずに会話をすることができる。サレムともそうだったし、親父とのときもそうだった。そして、いまはことばを送ることこそできはしないが、受信することはできるんだ──」

「俄かには信じられない話だけど。いいわ、信じましょ」

彼女は、そこでことば切ったあと、考え直すように言った。「いえ、信じさせてもらうことにするわ。こういろんなことが起こると、なにか拠り処がなくっちゃ、やってられないもの……」

 彼女の脳裡には、フォアライン博士の脳を内蔵したバイオコンピュータに向かってレーザーキャノンを乱射し、半狂乱になっていた慧人の姿があった。黒い煙が立ち込める闇のなかで脚をもぎ取られ、腹部を撃ち抜かれて死んで行ったサレムの姿があった。

「──で、博士はどう言ってるの」

「この基地は、もうすぐ爆発する。いまから十五分ほど前に、心話のできる側近の兵士数人に基地の自爆装置をセットするように命じたと言っている。たぶんサレムは、その命令を聞いたんだろう」

「そういえば、彼女、ここはもうすぐ爆発することになりそう──といっていたわね」

「ああ──」

 慧人は、先を急ぐようにアンヌの腕を取って歩きながら続けた。「それに博士は、きみの知っているところにはいない──すでに、別のところに移動したといっている」

「じゃ、博士はどこにいて、なにをしようとしているの」

「判らない。だが、こちらから何度精神波を送信しても、彼女のところには届かない。たぶん、向こうのほうで受信する意志を放棄しているんだ。移動したというのも、おそらく心話で部下を呼び出し、自分を救い出させたということだろう。彼女は、全員を道連れにして死ぬつもりなんだ」

「とにかく、さっきの部屋に行ってみましょう。なにか手がかりのようなものが見つかるかもしれないわ」

「ああ。そうしよう」

 二人が走ってたどり着いた突き当たりの部屋は、手がかりどころか、アンヌによるとまさに跡形もなく消えてしまっていた。その代わり、その部屋のあった壁の側面には大きな四角い穴が空いていた。そしてその下には、深い闇が二人を吸い込むような大口を開け、不気味な振動音を響かせていた。

「どうしたのかしら、跡形もないわ」

 アンヌは、辺りをきょろきょろと見回し、壁に空いた穴を指さして言った。「確かにここに入り口があったはずなのに……」

「たぶんここは、昇降機かなにかの装置がついた大きな部屋だったのに違いない。そいつがそのまま、さらに地下へ降りて行ったんだ」

「でも、そうだとすれば、その部屋全体を吊り下げるケーブルかなにかがあるはずよ」

 アンヌが、ぽっかりと空いた四角い穴を廊下に腹ばいになって覗き込んでいる慧人を見下ろして言った。

「これじゃ、まるで忽然と消えてしまったとしか言いようがないじゃない」

「確かにそうとも言えるな」

 コンクリートの暗い天井を見上げ、慧人が言った。そこには確かに、アンヌの言うようなケーブルらしきものが取り付けられた痕跡すらなかった。

「ほかに、なにか見えて」

 アンヌが落ちないように傍らの壁に手をやり、眼下の穴を覗き込むようにして訊ねた。「いや、下は真っ暗でなにも見えない」

 そう言って立ち上がろうとしたとき、慧人の身体全体に本能的な恐怖感が走った。腹ばいになっている床が急に唸りを上げ、前方へ進み始めているような気がしたのだ。

「危ない、アンヌ。そこから離れるんだ」

 言うが早いか、慧人はその姿勢のままアンヌのいるほうへ転がった。

「ケイトっ、これに掴まって」

 アンヌがレーザーキャノンの銃身を差し出した。間一髪だった。もう少しで迫って来た壁に穴へ突き落とされる寸前だった。

 慧人が後ろを振り返ると、さっきまで廊下と見えていた床はなく、固い金属面が行く手を阻んでいた。だが、鏡のようになった金属面はふたりの姿を映しながらなおも動きを止めず、同じ方向に進み続けているのだった。

「そうか。解ったぞ」

 慧人が言った。「これはケーブル式のエレベーターなんかじゃなく、ベルトコンベア式のエレベーターになっているんだ」

 確かに慧人の言うとおり、金属の表面は途切れ、その途切れたところにはさきほどと同じ廊下が現れ、その奥は突き当たりになっていた。半信半疑で、事の成り行きを眺めていたアンヌが、四角い穴をすっぽりと埋めた、なにかの入り口らしい側面を見て言った。

「そうよ。これよ。この入り口だわ。この入り口の向こうに、なにもない殺風景な部屋があったんだわ」

「これが動き出した、いや、動きを止めたということは、たぶん、これと連動するもうひとつの部屋がどこかに着いたということだ。いったいどのくらいの距離があるかは知らないが、あの深さからすると相当な地下にあることは確かだろう」

「なるほど、頭がいいのね」

「ということは、ヤワルジャ大佐もしくは、ほかの誰かがこのエレベーターを使って下へ降りたことになる。それも、ついいましがた……」

「よさそうな考えね。行ってみましょう」

 アンヌが入り口の前に立ってすぐ、ドアが音もなく左右に開いた。

「どうやら、この前に立てば、自動的にドアが開く仕掛けになっているようね」

 部屋のなか、いや、エレベーターのなかは、アンヌの期待に相違して明かりが灯っていた。アンヌは、警戒心を強めたようにいったん慧人の足を止めた後、レーザーキャノンを構え直し、注意してエレベーターに乗るように促した。

「でも、変ね」

 エレベーターの発進ボタンを押した慧人の姿を見やるともなく、ぼんやりした表情でアンヌが言った。「あたしたちが閉じ込められたときは、このなかは真っ暗だったわ。これは、なにかの罠なんじゃないかしら」

「罠だろうがなんだろうが、こうなりゃ、行き着くところまで行くだけさ」

 慧人が、破れかぶれのように言って、壁に身体を預けた。

「それはそうだろうけど、下に着いた途端、敵さんがずらりお出迎えってのだけはごめんこうむりたいわね」

「まあな──」

 慧人が答えるともなく言う。「そうなりゃ、お誂えむきってとこだが──まあ、そうはなるまいよ」

「どうして、そんなことがいえるの」

「男の第六感ってやつだ。この空気の熱さからすると、いまごろはほとんどの人間がこの基地を放っぽり出して、逃げるのに精一杯ってとこだ……」

「そうかしら……」

「そうだよ。そう思ってなきゃ、やってらんないだろうに。楽観主義がいままでの俺の人生を支えて来たんだからな」

「そう……」

 アンヌが小さく呟くように言った。「もし最後になるといけないから、これだけは言っておきたいわ」

「なんだ」

「そのう、つまり……」

「つまり、なんだ」

「ほんと、鈍いのね。つまり、天の邪鬼なんだか、変わり者なんだか知らないけど、そんなあなたを愛してしまったってことよ」

「なんだ。そんなことか」

 慧人は笑って、軽くいなすように言った。「俺は、また──」

「はぐらかないで。本気なのよ」

 アンヌがきっとした表情で、慧人を見上げて言った。「本気で、あなたを愛してしまったの。嘘じゃないわ。こんなときだから、それだけは伝えておきたいの。でないと、あの世に行ってまで、いまのようじゃ困るでしょ」

 それまでの、揶揄すような笑みを宙ぶらりんにして、慧人は、はにかんだ少女のような面持ちで自分を見上げるアンヌを見た。凝視めあう沈黙の数秒が流れ、アンヌが眼をつむり、その身体を慧人に預けた。

「ああ、愛してるさ。正直に言うよ。ずっとそう思っていたんだ」

 慧人はアンヌを抱き締めて言った。「あんな連中にきみを殺させやしない」

「ケイト……」

 アンヌが言って、つぎのことばを続けようとしたつぎの瞬間、バウンドするような感じでエレベーターが止まった。前方に眼をやった慧人が、左腕で抱えていたアンヌの身体もろとも倒れ込むようにして床に伏せた。〇・一秒もしないうちにエレベーターのドアが火を噴き、背後の壁に大穴が空いた。

大型のレーザーキャノンだった。

「やったぞ」

 ネフドスの声だった。ネフドスは、煙のなかで倒れているふたりを見た。てっきり自分の待ち伏せ作戦が成功したのだと勘違いして、思わず快哉を叫んだのだ。

「ざまあみろ。これで俺は、この要塞の支配者だ」

「待て──」

慧人がエレベーターの床から身を起こし、走り去ってゆくネフドスの後ろ姿に向かって叫んだ。「俺たちは、このとおり生きてるぞ」

 一瞬、ぎくりとしたようにネフドスの足取りが鈍った。そして、エレベーターを走り出、レーザーキャノンを構えようとした慧人に、ネフドスが振り向きざまレーザー光を浴びせた。が、そのときすでに、ふたりは二手に分かれ、廊下の左右に身をひるがえしていた。ネフドスの放ったレーザー光は、慧人たちの頭上をかすめて水平に幾つもの穴を穿ち、そこに点されていた足下用照明をことごとく消し去っていた。

 周囲が一瞬にして暗闇と化したかと思われた。が、それは人間の眼にそう見えただけで、実際には、かれらの背後には点滅する光源があった。内部の空載重量が規定どおりになったことから、エレベーターのドアがまるで階段を登る実験ネズミのように行ったり来たりを繰り返しているのだった。

 ドアは機械的な実直さで開いては閉まろうとするのだが、一定のところまで行くと、また元に戻った。ネフドスの穿った穴のどこかが邪魔しているかなにかで、うまく閉まらないでいるのだった。開閉を繰り返すそのドアから漏れる間歇的な光は、しかし、幸いにも左右の壁の暗闇に身を伏せているふたりには届いていなかった。

「あいにくだな。おかげで、こっちからはおまえさんの動きが丸見えだが、そっちからはなにも見えはしまい」

 言いざま慧人は、軍人らしい素早い動きでこちらの様子を窺っているネフドスの影に向かってレーザーキャノンの引金を引いた。

 しかし、威力はあるものの、その分だけ重量のあるレーザーキャノンは、いままでの戦いで疲れ切っていたかれの左腕には荷が勝ち過ぎていた。慧人の放ったレーザー光は標的たるネフドスには当たらず、そのずっと向こうの壁面に炎の穴を穿ち、くすぶった煙を噴き上げた。ネフドスは、それに呼応したかのように天井といわず床といわず、闇雲にレーザーキャノンを乱射しながら後退した。

 豊富な実戦経験を積んで軍曹の肩書をもつに至ったネフドスと、利き腕が使えず、体力を消耗し尽くしたにわか兵士の敏捷さとでは、明らかに差がありすぎた。アンヌの必死の援護射撃も空しく、ふたりがわれに返ったころには、すでにネフドスの姿はなかった。またしても、同じパターンにしてやられたのだ。

「どうして、いつだってこうなんだ」

 慧人は、レーザーキャノンを廊下に叩きつけて怒鳴った。

「でも、今度が最後ね」

 煤と廊下の埃とで哀れなほどに汚れてしまった顔をほころばせて、アンヌが言った。

「ああ。もう二度と同じ手に乗るもんか。あの、ワンパターン野郎め」

 慧人は、アンヌの顔を見下ろし、その頬の煤を手の甲で拭ってやりながら言った。

「しかし、女の第六感ってやつも、なかなかどうして大したもんだってことがこれでようく判ったよ。とっくに逃げ出してしまっていたはずのあいつが、こんなところで待ち受けていやがったなんてね」

「あら、あたしだって、ちゃんとした根拠があってあれを言ったんじゃなくってよ」

「それを『女の第六感』っていうんじゃないのか」

「かもね」

「そうだな。それこそワンパターンかも知れないが、この先なにがあっても、女の直感ってやつを信じることにするよ」

 慧人はアンヌのヒップを叩き、笑いながら言った。


三〇


「きみの工作部隊からは、まだなにも言って来んのか」

 焦躁の色を額に滲ませて、苛立たしくオペレーションルームに入って来た司令長官のジョージ・フリードマンがこれで四度めになった質問をツヴァィゼン博士に浴びせた。

「はい、まだなんの連絡も入っておりません。キュワナチの様子にも、水中パイプライン爆破作戦成功よりこちら、変わったことはなにも起こっておりません……」

 ツヴァィゼン博士が急ぐともなく、落ち着いた声で答えた。

「しかし、これできみがいう約束の時間から、およそ七時間が経過しとることになるんだぞ。いったい全体どうなっているというのかね」

「連絡もしくは帰還を不可能にする、なんらかの不測の事態が生じているためではないかと考えられます、閣下」

 ツヴァィゼン博士はきわめて慎重に、なんの感情移入も含まない、ちょっと他人行儀なことばだけを用いて答えた。

「しかし、第二、第三の作戦が成功した以上、われわれはもうこれ以上待つことはできんのだよ。あと残すところ、ズハンガとその周辺だけだ。この調子を維持して一気に攻め込まねば効果はない。もちろん少数ながら、彼らは実によくやった。まさにわが国民の永久の範とすべき英雄であり、愛国的行為の具現者だ。

 そこで、わたしは思うんだが、よしんばこれ以上待ってみたところで、時間の無駄だという気がするね。かれらはすでに、先のパイプライン爆破工作で名誉の戦死を遂げていると見たほうがいいんじゃないのか。そうは思わんかね、ツヴァィゼン博士」

「いや、そんなことはありません。かれらは生きています、絶対に──」

 ツヴァィゼン博士は肩を怒らせ、確信をもった声で言った。「生きて必ず戻って来ます。あと少し、あと少しだけお待ちください、閣下」

「もう少しといったって、いったいどれだけ待てというのかね。わが軍の参謀どもはつぎの行動に移りたくてうずうずしとるんだ。いかなわたしとても、これ以上引き伸ばすことはできん。いいか、きみがそのことばを言ってから、これでもう四度めになるんだぞ」

「ですから、あともう少し……」

 ツヴァィゼン博士には、彼らが生きて還るという強い保証があったわけではない。しかし、かれらに対する強い思い入れが、それを受け入れることを拒んでいるのだった。

「わかった。あと二時間だけ待ってやろう」

 ジョージ・フリードマン長官が、ツヴァィゼン博士を指さして言った。「ただし、いいな。あと二時間だけだぞ。それ以上は待てん」

「ありがとうございます、フリードマン閣下」

 一種、東洋風に感謝の意を表したツヴァィゼン博士の肩を叩き、磊落な笑みを浮かべてジョージ・フリードマンが言った。

「いやいや、礼を言うにはおよばん。実のところ、わたしとてきみの気持ちはようく判っておる。きみは、いい部下を持ってしあわせだ」

 長官が立ち去るのを見送ってから、ツヴァィゼン博士は、傍らのオペレータに向かって言った。「引き続き、彼らのADV車に通信を送ってくれ。それだけが、唯一の頼みの綱だからな……」


 そのころ、地下要塞の最下層域を経巡りながら、ネフドスは考えていた。

 こうなった以上、一命を賭してでもヤワルジャ大佐を殺らなければならない──。いまイシュタルの陣営は、勢いに乗って来ている。あと少しで、過半数を充分に上回るほどに勢力をまして来ている。

 ザンボアの軍隊なぞ、その意味では、女だらけのゴミ軍隊に過ぎない。こんなときこそ、あの気違い東洋女のヤワルジャを亡きものにする絶好のチャンスだ。

 そうすれば、俺はイシュタル将軍のみならず、全ゴラビアの人民から最高の敬意をもって迎えられることになるかも知れないのだ。一介の軍曹から、一気に大尉になる。ああ、

そうなればどんなに楽しいことだろう……。

 ネフドスの気持ちは、さきほどからしきりに口にしているチューブ入りのステムエキサイタント(脳幹刺激剤)でいやがおうにも昂まっていた。これを口にすることで、どんな些細な物音にでも敏感に反応することができる。聴力のみならず、手や脚、腕などの筋力が張りつめ、どんな重いものでも一気に持ち上げられるような気がするのだ。

そんなネフドスにいままでにはなかった、かすかな物音が聴こえた。

「そこにいるのは誰だ」

 ネフドスはレーザーキャノンを腰にためて、後ろを振り返った。「出て来い。さきほどから俺の後を尾けてきているのは判っているんだ」

 ネフドス一流のブラフだった。しかし、そこには誰の姿もなかった。広い空間に充満した熱気がかれの声を甲高くさせ、あちこちにぶつかって戻って来た。

その声が途絶え、辺りに静寂が広まったころ、遠い闇の向こうから、三人の人影と車椅子に乗ったヤワルジャ大佐とおぼしき人物の姿が現れ、およそ五・六〇メートルほど先で停止した。

「おまえを探していたんだ、ヤワルジャ大佐」

 ネフドスは、レーザーキャノンをその人影へ向けて怒鳴った。「おまえの作った女だらけの軍隊なぞ、なんの役に立つものか。おまえが苦労して作り上げた可愛い戦士たちは、ここが爆発すると知ってとっくに逃げ出してしまったぞ……」

 これもまたネフドス一流のブラフだった。

 だが、なんの返事もなかった。かれの大声だけが虚しく周囲に響き渡った。かれには、ヤワルジャ大佐らの影が揺らめいているように見えた。これ以上近づけば、やつらは逃げるだろう。なんとかしてかれらを怒らせ、できるだけ近くに引き寄せねばならん。いくらザンボアの女兵士とはいえ、レーザーキャノンをもった護衛兵三人が相手ではこちらが不利だ。なにかいい条件はないか──。

ネフドスは焦りに包まれながら、辺りを見回した。

『お諦めなさい。なにを言い、なにをしても無駄です。あなたは、わたしたちと一緒にここで死ぬのです……』

 ネフドスは最初、その声が空気中を伝わって来たのかと思った。

 だが、それには空気中を流れ、なにかにぶつかって跳ね返って来るはずの、空間音ともいうべき反響がなかった。しかも、その声は四人一緒になって発されているのだった。

「なんだ、いったい」

 わけが解らず、狼狽えた恰好でネフドスが訊ねた。「こいつは、まさか──」

『そう。わたしたちはいま、心話であなたに話しかけています』

 その声は、あたかもかれの眼の前で話されているようだった。『わたし一人の力では弱いので、彼女たちの力を借りてこれを送っているのです』

「うるさい。そんなことはどうでもいい。俺には、どうしてもおまえを殺って帰らなければならんのだ」

『イシュタルの将軍は、さきほど自害したとの報がありました……』

 ネフドスは一瞬、耳を疑った。

「まさか……」

『本当です。北亜の空爆部隊と陸上部隊が、無敵を誇ったかれのキュワナチの要塞のみならず、シュワレットにあった要塞基地のことごとくを破壊してしまったからです。南亜の要塞で、現在残されているのはここだけとなりました……』

「嘘だ。そんなことがあるもんか。俺たちの要塞は、やつらの攻撃なんかで簡単に崩れたりはしない」

『ところがあるのです。イシュタル将軍は、あなたもそうであるように、わたしのメガロバイオシェルター理論を疎んじていました。兵員の戦力強化と軍関係設備の増強ばかりを重視し、そこにわたしの人工バイオ光線理論による機能と構造性が必要なことを理解しようとはしていなかったのです』

「そんな莫迦な──」

 ネフドスは、その場にくず折れんばかりになって呟いた。

『人間の身体には、太古の昔から与えられていた太陽の恵みが必要です。生物体としての人間に不可欠な環境設定は、まず、太陽が育む土壌や地上生物の在り方の研究から始まらなければなりません。

 わたしはそのことを何度も提唱したのですが、かれは武器と弾薬による支配と建国を急ぐあまり、それを軽視しました。長い間の地下生活のうちに、イシュタルの兵士、そして軍属たちは、精神はもとより肉体を病んでしまっていたのです……』

「だから、北亜ごとき軟弱の兵士たちに殲滅させられてしまったというのか」

『そうです。かれの率いる兵士たちは、参謀や閣僚を含め、キュワナチ最大の要塞が潰滅させられたと聞いたとき、すでに戦う気力さえ喪っていました。いまでは、もうゴラビアで生き残っているのは、地上ないしはわたしの作ったシェルターで生活していた非戦闘員とその家族たちだけです……』

「じゃ、俺はどうなる。俺は、まだこのとおりぴんぴんしているぞ」

『いいえ、あなたも同じです。あなたはステムエキサイタントで、自分を鼓舞しているだけです。そうしなければ、自分で自分が維持できない身体になっているのです』

「嘘をつけ。俺は騙されないぞ」

 ネフドスは叫び、四人に向かってレーザーキャノンを連射しながら、走った。

四つの人影は、かれの放ったレーザー光に幾つもに分断されて、宙へ飛んだ。が、かれがその地点にたどり着いたと思ったところには、死骸どころか、車椅子の破片すら見つけることはできなかった。

『無駄だと言ったはずです』

 ネフドスの脳に、あの声が語りかけていた。『わたしたちはそこにはいません。あなたの見ていたのは、あなたもよく知っているホロスコープの映像にすぎません……』

「くそっ。いったい、どこに潜んでいやがるんだ。出て来い。出て来て、俺の前に姿を見せろ」

『あなたも言ったように、わたしの兵たちはいま、この要塞を引き上げています。ここに残っているのは、あなたとわたしたち以外にはいません。

 あとはすべて、投降するように指示しました。彼女たちには、わたしの遺志を継いで戦争のない世界を築き、そこで平和に暮らす権利があるからです。彼女たちは、それを可能にする遺伝的才質と適応力をもっています。平和維持のために、今後必要になるであろう、健全な知力と理性を充分に備えています。

 思えば、この戦争の発端は、イシュタルの眷族たちによって引き起こされました。ご存じのように、この戦争は、それから半世紀近くも続いています。

 五〇年は、しかし、人類が毎日戦い続けるには、あまりにも苛酷な年月です。しかもわたしは、このように年老いてしまいました。もう、若いひとたちが世界を築いてゆく時代なのです。たぶんこれからは、平和な時代が何百年も続くことでしょう。彼女たちは、平和な世界で、どんな悪環境にも適応できる、人類そのもののためのバイオシェルターを築き、子孫を増やしていってくれることでしょう……』

「そんなものは、女の愚かなたわごとにすぎん。甘えたユートピア思想だ。世界は、男のために、いや、男という優れて活動的で創造的な人類のために存在するのだ。われわれゴラビアの民は、そのなかでも最も活動的で意欲的で、創造的な人類の子孫なのだ」

『悲しい考え方ですね──。でも、そんなあなたも女性の助けなくしては、この世に現れなかったのです。あなたが今後も生きるとして、女の創造性による助けなしには生きては行かれないことでしょう。世界は、女性の優しさ、つまり女の創造性によって支えられているのです。これは、未来永劫、これからも変わりません……』


「ねえ、博士たちはあそこでなにをしてるの」

 アンヌが、茫然と立ち尽くして四人の姿を眺めている慧人に、囁くようにして訊ねた。「うむ。よくは判らないが、どうやら全員が誰かと交信しているようだ」

 慧人が答えて言った。「さきほどから、あそこの誰かひとりでもいいから、波長を合わせようとしているんだが、四人の精神波が入れ代わり立ち代わり発現して来て、どうしてもうまく掴みきることができないんだ」

「声をかけてみましょうよ」

「いや、それは駄目だ」

「どうして」

「かれらはいま、かなり強力な精神波を送っている。それを乱すと、誰かの精神が破壊しかない。メタ・サイキアトリカルイクスチェンジ(心語交信術)は、一種の脳幹強制だからね。ひとつの細胞でも異変化を来すと取り返しがつかないことになる。ステム・デストラクターでやられたときのように、その部分が一種の壊死状態になるんだ」

「じゃ、どうするの。このまま眺めているしかないの」

「かれらの交信が終わるのを待とう……」

 慧人は静かに言った。

 かれは、こんなにも厳粛なひとびとの立ち居姿を見たことがなかった。

それがアンヌの提案を押し止めた理由のひとつでもあった。かれには四人の姿が、天をふり仰いで祈りを捧げている、この世でもっとも敬虔なひとたちの光景に見えた。

 あの崇高なばかりの光景は死を覚悟し、未来を信じる者のみが放つ神々しさなのかも知れない。慧人は思った。


「死ぬなら勝手に死ぬがいい──」

 再び姿を現して来た四名の影に向かって、ネフドスは言った。

「少なくとも俺は、きさまたちのような、似非ユートピアンたちの犠牲にはならんぞ。逃げて、逃げて、きっとこの世界を俺のものにしてみせる」

『あなたは狂っています。世界は、ひとりの人間のためのものではありません』

 四名の声は厳かに続けた。

『世界は、この地上に住むひとりひとりの叡智によって創られるのです。エゴが支配する世界は、いつも必ず悲しい戦争と家族の涙、そして絶え間ない人間同士の軋轢を引き起こして来ました。でも、そうした世界は、今日をもって終わりを告げるのです。明日からは、飢えと戦争のない明るい未来が人類を待ち受けていることでしょう……』

「救いようのない偽善奴め、なんとでもほざくがいい。そんなふやけた、味気ない世界はこの世に出現しはしない。男あるかぎり、世界は変わらない。己の力でもって戦い、互いに競い合って勝ちぬいてこそ、つねに世界は理想に向かって更新し続ける。それは誰のものでもない。男自身のためのものだ」

『あなたとは、もう話すことはなにもありません……』

 四名の声が力なく言った。そして、あれほど明瞭だった四つの音声が回線を切ったインター・コムのように、それっきりネフドスの耳には届かなくなっていた。

 かれは急いで残り少なくなったチューブを取り出すと、それを最後まで絞って口に放り入れた。逃げなければ、ここから脱出しなければ──。

ネフドスは、くるりと踵を返し、来た方角に向かって一目散に走った。

 なんとしてでも、ここから脱け出すんだ。そして、俺の持論が間違っていないことを世界に証明するんだ。息が切れ、肺が大きくうなった。力が全身にみなぎる思いがした。世界が、女たちが、政治家たちが、軍人を顎でつかう参謀たちが、みんな莫迦面をした道化人形のように見えた。

 かれが例のエレベーターのあるところにたどり着いたとき、それはまだ律義に開閉を繰り返していた。ネフドスはにやりと含み笑いをし、意気揚々としてその前に立った。

 そしてドアの開いたエレベーターに足を一歩踏みいれようとしたとき、眼の前の空間が急に降下しはじめた。なんてこった。エレベーターが指示もしないのに勝手に動いた。

かれは驚いて、一・二歩後じさった。みるみる眼の前の部屋がなくなり、その下に四角い大きな穴がぽっかりと空いた。

 ネフドスは、しかし、そのできごとに気を取られ、廊下の床が徐々にせり出して来て傾斜し、反対側の壁が後ろから自分を押し出そうと迫っていることに気づかなかった。かれは自分の身体が平衡を失って初めて、背後の壁が自分を突き落とそうとしているのに気づいた。

「ぬう。しまった」

かれは唸りを上げ、傍らの動いていない壁に向かって右腕を伸ばした。

が、床の動きは速く、かれが壁に手を触れた時点では、すでにかれの身体を滑り落とすくらいに傾いていた。

「た、助けてくれ。俺は、まだ死にたくないーっ」

 が、かれの必死の叫びも機械には通じなかった。

 鋼鉄の部屋はエレベーターに変身するべく、辛うじてつかまっていたかれの手首から先だけを残して、入り口に化けた。長く、永遠に続くかと思われるほどのネフドスの叫び声が、深い穴の底に落ちて行った……。

 最下層域のエレベーターとはいえ、その下にはまだ下があった。エレベーターに内蔵されていたコンピュータは、生物体が前に立つとドアを開けねばならないことだけは記憶していたが、ネフドスの放ったレーザー光のせいで、その後にしなければならない工程をふたつばかり飛ばしていたのだった。

 だが、幸運なことに、かれはその下を流れる汚泥と糞尿処理場行きの濁流に呑み込まれる前に、すでに意識を失っていた。その意味で、幸せな死をネフドスは遂げたのだった。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ