礼拝堂の悪魔
占い少女と科学青年が織り成す、ちょっと不思議なフォーチュンミステリ、開幕です。
よろしければ、しばしお付き合いを。
(初出2014年4月)
塞翁が馬
/人生における幸・不幸は変わりやすく、前もって知ることができないことの喩え。人間万事塞翁が馬。禍福は糾える縄のごとし。
(『明治書院 精選 国語辞典 新訂版』より)
「はい、それじゃ、馬渕七春くん、ね。…へぇ、これで“カズハル”って読むの?珍しいねぇ」
「はあ、よく言われます」
「ともかく。来週から、よろしくお願いしますよ」
「はい。ご指導ご鞭撻の程、よろしくお願い致します」
古株らしい、年の頃は五十代後半とおぼしき男性事務員から書類を受け取りながら、七春は返事をした。
「はははぁ、最近の若い人は、返事だけは、いいんだからなぁ」
眼鏡の奥に覗く小さな丸い目を細めて笑いながら、北倉という男が言った。アライグマを想わせる容姿の、どこか間延びした口調のこの男は、この春から七春が勤める職場の上司だ。七春はとりあえず、笑ってその言葉をかわすことにした。
「はは…」
春休み間近のこの時期、事務室にはこの北倉という男の外は、三十歳前後と見える女性職員しかいなかった。南原というその女性は座ったまま二人の会話をきいていて、ふふ、と上品に笑ってから言った。
「北倉さん、あんまりいじめちゃだめですよ。馬渕くん、ごめんなさいね。この人あがってるんです。気にしないであげて」
「ははは…」
この言葉にも曖昧な笑いで応えながら、七春は目の前の女性に目をやった。女性の左手には、シンプルな金色の指環がはめられている。そしてその左手で、大きく膨らんだお腹を、まるで宝物か何かのようにうっとりと見つめがら、ゆっくりと撫で擦っていた。
「無事に産まれるといいですね」
七春がそう声をかけると、南原はにっこり笑った。
「ありがとう。ついでに馬渕くんみたいな好青年に育ってくれたら、もっと嬉しいな」
明らかにお世辞とわかる言葉だったが、悪い気はしなかった。
「はははは…ありがとうございます」
北倉が咳払いをしながら、七春に敵意の隠った視線を向けてきた。
「それじゃ馬渕くん、構内の案内も仕事の引き継ぎも、ひととおり済みましたからね。南原さんも、今日はもうお帰りになってください」
事務室を出て、七春は校門へと向かった。構内に人気はほとんどなく、遠くでスポーツ系の部活動によくある、単調なリズムでの掛け声なんかが聞こえる外は静かなものだった。
三月中旬にしては冷え込み、薄着だと身体が芯まで冷えきってしまいそうだった。春物のビジネススーツにスプリングコートという格好を選んでしまったことを後悔しながら、七春は背中を丸めた。
ふと目の端に、白くて小さなものがちらついた。見上げると、晴れ上がった青空に季節外れの雪が舞っている。風花だ、と七春が気づいたときには、既に止んでいた。
手にしている、書類の入った封筒に目を落とす。この学園のイメージカラーだという赤みがかった薄紫色をした大判の封筒には、気取った書体で『学校法人 風露学園』と印刷されていた。ここが、四月からの彼の職場だ。
―教師としてここに来たかったなぁ―
学校教師は子どもの頃からの七春の夢だった。しかし、肝心の教採試験の当日交通事故に遭い、全治四ヶ月の怪我で入院が決まった。その瞬間、彼の望みは挫かれた。
時速六十キロメートルで走るトラックに跳ねられて命があっただけでも奇跡ですよ、と医師からは諭された。しかし、そんな言葉は傷心の七春の慰めにはならなかった 。
その後さらに追い討ちを掛ける出来事が起こった。二ヶ月の入院生活から解放された七春を、付き合いだして二年経った彼女が、退院を祝う言葉とともに迎えてくれた。しかし、それに続けて彼女の口から飛び出したのは「ほかに好きな人ができたから別れて欲しい」という言葉だった。
その相手は七春の保育園から大学まで一緒の幼馴染み、鹿野和秋。話によれば、七春の入院中に彼女の父親が借金を抱えたまま雲隠れしてしまい途方に暮れていたとき、親身になってくれたのが鹿野だったという。本人曰く「相談にのってもらってるうちに、好きになっちゃった」とのことだった。
これまでの二年間一緒に過ごした中で、心が通じあったと思える瞬間があったのは自分の思い違いだったのか、少しは自分に相談してくれてもよかったのではないか…。様々な想いが胸を過ったが、七春には、「そうか」とだけ言って、その願いに頷くことしかできなかった。身のふり先も定かでない自分に、そこで抵抗する勇気はなかった。
その直後から、彼女とは音信不通になった。家の事情が事情なので、心配になり何度か連絡を取ろうとしたが、既に電話番号もメールアドレスも変えてしまったらしく、送信エラーのメールや、「この番号は現在使われておりません」という無表情な音声が返ってくるばかりだった。
アキにあたってみようか、とも考えたが、なんとなく彼とも連絡を取りづらく、結局何も訊いていない。
突然音信不通になったことが気がかりではあった。しかし、鹿野は昔からしっかり者で、自分より一年先に社会人となっている。鹿野に任せておけば大丈夫、と自分を納得させた。
それからはとにかく、通院しリハビリを受けるかたわら、自分のことに懸命だった。教師になることに全力を注いでいたため、それ以外のことは何もしていなかったのだ。
退院して動き始めたのが大学四年の初冬頃。民間企業は再来年度の採用に向けて動き始めていたし、七春が希望する教科の臨時教員の枠も既に埋まっていた。
近頃では大学院を出た者でさえ、ストレートで教師の職にありつけるのはほんの一握りという状況なのだから、当然といえば当然であった。
二月に入る頃にはほとんど絶望しかけていた。実家に帰り、資格系の予備校にでも通いながらフリーターとしてやっていく覚悟を決め始めていた。
そんなある日、ダメもとで訪れた大学の就職センターで、私立の中高一貫校での、臨時の事務員の募集を見つけた。期間は一年間で、勤務先は七春が暮らすアパートのすぐそばだった。担当の女性によれば、丁度その日の朝に資料が届いたばかりだという。
教師ではないが、学校事務なら、民間企業の事務や営業よりずっと自分の希望に近いじゃないか。その間にもう一度教採を受け、次の春までに就職先を決めればいい。そう考え、一も二もなくその求人に飛びついたのが二月の半ば。
連絡をとってみるととんとん拍子に話が進み、その翌日には形ばかりの面接、更に次の日には採用が決まった。それから三週間経った今日、正式に採用が確定し、研修を受けに来たのだった。七春が引き継ぐのは、先程事務室にいた南原という女性の受け持っていた仕事。彼女が出産休暇からそのまま育児休暇に入る一年間、彼女の担当業務を受け持つのだ。
電話で両親にこの旨を伝えたとき、特に母親は正規の職員でないことに難色を示した。しかし当の七春は、願ったり叶ったりだと、内心うきうきしていた。来年度こそはと、固く心に誓っていた。
北倉から貰った構内地図を頼りに正門へと向かっていた七春はふと、立ち止まった。そして、せっかくだからもう一度構内を回って、建物の配置を確認してみようか、そう思い立って踵を返した。
この判断が後々の自分と、そして自分が関わる多くの人々の運命を決めることなど、このときの七春は夢にも思っていなかった。
中等部、高等部ともに、風露学園はかなりのマンモス校といえた。中等部の生徒数は約七百人、高等部は約八百人。この少子化のご時世に、私立の学校でこれほどの規模を保っているのは奇跡といえる。
少し離れたところには附属の幼稚園と小学校、短大もあるというのだから、経営者に余程の経営手腕と経済基盤とがあるのだろう。
学園は町を見下ろす小高い丘に位置していた。その天辺中央に聳える時代がかった煉瓦造りの時計塔がこの学園のシンボルだった。それを挟み、南に面した緩やかな斜面の東側に中等部、西側に高等部が配置されている。
中等部と高等部とは高い柵で隔てられ、運動場やプール、寮や食堂など、全て高等部と中等部とで専用のものが用意されていた。事務も分かれていて、七春は中等部所属の事務員となるのだ。
地方の公立中学、そして高等学校出身の七春にとっては、何もかもが目新しかった。建物はいずれも古風な煉瓦造りで、歩道には洒落たデザインのタイルがあちこちに敷き詰められている。よく手入れされた、紅葉するタイプの街路樹や、ツツジやサルスベリなどの園芸低木がそこかしこに植えられていた。
自分の母校の殺風景なコンクリート校舎や、アスファルトで舗装された地面、それに、ほとんど枯れかけたオシロイバナのプランターが玄関先に置かれていた光景などを想い起こしながら、七春はもの珍しく構内を見物して回った。
学園の創設者がキリスト教に傾倒していたそうで、敷地内には礼拝堂が設けられている。もっとも生徒のほとんどは仏教徒らしく、普段から熱心にこの礼拝堂を利用する生徒は稀だという。
ひととおり敷地内を見て回った七春は、敷地内の一角にある、古ぼけた小さな礼拝堂の前を通りかかった。長い石段を上がりきったあたりから、木々に取り囲まれた白亜の尖塔がこちらを見下ろしている。
北倉によると、ここは学園ができたときに建てられたもので、老朽化が進み、今は立ち入り禁止になっているという。北倉の言葉どおり、階段の登り口には立ち入り禁止の札がかけられ、ご丁寧にロープも張られている。
七春はそのまま前を素通りしようとしたが、物音が聞こえて立ち止まった。振り返り耳を澄ましてみると、それは旋律を持った楽器の音色らしかった。オルガンだと、七春ははたと気がついた。
少し迷った後、七春は礼拝堂の方へと歩き出した。慣れない場所での不安や恐怖よりも、好奇心が勝っていた。
―ハルってさ、普段は落ち着いてるのに、変なとこで子どもみたいなことするよね―
去年彼女から言われた言葉をふと思い出して、七春はなんとなく気恥ずかしさを覚えた。しかし、歩みは止めなかった。
オルガンの音はすぐに途絶え、中からは何の物音も聞こえない。こんな廃墟のような建物の中に人がいるとは思えなかった。幽霊か何かの仕業かもしれない、などと考えて、七春は自分の幼稚な考えに苦笑してしまった。しばらく躊躇ってから、七春はロープを踏み越え、階段を上っていった。
そっと礼拝堂の扉を開け、中の様子を伺った。
「ごめんくださーい」
返事がないことを承知の上で頼りない声を投げかける。子どもの頃に何かの本で、お化けは大きな音や声を出すと逃げていくと読んだことがあった。それ以来、なんとなく嫌な感じのするところでは、誰もいなくても、わざとノックをしたり声を出したりするようになった。
子どもじみた「おまじない」ではあったが、幼少期に極度の怖がりであった七春にとっては、藁にもすがる思いだったのだ。そして大人になった今でも、ほとんど無意識にやってしまう癖と化していた。
礼拝堂の中は思いの外に明るく、外の喧騒が嘘のように静まり返っている。
整然と並んだ飴色の座席、色とりどりのステンドグラスから差し込む明るい光、一面漆喰で塗りかためられた白い壁と天井。奥の壇上には、向かい合わせに作りつけられた二つの演説台と、年季の入ったオルガン、そして真正面の壁には大きな十字架が見えた。
洋の東西を問わず、宗教にも宗教美術にも一切興味のない七春も、思わず見とれてしまうような何かが、その空間にはあった。
午前中に見た、ここより大きくて新しい礼拝堂をふと想い起こした。十数年前に建てられたというその礼拝堂はきれいな建物であったが、どこか冷え冷えとして、取り繕った感じのあるものだった。
一方この礼拝堂は、至るところに埃を被ったクモの巣が張られ、壁や床のところどころに傷や剥げが見える。しかし、なんとも言いがたい、柔らかさや温かみがあった。
入り口側の壁一面に作り付けられた書棚や、入り口付近にだけ取り付けられた板張りの低い天井、壁際にある細い木の螺旋階段、といったものたちが、子どもの頃友人たちと夢想した、秘密基地を連想させたためかもしれない。こちらの方が、不思議と「神の懐」とでも呼ぶべきものに近いような気がした。
軋む板張りの床を恐る恐る踏みしめながら、七春は奥へと進んだ。
「金目のものならここにはないよ、おじさん」
不意に頭上から声が聞こえてきて、七春はぎょっとした。 振り仰ぐと、バルコニーのようなところから、長い髪を垂らした少女らしい人影が身を乗り出して、こちらを見下ろしていた。
一瞬幽霊かと思ったが、すぐにその考えを打ち消した。こんなにはっきり存在感を持った幽霊が人に話しかけるなど、まるでホラー小説か落語の世界だ。七春が言葉を発するより先に、少女が続けた。
「臨時の事務員さんなんて言うから、てっきりいいお歳のおば様かおじ様かと思ってたけど。結構若いのね」
「どうして…」
自分のことを知っているのか、そう尋ねようとした七春めがけて、少女が何かを投げ落とした。七春はとっさに両腕で自分の頭をかばった。
トランプのような、小さくて硬い厚紙数枚が、バラバラと音を立てて七春の足元に散らばる。
「危ないじゃないか!」
思いがけないことに思わず憤慨しながら、七春はほとんど叫び声に近い声を出してしまった。しかし少女はそれに応えず、黙ってバルコニーから姿を消した。
続いて、板張りの床を移動しているらしいギシギシという音が上から聞こえてきた。やがて、七春の目の前にある小さな螺旋階段に、少女が姿を現した。
「紙のカードだから、当たっても大した怪我になんてならないわよ。それに、充分避けるなり防ぐなりする時間はあったはずでしょう」
一切悪びれた様子の感じられないもの言いにあっけにとられながら、螺旋階段からゆっくりと降りてくる少女を、七春は見やった。
やけに色白の、尖った顎をした顔に、それを縁取る明るい茶色の髪。髪は腰まで届いて、毛先だけが緩やかに巻いていた。背は低く華奢に見えたが、手足がすらりと伸びた成長期らしい身体つきをしている。
無色透明のガラス細工か、氷の彫刻のような印象を与える少女だった。
セーラーっぽい襟がついた白いパフスリーブのワンピースに、たっぷりしたリボンタイという彼女の出で立ちは、この学園の制服だ。胸元の三角布に中等部のマークが付いていることから、中等部の学生であることが察せられた。
長い睫毛に縁どられた、少しつり上がった黒目がちの目は、髪より暗い焦げ茶色だ。その目で七春を見据えたまま、彼女は言った。
「あなた、今朝ここの近くを通ったでしょう、北倉さんと一緒に。私、上の窓から見てたの」
そう言いながら、少女は先程まで自分が立っていたバルコニーのようなところを指し示した。
「“上の窓から”? …てことは、朝からずっとここに?ここは立ち入り禁止だろ」
なんとなく気味悪く感じて、後退りしながら七春は言った。そんな七春の心中にはお構いなしに少女が近づいてきた。そして七春の前に立つと、しゃがみこんで散らばったカードに手を伸ばした。
改めてよく見ると、それはトランプに似ていたが、少し違う形をしていて表面には強い光沢があった。表が見えている何枚かにはトランプのような数字やマークの代わりに、それぞれに異なる、手の込んだ絵と、ローマ数字と英語とが印刷されていた。
散らばったカードをじっと見つめて、しばらく少女は考えこんでいた。
「何を…」
「 あなた、ここ半年ぐらい、かなりついてなかったみたいね。大きな怪我でもしたの?それで就職のチャンスを逃して、ここの臨時職員なんかになったのね」
突然図星を突かれぎょっとして、七春は出かかった言葉を思わず飲み込んでしまった。そんな七春を尻目に、少女はカードに目を落としたまま続けた。
「でも、過去のことには自分なりに見切りをつけて、今は新たな目標に向かって歩き出そうとしている、と」
そう言う少女の指先には、木の枝に荷袋をくくりつけ、犬を従えて意気揚々と歩き出す男の姿が描かれたカードがあった。続いて少女は別のカードに視線を移した。
「でも残念。近いうちに、あなたまた何か面倒なことに巻き込まれそう。もっとも、今度の試練は、何かの形であなたに幸福をもたらすみたい。 …あら、“吊るされた男”が“女教皇”と“女帝”の間で板挟みになってる。あなた意外とモテるのね。…それとも、単に優柔不断なだけ?」
「“意外と”って…」
視線をあちらこちらへと動かしながら、立て板に水を流すような調子で少女は喋り続けた。ただただあっけに取られて、七春は少女の言葉を聞いていた。
「しばらくは自分で自分をがんじがらめにして苦しむけれど、やがて自分を取り戻して、選ぶべき答えを見つけ出すから大丈夫。で、最終予想は…」
そう言いながら、少女は一枚のカードをじっと見詰めた。そのカードには、イバラの花輪で縁取られた空間を背景に、ギリシャ神話の女神のような格好をした女性が、意味ありげな微笑みを浮かべて竪琴を掻き鳴らしている様子が描かれていた。カードの下の方には“THE WORLD”と印刷されている。それまで眉ひとつ動かさずにすらすらと喋っていた少女が、一瞬顔を曇らせた。
「あなた、生年月日と出生時刻は?」
「は?」
「生年月日と出生時刻。生まれた日と時間。西暦でね。あ、あと出生地も」
「生年月日の意味くらい、知ってるけど…。二〇XX年五月二十七日の…確か、午後七時ちょっと過ぎだったかな。産まれたのは、○○県で…。って、そんなこときいてどうするんだよ」
「二〇XX年の五月二十七日…ってことは、去年は十五で今年は十六。“影”は十九か。アセンダントは…」
七春には意味不明なことを呟きながら、少女は突然ポケットから小さな電子端末を取り出した。そしてそれを少し操作した後、その画面を見詰めたまま呟いた。
「サジタリウス」
その後、しばらく沈黙が続いた。やがて七春が声を掛けようとした瞬間、礼拝堂の扉が開いた。
「ああ、やっぱり、馬渕くん。さっき、こっちへ歩いていくのが遠くから見えてね。もしやと思って」
聞き覚えのある声に目を凝らすと、そこに立っていたのは北倉だった。
「北倉さん!」
「まったく、ここへ入っちゃいかんと、言ったでしょうが」
「…すみません」
北倉と七春がそんなやりとりをしている間に、少女は手早く散らばったカードを集め終えていた。そして立ち上がると、北倉の方へ向き直り、優雅な微笑みを浮かべて言った。
「お久しぶり、北倉さん」
「やあ、ユキお嬢さん。お久しぶりです」
ぎこちない笑みをうかべながら北倉が言った。
「すみませんねぇ、彼、まだここに慣れてなくて。ご紹介しましょうか?彼は、馬渕七春くんと言って…」
「存じてます。南原さんの代わりにいらっしゃる事務員さんでしょう?祖母から聞いております」
「ああ、そうでしたか。流石、お耳が早い」
そう言うと、北倉は七春に目配せをした。その意図を理解できずに七春がキョトンとしていると、少し苛立ったような表情を見せてから、北倉は再び少女に作り笑いを向けて言った。
「お話中失礼しますが、彼に、仕事に関して伝え忘れたことがありましてね。しばらくお借りしても、よろしいですかね?」
すると、少女はいかにも興味なさそうに七春を見やった後、小さく肩をすくめて見せた。
「大したお話ではありませんから、どうぞ。ご用が済んでも、お返しにならなくて結構ですわ」
「そうですか、それでは、遠慮なく。…さあ、馬渕くん」
この会話を聞きながら、自分は物か、と心の中で呟いた七春であった。そして北倉に促されるまま、礼拝堂を後にした。
礼拝堂を出た後、北倉の後について、七春は歩き続けた。しかし、しばらくして沈黙に耐えかね、とうとう口を開いた。
「北倉さん、俺に伝え忘れたことって、何ですか。それに、あの子は一体何者なんです?」
「私が伝え忘れたこと、というのは、あの子のことですよ。…デリケートな問題ですし、立ち話もなんですから、事務室へ戻りましょう」
事務室に着くと、すでに南原は帰った後らしく誰もいなかった。北倉は、七春にソファへ腰かけるよう促した後、コーヒーを二人分手早く用意し、テーブルを挟んで七春の真向かいに座った。
「どうぞ、召し上がってください」
「どうも…頂きます」
ほとんど初対面の男同士二人が、差し向かいでコーヒーを啜る。こんな経験が今までほとんどなかった七春は、内心密かに緊張していた。廊下で、トランペットの音が響き渡っている。吹奏楽部の練習場が近くにあるのだろう。
北倉が小さく溜め息を吐いてから、おもむろに口を開いた。
「まさか、君があそこへ入るとは、思わなくてね。説明しなかったんだが。…彼女は、理事長のお孫さんなんですよ」
「彼女…。あの、礼拝堂にいた女の子が? …そうか、だから北倉さん、あの子のこと、“お嬢さん”って呼ばれたり、敬語使われたりしてたんですね」
北倉が力のない微笑みを浮かべながら頷いた。
「ええ。あの子のことは、ほんのよちよち歩きをなさってた頃から存じてます。昔から、聡明なお嬢さんでね…」
そこからしばらく、“ユキお嬢さん”の思い出話が延々と続いた。北倉の説明から、おおまかにではあったが、彼女のことを知ることができた。
少女の名は、西王寺 風花。ここ風露学園の理事長・西王寺楓の孫娘で、正当な学齢では、この春で中学二年生になる少女だという。
“正当な学齢”と但し書きがつくのには理由があった。北倉によれば、彼女は昨年度の間、一度も自分の教室へ足を踏み入れたことがないのだという。いわゆる、不登校というやつだ。
しかし、不登校、といっても、一日中家に閉じ籠っているかといえば、そうではなかった。彼女の場合、学校へは来るが教室に入らないのだ。
一般的にそういった子は、保健室やカウンセリングルームなんかへ入り浸る。しかし、彼女はそれとも違っていた。
朝の始業時刻から夕方の終業時刻までの間彼女がいるのは、あの古びた礼拝堂なのだ。定期テストや実技科目の補習なども、全てあそこで受けたのだという。異常としか言いようがなかった。
カウンセラーも入れ代わり立ち代わり彼女の元へ派遣されたが、皆一月足らずで、早々に匙を投げてしまったのだという。
「昔は、ほんとうに、明るくて賢い、素敵なお嬢さんだったんですがねぇ。小学校の三年生くらいから、急に無口になって、笑うこともなくなって。六年生のときに、ある日の夕方、行方不明になったことがありましてね。私も一緒になって、一晩中探しましたよ。それで明け方、あの礼拝堂の奥で見つかって。
青ざめた顔で、妙に落ち着いた様子で“皆さんにご迷惑をお掛けしました”なんておっしゃって、頭を下げてきてね。小学校は何事もなく卒業されましたが、中等部へ上がった途端、不登校になってしまった」
そこまで一息に話すと、北倉は大きく溜め息をついた。そして思い出したように、冷めかけたコーヒーを啜った。
「その…理事長さんや、親御さんは、何も?」
こんなに重大な話を、なぜ自分にするのだろう、と内心首を傾げながらも、七春は尋ねた。手にしたカップの中は既に空になっていた。それに気づいた北倉は七春からカップを受けとり、コーヒーメーカーのある棚の方へと歩いていった。自分と七春との分それぞれにコーヒーを足すと、再びソファの方へ戻り、七春の向かいに腰かけた。
「どうも、そこが私にもよくわからなくてね。ほとんど黙認されているようで。理事長の可愛い一人娘の、そのまた可愛い一人娘。ってことで、甘やかしているのかなぁとも思えるけれど、楓さんも馨さんも、そんな感じの方々ではないんですよ。おまけに、“あの子はあのままで充分生きていけるから”なんて仰る始末…まあ、お二人とも、お仕事でしょっちゅう飛び回っている方だから、お嬢さん一人にかまけていられないのかもしれませんけど」
「お祖父様やお父様は?」
「お祖父様は彼女がお生まれになるずっと前お亡くなりに。お父上も、五年前に馨さんと離縁されて、確か一昨年お亡くなりになってますよ」
絵に描いたような崩壊家庭じゃないか、と七春は呆れ返ってしまった。
「それは…なんと申しますか…」
それ以上、二の句も次げずに七春は黙りこんでしまった。そんな七春の様子を見てとったように、北倉が言った。
「とにかく、そんな訳で、あそこは彼女の砦なんです。あそこが立ち入り禁止なのも、老朽化のためなんてのはウソっぱち。彼女があそこにいるのを知られないようにするためなんです。ですから、金輪際、あそこには近付かないようにしてください。それから、今話した件については、他言無用ですよ」
北倉に別れを告げ、七春は事務室を後にした。からりと晴れ上がった空を見上げながら、先ほどの少女の姿を思い起こす。
―不登校、か―
実を言えば、七春にも、「不登校」や「引き籠り」とまではいかなかったけれど、学校へ行くことが億劫に感じられた時期があった。
もともと病弱で、七春は幼い頃から入退院を繰り返していた。そして高校一年生のときに、丸々一年休学をし手術とリハビリとを受け、やがて復帰した。
問題はそこからだった。一年遅れで入ったクラスに馴染めず、新学期からしばしば仮病を使ってズル休みをするようになった。きっかけは、今ではもう思い出せないほどほんの些細なことだった。しかし、当時の七春にとっては重大なできごとだった、ということだけが、しっかりと記憶に刻まれている。
そこから立ち直るきっかけを与えてくれたのは、ある臨時講師の男性だ。よくある青春ドラマの熱血教師や人情派教師とは程遠い、冷淡そうな、陰気な印象の人物。しかし、たまたま休みの日に街中で出くわした際、彼が何気なく口にしたある一言が、七春の目を開かせたのだ。七春がズル休みを止める頃には学校を去っていて、もう顔も名前も思い出せない。けれども彼に対する感謝の念は忘れることがなかった。
七春が教師を志した一番の動機は、もしかしたら彼にあったのかもしれない。決して人気者にはなれないし、輪の中心に置かれることもない。でも、本人の知らないところで、ある種の子どもにとって、とても大切な救いを与えてくれる存在。
いつからか、そういう存在に自分もなりたいと思うようになっていた。それ以来、七春はずっと教師を夢見て邁進し続けた。同じ業界にいればいずれまた彼に会うことができるかもしれない、という思いもあった。
そして肝心の大勝負の日に、戦わずして敗けてしまったのだ。病院で目覚めて自分の「敗北」を知ったときは、あまりのショックに涙も出なかった。
大きく溜め息をついて、七春は運動場の方を目をやった。ジャージ姿の生徒たちが、白い息を吐きながら走り込みをやっている。
その内の一人が転びそうになった。すると傍を走っていた生徒たちが、笑いながらその生徒にからかいの言葉をかけた。転びそうになった生徒は照れ隠しらしい笑いを顔に浮かべながら、相手の生徒たちに何か言い返している。
あの礼拝堂にいる少女は、あの輪の中に入ることはないのだ。そしてあの薄暗くて埃っぽい礼拝堂の中で、日がな一日暇をもて余しているのだろう。
昔の自分と重なって、一瞬七春は胸が締め付けられるような心地がした。しかし、すぐに先ほどの彼女の言動を想い起こして、その気持ちを打ち消した。
彼女の様子からは、七春が味わったような罪悪感や後ろめたさ、同級生に置いて行かれる不安といったものは全く感じられなかった。
大学で受けた、教育心理の講義で見聞きした様々な単語や事例が頭に浮かんだ。しかしそのいずれも、彼女の状態には当てはまらないような気がした。
そのとき不意に、彼女がひどく気味の悪い存在に思えて、七春は背筋に悪寒が走るのを感じた。
―触らぬ神にたたりなし、だ。とにかく、今後はあそこへ近付かないように気を付けよう―
そう固く心に誓い七春は家路を急いだ。
「はい…はい。承知致しました。それでは、そのように伝えます。…あ、はい。よろしくお願い申し上げます。はい。それでは、失礼致します」
電話を切ってから七春は小さく溜め息を吐いた。
「まだまだカタいな、ぶっちー」
はっとして、七春は声の主を見た。同じ事務の辰美 (たつみ)という男性職員だった。
百八十センチメートルを軽く超す、長身のひょろりとした体躯に、撫で付け整えられた黒髪。小柄で腹がせり出した、白髪混じりの北倉とは、見事なまでに対照的だ。歳は三十代半ばといったところ。
仕事に一段落がついたところらしく、湯気を立てるコーヒーカップを片手に、彼は窓辺に佇んでいた。
七春は辰美から、窓辺で優雅に揺れるレースのカーテンへと視線を移した。半分開け放たれた窓から、心地よい春の風が吹き込んでくる。七春がここ風露学園に勤め始めてから、三週間が過ぎ、今は四月の後半に差しかかっていた。
「そう、ですか?」
恐る恐る尋ねた七春に、辰美が応える。
「そうだね。うちへ来たばかりの頃の君が、キンキンに冷えたゴリゴリくんのソーダ味だとしたら、今の君は茹で過ぎたタコってところかな」
「は、はあ…?」
わかりそうでわからない喩えに、七春は内心目を白黒させながら、ぼやけた返事をした。
「辰美さんがユル過ぎるんですよ。馬渕くんが茹で過ぎたタコなら、あなたは溶けたアイスクリームでしょ」
淡々とした口調で呟くようにそう言ったのは、もう一人の事務員、居縫奈緒だった。彼女の視線は目の前のパソコン画面に向けられたままだったが、辰美と七春との会話はしっかりと耳に入っていたようだ。
身長は百五十センチメートル足らずと小柄。黒い髪を、いつも黒いくちばしクリップで器用にまとめている。シンプルな黒縁眼鏡が鎮座している童顔の小さな顔には、ほとんど化粧っ気がなかった。服装も、モノトーンのパンツスタイルばかり好んで着ているらしい。
彼女は昨年度新卒で採用されたばかりの新人だという。歳は七春と同じそうだが、見た目だけなら高校生か中学生でも通りそうだった。
「そこまで言う?相変わらず手厳しいなあ、奈緒ぽんは」
「事実を言ったまでです。それと、その馴れ馴れしい呼び方そろそろ止めて頂けませんか」
七春は、二人のやりとりが自分そっちのけで飛び交うのを黙ってやり過ごしていた。ここへ来てから数日の間、ほとんど毎日同じ調子で、この二人の言い合いは繰り返されている。
ふと、七春は硝子張りの窓口に人影を見止めた。そちらへ目をやると、窓口から恐る恐るといった様子で事務室の中を覗き見ている、三人組の女子生徒の姿があった。
「おや。まーた、ぶっちー目当ての生徒さんかな?」
そう言いながら、辰美が窓の外の少女たちににこやかに手を振って見せる。すると少女たちは、少し戸惑ったような表情でお互いに顔を見合わせた。そしてちらちらと何度か七春の方を見た後、窓硝子の枠の外へと姿を消した。
「いやー、色男は大変だね」
「はははは…」
新学期が始まってから、ほとんど毎日休み時間の度に、中等部の学生―それも女子生徒ばかり―が、事務室へやって来ては七春を物珍しそうに眺めて去って行くのだ。七春には、どう考えても自分が珍獣扱いされているとしか思えなかった。
「ところで二人とも、もう二時半だけど、まだ仕事してるの?俺なんて、今日の分の仕事、もうほとんど終わっちゃったよ」
得意気に辰美が言うと、パソコンのモニターを注視したまま居縫が応えた。
「辰美さんと一緒にしないでください。私だって今日までの仕事は全て終わりましたよ。今は、来週までの仕事の最中です」
「奈緒ぽんは、ほんとうに真面目だなぁ。そんなに働き詰めで、よく病気にならないね。…ぶっちーもそう思わない?」
少し躊躇ってから、七春は応えた。
「実は俺も、今日の分は全部終わってるんです。それで、ほかの仕事を。来週の火曜まで南原さんがいらっしゃらないんで、それまでにききたいところを洗い出しておきたくて」
産休に入った南原だったが、四月中は七春の補佐として、週に二度、午前だけ出勤している。五月以降は、出産前後の経過をみながら、週一から月一で来ることになっていた。
今七春が使っている席は、数年前に退職した職員が使って以来物置になっていたものだった。その真向かいに南原の席があり、左隣に居縫、左のはす向かいが辰美、そのさらに左手側の“お誕生日席”が北倉の席となっている。北倉は用事があり、今は席を外していた。
七春の返事に、辰美は鳩が豆鉄砲をくらったような顔をした。そして、躊躇いがちに言った。
「今まで、奈緒ぽんみたいな子ってかなりレアだと思ってたんだけど…。最近の若い子って、結構真面目な子が多いんだね」
「フツーだと思いますけど…」
七春がそこまで言ったところで、入り口の引戸が音を立てて開いた。薄汚れた白衣姿の教員が、ドスドスと足音高く事務室へと入ってくる。
「辰美さーん、いる?ちょっと頼みたいことあるんだけど…」
「おお、鳥羽先生。久しぶりじゃありませんか」
その後、辰美と鳥羽という教諭とは、仕事ともプライベートともつかない話に花を咲かせた。
「どうです、今夜久しぶりに一杯。いいお店見つけたんですよ」
鳥羽がお猪口でお酒を飲む手真似をすると、辰美が満面の笑みを浮かべた。
「いいですね。今日は土曜ですし、なんなら二人で朝まではしごでもしましょうか」
「そんなことしたら、私が辰美さんの奥さんに怒られますよ」
「へーきへーき。うちのなんて、当分出張で家になんて居ませんから」
二人のやりとりを聞いていた七春は、そっと隣の居縫を見やった。居縫は七春の視線に気付くと、静かに目を閉じた。そして、七春に向かって小さく首を横に振ってみせた。
「もう今日のお仕事全部終った、有能で優しさ溢れる馬渕七春くーん。ちょっとおつかい頼まれてくれない?」
辰美のこの言葉に、七春は内心溜め息を吐きつつ立ち上がった。
「…はい」
辰美から頼まれたのは、高等部の事務室への届け物だった。高等部へ行くには、東側にある中等部の正門を一旦出なければならない。そしてそこから外の公道を通り、同じ敷地の西側にある高等部の正門から入るのだ。
歩きながら頭上に目をやると、学園のぐるりを取り囲む塀の内側から、桜の木が枝をあちこちに伸ばしているのが見えた。
少し前まで、薄紅の花びらがまるで雪のように地面を覆い隠していたものだ。しかし今では、とうに花の時期を過ぎ、木々は緑の葉をたっぷり蓄えた枝を、元気よく天へ突き出している。
まだ中等部の施設配置も覚束ない七春は、構内地図を頼りに目的の建物を目指した。
高等部の正門まで来たところで、見知らぬ男性に声を掛けられた。
「失礼。こちらの学園の職員の方でしょうか。少々、道をお尋ねしてもよろしいですか」
七春は、自分の首に掛けられた、この学園の紋章入りのネームプレートに目を落とした。そしてすぐに、男性をまじまじと眺めた。
見るからに仕立てのしっかりした三つ揃のスーツの上に羽織った、シルエットのきれいなフロックコート。洒落たネクタイの端を、高価そうなネクタイピンで押さえているのがちらりと見えた。コートと揃いの布でできた中折れ帽子を右手で胸に押さえ持つその姿は、「紳士」と呼ぶのに相応しいように思えた。顔は鷲を思わせる、少し日本人離れした顔をしていた。
―今どき珍しいな、こんな人―
男性をちらりと見やってそんなことを考えながら、七春は応えた。
「ええ。構いませんが…どちらへ?」
「中等部の正門へは、このまま真っ直ぐ進めばよろしいのでしょうか」
「ああ、はい。この塀に沿って歩いていけば、右手に見えてきますよ」
七春が正門の方を指し示しながら応えると、男性は会釈をして去っていった。七春も踵を返して、高等部の方へ歩きだした。
高等部の正門を通ったところで、男性にひとつ伝え忘れていたことがあるのに気が付いた。学外の人間が構内に用事のあるときは、事務室で入構許可をとらなければならないのだ。
―まあ、いいか―
今どき、一部の公立大学を除けば、ほとんどの学校で入構時に身分証の提示と入構許可証の携帯とが義務化されている。わざわざ教えるほどのことでもないだろう。七春はそう思い直した。
高等部での用事を済ませ、七春は中等部の事務室へと帰ってきた。中に入ると、辰美と居縫、そして北倉も自席に着き、七春を待ち構えていた。辰美が満面の笑みを浮かべながら言った。
「お帰り、ぶっちー。いやー、悪いねえ」
「いいえ…」
そう言いながら、七春は自分の席に着いた。そのとき、ふと先程の男性のことを思い出した。業者の営業、といった風でもないし、一体何者だったのだろう。
「そうだ。俺が出ていった後、学外のお客さん、いらっしゃいませんでした?」
珍しくパソコンのディスプレイから七春の方へ視線を移して、居縫が応えた。
「うん、いたよ。いかにもお金持ちそうなおじさま。それがどうかしたの?」
「さっき、外でその人に道を訊かれたんです。業者の人でもなさそうだし、どんな用件だったのかな、と思って」
興味なさそうに、ふうん、と居縫は呟いた 。すかさず、辰美が話に割って入ってきた。
「外資系企業の重役さんみたいだよ。身分証データに、○○商事勤務ってあったから」
「へえ」
辰美の言う「身分証」とは、数年前から全国的に導入された、カード式の身分証のことだ。これを専用の端末にかざすと、政府の管理するセンターから、そのとき必要なその人の情報を即座に照合することができる。
ただし、ある機関がそれによる身分照合を行うためにはいくつかの制約を課され、それをクリアしなければならなかった。そのため、まだ公立の機関や教育機関、医療福祉施設で普及し始めたばかりだ。
「そんな人が、一体何の用で…」
「うちの小礼拝堂を見学したいってさ。ほら、あの立ち入り禁止になってる古い方。かなり貴重な資材と建築技法が使われてるらしくて、月に何人か来るんだよね。見学希望者」
辰美の言葉に、七春は面食らった。
「え、いいんですか、見学許可して。だって、あそこには…」
不登校の、理事長の孫がいるのに…。そう言いかけた瞬間、辰美と居縫との背後にいる、北倉と目が合った。北倉はひどく狼狽えた様子で、手を振りながら、七春に向かって首を横に振ってみせた。もしかして、辰美と居縫とは、彼女のことを知らされていないのだろうか。
「あそこには?」
キョトンとした様子で自分を見つめる二人に、七春は慌てて言った。
「か、階段の上り口にロープが張ってあるじゃありませんか。かなり古い建物らしいし、近づいたら危ないんじゃありません?」
すると、辰美と居縫とが目を見交わした後、困ったような笑顔を七春に向けた。
「ああ、あれね。違うの。老朽化なんて嘘。聞いてないの?」
「えっ…どういうことですか?」
横目で北倉の顔色を伺いつつ、七春は居縫にきき返した。
「あの礼拝堂、ほんとはまだ使えるんだよ。専門家によれば、よっぽどの大地震でも来ない限り、あと百年は保つんだって」
「それじゃ、どうして立ち入り禁止なんかに?」
「…幽霊が出るんだって。うちの学園の制服を着た、女の子の幽霊」
「…え?」
思わず間の抜けた声を上げて、七春は北倉を見やった。北倉は引き結んだ唇に人差し指をあて、“黙っていなさい”の合図をしている。
「誰が言い始めたのかわからないけれど。私が入る少し前から、あの礼拝堂の、正面から見える窓の辺りに女の子の姿を見たって人が何人も現れてね。その前にも一度、理事長のお孫さんが行方不明になったとき、あそこで見つかったなんてことがあったらしくて。気味が悪いからって、PTAから要請があって、立ち入り禁止になったの。今どき、幽霊で立ち入り禁止なんて…びっくりだよね」
「へ、へえ…」
それは幽霊ではなくて、十中八九あの少女のことだろう。しかし、北倉の厳しい眼差しに曝された七春は何も言えず、当たり障りのない返事しかできなかった。
その日の放課後の見回り当番には、七春が当たっていた。校舎内の各教室の戸締りや、まだ残っている生徒がいないか、といったことを確認し、学内で最後に学校を出ていくことが当番の役目だった。
校門が閉まる完全下校時刻までにはまだ時間があったが、北倉と居縫とは既に退校していた。辰美だけが、不慣れな七春の補佐役として残っている。
来客用のソファで週刊誌を読みふける辰美を尻目に、事務室で黙々と仕事をしていた七春はふと、昼間のあの紳士がまだ姿を見せていないことに気がついた。
学外からの入構者は、帰るときに必ず事務室へ許可証を返却することになっている。入構してから既に二時間以上経っていたが、来校者リストにも退出時刻の記載はなかった。天道、というのが彼の名前らしい。
「辰美さん。そう言えば昼間のあの男の人、まだ戻ってませんよね」
辰美は週刊誌から七春の方へと視線を移した。そしてすぐさま壁掛け時計を見やりながら言った。
「ああ、天道さん?そういえば、全然戻って来ないねえ。もしかして構内で道に迷ってるのかな」
「俺、ちょっと探してきます」
外はまだ明るかったが、念のため、七春は様子を見に行くことにした。
小礼拝堂の前まで来た七春は、天道という男の姿を探した。途中で彼に出合わなかったので、まだ礼拝堂の周辺にいるかもしれないと考えたのだ。しかし、礼拝堂の周囲に人の気配はなく、あの男性の姿もなかった。
やはり、帰ろうとして構内で道に迷っているのだろうか、そう思いかけた七春の目の端に、キラリと光るものがちらついた。目をやると、礼拝堂へ続く階段の途中で、夕日を受けて光を放つものがあった。
七春は周囲に人がいないのを確認してから、立ち入り禁止のロープを越え、石段を上った。光っていたのは、ネクタイピンだった。七春には見覚えがあった。間違いなく、天道が身に付けていたものだ。
なんとなく胸騒ぎを覚えて、七春は礼拝堂を見上げた。よく見ると、入り口の扉が微かに開いている。
まさか、彼はこの礼拝堂へ入ったのだろうか。だとしたら間違いなくあの風花という少女と出合うはずだ。ひょっとして、二人ともまだ中にいるのだろうか。
少し考え難かったが、いずれにせよ今の七春の役目は、行方不明の天道という男を見つけることと、学内に残っている人間全てを追い出すことであった。気は進まなかったが、この礼拝堂の中を確認する必要もあるだろう。そう思い、七春はそっと礼拝堂の中へと入っていった。
礼拝堂の中へ入った七春は、音を立てないよう、後ろ手でそっと扉を閉めた。息を殺してあたりを見回したが、人の姿はなかった。もうここには誰もいないのだろうか、そんなことを思った矢先、頭上から人の声がした。
「…ですから、今、天道さんが取りかかってらっしゃることに関しては、直接的な利益や成功は望めないようです。ですがそこでできた人脈から、新たな可能性が掴める、という暗示が出ています」
あの、風花という少女の声だった。それに応えて、男の声が聞こえてきた。
「そうですか…。いや、この話には、はじめからどこか気が乗らなくてね。やはり…」
その後も、二人は長い間話し込んでいた。きこえてくるその内容から、少なくとも、いかがわしいことをしてるわけではないことは察せられた。それどころか、十代そこそこの少女が、その何倍も歳上の男の相談に、大真面目にアドバイスをしている。
何が何だかわからないまま、七春が息を殺して成り行きを聞いていると、やがて少女が言った。
「それでは、もう時間も随分経ちましたし、これで終わりにさせて頂きます。もしまたいらっしゃるときは、正門ではなくて、先程お伝えした裏口からお入りになってください」
「もう、こんな時間か。ありがとう。お蔭で、すっきりしましたよ。あいつから君のことをきいてここへ来たときは半信半疑だったが、ほんとうに、来てよかった」
さも満足そうにそう言った男に、少女は興味なさそうに応えた。
「そうですか」
「それで、見料は…」
「ツキシマさんからお聞きとは思いますが、お気持ちで頂戴しております。もしお持ち合わせがなければ、後日こちらへお振り込みになってください」
「そうですか。…では、こちらで」
しばらくの沈黙の後、少女が言った。
「それでは、確かに頂戴します」
「いや、ありがとう。また、困ったことがあったらよろしくお願いしますよ、西王寺先生」
その言葉に対する少女の返答はなかった。続いて、頭上を人が歩く物音がした。どうやら男は帰るらしい。
七春は慌てて、入口を挟んで螺旋階段と反対の方にある物書き台の裏に隠れた。男が階段を下り、出入り口の方へと歩いて行く。そして扉を開け、男は出て行った。
七春はほっとして、それから、もう少し待ってから自分も事務室へ帰ろう、と考えた。わざとではなかったが、盗み聴きをした後ろめたさから、まだ残っている少女に気付かれないうちに帰らなければならない、とも感じた。
やがて、頭上から大きな溜息と少女の声が聞えてきた。
「今日も無事、お勤め終了。ああ、お腹空いた。…ハガネ、ごめんね、今日は遅くなって。さっさと片付けて、早く帰ろう」
一体誰を相手に話しているのだろう、と七春は内心首を傾げた。
「ハガネ、どうしたの?…ハガネ?」
少女の言葉に続けて、螺旋階段を何かが駆け下りるような音が聞こえてきた。人のものにしては、やけに軽い音だった。
次の瞬間、物書き台の陰から何やら黒いものが七春の前に現れた。思わず叫び声を上げて後ずさりした七春は、足元にあった分厚い本に躓き派手に転んでしまった。
仰向けに倒れ込んだ七春の上に、その黒いものが覆いかぶさってくる。よく見ると、それは黒くて大きな犬だった。犬種は恐らくグレーハウンドか、それの交じった雑種だろう。湿って熱っぽい鼻先を七春の顔に突き出して、熱心ににおいを嗅いでいる。その犬の後を追いかけて下りてきたらしい少女が、七春の姿を見とめて声を上げた。
「あなた…」
礼拝堂の中を、しばらく気まずい沈黙が支配した。そのうち、犬は気が済んだらしく七春から離れ、少女の傍らへと駆け寄った。少女はなおも七春の方を呆れた様子で凝視している。やがて少女が口を開いた。
「あなた、どうしてここへ?」
立ちあがって身体についた埃を払い落しながら、七春は応えた。
「天道さんがなかなか事務室に戻って来なかったら、探しに来たんだよ。もしかしたらと思ってこの中も覗いてみたら、君と天道さんの話し声が聞えてきて…」
「どこから聞いてたの?」
「え?」
「さっきまでの、天道さんと私との会話。どこから聞いてたの?」
「ええと…。確か、“天道さんが取りかかってらっしゃることからは、利益や成功は望めない”とかなんとか、君が言ってた辺りから…」
溜め息を吐きながら、少女は言った。「…今ここで見聞きしたことを口外したら、この学校での居場所はなくなるからね」
「一体、何をしてたんだ?」
七春が尋ねると、少女は不快感を露わにして言った。
「あなたに話す義理なんて…」
しかしそこまで言い掛けると、少女はふいに黒犬を見やった。そして視線を七春の方へ戻し、今度は吟味するように、頭の天辺から爪先まで七春を眺め回した。やがて踵を返すと、上の方へ上がっていった。
「こっち」
何が何だかわからないまま、七春は恐る恐る軋む螺旋階段を登った。バルコニーのようなところへ上がってみると、そこにも何列かの座席が階段状に並んでいた。その一番後ろの、窓際の空間に丸いテーブルが置かれている。そのテーブルの向こう側へと回り込んだ少女が、テーブルの上を指し示しながら言った。
「これ」
テーブルの上には黒い布が敷かれ、その上に、何枚かのカードが並んでいる。以前、七春がこの少女に投げつけられたのと同じもののようだった。
「これは?」
七春の反応に、驚いたように目を円くして少女が言った。
「タロットカード。知らない?」
「話にはきいたことがあるけど…確か、占い師が使うものだろう」
「ご名答。これが私の商売道具。私、ここで毎日お昼頃だけ、占いやってるの。あなたもみてあげましょうか?」
今度は七春が目を円くする番だった。
「占い?…君が?」
不信感を隠しきれないまま、七春は訊き返した。少女がこともなげに返事をする。
「そう。私が。…こう見えても、半年先まで予約で一杯の売れっ子ですけど?」
彼女と初めて出合ったときのことを思い返して、七春はようやく合点した。あのとき、彼女は七春のことを占っていたのだ。
そこまで考えてふと、先程の彼女と天道とのやりとりを思い出した。見料だとか、お気持ちだとか、そんな単語が飛び交っていたはずだ。
「毎日やってて、お金、取ってるのか?」
「ええ」
「月にいくらくらい稼いでるんだ?」
少女が明らさまに、軽蔑したような眼差しを七春に向けた。しかし黙って左手で円を作ると、右手の指を数本立てて見せた。単位は、と七春が尋ねると、少女は小さな声で答えた。
その返答に七春は目を剥いて少女を見やった。少女が示した額は、一流企業での大卒の月給を軽く超えていた。すると、少女が居心地悪そうに視線を泳がせながら、弁解し始めた。
「別に、お金のためにやってるんじゃないのよ。子どもの頃からこういうの好きで、よくお祖母様やお母様のお仕事のことなんか占ってたの。そしたら、よく当たるってんでお祖母様やお母様のお友だちもみて欲しいっていらっしゃって。そうしてるうちに、そのお友だちのご紹介で、次から次へとみて欲しいって方が現れて。そのうち、お礼にってお小遣いくださるようになって…」
言葉を失ったまま、七春は少女を見つめるばかりだった。もともとオカルトの類いに興味のない七春には、とても信じられない話だった。しかし、彼女の身内が彼女の不登校に目を瞑っている理由が、わかったような気がした。
「そんなに当たるのか…?」
「多分。しばらくしてから、改めてお礼にいらっしゃる方や、何度もいらっしゃる方、あとは誰それさんの紹介で…って方なんかもいるし、当たるんじゃないかしら?」
少女の口振りは、まるで他人事のようだった。むしろそれが七春に、少女の話の真実味を感じさせた。まだ半信半疑のまま、七春は重ねて尋ねた。
「ほんとに、視えるのか?人の未来が」
少し考えこむ素振りを見せた後、少女は応えた。
「はっきり未来がみえるってわけじゃないの。ただ、相手がどういう人間で、どんな過去と背景とを持っていて、そこからどんな結末を引き寄せそうか、ってことが、なんとなくわかるの。カードを媒介にして」
思わず溜め息を吐きながら、七春は言った。
「それがほんとなら、まるで“ラプラスの悪魔”だな」
「何、それ」
怪訝な顔で尋ねる少女に、七春は応えた。
「ラプラスっていう数学者が想像した、架空の存在のことだよ。もっとも、ラプラス本人は“悪魔”じゃなくて“知性”って言葉を使ってるけど。…“ある瞬間の全ての物質の、あらゆる状態を把握して、その情報を正確に解析できる知性が存在するなら、そいつは全てを見透かすことができるだろう”ってね」
「数学者…?変なこと知ってるのね、あなた」
そこで七春ははたと気がつき、慌てて言った。
「俺、大学で物理学専攻してたんだ。子どもの頃から理科とか数学とか好きで、科学者の伝記なんかもかなり読み漁ってたんだ」
入退院を繰り返していて、友人たちと思い切り外で遊ぶことのできなかった七春にとって、数少ない興味の対象はそれだった。ガリレオ、ニュートン、アインシュタイン…特異な才能と鍛え抜かれた知力や根気とで、他の誰にも真似のできないことを成した科学者たちの物語に、幼い七春は夢中になったものだ。そしてそれに対する興味は、中学、高校、大学と続き、そして今も続いている。
「ふーん。…友だちいなかったの?」
「失礼なヤツだな。いたよ。…多分」
そう言い返しながら、友人と呼べる人間が、鹿野を始めとして数えるほどしかいないことに七春は気がついた。人生で唯一の恋人すら、彼の紹介で知り合った相手で、彼がキューピッドも同然だった。今ではその恋人も、その当人に奪われてしまったのだと思い至り、密かに七春は落ち込んだ。
そんな七春を尻目に、少女はテーブルの前に座った。黒犬がその後に続き、少女の足元に寝そべる。少女が、テーブルの上に広げられたカードを手早く掻き集め始めた。
「あなたのご友人の有無はともかく。…なんだか意外ね。因果関係のはっきりした現実だけをひたすら相手にしてるイメージの科学者が、そんな非現実的な空想するなんて」
「そうかなあ」
七春が言い返すと、少女が一瞬手を止めて、七春を見た。窓から差し込む夕日が、少しいたずらっぽい微笑みを浮かべた少女の顔を、くっきりと照らし出した。
「そうじゃないの?」
七春はそのとき初めて、彼女がかなり整った顔立ちをしていることに気がついた。まだはっきりと残るあどけなさに紛れて気づかなかったが、あと数年経てば、誰もが振り返るような美人になるだろう。
そこで、今更ながらに二人きりであることを意識してしまった。子ども相手に自分は何を緊張しているのかと動揺しながら、思わず視線を逸らして咳払いをした。それまで少女の足元で目を瞑り寝そべっていた黒犬がふいに目を開け、琥珀色の瞳を七春の方へ向けた。
「物理学も数学も、それ以外の分野も、自然科学は一種の哲学だよ。沢山の“たられば”を繋ぎ合わせて、辛うじて現実と結びついてるだけだ。もしも途中の繋ぎ方をひとつでも間違えれば、たちまち出口のない幻想の世界に迷い込んでしまう。…大学で学んでいる間に、そういうものなんじゃないかって思うようになったんだ。その危うさが魅力の一つなんだろう、とも思うけど」
そこまで話して、七春は言葉を止めた。そして、目の前で何十枚ものカードを振り分けていく少女を見やった。カードには一枚一枚全て異なるイラストが描きこまれている。しかしどれがどういった意味を持つのか、七春には見当もつかなかった。
「俺、占いって全然興味ないからわからないけど…。カードって、確か一枚一枚にそれぞれ意味があるんだよな。それ、全部覚えてるの?」
ふと、少女が手を止めて七春を見た。そして不思議そうに、少し警戒するような表情で、首を傾げながら応えた。
「最初はね。でも、そのうち覚えようとするのはやめちゃった」
「どうして?」
「解説書を書いた人によってカードの解釈が少しずつ違っていて、調べれば調べるほど混乱しちゃったの。しばらくしてからは、カードそれぞれの大まかなイメージと、あとは絵解きで占うようになった」
「絵解き?」
「カードの中の人物がどんな表情で、どこを見ているか、とか、書きこまれているシンボルは何か、とか、どんな背景が描かれているのか、とか。それで、カード同士を組み合わせて物語にするの。ほとんど直感」
「それで、よく当たるね」
すると、少女は少し困ったような微笑みを浮かべた。
「タロットは、クライアントの潜在性と、そこから導き出されうる可能性とを映し出す鏡でしかない。そして占い手は、人と鏡とを繋ぐ媒介。そこで働くのは、人智を超えた“神の啓示”の類いじゃなくて…あくまでも、人間の経験や知恵から得られる“予感”。この世界に、“神が定めた運命”なんてものはない。未来なんて、その人の持つ潜在性の範囲内であれば、いくらでもつくり変えることができる。そういう意味では、未来のことに関して占うとき、当たるとか当たらない、なんて尺度ではかっても、意味はないのよ」
「それって、“第六感”とか“虫の知らせ”とか呼ばれるもののこと?…未来がいくらでも変えられるものだと解っているなら、占いはなんのためにあるんだ?」
なんとなくはぐらかされているような気分になりながら、七春は尋ねた。少し考えるような素振りを見せた後、少女は応えた。
「繰り返しになるけど…。占いは、占われる人間の潜在性と可能性とを映し出す鏡でしかないの。確かな未来なんて存在しないってことに、多くの人は気付いてる。だけどときたま、どうにもならない理由で、人は自分を見失ってしまうことがある。そういうときに頼るのが、占いなのよ」
「へえ…。なんだか、カウンセリングに似てる」
「そうね…そうかもしれない」
しばらくの沈黙の後、少女が口を開いた。
「でも、ただカードを眺めるだけだと、正しく読み取ることは難しいの。ある人にだけ、特別な意味が与えられるカードもあったりするから。そこで、その人の生年月日や出生時刻から得られる情報も参考にする」
「生年月日?…ああ、それで」
以前、少女が自分のことを占ったときのことを、七春は思い出した。その考えを読み取ったように、少女が頷く。
「そう。だからあのときも、あなたの生年月日をきいたの」
「アセンダントがどうとか、影がどうとか言ってたけど…?」
少女が得意げに微笑んで応えた。
「アセンダントは、星座の一種。雑誌なんかに載ってる星座占いは、産まれたとき太陽の方向にある星座を扱ったもの。それとは別に、その人が産まれたとき、東の地平線上にあった星座はアセンダント星座と呼ばれ、その人の本質を示すと言われてる。…で、影っていうのは、またそれとは別。生年月日を足し合わせた結果に当てはめられるタロットカードのうち、その人の隠された性質を示すもの。二〇xx年の五月二十七日十九時生まれのあなたの場合、太陽星座はジェミニ―双子座、アセンダントはサジタリウス―いて座で…影のカードは“太陽”。これ以外にも、生年月日で割り当てられる星座やカードはいくつかあって、それらを総合したものを、その人の個性として、タロットのリーディングに反映させる。カードばかり眺めているように見えて、実際には占い手は、もっと広くて、もっと深くて、もっと遠いところを見てるの」
「ふーん。…なんだかよくわからないけど、複雑そうだね」
「慣れるとそうでもないわよ」
さも嬉しそうに、少女はにっこり笑って言った。なんとなく、彼女が不登校になった原因の一端を垣間見たような気がした七春であった。七春自身、多少変人扱いされる部類の人間であったが、彼女はそれを超えているように見えた。
しかしその口ぶりだけを見れば、アイドルや部活といった、自分の好きなことを熱心に語る「普通の少女」と大差はなかった。ただ、その内容がいささか浮世離れしたものだということを除けば。
「そういえば…。俺の生年月日、よく覚えてたね。ひと月も前のことなのに」
「私、一度きいた人の生年月日は忘れないから。特にあなたの誕生日は覚えやすかったし。5+2=7って、等式になるでしょ。…人の誕生日で計算式作るの、子どもの頃からの癖なの」
少女の返答に、七春は思わず笑ってしまった。
「ああ、それ、俺もよくやるよ。人からは笑われるけど」
少女は嬉しそうに目を細めて七春を見やった。
「へえ、そうなの?私、自分以外でそういうことするって人、初めて会った。…あなた、やっぱり変わってるのね」
「そういう君の誕生日は?」
少女の最後の一言は聞えなかったことにして、七春は尋ねた。思いがけないところで同志に出合って、妙にうきうきした気分になっていた。
「三月二十九日。特に何の式も作れなくて、つまんない日」
「できるよ。三の自乗は九だ」
「ジジョウ?」
キョトンとした少女の表情を目にした瞬間、七春ははっとした。彼女の学年では、指数計算や対数計算をまだ教わっていないことを、うっかり忘れていた。
「これから教わる、計算式の書き方だよ。同じ数同士の掛け算を表わすときに、その数字を一つだけ書いて、その右上に小さく2を書くんだ」
「ふうん…」
少女が呟くようにそう応えるのと、礼拝堂の扉が開くのとは、ほとんど同時だった。続いて、誰かが中へと進んで来る足音が聞えた。
「おーい、ぶっちー、いるかーい?天道さん、もうお帰りになったよ。おおーい、ぶっちーい」
辰美の声だった。とっさに、七春は目の前の少女を見やった。すると、少女は黙ったまま、右手で七春を指し示した。そして、そのまま差し出した手と視線とを、階下の方へと動かして見せた。
七春はバルコニーの縁の辺りまで歩いて行き、少し身を乗り出して下の方へ声をかけた。
「辰美さん、ここにいます。すみません、すぐに行きます」
すると、突然の頭上からの声に驚いた様子で、辰美が七春の方を振り仰いだ。
「ああ、びっくりした。ぶっちーか。なんで、そんなところにいるのさ?」
「それは…」
思わず少女の方を振り返ると、少女は人差し指を唇に当てる仕草をして見せた。七春は向き直り、辰美に言った。
「天道さんを探して、ここに入ったんですが…。せっかくだから、ここからの眺めを見てみたいなーと思ってここまで上がって、あんまり景色が綺麗で、ぼーっとしてたみたいです。ご心配おかけして、すみません」
「へえ…そう。幽霊出るって噂があるのに、よく平気でそんなところまで行けるね。俺、こういうところ怖くてだめ。ぶっちーって、結構変わってるよね。…ひょっとして、もう幽霊にとり憑かれてたりして」
「ははははは…。まさかそんな」
背後にいる少女の存在を意識しつつ、七春は笑ってごまかした。
「…まあ、いいや。それじゃ、俺先に事務室戻ってるから。閉門時刻までには帰って来てね」
そう言って出て行こうとする辰美に、七春は慌てて声をかけた。
「辰美さん、待って下さい。俺も一緒に戻ります」
ふと振り返って少女を見ると、少女はひらひらと七春に手を振り、微笑んだ。夕日が差し込むステンドグラスを背景に姿勢よく腰掛ける少女の姿は、どこかフェルメールの絵画を想わせた。七春も思わず微笑み、会釈をしてから螺旋階段を下りた。
辰美が礼拝堂を出て行った後、頭上から少女の声が聞えた。
「またね、“ワンドのペイジ”さん」
恐らく七春を何かのカードに喩えたのだろう。単なる遊び心から出たものだったのかもしれないが、なんとなくこの言葉に、少女がタロットを通してしか世界を見ていないような印象を受けて、七春は戸惑った。七春の中でわずかに芽生えかけた少女への親近感が、しおれていくような感覚を覚えた。
しかし次の瞬間、あることに思い至り、はっとした。もしかしたら、この奇妙な呼び名は、自分が最初に投げかけた言葉に対する彼女なりの返答なのかもしれない、と。頭上を振り返り少し躊躇った後、七春は言った。
「気をつけて帰れよ、“ラプラスの悪魔”」
少女からの返答はなかった。自分の思い違いだったのだろうかと危ぶみながら、七春はそのまま礼拝堂を後にした。天道という男のネクタイピンがまだポケットに入っていたことに気がついたのは、事務室へ戻ってからのことだった。
七春がアパートの自室へ帰り着くのと、携帯電話の着信音が鳴りだすのとは、ほとんど同時だった。靴を脱ぐのももどかしく感じながら着信画面を見ると、そこには“鹿野和秋”という名前が表示されていた。
なんとなく胃が縮まるような感覚を覚えながら、七春はその電話に出た。「はい、馬渕です」
『よお、ハル。久しぶり』
電話口から聞えてきたのは、聞き慣れた幼馴染の声だった。思いがけず軽いその口調に戸惑いつつ、七春は応えた。
「よお、アキ」
『元気か?最近全然連絡くれないから、心配してたんだぞ。今どうしてるんだ?…もしかして、実家?』
「いや。まだ前のアパートで暮らしてる。今、大学の近くの、私立の中学校で事務員やっててさ…」
『なんだ、そうなん?…だったらさー、今度飲み行こうぜ。この間さ…』
相変わらずのマシンガントークに面食らいながら、七春はしばらくの間、鹿野と近況の報告をしあった。やがて話すネタも尽きてきた頃、意を決して七春は尋ねた。
「ところでさ、芽衣は元気?」
芽衣とは、七春のかつての恋人の名前だ。元をたどれば、彼女は鹿野の部活の後輩で、七春がたまたま大会へ彼を応援に行ったとき、彼女と知り合ったのがきっかけで付き合い始めた。今では、鹿野の恋人のはずだ。
ところが、鹿野の返答は七春には思いがけないものだった。
『…え、菊池?あいつのことなら、お前の方がよく知ってるだろ。…もしかして、別れたのか?』
この返事に、七春は一瞬頭の中が真っ白になった。しかし次の瞬間、目が覚めたような感覚に襲われた。自分に別れ話を切り出したとき、彼女は「鹿野と付き合う」とはひとことも言っていなかった。ただ七春が早合点したに過ぎないのだ。鹿野の様子から考えると、七春に話したことも、どこまで本当のことだったのか怪しい。
そのことに思い至った瞬間、頭から血の気が引いて行った。自分自身途方に暮れていた頃とはいえ、自分の迂闊さや暢気さに腹立ちすら覚えた。
『おい、どうした。あいつと何かあったのか?』
「いや、何でも…」
とっさにそう返事をしそうになったが、七春は思い直した。もしかしたら、彼女は自分が思っている以上に窮状にあるのではないか、そんな気がしてならなかった。七春は、思い切ってことの次第を全て鹿野に打ち明けた。
話を全て聞き終わると、鹿野が言った。
『確かにお前が入院してた頃、親父さんのことで多少相談に乗ったけど…。お前が退院してからは全然会ってないし。そんなことになってたなんて、思ってなかった』
「そうか…」
『大体な、お前。そういうことはちゃんと俺に確認しろよ。菊池とそんなことになったら、俺からお前にはっきり伝えるぞ。何年の付き合いだと思ってるんだよ、親友だろ。もっと信用してくれよ…』
心底腹を立てた様子の鹿野に、戸惑いと安堵とが入り混じった気持ちを感じながら、七春は鹿野に詫びた。自覚していた以上に、自分は他人を信用できていなかったらしい。
「とにかく、今、芽衣がどうしてるか知りたいんだ。だけど俺、あいつの友だちとかよくわからなくて…。なあ、アキ。悪いけど、少し調べてもらえないか」
『わかった。ちょっと時間かかるかもしれないけど、わかったらソッコー連絡する』
そう言うと、七春が礼を言うか言わないかのうちに、鹿野は電話を切った。溜息を吐いてから、しばらくの間、七春は携帯電話の画面を見つめた。
あの少女が言っていた“試練”とは、もしかしたらこれのことかもしれない。そんな考えが脳裏を過ぎった七春であった。
その言葉通り、鹿野は数日のうちに七春へ連絡を入れてくれた。鹿野が調べたところによると、菊池芽衣はこの春づけで大学を自主退学し、アパートも引き払っていた。友人たちもその後のことを知らないらしい。実家の建物や土地はすでに人手に渡っていて、親兄弟ともども消息がつかめない、とのことだった。
七春の方でも、近くの興信所にあたってみた。しかしそこで提示された人探しに対する報酬額は、今の七春には到底手の届かないものだった。
ほとんど八方塞がりの状態のまま、ただいたずらに毎日が過ぎて行った。それでもなんとかして芽衣の消息を掴めないかと、七春は頭を悩ませた。そんな折、事務室へ来客があった。立ち入り禁止の礼拝堂を見学したいという、いかにも裕福そうな老紳士だった。恐らくはあの風花という少女の客だろう。
彼の入構許可手続きをしていた七春は、ふと、あることを思い出した。数日前拾った天道という男性のネクタイピンが、まだ自分の席の抽斗に入ったままになっていたのだ。
今日帰るときあの風花という少女に渡そう。顧客なのだから、住所くらいは知っているだろう。そんなことを考えながら、七春は来校者リストに自分の判子を押した。
夕方、七春はまっすぐにあの礼拝堂へと向かった。人気がないのを確認してからロープをくぐり抜け、石段を上る。古めかしい木の扉を開けると、古い本特有の匂いと、草か何かが燃えるような煙くさい臭いとが鼻を突いた。
「ごめんください。…西王寺風花さん、いませんか」
そう言いながら奥へ進んで行くと、頭上から声がした。
「あら、ほんとにまた来たのね。今日は何の用?」
西王寺風花の声だった。バルコニーの方を見上げてみたが、少女の姿はなかった。声のした方に向かって、七春は言った。
「前にここへ来たとき、入口のところでネクタイピンを拾ったんだ。多分、天道さんって男の人のだと思う。持って帰ったまま、今まで忘れてたんだけど…君に頼むのが一番確実かなと思って。天道さんに返しておいてくれないかな」
「あ、それ。少し前に天道さんから問い合わせがあったから、送り返しておくわ。…今、ちょっと手が離せないの。こっちまで上がって来てくれない?」
「ああ…。ちょっと待って」
七春は螺旋階段を上がって行った。バルコニーへ上がってみると、少女が例の円卓の前に座ったまま、作業をしていた。卓上には、煙を放つ手のひら大の貝殻とカードとが置かれている。貝殻から出る煙を、手にした鳥の羽根で扇ぐことで、カードの束に送っているようだった。
「何してるんだ?」
七春が尋ねると、少女は顔も上げずに応えた。
「これ?カードの浄化。あ、ネクタイピン、そこに置いといて。…ありがとう」
卓上の、少女に示されたところにネクタイピンを置いて、七春は立ち去ろうとした。しかし次の瞬間ふと閃いて、踵を返した。
「なあ、占いで人探しってできるかな」
少女が手を止め、七春の顔を見つめた。
「できなくはないけど…そういうのって警察や興信所の領分でしょ。どうしたの?」
「俺の彼女が―元だけど―今、行方不明で。せめて、無事なのかだけでも知りたいんだ。できたら会って話しをしたい」
七春から自分の手元へと少女は視線を戻した。しばらくの間黙り込んだままだったが、やがて言った。
「私、みるのは一日一人って決めてるの。それを別にしても、今のあなたを占うことはできない」
「どうして?」
すると少女は卓上のカードの束を手に取った。そしてそこから三枚のカードを抜き出し、卓上に広げた。一枚目は、ローブらしいものですっぽりと全身を覆った老人がランタンを手に佇む図、二枚目は、雷雨を背景に、三本の剣を突き立てられたハートが浮かんでいる図、そして三枚目は、雷が直撃している塔の天辺から男が真っ逆さまに落ちていく図。一枚目だけ七春から見てカードが逆さまになっていた。
「これが、今のあなた」
「どういう意味?」
「今、あなたが菊池芽衣さんと会っても不毛に終わるだけってこと」
「どうして芽衣のことを知ってるんだ?」
「ナイショ」
問い詰めようと七春が少女に近づこうとした途端、黒犬が牙を剥きだして七春ににじり寄ってきた。不穏なものを感じて七春は思わず後じさりした。
「守秘義務ってやつ。悪いけど、今日はもう帰って」
そう言って七春を見た少女の顔には、貼りついたような微笑み以外、何の表情も読み取れなかった。突然、彼女が何か、人間の営みを超越した存在のように感じられて、七春はぞっとした。
敵意の籠った黒犬の眼差しに追い立てられるようにして、七春は礼拝堂を後にした。様々な疑問が頭の中で渦をなしていた。
石段を下りきったところで七春は見知らぬ女性から声を掛けられた。白髪の、顔つきも物言いもきびきびとした、上品な女性だった。顔に見覚えがあったが、どこで見たのかとっさに思い出せなかった。
「失礼。貴方、馬渕七春さん?」
「はい。…どちら様ですか?」
「あら…ごめんなさい。あたくし、西王寺楓と申します」
そう言いながら、その女性は七春に名刺を差し出した。名刺の肩書部分には、上品な文字で“風露学園理事長”と書きこまれていた。その女性の顔をまじまじと見つめた後、七春は慌てて言った。
「これは、大変失礼致しました」
「いいのよ。こちらこそ孫がお世話になっているのに、御挨拶が遅れてごめんなさい。ここ数日、あちこち飛び回ってたものだから…」
「お世話?」
思いがけない言葉に面食らって見つめ返す七春には構わず、女性は言った。
「折り入ってご相談したいことがありますの。ちょっと、お時間頂けないかしら」
自分が所属する組織のトップにそう言われて断る度胸など、七春は持ち合わせていなかった。そしてここからが、七春の、受難の日々の幕開けであった。
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