第六話:自由の終着点と、偽りの救済
冷たい夜風が、私の頬を叩く。
逃げ出すために脱ぎ捨てた華美なドレスの代わりに、身に纏っているのは地味で動きやすい平民の服。
城門を抜け、暗い街道の影に身を潜めた瞬間、私は初めて肺の奥まで空気を吸い込んだ。
(逃げられた。……本当に、逃げられたんだわ)
鼓動がうるさいほどに鳴っている。
隣で同じように息を切らしているサーラの手を取り、私は声にならない喜びで彼女の手を強く握った。
彼女がいたから、私はここまで来られた。
彼女だけが、私の「沈黙」の裏にある悲鳴に気づいてくれた。
あとは、手配された馬車に乗るだけ。
そうすれば、アルフレートの手も、あの銀の剣も届かない場所へ――。
ガタゴトと、闇の向こうから車輪の音が聞こえてきた。
約束の乗合馬車だろうか。私は安堵に膝の力が抜けそうになりながら、その影を見つめた。
……けれど、現れたのは、質素な馬車ではなかった。
月の光に照らされて浮かび上がったのは、漆黒の塗装に金細工が施された、見紛うはずもない公爵家の紋章。
「…………っ!」
心臓が、氷を飲み込んだように冷たくなった。
馬車が私の目の前で静かに止まる。
御者が扉を開けると、中からゆっくりと、一人の男が降り立った。
銀髪を夜風になびかせ、冷徹な氷の瞳で私を見つめる、私の死神。
「……こんな時間に、散歩かな? エルシア」
アルフレートは、震えてその場に崩れ落ちた私の前に跪いた。
彼は怒るどころか、まるで迷子を見つけた親のような、慈愛に満ちた――それゆえに狂った笑みを浮かべている。
「夜風は体に障る。君のために用意させていたんだ」
彼は、持っていた最高級の黒狐の毛皮を、私の肩にふわりと掛けた。
重厚な毛皮の熱が、絶望に凍える私を包み込む。
そのまま、彼は抗う力も残っていない私を、赤子でも扱うように優しく抱き上げた。
「……ぁ……あ……」
声にならない悲鳴が喉でつかえる。
なぜ。どうして彼がここにいるの?
パニックで視界が歪む中、私は彼の肩越しに、地面に伏して震えているサーラを見た。
「サーラ……?」
アルフレートは、私の耳元で甘く囁きながら、もう片方の手で腰からずっしりと重い革袋を取り出した。
「よくやった、サーラ。彼女をここまで安全に導いた功績は大きい。……これは約束の報酬だ」
ドサリ、と鈍い音を立てて、金貨の詰まった袋がサーラの足元に投げ出された。
「……ひっ……あ、ああああ……っ!!」
サーラは金貨を拾おうともせず、その場に突っ伏して泣き叫んだ。
土に顔を擦り付け、狂ったように謝罪の言葉を口にする。
「申し訳ありません、お嬢様……! 申し訳ありません……っ! でも、弟たちが、家族が……彼に……っ!!」
(……ああ、そう。そういうことだったのね)
理解した瞬間、目の前が真っ白になった。
私の唯一の希望、唯一の味方だと思っていた彼女さえも、最初から彼の掌の上で踊らされていたのだ。
私が必死に集めた宝石も、練り上げた計画も、彼にとっては私をより確実に追い詰めるための「遊び」でしかなかった。
逃げ場なんて、最初からどこにもなかった。
私は、ただ彼が用意した大きな鳥籠の中で、自由を夢見て羽ばたいていただけ。
「さあ、帰ろう、エルシア。……暖かい部屋で、二人きりで、君の『沈黙』の続きを聞かせておくれ」
アルフレートの胸の鼓動が、私の背中に伝わってくる。
それが、私を貫いたあの剣の冷たさよりもずっと、ずっと恐ろしかった。
私はその恐怖に耐えきれず、深い深い闇の中へと意識を放り出した。




