第五話:闇に溶ける筆跡と、見守る深淵
深夜、ローゼンベルク侯爵邸。
時計の針が重なる音だけが響く静寂の中、私の部屋の扉が、音もなく開いた。
「……お嬢様。失礼いたします」
現れたのは、夜着の上に薄い上掛けを羽織ったサーラだった。彼女の手には、冷え切った体を温めるための、湯気の立たない冷めた茶。……表向きは、不眠に悩む主人を気遣う侍女。けれどその実、彼女は私の唯一の共犯者。
私はベッドから這い出し、机の上に用意していた小さな黒板を引き寄せた。
声を出すことは、今の私には死を意味する。だから私たちは、誰の耳にも届かない「文字」で言葉を交わす。
『準備は?』
チョークが微かな音を立てる。サーラは頷き、懐から古びた羊皮紙――王都の裏路地の地図を取り出した。
「西門の近くに、平民を運ぶ乗合馬車の手配をつけました。三日後の深夜、衛兵の交代時間を狙います。お嬢様の宝石は、私が少しずつ街の質屋へ。怪しまれないよう、数軒に分けて換金しています」
サーラの声は、消え入りそうなほど小さい。
私は彼女の手を取り、力強く握りしめた。
一周目の私なら、こんな風に誰かと手を取り合うことなんてなかった。常に自分が一番で、周囲は自分を飾る道具でしかなかったから。
死を経験して初めて、私は「誰かを信じる」という、当たり前でいて、この上なく危うい絆を知った。
『ありがとう。……ごめんなさい、貴女を巻き込んで』
「おやめください。私は、お嬢様をあんな……あの、小公爵様の『飾り』にはさせません。……自由になりましょう。誰にも邪魔されない場所へ」
自由。
その言葉の甘美さに、視界が滲む。
あの男のいない世界。
呼吸をするたびに、喉元に刃を突きつけられているような恐怖を感じなくていい世界。
(あともう少し。この沈黙を貫き通せば、私は「死」から逃げ切れる)
私はサーラと頷き合い、計画を記したパピルスを、暖炉の残り火で跡形もなく焼き払った。
立ち昇る煙を見つめながら、私は自分に言い聞かせる。
大丈夫。彼は気づいていない。
今日も彼は、私の「沈黙」を愛おしそうに眺めていただけだったから。
◇◇◇
幕間:公爵家の執務室にて
自邸の執務室で、私は一人、クリスタルグラスを傾けていた。
揺れる琥珀色の液体。それは、愛しい婚約者の瞳の色によく似ている。
「……ふふ、くすぐったいな、エルシア」
目を閉じれば、手に取るように分かる。
異能を通じて届く、彼女の微かな心の震え。
恐怖と、焦燥。そして、その奥に芽生えた「希望」という名の、あまりにも脆い輝き。
彼女が侍女と手を取り合い、私の手の届かない場所へ逃げようとしている。
そのために、私の贈った宝石を安値で叩き売り、泥臭い乗合馬車に身を預けようとしている。
……なんて健気で、なんて愚かなんだろう。
「逃げる場所など、この世界のどこにもないというのに」
侍女が換金しようとした宝石は、すべて私が裏から手を回して回収させた。
彼女が頼りにしている馬車馬の御者も、身分を偽るための通行証を用意した男も、すべて私の息がかかった「飼い犬」だ。
彼女は今、必死に自分の手で、私という蜘蛛が張り巡らせた巣の中に、さらに深い繭を編んでいるのだ。
「……言えたなら、どれほど楽だろうね」
胸の奥に、不意に鋭い痛みが走る。
彼女の恐怖を拭いたい。
一周目の真実を話し、俺がどれほどお前を愛しているか、その喉を灼くほどの熱い言葉で伝えたい。
だが、私が「真実」を口にした瞬間、彼女の心臓は止まる。
契約の呪いは、無慈悲だ。
私は彼女を生かすために、彼女にとっての「最悪の殺人鬼」であり続けなければならない。
「お前のその『希望』が、最高の絶望に塗りつぶされる瞬間……。お前は、どんな顔をして俺を見つめる?」
その時、彼女はきっと、叫ぶことすら忘れて、究極の沈黙の中に落ちるだろう。
その静寂こそが、私の魂を救う唯一の音楽。
「楽しみだよ、エルシア。……三日後の夜、お前の『自由』の終着点で待っている」
私は飲み干したグラスをテーブルに置き、彼女が焼き捨てたはずの計画書――その「写し」を愛おしそうに撫でた。




