第二話:沈黙のドレスと、氷の騎士の熱
(……夢じゃない。絶対に、夢なんかじゃない)
鏡の前に立ち尽くしながら、私は自分の喉元を何度もなぞった。
指先に伝わるのは滑らかな皮膚の感触だけ。けれど、脳裏にはあの銀色の閃光と、内臓を抉るような「熱くて冷たい」鋼の重みが、呪いのように刻まれている。
五年前に戻ったのだ。
彼に恋焦がれ、振り向いてほしくて、醜い嫉妬と虚飾で自分を塗り固めていた、あの忌々しい日々に。
(……詰んでいるわ)
絶望が、冷たい水のように足元から這い上がってくる。
ローゼンベルク侯爵家は名門だが、相手はさらに格上の公爵家。しかも王命による婚約だ。
私から「嫌になったのでやめます」なんて言えば、家は取り潰し、私は良くて修道院、悪ければ不敬罪で処刑だろう。
死ぬ未来を変えたい。けれど、逃げ道がない。
唯一の希望は、向こうから「こんな女はいらない」と愛想を尽かしてもらうことだけ。
「お嬢様、そろそろお支度の時間です」
サーラの声に、私は弾かれたように顔を上げた。
鏡の中の私が、ひどく青ざめた顔でこちらを見返している。
今日という日は最悪だ。婚約披露パーティ――私が「公爵夫人の座」を勝ち取ったと、周囲に、そして何よりアルフレートに見せつけるために、一ヶ月前から騒ぎ立てて用意させた、私のための晴れ舞台。
(……いいえ、違う。これは、私が「死」へ向かうためのパレードの始まりよ)
私は、血のような深紅のドレスに身を包んだ。
一分一秒が惜しい。私は着替えの間、一言も発さなかった。
サーラが「顔色が悪いですよ」「お疲れですか?」と心配そうに話しかけてくるが、私はただ、人形のように目を伏せ、唇を固く結び続ける。
準備を終え、私は屋敷の控室で彼を待った。
指先を組み、沈黙の中に身を沈める。
そこへ、予定よりもずいぶん早く、扉が開く音がした。
「……待たせたな、エルシア」
心臓が、嫌な音を立てて跳ねた。
ゆっくりと顔を上げると、そこに「彼」がいた。
アルフレート・フォン・ディトハルト。
月の光を溶かしたような銀髪に、すべてを射抜くような氷の青眼。
騎士団の制服に身を包んだその姿は、神々しいまでに美しく、そして――吐き気がするほど、残酷なまでに「あの夜」のままだ。
私を殺した男。
一度目の人生で、私が魂を削ってまで愛し、そして最期にすべてを奪われた男。
(……来ないで。こっちを見ないで)
私は反射的に立ち上がり、深々と頭を下げた。
もちろん、声は出さない。一秒でも早く彼を遠ざけたい。不気味だと思われてもいい、愛想を尽かされるなら本望だ。
けれど。
「……エルシア?」
目の前に、磨き上げられた軍靴が見えた。
近い。
一度目の人生、彼は私に近づこうとはしなかった。私がどれほど縋り付いても、彼はいつも一定の距離を保ち、氷の壁のように私を拒絶していたはずなのに。
顎を、強く、けれど壊れ物を扱うような指先で掬い上げられる。
強制的に視線を合わされ、私は息を呑んだ。
(……何、これ)
彼の瞳の奥に、見たこともないような「熱」が渦巻いている。
一度目の人生では一度も向けられたことのない、暗く、重く、粘りつくような視線。
それはまるで、獲物を巣に持ち帰ろうとする猛禽のようで。
「……今日の君は、驚くほど静かだ。まるで、別の生き物のようだ」
彼の低い声が、至近距離で鼓膜を震わせる。
私は震えを悟られないよう、ただ無言で、琥珀色の瞳に拒絶の色を浮かべて彼を見つめ返した。
(話さない。一言も。貴方に、私の心なんて二度と触れさせない……!)
「いい。……その沈黙、嫌いではないよ」
彼は微かに口角を上げると、私の手に自分の手を重ねた。
エスコートのために差し出されたその手は、驚くほど熱く、私の逃げ場を塞ぐように強く握られた。
そのまま、私は一度も口を開くことなく、華やかな光と喧騒が待つパーティ会場へと連れ出された。
「沈黙の令嬢」としての、私の二度目の戦いが幕を開ける。




