第一話:沈黙の夜明け
「…………っ、はぁ、はっ……!」
喉の奥からせり上がる、焼けるような熱。
私は跳ね起きると同時に、自分の胸元を狂ったように探った。
(ない……、穴が開いていない。血も、あの銀の剣も……)
ドクドクと、うるさいほどに心臓が脈打っている。
手のひらに伝わるのは、冷たい汗と、滑らかなパジャマのシルクの感触だけだ。
震える足でベッドを降り、私は吸い寄せられるように姿見の前へと向かった。
そこに映っていたのは、紛れもなく「私」だった。
燃えるような、鮮やかな赤髪。一周目の私が、彼の目を引きたくて毎日香油を使い、磨き上げていた自慢の髪だ。
そして、意志の強さを象徴するような、鋭くも美しい琥珀色の瞳。
陶器のように滑らかな白い肌に、勝ち気な笑みを浮かべるためにあるような形の良い唇。
客観的に見ても、私は「美しい」のだと思う。
けれど、それはどこか毒々しく、周囲を威圧するような、まさに「悪役令嬢」に相応しい華美な美貌だった。
(……この顔。この瞳。この声で、私は彼に縋り付いて、そして、殺された)
鏡の中の私は、一周目の最期よりもずっと瑞々しい。
絶望を知らず、彼に愛されていると信じ切っていた頃の、傲慢なまでの輝き。
「お嬢様? どうなさいました、そんなにお顔を近くして」
入ってきた侍女のサーラが、驚いたように私を見た。
彼女の姿を見て、心臓が止まりそうになる。2年前に私の元を去ったはずの、幼馴染のような侍女。
「サーラ……? 今日は、何日……?」
「ええ? 大陸暦402年の5月12日ですが……。お嬢様、もしや昨夜の喜びで知恵熱でも出されましたか?」
五年前。
……夢じゃない。私は、あの惨劇の夜から、17歳の「今日」に戻ってきたんだ。
「お嬢様、ぼうっとしてはいられませんわ。昨夜、アルフレート様との婚約が正式に決まったばかり! 今日は夕刻から、お披露目の晩餐会ですのよ!」
サーラの浮かれた声が、今の私には呪いの言葉にしか聞こえなかった。
アルフレート・フォン・ディトハルト。
王国一の騎士家であり、公爵家の跡取り。
格下の我が家から、それも国王の裁可が降りた婚約を破棄することなど、逆立ちしても不可能に近い。
(どうすればいい? また、あの男に付きまとって、嫌われて、挙句の果てに殺されるの……?)
喉の奥に、あの「冷たくて熱い」鋼の感触が蘇る。
「こんな事したくはなかった」という彼の、湿った、悍ましい声が耳に張り付いて離れない。
……もう、嫌。
彼に愛されたいなんて、もう思わない。
声を聞いてほしいなんて、二度と願わない。
「……様? エルシアお嬢様?」
不審そうに顔を覗き込んできたサーラに、私は一瞥もくれず、ただ、固く唇を閉ざした。
(話さない。笑わない。文字すら綴らない)
筆談用のボードも、愛を綴ったパピルスも、すべて捨ててしまおう。
今日から私は、心も言葉も持たない「壊れた人形」になる。
誰も愛さず、誰にも関わらない、無口で不気味な女。
そうすれば、完璧主義の彼のことだ。
きっと、私への興味を失って、いつかこの忌々しい婚約を白紙に戻してくれるはず。
(今度こそ、私は……貴方の前から、音もなく消えてみせるわ)
それが、私にできる唯一の「復讐」であり、唯一の「生存戦略」だ。




