第5話 即堕ちぬくもりてぃ
「ほらよ」
「……ありがとうございます」
「なんだ。このコーヒー嫌いだったか?」
「いえ、そんなことは無いです」
空気が重いインシデント対策室から抜け出した俺と部長は、休憩の為に社内のレクリエーションルームへとやってきた。主に弁当組が昼食を食べる場所で、昼休みになると満席に近いくらい埋まっている。今日は休日なので部長と貸し切りになってるけどな。
対策室の空気に当てられた俺の気分転換の為に部長がここに連れて来てくれたわけだが、そこでコーヒーを奢って貰った。もちろんその気遣いはとてもありがたいわけだが、つい思ってしまったんだ。
真心さんだったら違うのを選んだだろうな、って。
彼女はいつも俺が飲みたいと思うものを淹れてくれる。それは濃いめのお茶の日もあれば、酸味薄めのコーヒーの日もあれば、紅茶やカフェオレの日もある。俺は何も言わないのに、どうして分かるのかが不思議だ。普通は今の部長のように適当に選ぶと思うんだがな。
「真面目なのはお前の取り柄の一つだが、あまり無理はしすぎるなよ。心を病ませるために連れてきたわけじゃないからな」
「分かってはいるつもりなのですが、あそこまでメンタルをやられそうな空気だとは思わなくて」
「気持ちは分かる。私も結構限界だ」
「部長がですか?」
「私を何だと思ってるんだ」
そりゃあ数々の女性陣の嫌がらせに負けずに愚直に成果を積み上げ、出世してからも中間管理職として上と下の圧力を見事に捌いてみせた女傑ですよ。メンタルお化けじゃないですか。
って言おうとしたけど、なんか怒られそうな気がしたから止めた。
「まったく。私はちゃんと気分転換してストレス発散をしているから平気なだけなんだよ」
「それって旦那さんのことですか?」
「そうなのぉ!あの人ったら、私が疲れて帰った日はいつも優しく…………」
おおすごい。
みるみるうちに顔が真っ赤になって行く。
いつも優しく何をしてくれるか非常に興味があるところだけれど、もしそこを追及してしまったら部長の惚気話を延々と聞かされることになってしまうから止めておこう。大量のお砂糖摂取は体に悪いからな。
「こ、こほん。それはそれとして、今回やらかしたのはお前の同期だったんだな」
「はい。仕事に対して熱意がある立派な男だと思ってたんですけどね」
「熱意があるのは本当に仕事に対してだったのか?」
「…………正確には出世、ですかね。でも似たようなものでしょ」
出世するためには仕事を頑張らなければならない。だから仕事に対して熱意があると表現してもおかしくはないはずだ。
「全然違うな。そして今のお前の話を聞いて納得したわ。あいつは成果のためなら何をしても構わないという危険な思想の持ち主だったんだろう」
「もしかして部長、何か詳しい話を聞いてるんですか?」
「ああ、なんであいつが業務用PCを持ち帰ったのかが不思議だったんで真中さんに聞いてみたんだ」
確かに言われてみれば、うちの会社で業務用PCを持ち帰る必要なんて全く無い。
「全社員にシンクライアント端末が配布されてるからそれ使えば良いですものね」
シンクラとは他のPCへ遠隔で接続する機能だけを持ったノートPCのこと。実際のデータは会社に置かれている業務用のPCの中にだけあって、社外からはシンクラを使って社内の業務用PCにアクセスして作業する。もちろんアクセスにはパスワードが必要だし、アクセスした履歴が会社のサーバに残る。
だからシンクラを紛失しても、シンクラそのものにはデータが入っていないため安心だし、パスワードを突破されて業務用PCに接続されたかどうかもアクセス履歴を見れば分かるんだ。
久内が社外で作業したくても、シンクラさえあれば大丈夫なはず。それなのにどうして業務用PCをわざわざ持ち出したのかは確かに不思議な話だ。
「もしかしてシンクラが壊れてたんですかね」
「いやそうではない。あいつは家でこっそり仕事をするために、いつも業務用PCを持ち帰っていたらしい」
「え? 話が見えないんですけど……家で仕事をするならシンクラで良いですよね?」
「だから、こっそり、仕事をするためだ。シンクラで業務用PCにアクセスすると、アクセス履歴が残って会社にバレるだろ」
「うわぁ、つまり、業務用PCを持ち帰って、ネットにつながずに作業することで、休日に仕事をしてることがバレないようにしてたってことですか」
人よりも優れた成果を出して出世するために、隠れて仕事をしていたのか。
出世のためにそこまでするのかよ。
「あいつの成績は一官の中でも群を抜いて良かったらしい。そのからくりが業務外で仕事をやりまくってたってことだったわけだな」
「最近は残業も一分単位で厳しく管理されますからね。勝手に休日に仕事なんてしたら、いくら成果が出てもマイナス評価は間違い無し。だからこっそり仕事をしてたのかぁ」
やりたいことはやらせてあげたい主義の俺だが、ルール違反は問題外。
同情も出来んな。
「あれ、でもおかしくないですか。業務用PCって自分の席においてチェーンでロックしてあるじゃないですか。持ち帰ってたら同僚にバレそうなものなんですが」
「それが、一官はフリーアドレス制を採用しているらしいんだ」
「あっ」
フリーアドレス制とは自分の席が決まってなくて、毎日好きな席を利用する方式だ。だから帰宅する時、その席は翌日他の人が使うかもしれないためPCなどを棚にしまっておく。
「仕舞うフリをして鞄に入れたんですね。なんて姑息な真似を……」
そういうことを堂々とやれる胆力があるからこそ、飲み会まで持って行ったんだろうな。
俺がミスなんかするはずがない、これまで大丈夫だったんだから平気だろ。
ってな感じで。
「お前は大丈夫だと信じているが、絶対に気をつけろよ」
「はい。というか、こんな体験したらできませんよ」
「ははは、だな」
それに出世なんて程良く出来ればそれで良い。
無理しすぎず幸せに生きるのが俺の人生の目標だ。
「大分顔色が良くなったな」
「おかげさまで。そろそろ戻りましょうか」
「こまめに休憩するんだぞ」
「はい。せっかく可愛い彼女が出来たのに、いきなりメンタルやられて病院送りだなんて笑えませんからね」
「その調子だ」
残ったコーヒーをぐいっと飲み干して気合を入れ、部長と共に対策室へと戻った。
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端的に表現すると地獄だった。
時間が経つにつれて空気が更に重くなり、目に見えない不安の濃度と粘度が凄まじく体全体にべっとりと纏わりついて来るかのようだ。
あまりにも息苦しくて、何度も何度も休憩を入れてしまう。やがて休んでも気持ちが完全に軽くなることは無くなってきて、単調な作業で徐々に慣れて来るはずなのにペースが段々と落ちてしまう。
飯の時間になっても腹が減らず、途中で何人かがギブアップし、俺も部長も死んだ目になりながら粛々と作業を進めていた。
「…………」
粛々と。
「…………」
淡々と。
「…………」
余計なことを考えず。
「………の」
心に闇が入り込まないように。
「……さの」
はは、闇と病みをかけてるのかもな。
「……佐野!」
「え!?あ、部長!?」
あっぶねぇ!
メンタルが崩壊する直前だった気がする!
「無茶するな」
「部長だって酷い顔ですよ」
「こら、女性に向かってなんてこと言うんだ」
「えぇ……この場合はセーフでしょ」
「どんな場合でも女性は美しくありたいって思うものなんだよ」
「その役は旦那さんにお任せします」
「だ、だだ、旦那は関係ないだろ!?」
狼狽する部長の姿を見たら、少しだけ気が楽になった気がする。
「ふぅ。私を揶揄おうとするのはお前くらいだぞ」
「すいません」
「いや、お前はそのままで良い。それよりだ、帰るぞ」
「え?」
「なんだ気付いてないのか。外を見ろ」
「…………明るい」
途中で夜になったことはなんとなく覚えている。
外が暗くなったことで部屋の中の空気がより一層重くなったから。
でもいつの間にか朝になっていただなんて。
「確かにもう限界なのでギブアップさせてもらいたい気分ですが、居なくなって大丈夫ですか?」
「ああ、始発でようやく一官の連中が来るらしい。なんとあいつら、プロジェクトで忙しいとか言ってたくせに、大半の連中は普通に家で休んでたらしい」
「…………」
「もう少し残れば真中さんの説教が聞けるかもしれんが、どうする?」
「止めておきます。そういうの趣味じゃないので」
「そうか」
彼らが最初からやっていれば俺がこんなに苦労する必要は無かったと思わなくもない。自分でやると言ったから自分に責任があることだが、人間の心理としてそれはそれとして、俺よりも遥かにやるべき人達が休日を謳歌していたと思うと恨み節も出てくるものだ。
彼らが怒られてざまぁと思う権利はあるのかもしれない。
ただ、俺ってそういうの見ても気分が良くならないタイプなんだよな。だからさっさと退散させてもらうことにする。
「私は真中さんと少し話をしてから帰る。お前は先に帰りな」
「分かりました。お疲れ様です」
「お疲れ」
部長と別れ、対策室のメンバーに挨拶をして部屋から出る。
全員が物凄い感謝の言葉をかけてくれて、また少しだけ気分が軽くなった。
でも澱んだ心を払しょくするには全く足りない。
「ふわぁあ、徹夜とか久しぶりだな」
しかもこんなに嫌なことだらけでの徹夜だなんて、人生で初めてかもしれない。
外は僅かに明るくなってきているが、俺の目には闇しか映らない。
「ひっ!」
何事かと思って前を見たら、前から歩いてきた男性が俺の姿を見て怖がっていた。そんなに酷い顔をしているのだろうか。
いや違うな。こんな時間にここを歩いているってことは、呼び出された一官の人なのだろう。心底疲れ切った俺の姿を見て、会社がどうなっているのか想像して恐れ戦いたのだろう。ふふ、現実はお前が思っている百倍も千倍も酷いから覚悟しな。
「さむ」
短かった秋が終わり、冬が近い。
朝はもうかなり寒くて、冷たい風が身に染みる。
その風が心の病みを吹き飛ばしてくれれば良いのだが、むしろ体が弱まることで心までも再び弱まり出す始末。
人が恋しい。
温もりが恋しい。
だがそれは、日曜日で閑散としている早朝のオフィス街では簡単に手に入らないもの。その事実に気付き、虚しさから立ち止まりなんとなく空を見上げた。
「お疲れ様です。佐野さん」
ずるい。
ずるすぎる。
こんなのあんまりだ。
一番弱った時に、一番苦しい時に、一番欲しいものが目の前にある。
「今日は寒いですね。こちらをどうぞ」
手渡されたのは自販機で売っている温かいコーンポタージュ。
そう、お茶でもコーヒーでもなく、ずっとこれが飲みたかった。
「それと、もしよろしければこちらもどうぞ」
彼女が俺に近づき、そっと手を伸ばす。
そして首にマフラーを巻いてくれた。
ああ、なんて温かいんだ。
首が、身体が、そして何よりも心が温かい。
彼女の優しい想いが俺の全てを包み込む。
真心さんの陽だまりのような笑顔と心遣いで、心に巣食ったいやなものが一気に消滅した。
「ありが……とう」
「はい。どう致しまして」
こんなにも世界は明るかったのか。
人っていうのはこんなにも温かかったのか。
愛おしい。
愛おしい愛おしい愛おしい愛おしい。
真心さんが傍にいてくれて嬉しい。
これからもずっと傍に居て欲しい。
いつしか心の中はそんな想いで満ち溢れていた。
ああ、どうしようもないくらい彼女に夢中になってしまうに違いない。
そんな予感しかなかった。




