第32話 愛しい人が家で待っていてくれることの幸せ
『今日も深夜前までかかると思う』
つくしにスマホの方のチャットでそう伝えたら、可愛らしい頑張れスタンプが返って来た。それだけで疲れた体にやる気が満ちるのだから男なんて単純なものだ。
「二人とも、帰れるならさっさと帰れよ」
「どの口が言うんスか」
「佐野さんこそ帰って下さい。真心さんが待ってますよ」
つくしは別の場所で別の仕事をしていて、定時までしか働けないため先に帰っている。定時後も遅くまで仕事をすれば長く待たなくて良いと思われるかもしれないが、それは難しい。
まず、今のつくしの仕事は炎上プロジェクト側からお金が出て作業をしているということ。定時まで働く分のお金しか貰っていないため、それ以上働くと赤字になってしまう。
それなら定時後は俺達の方の仕事をやれば良いという話になるのだが、時間がかかる作業を割り当てられないため必然的に資料の整理などの小さな作業ばかりをお願いすることになってしまう。しかもつくしはそれらをテキパキと素早くこなしてしまうため、残業するにしても遅くまでかからないのだ。
「……そうだな。帰るか」
「え!?」
「え!?」
「どうしてそこで驚くんだよ」
唆したのはお前らだろ。
「いやだって、『つくしは俺が仕事を頑張ることを望んでいるんだ。キリッ』とか言うかと思ったッスから」
「ケンカなら買うぞ?」
「ひいっ!ごめんなさいッス!」
台詞の方は分かるが、そんな気持ち悪いドヤ顔なんてした覚えは一ミリもねーわ。
「ですが佐野さん、私も丑岡と同意見です。忙しい時は少しでも早めに多く進めるのが佐野さんの性格だと思ってましたので」
「おお、良く見てるな。確かに今まではそうだったかも」
それは残業代欲しさと、少しでもスケジュールに余裕を持たせようと必要以上に進めていたから。作業バランスが良くないなってのは前から思っていた。
「早く帰りたい理由が出来たから、今まで以上にメリハリをつけて作業をするようになったってことさ」
やるべきことが多くスケジュールはキツキツではあるが、無理をしすぎる程の状況ではまだ無い。今日予定していた作業が終わり、キリが良いのであれば帰るのは普通の話だ。
つくしに会いたいという気持ちが、俺の考え方を変えてくれた。
そしてそれはポジティブな変化だと俺自身が思っているから、つくしが嫌がることも無いだろう。
「というわけで俺は帰る。二人も無理はするなよ。今からはりきりすぎると、肝心なところで持たないからな。まぁ稼ぎたいなら話は別だが」
「分かったッス。適当なとこで切り上げるッス」
「私もそろそろ帰ります」
一昔前は深夜終電が当然の業界だったらしいが、今はそんなことをしたら会社から怒られてしまう。部門によっては未だに昭和時代のクセが抜けない厄介な連中が残っているけれど、少なくともうちの部門では不必要な残業が正義だなんて風潮は全く無い。逆に必要な時に残業しているのが悪だなんて風潮もない。部長がスタンスを明確にしているのが大きいのだろう。
『区切り良くなったからやっぱり今日はもう帰る』
わーいと喜ぶ可愛いスタンプが返って来た。よし、爆速で帰ろう。
机の上の物を引き出しに仕舞い鍵をかけ、コートを着る。
「お疲れさま」
「お疲れ様ッス」
「お疲れさまでした」
南雲さんは外出先で仕事中。部長も今日は外出直帰しているので、晴着さんと丑岡にだけ挨拶をしてフロアを出た。
エレベータで一階に降りて外に出ると、思わず体をぶるりと震わせてしまった。
「さっむ」
二月の夜。
しかも今日は今シーズン屈指の寒い日らしい。
「うわ、雪降ってるじゃん」
そりゃあ寒いに決まっている。つくしから貰ったマフラーを少しきつく巻いて温もりを求めてしまう。
そういえばあの日も寒かったっけ。
辛くて苦しい時につくしが迎えに来てくれた日。
このマフラーを貰った日。
そしてつくしへの想いが芽生えた日。
当時の気持ちが思い起こされ、つくしに会いたいという気持ちが爆発的に増加する。
「急いで帰らないと。電車が止まったらシャレにならん」
まだ全然積もる気配は無いが、一気に降り出したら分からない。都会の電車はほんの僅かな雪ですら大ダメージを受けてしまうのだから。
厚着をしていても感じる寒さから逃げるように、足早に駅へと向かう。幸いにも駅についたらそう待たずに電車が到着した。ホームも寒かったからマジ助かる。
「ふぅ……」
車内はとても暖かく、ほっと一息ついてスマホを取り出す。
そういえば最近ゲームをあまりやらなくなったな。電車の中では大体ゲームをやって時間を潰していたのに。
つくしと一緒に通勤しているからというのもあるけれど、つくしがいなくてもつくしとの生活をどうしようかなんてことばかり考えている。いずれ今の生活に慣れたらまたゲームをするようになるのだろうか。
そんなことを考えながら電車を乗り継いで最寄り駅に到着した。
遅くまで開いているスーパーにもコンビニにも用はない。まっすぐ家を目指して早足で歩く。
早くこの極寒の寒空から解放されたい。
つくしに会いたい。
家族以外でこんなにも誰かを強く求めたのは初めてだ。
つくしが居ない生活などありえない。
会う時間が少し減っただけでこんなにも寂しく感じてしまうだなんて。
「はぁっ、はぁっ、はぁっ、はぁっ」
いつの間にか早足から小走りに変わっていた。
雪の量が増えて顔に当たるのが煩わしい。
でも冷たい空気が肺の中に満ちる感覚は悪くはない。
「ついた!」
建物の中に入ったけれど、エレベータは上の方だ。
いくら急いているとはいえ階段を登る気にはなれず、エレベータ呼び出しボタンを子供のように連打する。
「ふぅ……ふぅ……」
エレベータに乗ると、ただ帰るだけなのに息を切らしていることがなんとなく恥ずかしくなり、必死に息を整えた。目的の階に到着したらゆっくりと歩き、心臓が落ち着くのを待ってから自宅の扉を開ける。
「ただいま」
「おかえりなさい」
温かい。
暖房がかけられた部屋の空気が流れて来た。
美味しそうなご飯の香りが漂って来た。
慈愛に満ちた可愛い女性の声が聞こえた来た。
愛しい人が家で待っていてくれることの幸せ。
ああ、生きていて良かった。
そう強く思ったからか、鞄を玄関に放り投げてつくしを抱き締めてしまった。
「おかえりなさい」
「ただいま」
つくしは俺の行動に驚かず、もう一度挨拶をしてくれた。
そうだった。ただいま、と言えることも幸せの一つ。きっと他にも気付いていない多くの幸せが複合しているに違いない。
抱きしめたことで幸せを更に実感すると、同時につくしが愛おしくなる。
「つくし……」
「ん……んあっ……ん……」
体を少し離し、貪りつくようにつくしと唇を重ねた。それはまるで熱い夜のように、つくしへの愛おしさを全力でぶつける。絶対に逃がさないと言わんばかりにつくしの体を強く抱き、ぴちゃぴちゃと下品に音を立てながら激しく大人のキスをする。
「…………ふぅ」
「くすくす。ご飯の準備しますね」
「ああ、着替えて来る」
昂った情熱は瞬間的なもので、不思議とすぐに治まった。そのまま滅茶苦茶に抱き潰してしまいそうな程の熱量だったのに何故終われたのか。
今の気持ちを単なる肉欲で消費したくなかったから。
なんて話だったら少しは格好良かったかもしれないけれど、多分お腹が空いているから。
空腹を刺激する超良い匂いがしてるんだもん、しゃーないだろ。
手洗いをして部屋着になってからリビングに向かうと、丼に入れられてなおぐつぐつと熱さを主張する鍋焼きうどんが置かれていた。
「うおおお、超美味そう。食べよ食べよ」
「はい」
ちなみにご飯を食べるのは俺だけでない。
ご飯は一緒に食べたい派の俺の気持ちを汲んで小さな鍋焼きうどんを作って食べてくれる。
もう深夜に差し掛かる時間帯。俺が帰るまでつくしが夕飯を食べないのは流石に申し訳なく思うので、軽く食べて夜食も一緒に食べるという方法を選んでくれたのだ。
「はふはふ、あっつ、あっつ……美味い!」
「良かったです」
外が寒くて体の奥底がまだ少し冷えているからということもあるのだろう。鍋焼きうどんの熱は今の俺が心の底から欲しているものだった。もちろん味も抜群だ。それになによりも、この時間なので消化に良いメニューを選んでくれる気遣いがまた最高だ。
「くぅ~疲れた胃に染みるぅ」
「お疲れ様です」
「つくしもお疲れ、今日はどうだった?」
「それがですね……」
温かな部屋がある。
温かな人が待っている。
そこで今日一日のことをまったりと話す。
たったそれだけ。
されども俺にとって人生で最も幸せと言っても良い時間。
いや、違う。
俺達にとって人生で最も幸せと言っても良い時間だ。




