第30話 家で乾杯して静かに二人で語りあう金曜の夜
「お疲れさま」
「お疲れ様です」
ソファーに並んで座り、チンと軽くグラスを合わせ、中の液体を一口だけ飲んでみた。
「おお、飲みやすい。口の中がきゅっとする感覚がほとんど無いな」
「はい。流石プロが選んだワインは美味しいですね」
金曜日の夜。
今日は家飲みしようと思って帰りに二人で酒屋に寄り、何を飲もうか話をしていたら店主から赤ワインを勧められた。ワインは酒の中ではそんなに好きな方では無かったので断ろうとしたけれど、ワインが苦手な人でも美味しく飲めると言われて興味本位で買ってみた。
確かにこれは美味い。こんな口当たりが良いワインを飲んだのは初めてだ。もちろん香りも抜群に良い。料理と合わせなくても単独でこんなに美味しいワインがあるんだなぁ。
「尚哉さん、どうぞ」
「さんきゅ。このチーズも美味そうだ」
「良いお店を見つけましたね」
「ああ」
フラっとなんとなく立ち寄ってみた個人商店だったんだけど、大当たりだった。良い店との出会いに乾杯、なんつって。
「ああ~幸せだ~」
仕事が順調で、素敵な人が隣にいる。
そして美味しいお酒とおつまみで週末をのんびりと楽しめるだなんて最高すぎる。
「尚哉さんお仕事で大活躍でしたものね」
「そんなことあるさ」
「くすくす」
「今日ばかりは自慢しても良いと思うんだけどなぁ」
「はい。むしろいつもが謙虚すぎです。そこがまた良いところですけど」
「はは。ありがとな」
自己評価が低いのか、謙虚なのか。
自信満々に振る舞うべきなのか。
うう~ん、難しい。
つくしは今のままで良いって言ってくれるが、少なくとも仕事面では他人を不快にさせすぎないレベルではありたいものだ。
「良くあの方を納得させられましたね?」
あの方、というのは親会社から出向して来た事業部長のこと。
俺達が作っている製品に分散処理を追加させるために送り込まれてきたのだけれど、客の力を借りて分散処理など不要だと強引に拒否した。
でもそれで問題が解決したわけではない。
メンツが潰れてしまった事業部長のフォローをして親会社との関係が悪化しないように気をつけなければならないし、何しろ事業部長は客から怒られようが分散処理をやりたがっている。最悪、新機能追加と並行してどっちもやれだなんて言い出しかねない。
どうにかして事業部長に心から納得してもらって円満に作業を進められる環境にする必要があった。
「技術屋なんてのはな、目新しい面白そうな技術が目の前にあれば飛びつくものなのさ」
そしてまさに事業部長は技術特化タイプの人材だった。
「そんで、新技術を研究してる研究所が大好き。英語の論文が大好き。論理的に考える力があるくせに、それらのバックグラウンドを調べずに妄信してるからどれだけ説得しても聞きやしない」
「だから研究所の人達に相談したんですね」
「そういうこと。俺達がやろうとしていることってかなり難しいことで、最新の技術が使えるかもしれなかったからな」
そうしたら研究所の人が興味を持ってくれて、俺達のために研究してくれることになった。しかも海外の論文で参考になりそうなものがいくつかあるらしく、その話を聞いた事業部長が露骨に興味を抱いた。
敵として送り込まれたはずの事業部長を味方にしてしまえば、これほど心強いことは無い。
事業部長にこの変化が起きたのが、丁度今日だったんだ。だからこの晩餐はちょっとしたお祝いみたいなもの。本当はチームのみんなで祝いたかったけれど、用事があるらしく断念した。
「尚哉さんってとても聡明な方ですね。素敵です」
「はは。褒めすぎだって。それにいずれつくしも出来るようになるさ」
「いえ、私には難しいです」
「それはまだ技術力が足りてないからだろ。つくしは俺以上に相手のことを理解してやれるから、もっと勉強して技術的な説得力を得ればいつかきっと俺よりスムーズにことを運べるようになるだろう」
部長と同じで、つくしは管理職が向いているのかもしれないな。
技術面でも紙が水を吸うようにぐんぐん成長しているし、あっさりと実力が抜かれてしまいそうで少し怖いくらいだ。というか、俺に尽くすことに時間を取られているはずなのに、いつ勉強をしているんだ。不思議でならない。
「いえ、そうではないんです」
「え?」
つくしの謎めいた時間管理システムについて考えていたら、つくしが少しだけ悲しそうな表情になり苦笑していた。
いかん、これは慰めねば。
「私は相手の考えを変えさせることが酷く苦手なんです」
「そうなのか?」
「はい。相手が望むことが分かると、それを叶えてしまいたくなるので……」
「あ~なるほどな~」
相手が喜ぶことをしてあげたい。
それがつくしの性格。
だから今回の場合だと、事業部長が喜ぶならば分散処理を実現してあげたいという考えになってしまうのだ。
「それだとあっちが立てばこっちが立たずで困ることあっただろ」
「……はい」
相手が一人ならば問題ない。
でも社会では複数の立場の人間と関わらざるを得ない。
事業部長を立てれば俺達が苦しみ、俺達を立てれば事業部長が嫌がる。
どちらも喜ばせることは難しく、詰んでしまう。でもつくしはどちらにも喜んでもらいたいから悩んで苦しんでしまう。
良いことをしようとしているはずなのに、それがつくしを苦しめる。
なんて悲しいデッドロックなんだ。
「だから尚哉さんは凄いんです。相手の中に『存在しない望み』を生み出して、ハッピーエンドを作っちゃいました」
「それは少し違うかな。事業部長は確かに分散処理を取り入れたいっていう願いを持っていたけれど、その願いの本質は『革新的な技術を扱いたい』だったと思う。俺はその願いと俺達の願いを同時に叶えられる方法を偶然見つけられただけさ」
分散処理はその願いの一つってだけの話。まぁ、今となってはもう分散処理なんて革新的とまでは言えなくなってるけどな。だからこそ、より目新しそうな話に食いついてきたわけだが。
「はい。私もそこまでは分かっていました。でも、その時点で一番やりたいと思っていることを叶えてしまいたくなります……」
たとえそれが願いの本質で無かったとしても、本人がそれを強く望みだと意識しているのであれば、それを優先して叶えて喜んでもらいたい。
小難しく表現しているが、ようは俺みたいに小賢しい真似はしないで、素直に喜ばせたいってだけの話か。
「つくしはそのままで良い。なんて言えたら格好良いんだけど、仕事をする上では変わらないとな」
「はい。頑張ります」
良かった、つくしに笑顔が戻った。
そのままで良いと言って欲しいのか、変わりたいという気持ちを後押しして欲しいのか。俺の答えは二者択一になっていた。つくしの気持ちを理解できているかが試されていた。
尤も、この程度、間違えるはずもないけどな。
「じゃあつくしの今後の成長を願ってもう一度」
「くすくす、それに加えて尚哉さんのより一層の発展を願って」
「その良い方やめてくれ。仕事を思い出してしまう」
「くすくす。じゃあ私達の幸せを願って」
チン、ともう一度ワイングラスを鳴らした。
「ん~、やっぱり美味しい」
「おつまみも食べましょう」
「話もしながらな」
「はい」
テレビもつけず、静かなリビングで二人きり。
些細な話や真面目な話をゆっくりと自分達のペースで。
心の触れ合いがあまりにも心地良く、幸せすぎて世界に溶けてしまいそうだった。
つくしは昔、悪い男に捕まっていた。
それは相手の素直な願いを叶えてしまいたくなり、堕落させ、相手の考えを変えることが出来なかったからだろうか。
その日、幸せな気分で眠りにつく直前、ふとそんなことを思った。




