第4話 我、異世界の畑を耕す
それは忘却という名の病。
己の失われた記憶は、深い眠りの代償として魂に刻まれた不在証明だ。そして、その不在は埋まること無く、この異界での新たな夜明けを迎えた。
《常盤木亭》の女主人、ミツハが提示した「野菜追加」の仮契約。それは、俺の新たな領分を示す境界線だった。裏口から外へ。彼女の「《野菜の作りに全力を尽くせよ》」という声は、最早、無秩序に草木が繁茂する空き地という名の混沌への宣託に他ならない。
そこにあったのは、もはや「空き地」と呼ぶのもおこがましい、荒廃の極致だった。
管理などという生易しい言葉では片付かない。生命力の強いカヤツリグサや、その同胞たる雑草どもの恰好の餌場。
そして、その悍ましき光景の中に、異物として切り株の残骸が点在している。
「数年前に二号店を作ろうと思って隣の空き地を買ったんだけど、人手不足で放置してるんですよ、ご自由にどうぞ使ってください」
ミツハの言葉は軽かったが、現実は重い。雑草は既に一メートルを超え、大地を覆い尽くしている。大手たるインキ草とカヤツリグサがその大半を占めるこの土地は、終わっている。
本来、この手の土地には除草剤が散布され、草刈り機や耕運機、トラクターといった「科学」の力を借りて耕地に変わるのが「正統法」だ。だが、ここは異世界。除草剤はともかく、それ以降の科学文明は耳にしない。
「鎌や鍬、それと軍手、か」
ミツハが口にした〚イーゲル園芸〛という小さな園芸屋の情報を手がかりに、俺は商業都市イーゲルを散策することとなる。
(先程、町の名前を聞き出し、地図を頼りに彷徨っている)
◆◆◆◆
商業都市イーゲルは、同心円状に一番街から三番街まで構成されている。それは、ミツハという名の情報源が示す、この世界の構造そのものだ。
一番街――それは、裕福な貴族が豪邸を連ね、日傘を差した貴婦人が犬を散歩させる「優雅」という名の結界。庶民の足は届かない、いわば財閥の領分。
二番街――商業の街。この世のものが一通り揃うという「商い」の現世。食べ物から馬車まで、全てが陳列される消費の地。雑貨屋や園芸屋が並ぶと聞く、俺の探索の目的地。
三番街――異世界風にアレンジされた松竹梅のレンガ屋根の集合住宅。アパート団地という名の庶民の群れ。
これらは、二番街に住居と店を構えて久しいミツハの情報であり、その信憑性は高い。街は歩いて散策すべし――忘却の記憶の中で、その言葉が蘇った。
◆◆◆◆
二番街のメインストリートを歩く。菓子屋、武器屋、肉屋、魚屋、そして園芸屋。だが、野菜文化がない故に八百屋はない。
目当ての園芸屋に足を踏み入れると、猫耳の獣人族の女が店番をしていた。
「いらっしゃいませアルヨ。私はこの女店主ツー・シンユェアルヨ」
威勢のいい声。この女店主と、後に長い付き合いになるとは、その時の俺は知る由もない。店内には、銀貨三枚を下らないお高い農具が多種多様に並んでいた。
「何かお探しでアルカ?」
「鎌と鍬、軍手を探しているのですが…」
店員の問いに、俺は迷いを吐き出す。
「なら、こちらのカマとクワはどうアルカ? セットでお買い上げになられる方が多いんでアル。風属性が付与されたカマでどんな草も難なく刈れるアルヨ。なんといっても土属性のクワは、切り株を粉砕する効果が付与されてい逸品アルヨ。どうっアルか?」
「それ、お高いんですよね」
「本当は金貨八枚もするのアルヨ。今なら割引セールで金貨五枚で買えるアルヨ」
途方もない金額。ミツハから渡されたのは銅貨十枚。銅貨しか持たない俺にとって、金貨など、ぐうの音も出ないぼったくり金額にしか見えなかったが、心の声を押し殺す。
「旧式でもいいの、ありませんか?」
「残念ながら旧式の農具セットは、ちょっと前はあったのですが、在庫処分という形で置いてないんですアルヨー」
結局、俺は銅貨で軍手を購入した。いくつかの雑貨屋を回ったが、どれも手が届かない代物ばかり。
「できる範囲のことでもやっとくしかないかなぁ」
人がまばらなメインストリートを引き返す。軍手は買った。今は帰宅するしかない。銅貨三枚では、何も買えないのだから。
街道の外れには、この大陸に《お花》を先導したというチータータナカ氏が現実世界から輸入した花々が、花壇から道端まで咲き誇っていた。タナカが築いた文明の痕跡。
◆◆◆◆
【仮】の家である食堂《常盤木亭》へ戻ると、カウンターでミツハが水を飲んでいた。喉の渇きを癒すように、一杯、二杯と水を呷っている。厨房での作業は、人を渇かせるのだろう。
「いやー、園芸屋にさっき出向いてきたのですが、どれも値段が張りますねー」
「ですよね。最近の市場はおかしいのですよ。良いものでもないのにぼったくり価格で売りつけようとする商人がのさばっていますからね。あ、ジョニーも水いる?」
ミツハはコップを空にし、俺の隣に腰掛ける。黒エプロンのまま、蛇口から水を注ぎ、俺に手渡す。
受け取って水を飲む。異世界の水は美味い。水道水より、ずっと。
「ぼったくりねぇ……。じゃあ、この軍手も銅貨六枚で買えたのですが、これも?」
「はぁ、これどうみても銅貨一枚で買えますよ。はっきり言いますが、これもぼったくりですね」
「はぁ、やはりそうでしたか」
ミツハは裏口を指さし、「どう? 進んでる? ヤサイ計画」と問う。俺は「いや全然」と切り返した。
時計の針が十二時を示し、二、三名の集団客がドアの鈴を鳴らして入店する。
ミツハは席を立ち、注文を取りに行く。「頑張ってね」というひそやかな声と共に、見送り。
再び裏口から空き地を見る。絶望的に荒れた畑を前に、気力が失せる。草の撤去は、畑の確保と等価。仕方なく軍手を装着し、カヤツリグサの群れを引き抜き始めた。
「思ったより根が深いな」
こんな時、除草剤があれば、カヤツリどもを一掃出来る。せめて耕運機があれば、この草どもを一網打尽に耕地に出来る。夢は、いつだって儚いものだ。
◆◆◆◆
草取りを始めて二時間が経過した。終わりの見えない、閑散とした作業。軍手をはめた手で草を引き抜く、それはまさしく地獄。鎌さえあれば、一瞬で刈れるものを。
厄介なのは、インキ草とも呼ばれる《ヨウシュヤマゴボウ》。染料の元となる雑草だ。茎が太く、根もしっかりしているため、引き抜くのは不可能に近い。刈っても、根が地中深く息づいている以上、何度でもしつこく生えてくる。
除草剤があれば退治できるが、園芸屋には置いてなかった。
園芸屋の小話によれば、
『お花を植える畑は、常に綺麗にするか、ギルド屋≪酔いどれホライゾン》というところで《依頼》して綺麗にしてもらうかだ』
「ご飯ですよー! ってあんまり進んでないのですね。休店日には私も手伝いますからぁ」
「あ、ああ、ここ荒れてますからねぇ」
何の進歩もないまま、ミツハの声に我に返る。何も為さずに一日が終わる。成果は、多少の草を引き抜いたことだけ。切り株や一メートル超の草の処理は、軍手だけでは無理があった。
まあいい。明日は育苗箱にタネを蒔こう。野菜作りは、種まきの時期を逃してはならないという鉄則がある。
よし、明日こそが勝負所だ。
つづく。
異世界で、我、畑を耕す!!を手直ししたのがこちらです。
この度は、読んでくれてありがとうございました。
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