第3話:我、ヤサイを作る【改良版】
それは愚直な問いだった。
「一つ良いかな。この店には野菜は出さない決まりでもあるのか?」
彼――ジョニーの視界にある食材リストに、《野菜》の文字どころか、その影すら見当たらない。故に生まれた、あまりにも素朴な疑問。 だが、返答は思考の射程外から飛来した。まるで世界そのものに、その概念が存在しないかのような即答。
「ヤサイって何さ? それ美味しいの?」
ミツハの言葉は、世界の常識を根底からひっくり返す一言だった。 ――野菜は、この世界には存在しない。 本日分の労働を終え、「開店中」のプレートが裏返された、その瞬間の出来事。
この世界には、《野菜》という概念そのものが欠落している。 無いものを、どうやって伝えるというのか。存在しないものは、存在しない。その単純な事実が、情報の伝達を不可能にする。
◆◆◆◆
厨房の洗い場。石鹸と泡の渦が、食器の油汚れを丁寧に削ぎ落とす。乾燥機は無い。原始的な作業の繰り返し。 ミツハは食べ残しや不要分を処理するため、裏口から出たり入ったりしている。生ゴミ、という概念もまた、この世界では少しばかり歪な形をしているのかもしれない。
「ジョニーは《ヤサイ》ってやつを食べたことがあるみたいだけど、どんなものなのですか?」
ふと、ミツハが訊ねる。その瞳は、未知の事象に対する純粋な好奇を映している。
「野菜はね、土から生えるものだ。一見すると草みたいだが、実がなったり、葉っぱが食えたり、根っこが食えたりする」 「ウマさんとかウシさんが食べてる牧草みたいですね!」 「……うーん。例えは違う気がするが、概ねそう考えてくれて構わない」
牧草もまた、動物にとっての《野菜》の類なのだろう。だが、ニュアンスは決定的に異なる。 思考の回路が軋む。その時、天啓にも似た一つの《記憶》が、脳髄に降ってきた。それは、この世界にとっての《天災》にも等しい可能性。
「そういえば、我は《常盤木亭》の入り口前に倒れていた、と言ったな。その時、手提げ袋を持っていなかったか?」
「茶色の手提げ袋ですか。それなら、こちらで預かっていますよ。中身は拝見しましたが、財布のようなものに変なコインと紙切れ、変な紙袋にパラパラしたものが入ったものが幾つか。あと、四角い折り畳み式の――」
《記憶》の断片が繋がる。彼は、かつてここではない世界に生きていた。その国は、■■だ。 ペンキで塗り潰されたように、国名だけが伏せられる。
財布の中身は、ユキチとノグチ。異世界の貨幣だ。そして、紙袋の中身――それは、野菜のタネ。タネを蒔けば、野菜は育つ。 もしや、これは行けるのではないか。淡い、しかし確かな期待が胸郭を打つ。
「それは今、どこにある?」 「畳の部屋ですけど」 「すまん、洗い物は任せた」
皿洗いを中断し、畳部屋へ急ぐ。厨房靴を脱ぎ、板張りの廊下を抜けたその先に、それはあった。
使い古された茶色の手提げバッグ。所々に掠れ、小さな穴が開いている。 中身を確認する。掴み取ったもの――やはり、野菜のタネだ。 ホームセンターで売られていた、品種名が記されただけの簡素な紙袋。トマト、キュウリ、ナス、ピーマン、そしてカボチャ。
彼はここで、事態の重大さに気付く。 夏野菜のタネが、確かに次元の境界を超えて持ち込まれてしまっていた。 数にして八袋。
《アイコ》… 家庭菜園で絶大な人気を誇るミニトマト。
《つぷるん》… 甘さはサクランボ。つまむとマシュマロのようにぷよぷよしたミニトマト。
《四川きゅうり》… 中国品種を改良した、沢山のイボとシワを持つ白イボキュウリ。
《千両ナス》… 品質一位と名高い、色、艶、果肉の全てで高い評価を得るナス。
《京まつり》… 「深緑色」の果肉がツヤツヤとした、シシ型ピーマン。
《シシトウ》… 皮が緑色で細長い形のピーマン。獅子唐辛子と呼ばれる。
《坊ちゃん》… 一般的な栗カボチャと似た肉質で、ホクホクとした食感の美味しいカボチャ。
「うーん、問題はタネから苗にする方法、肥えた土の確保、マルチをどうするか、支柱は木の枝を使うか……」
第一の課題は、育苗箱だ。 <育苗箱>とは、タネを蒔き、苗がある程度育つまで、植物に最適な環境を整えて管理するための容器。 異世界にホームセンターや百円均一といった便利な《文明の利器》は存在しないだろう。
野菜の概念が無い世界で、園芸屋があるかどうかすら怪しい。 持ち運びやすく、水捌けの良い適度な網目状の底を持つ箱。そんな箱が、この世界に存在し得るのか。彼は最初の難関にぶつかった。
だが、その難関はあっけなく、無造作に打ち砕かれる。
「ジョニー、そんな押し黙ってどうしたのですか?」
目の前にタネを並べ、胡坐をかいている彼の右肩から、この店【常盤木亭】の店主【ミツハ・アリアンナ】が顔を覗かせる。彼女は、タネ袋を不思議そうにまじまじと見つめている。
「実はな、ここに来る前、野菜を育てていてな。このタネを蒔こうと考えているんだ」
いつの間にかミツハは、野菜のタネ袋をガサガサと上下に振っていた。 そして、動きを止める。彼女の眼差しは、畏敬の念を贈るように輝き、息巻いて叫んだ。
「もしかしてジョニーは《先導者チーター》なのォねェー!」
チーターとは何だ。世界最速の動物でも、イカサマ師でもない。
「はい……?」
「――名は、カオリ・タナカ。約1000年前にシャルロッテ大陸で【お花】で文明を作った人がそう呼ばれたのですよ。彼はタネというもので千差万別な綺麗な【お花】を咲かせ、人々の心を掴んだとされる方です。それ以降、新しいタネを持ってくる人には親しみを込めて、先を導く者、いわゆる《先導者チーター》と呼ぶのですよ」
先導者チーター。 タナカ・カオリ。間違いなく、彼の世界【日本人】の者だ。――偉人でも何でもない。 たまたま【お花】が好きで、たまたま【お花】のタネを持ち合わせていただけの人間。 しかし、そのタナカ氏とはお知り合いではない。そもそも記憶がないので分からないが、関わり合いにはなりたくないというのが、彼の内心である。
「《先導者チーター》云々の話は置いておいてだな、育苗箱なるものを探しているが、分かるか?」
ミツハは、いつの間にか正座の構えで、手をびしっと振り上げ、元気よく返事をした。 育苗箱が何たるかを理解している、誇らしげな顔つきだ。
「はい、それ知ってます‼ イクビョウバコなら近くの園芸屋さんに売っていますよ。【お花】のタネを成長させる魔法のハコですからね。まぁでもしかし……」 「何か問題でもあるんのですか?」
『少々お高いのです。イクビョウバコ(小)でも銀貨三枚はしますし、(大)は金貨三枚もします』
魔法――それがこの世界の常識なのか。そう思考を巡らせる中、ミツハは控えめの声で、彼の懐具合を案じている。 ミツハが日給で払う銅貨一枚に対し、銀貨は十倍。金貨はさらにその十倍の価値を持つと仮定すれば、それは法外な値段だ。
「うーん」
「そういえば、ちょっと旧型なら先代が使っていたイクビョウバコ(大)が幾つか物置にあったと思います。春期分のお給料の半分で差し出しますがどうでしょうか?」 「野菜を育てる分には旧式でも構いませんよ。それで手を打ちます。それでその旧式とは?」
「ちょっと待ってて」
ミツハは手のひらを突き出し、裏口から外へと消える。待つこと、二十分。
◆◆◆◆
「これが旧式イクビョウバコですよ」
手に取り、重さや網目の底を確かめる。それは、ホームセンターで売られていたプラスチック製の育苗箱だった。軽量で、底の網目もしっかりとしており、水捌けも良いはずだ。
残された疑問を、恐る恐る尋ねる。
「これ十分に使えそうだが、新型と旧型の違いは何ですかね?」
「最新のは、土属性の魔法で育成を加速ブースト(大)してくれると、園芸屋さんで聞きましたよ」
一つ間を置いた後、ミツハは付け加える。
「ちなみに旧型でも育成加速ブースト(小)なら付いています」
異世界の育苗箱は、どれもこれもチート過ぎる魔法具だった。最初の工程は、これでクリアだ。 問題は、土地。耕し、農地にできる場所があるか、だ。
つづく。
異世界で、我、畑を耕す!!を手直ししたのがこちらです。
不定期ですが、よろしくお願いいたします。
ブクマや評価していただけると、とても嬉しいです。
この度は、読んでくれてありがとうございました。




