第二話 我、異世界の飯屋で目を覚ます【改良版】
覚醒。それは唐突で、そして決定的に異質なものであった。
目が覚めた時、我は知らぬ部屋の寝台にいた。眠っていた時間は長大だったと、身体の奥が理解する。だが、ここが己の領分ではないと悟るまでに、数秒の遅滞があった。それは、記憶という名の座標軸が完全に失われている事実を突きつける、予兆めいた間合いだ。
「どこだ、我は……何者だ?」
声は掠れていた。内側から湧き上がる疑問符は、解答を求めることも知らずに虚空に消える。
――いや、ただ忘れているだけか。そんな安易な結論を求めて頬を捻ってみる。痛みはそこにある。だが、その痛みが何を示唆するのか、我にはもはや判断できない。少しばかり捻って考え、理解した。名前を含む全てが、我の内部から消滅している。名前どころか、住居、国籍、存在の根拠。全てが空虚だ。
そう、我は誰で、ここがどこで、我は何を成してきたのか。欠落。それだけが確かだ。
寝台の部屋から、足音を立てずに抜け出す。部屋の隅に存在する入口。その扉を開ける。
「食堂、か……?」
扉の向こうに広がっていた光景は、世間一般で言うところの食堂に似ていた。カフェめいた内装、軽食を取るためのレイアウト。天井から吊るされた照明は、卓の上を僅かに照らし、仄暗い白壁に影を落としている。洋風食堂、というには、やや過剰に静謐な空気だ。
カウンター席には、店主と思しき若い女が眠りこけていた。我は、部屋の端に鎮座するグランドピアノを見つける。無骨で巨大な、異物。
我はその洋琴の蓋を静かに開け、椅子に腰を下ろした。適当にメロディーを鍵盤に叩く。――記憶がないにも関わらず、指先は感覚として弾き方を知っていた。不可解。だが、心地よい。
どれほどの時間を費やしただろうか。三十分。その程度の時間軸は、かろうじて理解できる。
ふと、洋琴から手を離し、横を見る。
そこに、寝台の部屋で寝ていた女が、すぐ近くの椅子に座っていた。 座っていること自体は、我の関心を引かない。だが、彼女の耳の形が、人型の範疇を超えて、僅かに尖っているように見えた。異形。認識は、そこに境界線を引く。
その瞬間、拍手が響いた。ぱちぱちと、乾いた音。
「ピアノ上手いね、君」 「はぁ、どうも」
我と女の視線が交錯する。何を返すか、迷う。そもそも、この女は何者だ。問うても無駄だと直感する。間違っても『君は可愛い』などと、初対面の相手に言うべき言葉ではない。無駄に感傷的だ。短すぎる沈黙。
「わたしはミツハ・アリアンナ。エルフだよ。ミツハって呼んでね。君は?」
沈黙を破ったのは、女の方だった。栗色の長い髪。左右で色を異にする、青と赤のオッドアイ。緑色の帽子。数秒、我はそこに囚われる。
――エルフ、だと?それは冗談か、あるいは……。
記憶が吹っ飛んでいる以上、精霊と名乗るなら、精霊なのだろう。そう定義するしかない。――構わない。どうでもいいことだ。
「我は全てが解らない。名前も育ちもわからない。国すら分からない。全てが思い出せない。ここがどこで、我が何者なのかも分からない」
「マジで?こりゃあ、記憶喪失ってやつかな」
記憶喪失。その言葉は、我の状況を定義するには、あまりにも空虚だった。 それでも、僅かに動揺する我に、ミツハは穏やかに話しかける。その声は、無垢で、透徹していた。
我は何処から来たのか。そして、此処は何処なのか。疑問は氷のように冷たい。だが、ミツハ・アリアンナと名乗った女に、それを伝える術を持たない。口を閉ざす。
カウンターの奥に懸けられた大時計。表示された時刻は、午前三時。深夜。
「ここはどこですか?」
口から零れたのは、その一言のみ。しかし、その一言に対するミツハの返答は、我にとって、都合の良い条件だった。あるいは、罠。
「ここは、都市イーゲルのわたしが経営してる喫茶店《常盤木亭》だよ。唐突だけど、記憶を思い出すまでここでバイトしてみない?住み込み飯付きはもちのロン。銅貨一枚までは出すよ。それに、わたしのことはタメ口で良い。年齢も、見たところわたしと同じくらいみたいだしね」
ミツハは無邪気に微笑み、戯れるように我に言った。 銅貨一枚。貨幣の単位。それが意味するところは、銀貨、金貨の存在。この世界の常識。深くは突っ込まない。ここは、そういう金銭体系を持つ国だと、定義する。
「我はミツハさんと呼ぶ。これから、よろしく頼む」
我は椅子に座ったまま、ミツハに頭を下げた。何故、我はピアノを弾いていた?それを再度、今、弾けと言われたら、十中八九、弾けはしないだろう。断言できる。
我は、ピアニストではない。
「君の名前が分からないのは困るね。ジョニーとジョナサン、どっちがいい?」 「ジョニーで」 「よし、君は今からジョニーだ。よろしく、ジョニー」 「こちらこそ、よろしく」
こうして、我たち二人と、部屋の片隅の洋琴が据えられた喫茶店での、一つ屋根の下の共同生活が始まった。
◆◆◆◆
翌朝。我は店のソファーで目覚めた。昨夜、ミツハに和室で寝るように勧められたが、自室を用意されるまでは、このソファーを借りることにしたのだ。
『おはよう、ジョニーぃ、ジョニぃー』
微睡んでいる我の顔を覗き込むように、声がかけられる。ジョニー。それが自分だと認識するのに、数秒のタイムラグがあった。まだ、慣れない。
近くにいるミツハの、顔つき、髪の色、尖った耳、青い右目。 記憶を失う前の世界に確証はないが、《エルフ》という人種は、初めて目にした(……はずだ)。
だが、その認識とは別に、我の中の別種の定義が囁く。エルフは可愛い。可愛いは正義。それは、この空っぽな我にも、確固として存在する、境界線。
『おはよう、ミツハさん。朝早いんだな。可愛いよ』 『いやいやいや、お世辞はいいって。そんな君は時計を見るがいいさ、既にこんな時間なんだけど』
柱時計は、軽く正午を回っていた。鳩時計がクルッポーと鳴く。カウンター席には三人の客が昼食を取っていた。
中には、狼のような頭部を持つ、獣人族(たった今、定義した種族)が、麺を啜っている。
ミツハは黒いバンダナを締め、青いエプロンを掛けていた。料理を作っていたらしい。――そういえば、ここは喫茶店だったな。忘却の度合いは深い。
もう一度、「君は可愛い、美人だよ」と、意味のない言葉を投げかける。
『なにそれ――、冗談はいいから、ジョニーも早く起きて手伝って』
我の戯言は、一蹴された。
お揃いの青いエプロン。幾つもの記章が取り付けられ、胸元には《常盤木亭》の刺繍。
『でも、我は料理なんてダメなんだ』
記憶喪失のせいか。我には、料理が出来るという確証が持てない。
『今はお客さんにお料理を運ぶだけでいいさ。君には天才料理師のわたしが付いてるんだから。今は仕方ないけど、休店日になったらわたしの技術を叩きこんであげる』
『ああ……』
◆◆◆◆
つまり、給仕係だ。運ぶのは肉料理ばかり。野菜の欠片もない。緑色の色彩は、一切、視界に入らない。 メニューを一新すべきか。そんなことは、我の関知するところではない。午後からの来客は、途切れることがなかった。
「早く飯よこせ」 「おせぇんだよ」 「前の運び人は早かったぞ」
罵声が飛ぶ。
客は多種多様。猫に似た者。角を持つ者。半魚人めいた者。 それは、異世界。定義は、ここで確定する。
盗み聞き。それとは別の手段で、単語が耳に入る。《魔獣、ギルド、魔法》。聞き慣れない言葉。間違いない。異世界。
異世界転生、という、陳腐な事態に陥ったらしい。チートスキル、無双、大金持ち。そんな空想は、我の中に存在しない。身の程を知る。異能の力など、使えるはずがない。
この新たな暮らしに適応しなければならないことは、薄々気づいていた。
生きていけるだろうか。 ……どうにかなる。そう結論付けるしかない。
つづく。
異世界で、我、畑を耕す!!を手直ししたのがこちらです。
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