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第1話:我、死す(※熱中症)

この話は、■■ ■という男の異世界転生を巡る、《農業》と《笑い》という、二つの“境界”に足を踏み入れた男の信念の観測記録である。


◆◆◆◆


農作業中の熱中症による死亡件数は、毎年、正確に二十人前後で推移する。 それは、誰もが知る「常識」でありながら、人は手元の作物を大事にしすぎるあまり、その「常識」を自らに適用することを忘れる。 知識は、時に人間を殺す。――死ななければ解らぬとは、この種の愚行を指すのだろう。


◆◆◆◆


少年は、土を扱うことを選んだ。 田舎での十数年の生活を経て、少年は、やがて一家の主たる男となり、農家という生の営みに日々を費やす。 潔癖なほどに清廉な妻を娶ったのは、記憶の残滓でしかない。――、やがて跡を継ぐであろう息子が独り立ちするまで、己の命の終焉まで、農業を続けると、その男は誓っていた。


……それは、「筈」であった。――しかし、「筈」は、単なる観測者の期待でしかない。


その男の不運は、予測不能な風のように訪れる。 ――、「朝飯前に、出荷用のトマトでも採ってくる」 男は、その一言を妻に告げた後、「死」という名の不可逆な地点へと、その身を固定されてしまった。


数時間前へ、時間を遡行する。 この日も、気象庁は、六月の東日本・西日本で平年並か、あるいは高い気温の可能性を報じていた。今夏の酷暑下での農作業における熱中症対策は、最早、生きるための「絶対条件」とまで言われる時代である。


例年、五月、六月にも、ビニールハウス内などでの作業中に「不可解な死」――すなわち熱中症による死亡事故が発生している。だが、真に危険なのは七月、八月の、屋外で作業する七十代以上の人間だと、統計は示唆していた。


夏の農作業で心得るべきは、ただ一つ、「気温の高い時間帯を避ける」という、極めて単純な行動原理である。 その点は、息子も理解していた。息子は、父の業を継ぎ、農家になると口にするようになった。


男の生きていた世界では、報道機関の人間も、日中の気温の高い時間帯を外して作業を行うよう、飽きるほどに、何度も繰り返し、警告を発していた。


男は、未だ老境には達していないが、七十歳を超える老人は、喉の渇きや気温の上昇を感じづらくなる。 ゆえに、高温時の作業を極力避けることが、「生」への予防線となる。


男は、自らを「暑さに強い」側の人間だと認識していた。過去、彼は陸上競技部に所属していた。 競技場のトラックで夕方まで走り込んでも、男は自己の記録を連日のように更新し、意識を失う暇さえなかった。


そんな彼も、家業の農業を継いだ時、作業前・作業中の水分補給、そして「こまめな休憩」という行為が、命綱であることを理解した。喉の渇きを感じずとも、二、三十分おきに休憩を挟む。 毎回、コップ一杯か二杯以上の水分を摂取する、という習慣は、最早、彼の一部と化していた。


もし足がつったり、筋肉が意図せず蠢く症状が出たならば、食塩水(一リットルの水に一、二グラムの食塩)を口にしたり、スポーツ飲料も備蓄していた。 更に、塩分補給用の錠剤を常に携帯するという、「過剰なまでの備え」を怠らなかった。


真夏に作業を行う際も、暑さで「観測不能な状態」(※熱中症)に陥っても、助けを呼べない状況は、一度たりとも許さなかった。 男は、単独での行動を避け、複数で作業することを、己の「流儀」としていた。それは、会話を楽しみつつ、誰かと共に作業することで、仕事の効率を上げるための、彼独自の「魔術」であった。それこそが、彼が農家を続けている、根源的な理由だった。


彼の出で立ちは決まっていた。頭には白いタオルを巻き、白いTシャツと濃紺の作業用ズボンに、地下足袋(ちかたび、と呼ばれるゴム底のついた労働用の足袋)を着用していた。


ビニールハウス内は、充分な陽光が射し込んでいた。換気も頻繁に行っていたため、空気の流れは良かった。 その日も男は、数メートルに連なるトマトハウス内の通路を歩く。 左右に一メートル以上の背丈を持つトマトを収穫する作業を、明け方から、まるで「秘密の儀式」のように、日々繰り返していた。


だが、その日は「何か」が違っていた。 雨上がりの生ぬるい風が、周囲を湿らせ、湿度が上がった蒸し暑い早朝のことだった。


男の急逝は、この環境のみに起因するものではない。 不幸なことに、息子は野球部の朝練で「不在」。 妻は近隣のゴミ拾いで「不在宅」。 父母は在宅していたが、只今、「就寝中」。――助けを呼ぶための、観測者が誰もいなかった。


一般的にトマトは、夏に強いイメージがある。だが、実際には高温障害を受ける可能性が高く、落花、裂果、空洞果、着色不良などの異常が発生すれば、生育に支障が出る。 気温が三十五度を超えれば、それはトマトにとっての「死線」である。


無論、農薬と機械による大量出荷で富を築く農家だけが持つ、温度調節機能付きのビニールハウスであれば関係ないが、あいにく男の家は「富」という境界線を超えていなかったため(以下略)。


本題に戻ろう。 男は、ハウスの隅に設置されたディスプレイ型の温度計を一瞥する。どこにいても温度計だけはチェックできるよう、大型のデジタル式のものを導入していた。


「三十五・五度か……、やはり昨日の台風の影響だろうな」


男は、独り言を時々呟く癖がある。何気ない動作まで、言葉という形を与えてしまう。 トマトハウス内の温度は、トマトにとって「死」を意味するが、それだけではない。 三十五・五度の暑さは、人間の身体をも蝕む。 繰り返すが、人体は熱を帯びると熱中症にかかり、「死」という名の終着点に至る事例もある。


暑い環境下で、次のような体調不良の兆候が見られたら、即座に作業を中断すべきである。 「手足がしびれる、冷たい」 「めまい、吐き気、頭痛」 「まっすぐ歩けない」 「汗をかかない、体が熱い。――いずれの症状もなし。まだ、『大丈夫な状態』にある」 男は、三つの項目を、トントンと軽快に呟く。


男は、踏み台の上を跨ぎ、鋏でトマトを一つずつ丁寧に収穫していく。トマトが籠に山積みになるのを確認し、籠を取り替える。踏み台の下の籠には、既に百個を超える収穫されたトマトが詰まっている。


鋏で切り、籠に積む。一連の動作。 それは、熟れたトマトを採り尽くすまで、延々と繰り返される、「義務」のような作業だった。


「暑いな……」


それは一瞬の出来事だった。男が踏み台から降りようとした、その時、男は足を踏み違えたのだ。 踏み台は倒れ、男も地面に叩きつけられる。しかし、どうしたことか。 足が動かない。手も動かない。ついには、痙攣が起こっていることに気づく。


【※熱中症には特徴的な症状がないため、「暑い環境での体調不良」は全て熱中症の可能性がある。】


報道機関の人間が、物語の最後で囁いていた警告が、彼の脳裏をよぎる。 大声を上げて、「助け」を求める。――、声は出なかった。 妻はゴミ拾いの日でいない。息子は朝練。父母は……。


意識が、「薄い」ものになっていく――…。 虚ろになった感覚の中で、彼が最後に認識したのは、――…。


「まだ、……い、きたい…」


「死」という絶対的な結末に抗うように振り絞った一言は、一縷の願望。 男の望みは、「生」への強い執着だった。 もっと偉大な農家になりたい、などという、曖昧な願望ではない。ただ、農業を「続ける」という、極めて「具体的」な行為を望んだ。


最後に願いが叶うのならば、妻が作った、己が作った野菜の料理を食べたかった。 その男は、眠りにつくように静かに「息を引き取った」。 男の人生という名の「物語」は、ここで終焉を迎える。


物語は終幕した。男は死んだ。繰り返すが、男は「死」という名の状態に確定されたのだ。 両親にも、妻にも、息子にも、孫娘にも別れを告げることなく、静かに。


「観測終了」。この物語は、「死」という名の境界から始まる運命を紡ぐ物語である。


つづく。


異世界で、我、畑を耕す!!を手直ししたのがこちらです。

不定期ですがよろしくお願いいたします。


ブクマや評価していただけると、とても嬉しいです。

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