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令嬢シリーズ

あのとき助けていただいた触手です

作者: 無色

挿絵(By みてみん)

 侯爵家の令嬢メルクルディ=アヴァローンは、銀月の聖女と称されるほどの美女であった。


 白銀の髪と翡翠の瞳、気品と才気に満ちたその佇まいは、貴族令嬢の理想とさえ言われた。


 彼女が舞踏会で一歩踏み出すだけで会場の空気が変わり、その笑みは王侯貴族の心を溶かすほど。


 教養と魔法理論の知識も一流で、そんな彼女に誰もが魅せられていた。


 ……それ故に、深い嫉妬の念を向けられた。


 彼女を最も強く羨み、そして憎んだのは、王家の婚姻候補筆頭だった公爵令嬢、グリセリア=ドルネールである。


「私は必死に努力しているのに……。なんで皆あの子ばかり評価するの……。なんであの子と比べられなきゃいけないの……。なんで、なんで、なんでなんでなんで!! ……赦せない。私より美しく賢いあの子が」


 とある月夜の晩、彼女は願った。


「あの子の美しさを奪う魔法を。二度と、誰の目にも触れられないよう……醜い姿に変える魔法を」


 彼女の内に一つの種が芽吹いた。


 それは呪い。


 人間の身体を異形へと変貌させる、禁忌の魔法だった。


 




 それから数日後の深夜。


「ああ、あああああ!!」


 身体に走る激しい痛みに目覚めたメルクルディは、ベッドから転げ落ちて床をのたうち回り、ようやく痛みが収まったとき、鏡に映った自らの姿に絶句した。


 左半身が黒紫色の粘膜に覆われ、くねる触手へと変貌していた。


 肩から背中にかけて茨のような棘が生え蠢いている。


 脚もまた、吸盤と棘、毒腺を備えた醜くおぞましい異形。


「これは……っ?!」


 その姿を見た全員が悲鳴をあげた。


 使用人たちはおろか家族すら奇怪な現象に怯え、彼女を遠巻きにした。


 名医も魔法使いも皆が一様に原因不明だと匙を投げるばかり。


「なんて不気味な……」


「気色悪い……」


「あの姿、まるで悪魔じゃないか……」


 心無い侮蔑と冷い視線が容赦なく突き刺さる。


 まるで腫れ物……そうでなければ汚れ物のように扱われ、美しさを讃えていた貴婦人たちは挨拶さえ交わさなくなり、幼馴染だった令息や令嬢たちは目を逸らして去っていった。


 メルクルディが唇を噛むと、左半身の触手が、しゅるりと床を撫でた。


 彼女を取り巻く社会が一瞬で掌を返した。


 社交界からの招待は消え、屋敷には誰も訪れず、やがてアヴァローン家は呪われているという噂が街に流れた。


「お前があんな化け物を産むから!!」


「私のせいなものですか!!」


 両親の不和は日に日に大きくなり、メルクルディは追放という形で、王都の外れの廃れた離宮へと追いやられた。


 ローブを深く被り、人目を避け、誰にも迷惑をかけないようにと、一人で生きる決意をした。






 その離宮に、ある日唐突に男がやってきた。


「メルクルディ=アヴァローンというのはお前か?」


「……もうアヴァローンではないのですけれど。あなたは?」


 黒衣に身を包んだ長身の青年は、ロッシュ=カサンドルと名乗った。


 魔法理論の編纂(へんさん)から戦術魔法の開発、生活魔法の研究まで行う、実績十分の学者である。


「王宮お抱えの天才魔法使い……。何故そんな人が……」


「ここに、呪いによって半身が異形と化した令嬢がいると聞いてきた」


「ちょっ、と……?!」


 ロッシュはドアの隙間から姿を見せようとしなかったメルクルディの意図を押しのけるように、力ずくでドアをこじ開け、ローブを剥ぎ取り彼女の全身を露わにした。


「っ、返して!!」


 ローブを取り返そうと手を伸ばすメルクルディを見て、正確には異形の左半身を見つめ、ロッシュは感嘆の息を漏らした。


「美しい……」


 そんな彼に、メルクルディは思わず、はぁ?と間の抜けた声を発した。


「見事だ……! ぬめりを帯びたゴムのような質感。両生類の体表に近い。しかし冷たいわけじゃない。むしろ人のぬくもりそのままを感じる。その茨の棘、まるで魔力(マナ)を凝縮した宝石のようだ。さらに毒腺まで? 美しい、興味深い……見事だ、見事だぞメルクルディ!」


 ロッシュは息を荒く、恍惚とした表情でメルクルディの触手()を取った。

 

 なんてことはない。


 王宮が誇る天才魔法使いは、異常かつ変人な異形フェチであったというだけの話だ。


「何なの……? というか離してくださいます……?」


「ああ、すまない。つい興奮してしまった。他意は無い。観察対象として非常に優秀だと思ったから来た。それだけだ」


 彼はそう言って、彼女の左半身をまじまじと見つめた。


「ただの野次馬ならお帰りください。私はもう、誰とも話したくはないのです」


「触手の一本一本に感覚があるのか? どこまで伸ばせる? 自分の意思で伸縮は可能か? 棘は毒針か……毒の効果は? 気になる。試しに私に打ってみてくれ。触手はまさか再生可能か?」


「い、いえ、あの……お帰りくださいと……」


「今日から厄介になる。なに安心しろ。お前の触手を徹底的に調べ尽くしたら出ていく。ひとまずその毒とやらを私に打て。心置きなく。回復魔法は得意だ。話はそれからにしよう。さあ、早く打て。打つんだ、早く!」


「へ、へ、変態です!!」


 閑散とした離宮に、メルクルディの叫びが木霊した。






 それからの日々、離宮に住み着いたロッシュは、毎日メルクルディの触手について調べた。


 触手の動き、粘液の性質、伸縮性、毒の生成方法。


 彼は熱心に、実験と観察を繰り返した。


「毒を五種類も生成出来るのか……素晴らしい……! 見た目だけでなく機能的な美しさまで兼ね備えているのか!」


 だが、その本心たる称賛は、メルクルディの心を揺らした。


 かつてドレスを纏い、聖女と褒め称えられていた頃よりも、真っ直ぐで偽りも打算もない言葉に身体を熱くした。


「この魔法……いや呪いを作った奴は天才だな。人間の限界を超えた美……。これは呪いじゃない、進化だ。誇れメルクルディ。お前は今、前人未到の第一歩を踏み出している」


「おかしい人……。こんな私を気にかけてくれているなんて」


「私はこの触手の美しさに惹かれているだけだ」


「もう……」


 一月、二月……知らずのうちに、彼に触手を絡ませることが増えていた。


 毒を抑えた棘が彼の首筋をくすぐり、触手がその髪を梳くたび、彼の目が細くなる。


 ただ一度、神経麻痺毒を試し自ら倒れたときは本気で慌て、起き上がった次の日に、


「最高の快感だった。次は幻覚毒を頼む」


 そう言ったときには心底呆れた。


「死んじゃいますよ」


「それも本望だ」


 どうしようもない変態だ。


 けれど、彼は唯一彼女から目を逸らさなかった。


 怯えず、憶することもない。


 ただの一度たりとも。





 ――――――――





 メルクルディ=アヴァローンが姿を消してから、王都の貴族社会は目に見えて様変わりした。


 一見すると変わらぬ煌びやかさがそこにあった。


 ドレスを纏った貴婦人たちは華やかに、香水の薫りが重なり合う煌びやかな舞踏会。


 誰もが笑い、賛辞を交わし、賑わっているかのように見えた。


 だが……その中心に、比類なき光が無いことは、誰の目にも明らかだった。


「あの方がいれば……もっと華やかだったでしょうね」


「まるで舞台の主役がいなくなった劇のようだわ」


「気が付けば……誰もが彼女を見に舞踏会へ来ていたのね」


 そんな声が密やかに、しかし確実に広がっていた。


 新たに次代の聖女を謳われる令嬢たちは、皆それぞれに魅力を持っていた。


 だが、そのどれもが誰かと比べられ、評価され、そして最終的にこう言われる。


「メルクルディには及ばない」


 銀月のように凛として、微笑むだけで季節を変えてしまうような、あの唯一無二の存在の喪失を、人々は静かに、しかし確実に痛感していた。


 最もそれを実感していたのは、社交界を支配していた上位の貴族令嬢たち

ち。


 彼女たちはかつて、心の中でこう思っていた。


 目障りだ。


 あの完璧すぎる令嬢さえいなければ、私が……


 そして今、それが叶ったはずの世界の中で、誰もが気付いてしまった。


 メルクルディこそが社交界の輝きそのものだったのだ、と。


 誰よりも美しく、誰よりも煌めいていた輝きは、誰の手にも残ってはいなかった。


 そして、彼女を呪ったグリセリア=ドルネールだけが、ただ一人それを心の底から喜び、勝利の杯を掲げていた。


「アハハ! 私は、あの子に勝った……! 美も、賢さも、評判も……全部、私が取った! 最初からこう在るべきだったのよ! これが正しい形! 私が一番なの! 私が、あの銀月の聖女(メルクルディ)を地に引きずり下ろしたのよ! アハハハ、アハハハハ!」


 しかしその勝利が永劫でないことを、彼女は知らなかった。


 



 ある晴れた午後のこと。

 

 グリセリア=ドルネールは、王都の名門貴族令嬢たちが集うお茶会に参加していた。


 絹のドレスに身を包み、宝石を施した指輪が陽光を弾く。


 顔にはいつも通りの、陶器のように美しい笑みを湛えて。


「そういえば王宮からいなくなったらしいわね。ほら、あの変人扱いされていた」


「それってロッシュ様のこと?」


「そうそう。天才だなんて持て囃されていたけれど、職務放棄でもう王宮勤めの任は解かれたんだって」


「最後までわからない方だったわね。変人でもお顔だけはステキだったのに」


「いなくなったといえば、どこへ行ったのかしらメルクルディ様」


「追放されたんでしょう? 噂では、どこかの離宮に幽閉されたとか……」


「もう王都には戻ってこないでしょうね」


 そんな他愛もない話題の流れの中、グリセリアは紅茶を一口啜ってから、

ふふっと声を漏らした。


「グリセリア?」


 そしてまるで花弁をちぎるように軽い口調で、こう囁いたのだった。


「私ね……あの子を呪ったの」


 一瞬、その場の時間が止まった。


「……え?」


「メルクルディよ。あの子の美しさが憎くて。私は願ったの。彼女から全てを奪う魔法を」


 グリセリアはその言葉と同時にカップを置いた。


 指先には少しの震えもなく、笑顔のまま。


 だがその瞳の奥には、どこか陶酔したような、狂気めいた光があった。


「おかしいかしら?」


 誰もすぐには何も言えなかった。


 数秒の沈黙の後、一人が苦笑を漏らした。


「まあ……まさか、本気じゃないでしょう? 嫌だわグリセリアったら、もう……冗談が過ぎるわよ」


「フフッ、そうよね」


 そう言って彼女はニコッと笑った。


 その時はまだ誰も信じなどしなかった。


 しかしその場にいた令嬢たちの誰もが思い出していた。


 グリセリアがかつてメルクルディを睨みつけていた日のことを。


 メルクルディが祝福されればされるほど、グリセリアが憎らしそうに奥歯を噛み締めていたことを。


 そして、メルクルディの異形の噂が出た時、心配するどころか真っ先に彼女の勝利の笑みを目撃した者もいた。


 その冗談は、令嬢たちの間に静かに、しかし確実に根を張った。


「ドルネール家の令嬢が……あの呪いの原因ではないか、と?」


「まさか。でも、あり得るかも……だって、ずっと彼女のこと……」


「ねえ、聞いた? メルクルディ様のこと。あれって……」


 グリセリアが貴族社会で築いてきた公爵令嬢という名の絶対的な立場は、彼女の些細な自慢によって少しずつ軋み始めた。


 毒は、すでに自らの口で飲み下していたのだ。


 だが、当のグリセリア本人はそのことに気付かない。


 勝者の誇り、呪いを操った者の高揚に陶酔し、あの夜の呪詛の場面を、何度も何度も思い返しては胸を高鳴らせていた。


 だがそれは、彼女自身が異形へと踏み出す一歩目だった。


 触手は、遠くの地で蠢いていた。


 その因果が、ゆっくりと、しかし確実に、彼女自身へと還り始めていたのである。





 ――――――――





 離宮の庭に赤く色づいた落ち葉が舞う中を、メルクルディはロッシュと並んで歩いていた。


 健康を損ねず触手の状態を保つという名目の軽い散歩である。


「すっかり秋ですね」


 触手の一部が風に揺れる木の枝に反応して枝先に触れる。


「反射的な感応か。やはり触手にも自律した神経系があるようだな。今の反応速度は……」


「もう……散歩くらいゆっくりできませんか?」


 触手がロッシュの手首に巻き付き、微細な力加減で引っ張る。


 すっかり癖になってしまった動作だった。


 ロッシュはそれを、躾のなってない子犬でも見るような顔で見下ろしてから、ふっと優しく笑った。


「なんですか、その顔」


「いや……お前の触手、最近は甘え癖がついてるなと思ってな」


「そ、そんなことありません! 触手が勝手に動いただけです!」


 ロッシュは知っている。


 触手は随意的に動かせること。


 そしてメルクルディの感情のまま、反射的に反応することを。


「おもしろい女だな、お前は」


「褒めてるんですかそれ……」


「……一応な」


 不器用ですねと頬を膨らませつつも、メルクルディは満更ではなさそうに口角が上がるのを我慢した。






 秋風が冷たくなり、廃れた離宮に差し込む陽光が傾き始めた午後。


 ロッシュはいつものようにメルクルディの触手に指を這わせながら、淡々と観察記録を口にしていた。


「粘液の分泌量は朝と夕方でやや差があるな……やはり気温の影響か? それとも食生活……? いや、感情的な刺激によるホルモンの分泌が」


「ちょ、ちょっと……そんな細かいとこまで触らないでください……」


 苦笑する彼女の頬はほんのりと紅潮していた。


 かつて自らの姿に怯えていた頃とは、あまりにも異なる変化。


 しかしそれを他所に、ロッシュは興奮したまま記録用ノートにペンを走らせていた。


 そして、何かを思い出したように、彼は唐突に呟いた。


「……ああ、そういえば言い忘れていたんだが」


「何ですか?」


「解けるぞ、この呪い」


 その瞬間、空気が止まった。


「………………えっ?」


 耳を疑うような間の抜けた声を出した後、メルクルディはまばたきを数度繰り返した。


「……い、今……何と?」


「だから、解ける。異形化の呪いだ。構造を見ればだいたいの術式は把握出来る。理論的にはもうほとんど解析出来てるようなもの。解除は可能だ。触媒の用意に手間がかかるくらいだな」


 ロッシュは当たり前のように言いながら、触手の一本を持ち上げて光にかざしている。


「理論的には……って……え、えぇ?!」


 メルクルディは目を見開き、椅子を倒す勢いで立ち上がった。


 触手が震えながら彼女の驚きに共鳴する。


「な、なんで今まで言ってくれなかったんですか?!」


「ああ、忘れてた」


「わ、忘れてた?! はぁああああああ?!」


 声を荒げるメルクルディに対し、ロッシュは悪びれる様子もない。


「別に困ってなさそうだったろう。最近は触手の制御も上手くなってきてたしな。ほら、髪を梳くときの動きなんて繊細で……まるで生きた絹糸のようだ。うん、美しい」


「だ、だからって……! こ、これは呪いなんですよ?! このせいで私は……」


「なにはともあれ、今はだいぶ気に入ってるように見えるが?」


「そ、それは……」


 言葉に詰まったメルクルディの左半身が、ぴくりと動いた。


 たしかに、と唇を噛む。


 以前はローブで隠していた異形の姿を、彼の前で隠そうともしない。


 むしろ自分の一部として、自然に受け入れていた。


「……でも、解けるって言うなら……私、元に戻れるんですか?」


「可能性は高い。だが、完璧に戻せるかはまだ保証出来ない。仮に戻っても副作用が出る可能性もあるし、魔力構造が変化している以上、元の体質とは異なるかもしれん」


 ロッシュは淡々と事実を述べた後、彼女の顔をじっと見つめた。


「……戻りたいのか?」


 静かな問いだった。


 だがその言葉は、メルクルディの胸の奥に重く響いた。


 呪われた日、何もかもを奪われたと思った。


 美しさも、居場所も、人との絆も。


 でも……今は。


 変態的なまでに真っ直ぐな視線で、彼女の異形を美しいと言い続けたこの男と過ごした日々があった。


 気味が悪いと目を逸らす者しかいなかった中で、彼だけは一度も視線を外さなかった。


 彼女の異形に、価値を見出した唯一の人間。


「私は……」


 メルクルディはそう言って目を伏せた。


「もし、この呪いを解いて、身体が元に戻ったら……あなたは、私から興味が失くなりますか?」


 そう訊くのがたまらなく怖くて震えた。


 するとロッシュは、メルクルディの触手にそっと手を添えた。


 まるで宝物に触れるように丁寧に。


「……興味が失くなるかどうか、だと?」


 彼は、いつもの淡々とした口調のままに言った。


「もしお前が元の姿に戻ったとしても、私の関心はきっと続くだろう。何故ならお前は、メルクルディという唯一無二の個体だからだ」


「…………」


「メルクルディ、私は……」


 そこで、彼は言葉を切った。


 まるで、言うべきかどうかをほんの僅かに迷うように、それは普段の彼には見せたことのない仕草だった。


「私は……お前が呪われたと聞いて、居ても立ってもいられなくなったんだ」


 メルクルディはその目を見開いた。


「何故、ですか……?」


 彼のような男が、言葉を選びながら話す。それだけで彼女の心は少し揺れた。


「お前の噂はずっと聞いていた。銀月の聖女と称され、誰もがその美貌と知性に心を奪われる……私もそんな連中の一人だった。もっと近付きたい、もっと知りたいと願う、お前の立つ舞台の端役ですらない何者かだ」


「…………」


「誰からも好かれる聖女と、奇人変人と嘲られるただの魔法使い。交わることは無い、無駄な思いは諦めろ。ずっと、そう自分に言い聞かせていた。だが、お前が家を追い出されたと聞いた時、心がざわついた。姿が変わり、一人になりたかったとしても。誰かの視線に傷付き、誰の好意も信じられなくなったとしても。お前を一人にさせたくはなかった」


「何故、今までそれを話してくれなかったんですか……?」


 ふと、ロッシュは彼女の瞳を見た。


 翡翠のように澄んだ、美しいその瞳を。


「私が何を言おうと、それはお前を追い詰めるだけだと思っていた」


「…………」


「ただお前の隣で触手を見つめ、呪いを研究するだけの変人でいた方が都合が良いだろうと……この心を伝えるつもりはなかった。私は、自分の心に嘘すらつけない半端者だったということなのだろう。メルクルディ、私は……お前を愛している。お前を構築する全てが、(あまね)く世界の何よりも美しい」


 メルクルディは、胸の奥に温かいものが広がっていくのを感じた。


 呪いに泣いた日々、孤独に耐えていた時間。


 その全てを彼の言葉が優しく包み込んでくれるような気がした。


「触手が好きなのもフリですか?」


「違う! 触手に性的興奮を覚えているのは本当だ!!」


「クスッ、フフ、フフフ……」


 頬に涙を一筋伝わせ、彼女は微笑んだ。


「本当に変態なんですから。……その言葉に偽りが無いのなら、少し困らせていいですか?」


 触手が彼の手を優しく撫でる。


 そして、彼女は静かに言った。


「私、……元の身体に戻れなくてもいいと思ってしまいました」


「メルクルディ……」


「だって……こんなふうに誰かに好きだと言ってもらえたのは、初めてだから。あなたはどんな私でも受け入れてくれる。ロッシュ……私も、あなたが好きです。愛しています」


 秋の風が一陣。


 ロッシュは何も言わず、ただその手を、唇を……彼女の触手の上に重ねていた。


 それはもはや呪いなどではなく、絆のように絡み合っていた。






 ――――――――






 王都のドルネール邸では、グリセリアが鏡台の前に座り、自らの美貌を丹念に整えていた。


 その微笑みは相変わらずの陶器のような完璧さでありながら、瞳の奥にはどこか焦燥の色が潜んでいる。


「どうして最近、私を見て誰も褒めなくなったの……?」


 舞踏会での評判も、社交界での扱いも、どこか徐々に、しかし確実に崩れている。


 令嬢たちの目は冷たく、貴族令息たちの声は上滑りしていた。


「誰も……私を美しいと言ってくれない……っ!」


 焦りに駆られ、グリセリアは顔に香油を塗りたくる。だが……ぬるり、と。


 指先にまとわりついたのは油ではなく、黒紫の粘液が頬から滲み出していた。


「え……?」


 動悸が激しくなる。


 鏡に映った己の顔から、触手が蠢いていた。


「な、何これ……やだっ、やだあああ!!」


 ドレスを引き裂き肌を掻きむしる。


 だが触手の発生は止まらない。


 左肩、背中、腕、太腿……次々に、異形の呪いが侵食していく。


「メルクルディにかけた……呪い……?! 嘘、嘘よ……なんで私が、なんで……ッ!!」


 呪いは真実の愛によって完成した。


 本来、呪術とは因果の結びである。


 グリセリアが奪った美しさと尊厳の代価を、メルクルディが愛によって昇華したとき、契約の因果は反転した。


 真に愛されるに値する存在となったメルクルディ。


 誰からも愛されない、醜さを抱く者が、今……代償として選ばれる。


「やだ……お願い、やり直させて……!! こんな、こんな結末、認めない!! 私が、私が一番なのよおおおおおっ!!」


 彼女の絶叫が響いたときには、既に全身が触手と棘に包まれていた。


 毒と汚臭を噴き出すその姿は、怪物ですらない何かであった。


 だが、メルクルディとは違い、人の姿と言葉を失った彼女を愛してくれる者は誰一人として現れなかった。


 怪物として迫害され、下水道の闇で蠢くことしか出来ず。


 やがて彼女の存在は風化し、人々の記憶からも消えていった。


 因果は巡り、呪いは完結したのだ。






 ――――――――






 季節は再び巡り、春の気配が廃れた離宮の庭にも差し込み始めていた。


 小鳥の囀りと、穏やかな風が二人の午後を彩っている。


「サンドイッチ、もう一つどうですか?」


 メルクルディが籠の中から差し出すのは、彼女の手で丁寧に作られた野菜サンド。


 見た目は素朴だが、パンも具もすべて手作りである。


「うまい。噛み締めると触手のぬめりの風味が口に広がる」


「それは入ってません! 入れてませんから!」


 思わず手を払おうとするも、触手が先に彼の頬をぺちりと打つ。


 ロッシュはそれを嬉しそうに堪能しながら、口いっぱいにサンドイッチを頬張った。


 メルクルディは、そんな彼を見つめて微笑む。


「そういえば、例の解呪の触媒……用意してないですよね?」


「ああ。忘れてた」


「またですか!」


 ロッシュ悪びれず言う。


「お前はいつだって世界で一番美しいからな」


 と。


 その言葉のやりとりの裏に、呪いも悲しみももう存在しない。


 自分を呪った者が、同じ異形となって孤独に壊れゆく顛末など知る由もなく。


 彼女はすでに、自分の呪いを、誰かに与えられた業ではなく、愛の証として優しく受け入れていたのだから。


「ねえロッシュ。もしも私がこんな身体になっていなかったら、あなたは私を求めてはくれませんでしたか?」


「たとえお前の身体の全てが異形になったとしても、言葉を話せなくなったとしても、私はお前を見つけたよ。何度でもこの手で、お前の触手()を取ったよ」


「……そうなっていたら、さすがに元の身体に戻りたくなったかもしれませんね。いいえ、たとえ今の命が尽きていたとしても。あなたにお礼を言うために生まれ変わったと思います。あのとき助けていただいた触手です、と」


「だとしたら……それはもう運命だな」


「はい」


 どちらからともなく、二人は唇を交わした。


 触手が春の陽を受けて淡く光る。


 メルクルディとロッシュ。


 元聖女で天才。


 異形と変人。 


 世間から逸れ、常識から外れ、けれど二人だけの幸福を見つけた。


 その手と触手は柔らかく、温かく、幸せの証として絡まった。


 そして二人は、愛に満ちた静かな日々を、誰にも邪魔されることなく生きていった。


 これは呪いの物語ではない。


 ただ二人だけの未来を紡ぐ物語である。

 今広告で流れてる系の、触手で人間を捕まえるアプリにハマっています。


 それをやりながら、触手令嬢いいな……ってなったので書きました。


 思ったよりいい感じに仕上がったのではないかと思います。


 お付き合いいただきありがとうございますm(_ _)m


 おもしろかったと思ってくれたら、今後の応援にリアクション、ブックマーク、感想、☆☆☆☆☆評価などいただけましたら幸いです。

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