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ダークインザライト

作者: 風間宙

 「でもさぁ、あの子もあの子でおかしいよ絶対」


隣のテーブルにいる二人の女性客の会話を聞きながら、加奈子はグラスに満たされたアイスコーヒーを飲んだ。隣に座る女性は髪の毛やカップを持つ手のひらを見る限り加奈子より10歳ほど若そうに見えた。他の客がいることなどお構いなしに会話に夢中になっている。カフェは何の区切りもないのにパーソナルな会話な作業をする人が多い。ラップトップで見せびらかすように資料を作成したり、重要そうな資料を広げたままタバコやトイレに立つ人もいる。そういった客を見るたびにカフェというのは最も自宅に近い社会空間なのかもしれないと考えるようになった。


 隣の会話を盗み聞きしていた加奈子は思い出したかのようにバッグから文庫本を取り出した。とても何万という文字が書かれているとは思えない薄さの文庫本。いくつかの短編がギチギチのサンドウィッチのように挟まっている文庫本。加奈子はいつからか長編小説というものから遠ざかるようになってしまった。本屋に行けば厚さ数センチの薄い短編集ばかり手に取る。裏表紙を適当に読み、主人公が女性ならそれをレジまで持って行く。加奈子の中にいつのまにかオートメーション化されてしまった本の買い方だ。読み進めていた2作目の短編に集中しようとするが、ページが一向に変わらない。何度も同じ行を読んでいる気がする。50ページ目の4行目を三度読み返した時、ようやく自分が隣の女性の会話を聞きたがっていることに気がついた。


「そうだよねえ。やっぱり"かなこ"の方がダメだよねえ。」


驚いて、本を閉じ隣の女性客を見た。二人の女性は加奈子の視線に気付かずノールックでミルクティーを口まで運び、会話に夢中のままだ。

さすがに人違いか。

平静を取り戻そうとコーヒーを飲む。何か手持ち無沙汰な感じがして、自分がたらこスパゲティを頼んでいたことを思い出した。

まだかな。

後ろを振り返り、厨房を見ると光る茶色の髪を小さくまとめた女性が何かをお皿に盛り付けていた。私のスパゲティだろうか。


何となく立ち上がり厨房の方へ向かった。前にあるカウンターに立つと女性店員がこちらを怪訝そうな目で見つめた。

「いかがいたしましたか?」

私はいつのまにかこの場所に呼ばれた気になっていた。私がたらこスパゲティだと思っていた料理は、全く別の客のための和風きのこスパゲティだった。

居た堪れなくなった私は、咄嗟にトイレはどこですかと聞き、店員が指差した方へと向かった。この店内で凹んで死角になっている空間の先にあるトイレは今の私にとって最も居心地の良い場所だった。


 鍵を閉めて個室に閉じこもり、昨晩のことを考え始めた。3ヶ月間付き合っていた彼に唐突に告げられた既婚者であるという事実ともう会わないという言葉。それは楽しみだった週末を迎えようとしていた加奈子を唐突に突き放す一本の電話だった。怒りも悲しみも越えてただ呆気に取られた私にごめんと一言残して電話を切った彼を責める気もなかった。復讐なんて、暗くて嫌悪に満ちた行為に及びたくはなかった。薄々気づいていた彼の隠し事が最悪のカタチとなって明らかになったという事実にむしろ晴々しい気分ですらあった。

 けれど今朝目覚めた時、枕には浮島のような涙の跡があり、部屋はクローゼットからテーブルまで全てが散乱していた。何かから追われるように服を着替え化粧をし、バッグに荷物を詰めて部屋を出た。もう二度とこの部屋には戻らないという気持ちで鍵を閉め、ひたすら歩いた先にたどり着いたのがこのカフェだった。

わたしの方がダメだったのかな?

 デートは2週間に一度、週末どちらかの午後6時から24時の間ときっちり決めていたのは彼が真面目だからだと言い聞かせていた。旅行に行く約束も、将来の話もいつも私からで、彼は好意的な反応をしながらも私が用意したレールをひいてくれる事は一度もなかった。ちゃんと聞いておくべきだった。彼が私と会わない週末に何をしているのか、なぜ彼の住む街から離れた繁華街でいつも食事の予約をしていたのか。そうすれば私は傷つかずに彼から離れることができて冷静な人間のまま次の出会いを進められたのかもしれないのに。


 薄暗いトイレの個室で座ってじっと考えていると突然ドアをノックされた。

「お客様、お料理の準備ができておりますが何かございましたか?」

隠れていることがバレた小動物のようにわたしは全身が飛び上がりカフェの個室のトイレの現実に引き戻された。

「あっ、すみません。すぐ戻ります」

かしこまりましたと言ってウェイトレスがトイレを去ったのを確認して私は薄暗い個室を出た。トイレを出る前に鏡に映る自分を確認すると、目は覇気がなくうつろではあったが、化粧と巻いたロングヘアーのおかげでそこまでげっそりとした印象はなかった。トイレのドアを開け席に戻るとまだ少し湯気がたったたらこスパゲティがテーブルに置かれていた。アイスコーヒーも結露したグラスにまだ半分ほど残っていた。モンブランのように小さくまとめられたスパゲティの上に刻まれたノリと大葉、そして10gのバターがトッピングされ、それは小学生の頃積み上げた砂の山のように思われた。隣の女性客は相変わらず丸聞こえの声量で会話をしている。もうその声に耳を傾ける気にはなれなかった。ただこの目の前のたらこスパゲティを平らげ早々に店を出ることばかり考えていた。少し固まったスパゲティを混ぜ、バターをフォークで潰した。半液状化したバターは香ばしい匂いを立ち込め、加奈子に空腹を思い出させた。スプーンを使わずクルクルと巻いたスパゲティを口まで運ぶ。クリーミーで魚介の味の濃さが口に広がった。中和するように大葉とノリを絡ませ、また一口食べた。もう巻くことを諦めて口に運ぶので、たらこの粒が少し飛び散ったが構うことなく咀嚼を続けた。スパゲティを口に含みながらグラスを持ちコーヒーを飲んだ。

たらこスパゲティとコーヒー、全然合わないな。

スパゲティの味の濃さが少し薄まったコーヒーの苦味と溶け合い両者の不快な部分がより強烈に感じられた。それでも加奈子はひたすらスパゲティを食べることに集中した。お皿の中心に盛られたスパゲティは5分と少しで全て無くなり、お皿にはたらこの粒が入ったソースが抽象画のように残っているだけだ。左官士のようにフォークを横に倒してお皿に沿わせ、かき集めたソースを最後に食べてからナプキンで口を拭った。薄ピンクの口紅と数粒のたらこがついたナプキンを折りたたみ、深呼吸をした。口の中で相容れなかったスパゲティとコーヒーは今頃胃の中で一つになっている。出したままの文庫本をカバンに詰め込み、席を立とうとした時、今まで遮断していた女性客の声が加奈子の耳に入ってきた。


「不倫なんてされたら今すぐ男の家まで行って復讐してやるわ」

「そうよね〜男の言うままに離れてそこまま暗い人生絶対歩みたくないわ」


加奈子は数十分前と同じように女性客の会話に動揺を隠せなかった。

男の言うままに離れる。それはまさしく今の加奈子を表した言葉だった。どうしてあの人に気を遣うような関わり方をしていたのだろう。あの人の隠したがっていることに勘づいていながらそれを避けるように付き合い続けた私にも非はあるかもしれない。しかし、こうして裏切られた今、私がするべき事はそのままの私でいることではないのだ。


復讐。たった今まで加奈子の脳内で真っ暗だった言葉が少しずつ輝き始めた。ほんの少しグラスに残ったアイスコーヒーはカフェの間接照明に照らされ、ギラギラと輝いている。加奈子はそれを一気に飲み干し、ついでに丸くなった氷をガリガリと噛み潰した。


カフェを出ると空全体は真っ青で遠くの方に小さな雲が見えた。行く先は決まっている。加奈子は一度だけ訪れたあの人のマンションへ確かな一歩を踏み出した。

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