6.崩壊の序曲
それからリリミアは閉じ込もった生活を続けざるをえなかった。
何度か脱走も試みたが、見つかる度見張る為の使用人が一人、また一人と増えて行った。
「次に脱走するなら、足枷を着けるから」
無慈悲な言葉は自由さえ奪うものだった。
実家への手紙もマクルドが握り潰した。
バラム伯爵家の者が来ても、「流行り病にかかった」とか「ちょうど留守だ」とか適当な理由を付けて追い返した。
彼はリリミアを監禁する為だけに両親から爵位をもぎ取っていた。
マクルドの意見で公爵家の仕事はリリミアが担当し、華やかな社交はメイが担当した。
だが領地への視察はメイだった。
夜会も茶会も勿論メイ。
社交は誰から見てもメイが正妻扱いだった。
子どもの茶会に付いて行くのもメイだ。
時が経つにつれ、マキナさえもメイばかりを慕うようになっていった。――そのうち離れに、エクスの部屋の隣にマキナの部屋が作られた。
「お母さまはいつも地味なドレスばかり着ているのよ。メイ様みたいに時にはきれいなドレスを着れば良いのに」
子どもの無邪気な言葉はリリミアの心を削っていく。
社交の必要が無いリリミアは、ドレスを新調する事もできず、着古したものばかりだった。
「メイ様が本当のお母様だったら良かったのに。だってお母さまは口を開けばマナーやお勉強ってうるさいんだもの。
メイ様は優しくしてくれるから私大好きよ」
(私だって、好きであなたを生んだわけではないわ……)
リリミアは己の内に浮かんだ考えに戦慄した。
マキナを授かった時、何度も天に感謝した。
無事に生まれてくれますように。
妊娠している時から栄養や体調に気を配り、転ばないようヒールを避け、大切に大切に守り通し、無事生まれた時は嬉しさと安堵で涙したものだった。
その後も乳母の助けを借りながら、可能な限り子育てに注力した。
手が空いた時は抱っこしたりあやしたり、散歩したり。
我が子のげっぷ、おならさえ可愛くて、笑顔、はしゃぐ声、全てを愛おしく感じ初めての発熱時には眠れぬ夜を過ごしたものだった。
成長した今でさえ、様々な思い出が蘇る。
夫と共に見つめ、二人目を授かれなくても大切に育てようと言っていたはずだった。
それが今や、娘は母親以外から生まれたかったと言い、母親は娘を好きで生んだわけでは無いという。
娘からはそんな事を言われ、自分も娘に対して酷い事を思ってしまったと、リリミアは自責の念にかられた。
そうしたすれ違いもあり、リリミアはマキナを避けるようになった。
これ以上愛娘に対し、負の感情を持ちたくなかった。
しかし、状況とは何かのきっかけで変わるものだ。
マキナが離れに住むようになって暫く経過したある夜、トイレに起きた時。
どこからか苦しげな呻き声が聞こえてくる事に怖くなり、兄であるエクスを起こして付いてきてもらった。
そしてその声はメイが普段使用している寝室からで、二人は興味本位で少し空いた隙間から覗いてしまったのだ。
そこには四人の男が裸になってメイに覆いかぶさる姿があった。
四人の男の中には父親の姿もあり、メイと音を立てながら口付けしている事にショックを受けた。
五人の大人の、人とは思えぬ悍ましい光景に身体が拒絶反応を示したのか、マキナはトイレに行って吐いた。
ボロボロ涙が溢れて止まらなかった。
付いてきていたエクスも、顔を青くしながらマキナの背中を擦った。
閨教育を受けていた彼は母親と父親の他にも男性がいる事に少なからずショックを受けていた。
その後二人は離れではなく、本邸で寝る事を希望した。
今度は本邸のマキナの部屋の隣にエクスの部屋が作られた。
その頃のリリミアは既に感情も乏しくなっており、執事から二人の事を聞いても「そう」としか言わなくなっていた。
マキナは母親に慰めてほしかった。
けれど、言ってはいけない気がして、自分の心に留める事にした。
その代わり、同じく目撃したエクスに傾倒していった。
エクスは公爵家から離れるべく様々に調べ物をした結果、寄宿舎のある学校に入る事を希望した。
エクス12歳、マキナ10歳の時だった。
リリミアの実家に行けたら良かったのだろうが、爵位が下なのと何より没交渉だった為選択肢に入らなかった。
「マキナも連れて行きたい」
頼りのリリミアには避けられ、相談もできず日々憔悴する異母妹を放って一人では行けなかった。
かといってここにいては何かが狂うと、エクスも逃げたかった。
寄宿舎には七歳から入れる為、12歳と10歳の二人は編入という形で入る事を希望した。
メイやマクルドは反対したがエクスの必死の説得もあり、二人は公爵邸から離れた。
本当はリリミアも連れて逃げたかった。
だがまだ子どもの二人は自分たちではどうしたらいいか判断がつかず、連れて行けない事を心苦しく思った。
マキナもいなくなり、リリミアはいよいよ独りになった。
娘は母親がいなくても良いと思った彼女は再度夫に離縁を要請した。
だがマクルドは頑なに譲らなかった。
「どうして……。愛してもいないなら離縁して下さっても良いのに……」
そう言いながら離縁されない安堵も微かに感じていた。
離れに行ったまま戻らぬ夫を待ち続け、リリミアはひたすら公爵家を切り盛りする女主人として毎日を過ごしていた。
誰からも裏切られた彼女は、仕事だけはさせてくれるマクルドに縋らざるをえなかった。
まだ自分は必要とされていると、それだけが頼りだった。
だが、マクルドは何をしてもリリミアを省みなかった。
領地改革で収入が増えても、愛人に貢ぐだけ。
いつか、夫は戻ってくれる。
そう言い聞かせていた彼女だったが――。
「やはり私はメイと結婚すべきだったのだろうか……」
「マク、私はこのままでいいのよ。面倒な仕事はリリミアさんにしてもらって、私は好きに過ごせるもの」
「そうは言ってもこのまま愛人の立場では……」
「いいの。それよりリリミアさんをちゃんと捕まえていてね?
今更正妻になって仕事しなきゃいけないなんて、私いやよ」
「ああ……。私たちの為に……離縁はしないよ……」
庭で仲睦まじく話している二人を見て、リリミアは戦慄した。
自分は二人の幸せの為に利用されていただけだと。
夫はやはり口先だけで、本当に自分を愛しているわけではなかった。
言葉は全て嘘だった。
枯れたはずの涙が流れる。
誰に見られるとも構わず、庭先で口付けあう二人。
盛り上がったところでメイと目が合い、おぞましい笑みを向けられた。
メイがマクルドに何かを耳打ちすると、彼は振り返り一瞬瞳を揺らした。
けれどすぐにメイに向き直り、そのまま腰を抱いたまま離れへと消えて行った。
リリミアは脱力し、暫くその場に立ち尽くしたまま動けなかった。
自分は何の為に生きてきたのだろう。
自分は何の為にこれから生きていくのだろう。
全てが虚しく、全てがどうでも良くなった。
リリミアは自室に戻り、呆然と座り込んだまま動けなかった。
侍女が話し掛け、食事が準備されても手を付ける気にもなれなかった。
何日も過ぎて、夫がやって来た。
「リリミア、何故食べない。このままだと死んでしまうよ」
優しい声音が気持ち悪くて思わず嘔吐いた。
「離縁……して下さい……」
「それはしない」
「もう、嫌です。生きていられない。死にたい。お願いです。離縁するか、死なせてください」
リリミアの尋常ではない様子にマクルドの背中に汗が伝った。
「私がメイのところにばかりいるから拗ねているんだな。きみは正妻だ。これが覆る事は無いから安心しろ」
「仕事をするだけのお飾りではありませんか。
貴方達が幸せになる為だけにいる、当て馬ではありませんか!」
「正妻の立場で何が不満なんだ!! メイはなぁ、日陰の立場で良いと健気にも言ってくれているんだぞ?」
「こんな立場なんかいりません。メイ様にあげますからもう私を解放して……」
「きみは私の妻だ!! 愛していると言っているのになぜ分からない!!」
「愛しているならなぜこんな酷い事ばかりするんですか……。なぜ裏切り続け、踏み躙り続けるのですか……」
リリミアが泣いて訴えてもマクルドには届かない。
マクルド自身、リリミアが何を言っても理解してくれない事に苛立っていた。
――客観的に見ればどちらがおかしいかなんて明白だ。
だがマクルドは自分が何をしているのか分かっていない。
分かっていないからこそ、態度を改めない。
良いとこ取りをしたいが為に、リリミアを踏み躙り続けている事に気付いていない。
リリミアはもう正気でいられないというのに。
『自分はリリミアを愛しているから大丈夫』
マクルドは何故かそんな自信があった。
奥底で激しく警鐘が鳴り響くのも無視して、このまま自分だけが幸せな日々を送れると思っていた。
マクルドからの行動の伴わない口先だけの望まぬ愛など、リリミアには迷惑でしかないし、最早不要なのだが、マクルドは気付かなかった。
そして最悪の結果を招くという事に気付けない程、マクルドの思考はおかしくなっていたのだった。