5.逃げ場を失くす
周りに裏切られたリリミアは、それでも頑なに離縁したい旨を譲らなかった。
だがマクルドも頑なに離縁しないと譲らなかった。
「それだけはダメだ。絶対にしたくない。
きみを愛しているんだ……」
切実に訴えるマクルドの姿は、学園に入学する前と同じような気もした。
だが、おかしな事にリリミアを愛していると言いながら、ランスロットやガウエン、エールが来た時は必ず離れに行ってしまうのだ。
そしてそこで一晩過ごす。
何をしているかなど、想像もしたくなかった。
陽の高いうちはマキナも離れに行った。
まだ七歳の娘は大人の事情などそっちのけで、大好きな兄と会えるのがただ嬉しいようだった。
そのうち、ランスロットらが離れに来る頻度が上がった。誰か一人は毎日日替わりで来るのだ。
殆どはガウエンやエールだったが、その接待だと称してマクルドもやはり行ってしまう為、本邸で寝る事が減った。
リリミアはただ公爵夫人としての仕事をするだけ。
王太子の側近である夫はただでさえ忙しく、しかも離れに泊まる頻度が増えれば顔を合わせる事も減っていく。
リリミアは何故自分がここにいるのか、次第に分からなくなっていった。
ある日、リリミアは実家であるバラム伯爵家に帰省した。
マキナは異母兄のところにいた為一人だった。
何度も両親に相談しようとしたが、カリバー公爵家より爵位が下の為躊躇っていたのだ。
実家に迷惑をかけたくも無かった。
だがとうとう耐えかね、半ば逃げるようにして帰省したのだ。
事情を知った両親と兄は、顔色を悪くしていた。
「まさか……マクルド殿に隠し子がいたとはな……」
「知ってたら嫁がせなかったのに……」
とはいえ、カリバー公爵家からの縁談をこちらから解消や破棄するわけにもいかず、結局は嫁ぐ事になっただろうとリリミアは思っていた。
元々この縁談はマクルドがリリミアに惚れたから推し進められたものだった。
それなのに、結果は残酷なものである。
「リリミアはどうしたい?」
父親に尋ねられ、無理と分かっていても希望を口にした。
「私は離縁したいわ。夫にも再三言ってるけれど聞いて下さらない。
不誠実な真似をしながら、私を愛しているのですって」
一体どの口が言うか、とリリミアは嘲った。
「分かった。……カリバー公爵に話をしてみよう」
自分の時は無駄に終わった。だが親同士の話なら?
それでもリリミアは期待せずにいようと思った。
あれからカリバー公爵からは何の連絡も無いのだから。
その数日後、マクルドがバラム伯爵家に迎えにやって来た。
「リリミア、父上たちに心配かけてはいけないよ。さあ帰ろう」
その声は優しく、だがどこか仄暗く、リリミアは背筋が凍る思いがする。
そして、ああやはり……と諦めの表情を浮かべた。
「マクルド殿、リリミアは離縁を希望しております。聞けば婚姻前からのお子様がいたとか。
婚約していた時からのお相手との子だそうですな」
「ええ、私の血を引いた優秀な息子ですよ。私の両親にも気に入られています。義父上にも今度会わせましょう。
マキナととても仲良しなんですよ」
三日月型に弧を描くように笑顔で話すマクルドは、隠し子の存在も不貞の事も何も反省していないように見え、バラム伯爵もリリミアも一瞬で顔色を悪くした。
「そ、れは……結構です。優秀ならば後継にも据えたいでしょう。しかし現時点で庶子に継がせる法は定まっておりませんが」
「御心配無く。王太子殿下の協力で、庶子も後継になれる法案の手続きを致しております」
その言葉に二人は目を見開き絶句した。
庶子が貴族家を継げる法案が通ってしまえば国が荒れるだろう。
そもそも貴族に政略結婚が多いのは、血に混ぜ物をしない為。
マクルドとリリミアも由緒正しい貴族家の血を引く二人だ。
本来であれば二人の嫡子であるマキナが継ぐべきだし、まだ若い二人は後継だって望めるのだ。
「国が……荒れますよ……」
バラム伯爵は声を絞り出した。
しかも正統な嫡子であるマキナを生んだ娘をコケにされ、黙ってられなかった。
「……王太子殿下が、……メイが日陰の身である事が心苦しいのだと言っております。
私も……」
そこまで言って、マクルドは口をつぐんだ。
「私は……リリミアと……、メイは……」
ぶつぶつと何かを呟くような様子が異様で、固唾を呑んで見守った。
「後継の母たる女性が日陰の身で心苦しいのであれば、リリミアと離縁してその女性を正妻とすれば良いではないですか」
「リリミアとは離縁しない! 絶対に!! リリミアを愛しているんです。私はリリミアを……!!」
「しかしやってる事はリリミアを蔑ろにしかしておりませんよね?」
「それはっ……」
忙しなく目を泳がせるマクルドのおかしな様子が気になったリリミアは胸騒ぎがした。
「……お父様、私は一旦戻りますわ」
「リリミア!? 何を……」
「マキナも置いて来ましたし、……またここに戻って来ますから」
後にバラム伯爵一家は、この時何としてでも止めておくべきだったと深く後悔した。
「……リリミア、いつでも帰って来なさい」
「お父様、ありがとうございます」
二人の親娘の会話を、マクルドは無表情で見ていた。
そして――親娘の会話はこれが最後となってしまったのだった。
帰りの馬車の中で、マクルドは無表情でリリミアを見ていた。
「きみは二度と屋敷から出ないように」
「……何ですって?」
「これだけ愛していると言っているのに離縁したがるなんて、おかしいだろう。
だいたい貴族に愛人がいるなど当然の事だ。
目くじらを立てる方がおかしい」
リリミアはその言葉に顔を歪ませた。
そして帰って来た事を早速後悔した。
堪えようとしても涙が溢れてくる。
夫からの愛など微塵も感じられない。
彼女の中の夫への愛も、あの日に失われた。
夫が友人たちと共に愛人のもとへ通うのをただ眺めていなければならない惨めさがリリミアを打ちのめした。
未だ不貞の謝罪もされず、隠し子がいた事も悪びれもせず、あまつさえ開き直りまでされたのだ。
この先、生きてきた以上に惨めな人生を送らねばならぬのか、とリリミアはただ絶望した。
マクルドはリリミアの涙に激しく胸を痛ませた。
どこかでは冷静な彼はリリミアと離縁すべきだ、これ以上傷付けたくないと思いはしても、その行動は常に矛盾していた。
メイが来てからリリミアと共寝もできていない。
それもそのはず。友人が一人でも来ればマクルドは離れに行ってしまうのだから。
何かがおかしいと思いはしても、メイに会えば愛しく思いエクスを見れば表舞台に立たせてやりたいと思ってしまう。
離れに誰かが来ればメイを渡したくないとも思うのだ。
王太子に言われたから、と言うのもあるが、マクルド自身がメイやエクスをこのまま日陰の身にするのは勿体無いとも思っている。
だがらと言って、リリミアと離縁し、メイを正妻に……とはなれない。
そもそもメイは公爵夫人として相応しくない。
(このまま……今のままで……)
リリミアには裏で公爵家を切り盛りしてもらい、メイは表舞台で社交をして貰おう。
マクルドは身勝手にもそう考えた。
分からずやのリリミアへの制裁と、リリミアを外に出したくない彼の本音が名案だと言っていた。
「これからの夜会はメイを連れて行く」
それは正しい事なのか?
一瞬、浮かんだ疑問はすぐに立ち消えた。
「きみは公爵家の事だけを考えていれば良い。
社交はメイに任せよう」
リリミアからの返事は無かった。
そんな事をして、社交界で周りから何と言われるかなど考えもしない。
マクルドは王太子の側付きだから表立っては言わないだろう。
だが、肝心のリリミアがどう言われるかなど、マクルドは気にもしていなかった。
ただ、それが正しいのだと己に言い聞かせた。
リリミアの涙を見て、心が痛んでも。
この時のマクルドは彼女の涙を拭う事すらしなかった。