19.平行線
リリミアの話を聞いて、マクルドは何も言えなかった。
時を戻りやり直す。――自分の幸せを求めて。
だがリリミアは望んでいなかった。それを改めて突き付けられ、マクルドの思考は白く染まった。
「婚約……解消したかったなら……言って、くれたら……」
そこまで言って、マクルドは口を噤んだ。
リリミアは婚約解消を申し出た。それを拒んだのはマクルドであり公爵家だ。
権力を使って脅してまでもリリミアと結婚したかったのは誰でもない、マクルドである。
マキナの事もあったし、何よりリリミアと愛し合いたかったから。
だがそれはあくまでもマクルドの望みで自分が幸せになる為だけのもの。
リリミアの意思は無視して、ただ自分が幸せになりたかっただけだ。
「リリ、ごめん。すまない、申し訳無い。ごめん」
もう何を言っても許されないだろうと思った。
死にたくなるくらいの絶望をリリミアに与え、ようやく解放された彼女を無理矢理揺り起こした。
怒って当然だ。仕返ししたいと思わせて当然だ。
子ができて、愛情深いリリミアがその子との暮らしを放棄せざるを得ず、生んで間もなく離れ離れになった。
その絶望は計り知れないだろう。
「隠し子がいるなら……言ってくれたら……」
「言いましたわ、公爵夫人に。貴方に言わなかったのは夫人が伝えていると思っていたからよ。でも愛人を作ると宣言しても探りを入れる風でも無かったし、さほど興味も無さそうでしたよね」
「本当に作るなんて思わなかった。王都にいてもそんな噂聞かなかったし俺も魔塔にいたし……知ってたら俺だって……」
「俺だって? もし私が息子をクロスと仲良くさせて家族にしたいと言ったら引き取って下さいましたか?
何でもするっておっしゃいましたよね。私の愛する人と共に離れに住まわせて、私の生んだ子を公爵家の後継にできるような法案をランスロット殿下を通して進めて下さいとお願いすれば良かったですね?」
「それは……」
マクルドは膝をきつく握り締めた。
時戻り前に彼らが提案し推し進めていた法案は、貴族社会に衝撃を与えた。
冷静になればそんなバカみたいな法案を通すなんて無理な話だ。
貴族の正妻の立場を無視し、政略結婚の意味を、貴族の血を軽んじるものが歓迎されない事くらい幼子でも分かる事だ。
更にメイは男爵家令嬢だった。
対してマクルドは公爵家後継者。貴賎結婚は推奨されない。
その理由の一つとして低位貴族と高位貴族は教育課程が全く違うからだ。
伯爵令嬢だったリリミアも、公爵夫人や王太子妃となるヴィアレットに教えを請いながら努力して立ち振る舞いを身に付けた。
メイがリリミアのように公爵家に相応しくあるように努力するなら話は変わるが、あいにくそんな努力をするような女性ではない。
メイの振る舞いは娼婦のそれだった。
リリミアはマクルド一人だったが、メイは複数が普通だった。
更に食事のマナーも歩き方でさえ、褒められたものは一つも無い。
品位の欠片も無ければ教養も。
マキナがメイが良いと言っていたのはメイが何もできないからだ。
自分ができないのにマキナに躾けることなどできない。だから甘やかすだけ。マキナも楽だったからメイに懐いた。
そんな事すらマクルドは気付かず、ただメイを着飾らせ寵愛していた。
比べなくても今の光り輝くようなリリミアの方が断然美しいし教養も品位もある。
公爵夫人として、淑女として、母として、妻として申し分なく、お手本のような女性なのに、マクルドは彼女を蔑ろにしていた。
恋に浮かれていた。
魅了されていた。
もうそんなものは言い訳にできない。
魅了されていようがいまいが、妻を蔑ろにするのはその者の本質なのだ。
「ねえ旦那様。どうして私が未だにあなたを愛していると思えたのですか?」
「それは……、リリミアは……絶対に離縁したいふうじゃなかったから……」
「だから何をしても良かった? 何をしても私が出て行かないと踏んであの所業ですの?」
「違う。……いや、結果的に酷い事をしてしまったと思っている。だがリリミアも公爵家に入れて良かっただろう? だから今回だって……」
マクルドはリリミアの表情を見て唇を引き結んだ。
あまりにも怒りがすぎて無だったからだ。
「時戻り前に私が最終的に諦めたのは、実家に迷惑をかけられないからです。
愛人と婚前子を連れて来た時点で信頼は無くなりましたし、それから孤立する度愛情も信用も無くなって今やチリ埃一つ程も残っていません」
リリミアの言葉にマクルドは声が出ない。
「今回だってそうです。最初に婚約を解消して下さっていれば無駄な時間を過ごさなくて済みましたのに」
「俺を許してくれたからじゃないのか?」
リリミアは眉根を寄せ、呆れたように溜息を吐いた。
「では貴方は同じ事をされて許せますか?
終わったと思った愛人と我が子が懐いたその子を何の相談も無しに連れて来られて、自分は愛人と友人たちと爛れた毎日。
私が同じ事をしても許せますか?」
「許せるわけないじゃないか!! きみが他の男と子を成したと分かった今でさえ苦しいのに。夜も眠れないんだ。裏切られたって思った。
信じていたのに、そんな事をする人じゃない……と……」
リリミアは悲しげな顔をしてマクルドを見ていた。
マクルドが言ったそれは時戻り前にリリミアが感じた事。
自分の事を棚に上げ、リリミアを責めるのはお門違いなのだがマクルドは苦しみを吐露したくてそのままぶつけてしまった。
「……私の二度目の人生を懸けて貴方に分からせたかったのですが、……無駄な時間を過ごしたようですね。
やはり魅了など何の関係も無く、貴方はクズで最低な男でした」
「ちがっ、これは言葉のアヤで……」
「結局貴方は御自身の幸せのみを求めている。
私の気持ちなんて、どうでも良いのでしょうね……」
マクルドは自分が高位貴族で見目も良く女性が言い寄って来る事もあり自信を持っていた。
奥底では「そんな自分に愛されているのだからリリミアは幸せだ」という思いがあった。モテる自分が婚約者に一途だという事に酔いしれていた。
だから、自分が愛する事こそリリミアの幸せであると思っていたのだ。
いつの時代もロマンス小説や歌劇、舞台劇で民衆人気なのは身分の高い者から低い者が見初められるものだ。
時戻り前にマキナと見に行った劇も、そういった類のものが人気だった。
まるでその舞台の主人公になったようにマクルドは振る舞っていた。
婚約者に阻まれる道ならぬ恋をメイで満たし、身分差のあるラブロマンスのようにメイに接していた。
最初こそシチュエーションに酔っていただけだ。だがいつしかメイに絡めとられてしまったのだ。
メイと暫く離れた時はリリミアをヒロインに見立てた。
自分と結婚できてリリミアは幸せだ。
伯爵令嬢から公爵夫人になったのだ。
夫から冷遇されても、夫に隠れた愛人がいても、「愛しているのはきみだけだ」と言えば物語のヒロインのように顔を赤らめはにかむように笑ってくれるはずだ。
けれどメイに会えば道ならぬ逢瀬に身を震わせた。
リリミアが泣くかもしれないという背徳感も彼をメイのもとへ通わせた。だが最終的に戻るのはリリミアのいる場所。
最終的に戻るのだから良いだろう。自分からの愛こそ、リリミアの幸せだと、彼はそう思っていた。
「リリは……俺に愛されて幸せだろう……?」
顔を俯けて、縋るようにマクルドは呟く。
「不貞して、謝罪もせずに開き直るような方から愛されて嬉しいとでも? 無理矢理力ずくで手篭めにするような男なのに?
高位貴族だから、顔がいいからって許されるとでも?
好きな方は好きなんでしょうね。貴方の身分と顔だけで良いなら。
でも、私には不必要。迷惑以外のなにものでもありませんわ」
マクルドは自分の足下が抜けていくような感覚を味わった。
さすがにここまでハッキリと言われれば愚かなマクルドも気付く。
今まで己がしてきた事は思い上がりで、リリミアはもう欠片もマクルドを愛していない。
「ならばどうして……どうして結婚したんだ……。そこまでしていたなら強引にでもできただろう……?」
リリミアはぽつりと呟いた。
「アーサーとデウスを人質にされているからよ。逃げれば二人に危害を加えると公爵夫人は仰ったわ」
「母上が……?」
マクルドは俄には信じがたかった。彼からすれば優しい母だから。
「それに逃げられないならいっそ、貴方も苦しめばいいと思ったの」
リリミアの声は凪いで低い。そこには何の温度も無い。
「愛しているという人に裏切られて、死にたくなるくらい苦しめばいいと思ったの。
……私の事を大して愛しているわけではないようだから、失敗に終わったけれど」
「そんな事はないよ……。ずっと苦しいままだ……」
マクルドは愛する人に、信頼している人に裏切られる事がこんなに身を引き裂くような思いに駆られるなんて思いもしなかった。
知らない内は婚前子がいるのに謝罪もせず、隠したまま何食わぬ顔で幸せな結婚生活を送り、ある日突然何の相談も無く愛人と共に連れて来た。
それがリリミアを苦しめるとも思っていなかったのだ。
知ってしまった今は違う。許せない、どうにかしてやりたいという気持ちが彼を支配している。
全ての信頼を裏切るようなその行為を誰が許せるというのだろう。
愛人がいても良いなんてよくも言えたものだ、とマクルドは怒りと苦しみで頭がどうにかなりそうだった。
「離縁して下さい」
「するわけないだろう!? 期限はまだ先じゃないか! それにきみとやり直す為に殿下の中の愛を捧げたのに」
「ではまたやり直してはいかがです?」
「……え……」
それは甘く囁きマクルドの耳に入って来た。
「今度は貴方の中の愛を捧げてやり直せば、愛しのメイ様にもまた会えるのでは?」
「俺はもうメイの事は何とも思っていない!
どうして信じてくれないんだ……」
マクルドはイライラしていた。
自分の言う事を信用してくれないリリミアに苛立っていた。
「口先だけでは何とでも言えますわ。
貴方の行動は何一つ信用できるものはありません」
二人の間に沈黙が流れる。
やがてリリミアが大きく溜息を吐くと、マクルドは肩を震わせた。
「やはり貴方との話は平行線ですね。
この先も交わる事は無いのでしょう」
「リリ……」
「先に休みます。私も疲れてしまいました。
離縁届の記入ができましたらお知らせ下さい。期限前でも貴方からの希望なら夫人も反対はなさらないでしょう」
「そんなものっ……」
リリミアは踵を返し一人で自室へ戻って行く。
振り返らない彼女の姿に、マクルドは足掻いてみたが終わりを予感し、呆然としたまま後ろ姿を見送った。