15.それは願い
学園を休学し、リリミアは母と共に領地にやって来た。
父と兄はマクルドの動向を見る為王都に残っている。
領地邸に来て穏やかな日々を過ごすのは数年ぶりだった。
時戻り前は公爵家の仕事を全て担い食べる暇、寝る間も惜しんで働いていた。
夫婦の寝室の大きなベッドに一人で寝るのが虚しくて、執務室の隣の仮眠室に備え付けられた一人用のベッドで休み、食事も片手間に食べていた。
今はふかふかのベッドで休み、ゆったりとした時が流れている。
リリミアはようやく生きている事を実感し、少しずつ感情を取り戻していったのだ。
「今日は早起きなんだな」
「アーサー様」
「様はいらねぇよ、ねぼすけ」
「なっ!?」
頭をぐしゃぐしゃとされ、せっかく整えられた髪型が崩れてしまう。
ムカムカとしてきっと睨み返すと、アーサーは穏やかな笑みを浮かべた。
「良かったな。怒れるようになって」
領地に来たばかりのリリミアは、夜中に飛び起きては恐怖に震え取り乱し感情も乏しかった。
だがアーサーはそんなリリミアに今は安全だと落ち着かせ、眠れぬ彼女に安心感を与えていた。
最初は母だけだったが、リリミアが取り乱すと暴れる事、ほぼ毎晩のように飛び起きてしまう為交代で見ていたのだ。
何度も繰り返すうち、彼は気安く話しかけるようになった。リリミアは主の娘になるが、堅苦しいよりそちらの方が良いのでそのままにしている。
「以前は、怒っても無駄だと思っていたわ」
何を言っても「愛しているから」で無視されてきた。
望んでもないのに押し付けられて自由を奪われ、いつしか諦めてしまった。
マクルドは喜びだけでなく、楽しみも嬉しさだけでなく怒りすら奪っていったのだ。
残されたのは悲しみや虚しさ。
リリミアには生きる気力は残らなかったのだ。
「今は怒りを取り戻せたんだな。大きな一歩だ」
また頭をぐしゃぐしゃとされ、リリミアはアーサーを睨み返した。
だが何が嬉しいのかニコニコと笑うだけ。
それに毒気を抜かれ、振り上げた手を下ろさざるをえなかった。
穏やかな日々が過ぎて行く中、感情を少しずつ取り戻しつつあったリリミアに、訪問者がやって来た。
「体調が悪いと聞いた。その、調子はどうだい?」
今更何をしにやってきたのかのマクルドである。
学園に入学してから二年間、彼はメイに夢中になりリリミアを放置していた。
もしも彼に時戻りの記憶があったなら、よくもやって来れたものだとリリミアはピキリと怒りが芽生えた。
「心痛のもとから離れられたので昨日までは良かったのですが……。
今日は少し思わしくないようですわ」
溜息を吐きながら言えば彼は表情を強張らせた。
今までは優しく愛情に満ちたものだったが今の彼に優しくする義理は無い。
顔も見たくないので早く帰ってほしいと冷たく言い放った。
だがマクルドはめげずに病気が治るよう協力すると言う。
ならばと婚約解消を願い出ればそれだけは嫌だと却下された。
リリミアはメイに子ができている事を父からの手紙で知っている。
時戻り前は公爵夫人が手を貸して産ませた事も。
その子を可愛がりリリミアとの子を懐かせまるで本物の家族のように接するほど愛する女性がいる癖に婚約解消を拒否するマクルドに冷ややかな目線を向けた。
不貞の証拠があるのだから婚約破棄を突き付けても良いのだが……。
リリミアが落ち着いて湧き上がってきたものは怒りだった。
何度も裏切られたのだ。
「愛しているのはリリミアだ」と言いながらその実愛人を優先させていた。
リリミアを監禁し冷遇した。
まるで物のように扱われ尊厳を、生きる気力を奪われた。
それが魅了のせいだけとは思えなかった。
同じ事を返すと言えばどうするだろう。
リリミアはマクルドに彼がした事をする、と提案した。
愛人を持つ事も含めて。
マクルドは引き下がるかと思いきや、それでも解消したくないと譲らなかったのだ。
「さすが女性一人を男四人で共有していただけあるな」
「そうね……」
解消してくれなかった事に怒りと戸惑いがあり、リリミアは呆然としてしまった。
「愛人役はどうするんだ」
愛人を作ると言いはしたもの、リリミアにはあてがなかった。
仕返しをしたいと思いはしても今から探すのも面倒だ。
そう思っていると、アーサーが手を取って跪いた。
「俺じゃだめか?」
「……え?」
「あの手のタイプは本命に男の影があると焦るだろう。自分だけを愛していると勘違いしてるから冷遇できる。何しても許されると思い込んでいるからな。
だが本当に男がいるとすれば立派な仕返しになるぞ」
アーサーの言葉にぱちぱちと瞬きをした。
そして真剣な眼差しを向けた。
「じゃあ振りだけお願いできる?」
「仰せの通りに」
そうしてアーサーはリリミアの愛人役となった。とはいえ主従の間柄、何をするでもなく至って普通の関係。
ただ少し親しい友人のようなそんな関係だった。
領地で過ごすリリミアに、マクルドから手紙が届いた。
内容は婚約が継続されて嬉しい事、心配している事、早く良くなるよう祈っている事、愛しているという事が綴られていた。
(白々しい)
今更何を、とその文字を見るだけで怒りが湧いてくる。
こんな事を言いながらリリミアを虐げていた彼に嫌悪しかない。
湧き上がる怒りを抑えようと、リリミアは何度も深呼吸をした。
ある夜、リリミアは夢を見た。
それは最期の時の最悪な夢だった。
痛みと虚しさと屈辱的な行為は忘れる事のできないものだ。
悲鳴を上げながら飛び起きると、母が駆け付けて来た。
「いや……いや、やめて!」
「リリミア、落ち着いて」
「いやあ!!」
リリミアは錯乱して暴れてしまい、母は近寄りたいが拒絶されてしまった。
騒ぎを聞いてやって来たアーサーがリリミアを窘め、「大丈夫、大丈夫だから」とゆっくりとした口調で背中を叩くとリリミアは次第に落ち着きを取り戻していった。
「アーサー……苦しい。どうして……」
アーサーの胸に抱かれ、リリミアは涙を溢した。
一回目の記憶は簡単に消えない。
マクルドに対する憎しみが湧いてきてリリミアは悔しさと怒りでどうにかなりそうだった。
「怒れ怒れ。嫌な事全部吐き出せ。溜め込むな、我慢するな。言葉でも涙でも形にして全部外に出すんだ。理不尽な事は理不尽だと言っていい。
そうして負の感情が出て行ったところに楽しい思い出を足して行けばいいんだから」
リリミアの背中を優しく叩きながら、アーサーはゆっくりと言った。
巻き戻る前の事は簡単には消えない。
すぐに切り替えられる程リリミアは器用でも無かった。
だが苦しみを受け止めてくれる母やアーサーの存在はリリミアを慰め、少しずつ勇気付けた。
「アーサー、お願いがあるの」
「なんだ?」
「私を抱いてほしい」
リリミアの言葉にアーサーは目を丸くした。
それは今後を大きく変える願いだった。