92、前向き
天気の良い日曜日の朝だった。「真面目すぎるベスには息抜きが必要!」というリローの強い勧めで、僕はキペルにある観光名所、銀の湖に来ていた。ここは冬の間、凍った広い湖面や周囲の木々に雪が積もって一面の銀世界になる。非日常を味わえると人気の場所だ。
この日も湖は観光客で賑わっていた。安全のために湖の周囲はぐるりと柵で囲まれているのだが、小さな子供はすり抜けてしまえるくらいの隙間がある。そういえば僕も、弟たちを連れて出掛けるときはこういうところに神経を尖らせていたな……と懐かしく思い出していた。
そのときだった。
「誰か! 助けてっ!」
前方で聞こえた女性の悲鳴に続いて、周囲が騒がしくなる。僕も慌てて駆け寄ると、どうやら誰かが湖に落ちたらしい。凍った湖面の一部が割れて穴が開いているのが見えた。
僕は咄嗟に柵を乗り越えて湖面に立とうとした。こんな冷たい水の中に人が落ちたのなら、すぐにでも救助しないと命が危ない。
「下がって」
不意に男性の落ち着いた声が聞こえ、次の瞬間、湖面の穴の周囲に大きく円を描くように亀裂が入った。そしてその丸い氷の板が、激しい水飛沫と共にぐるりと反転したのだ。反転した氷の上には、湖に落ちたであろう子供が横たわっていた。
一人の男性が柵を越えてそこへ近付くと、軽々と片手で子供を抱えて戻って来た。彼は自分が着ていたコートを子供に着せかけ、ほとんど狂乱の体で駆け寄って来た母親に何か言っている。
ここまでほんの数十秒の出来事だ。彼が魔導師であることは間違いないし、何なら僕のよく知っている人物だった。
「ラシャさん……!」
僕は彼らの元へ駆け寄った。恐らくもう出来ることは何もないが、ただ見ている気にはなれなかったのだ。
子供は4歳くらいの男の子で、顔は真っ青だが意識はあった。濡れた体もラシャが乾かしたようだ。何が起こったのか分からないようで、何度もラシャにお礼を言う母親の腕に抱かれてきょとんとしている。
すぐに運び屋が来て、母子を連れて行った。行き先は病院だろう。周囲の人々は救助が済んでほっとしたのか、次第に散り散りになっていった。
「やあ、ベス。こんなところで会うなんてね。お姉さんの結婚パーティー以来?」
ラシャはにこりと笑いつつ、難儀しながらコートに袖を通そうとする。彼をよく見ると、左腕が三角巾で首から吊ってあった。そのせいで片手しか使えないのだ。
「腕、どうしたんですか?」
僕はコートを着るのを手伝いながら尋ねた。何らかの怪我にしても、医務官ならすぐに治せるはずなのではと思いながら。
「……ちょっとね。良かったらお昼、一緒に食べない? 奢るから」
彼は詳しくは語らず、ただ微笑むのだった。
ラシャが連れて来てくれたのは、街中にある少し高級なレストランだった。案内されたのは二階の個室。内密な話があるということだ。私服姿だから彼が非番であることは間違いないが、一体何の話なのだろう。
料理が届くまでは他愛のない話をしていた。ラシャが腕のことには触れないから、僕も自分からは聞けなかったのだ。ようやく料理が届き、何となく落ち着かない気分でそれを平らげてから、彼はようやくこう切り出した。
「気になるよね、これ。魔導師としてはおかしい状況だもん」
そう言って苦笑した。
「はい。……医務官でも治せない怪我なんですか?」
「いや。治してもらった上で、こうなんだ。動かせないし感覚もないから、使い物にならなくて」
さらりと話す彼の言葉に、僕は絶句してしまった。片腕が使えないなんて、第一隊の魔導師としては致命的だ。
「どうして、ですか……?」
ラシャは一度ドアに目を遣って、誰もいないことを確認してから話し出した。
「ベスだから本当のことを話すけど、あの結婚パーティーの日、蜥蜴が事件を起こしてね。地下のメニ草畑から子供たちを救出するときに、奴らが洞窟内で爆発を起こした。入念に準備はしていたけど、僕らにとっては不測の事態だったんだ。隊員の多くが怪我をして、僕もその内の一人。というか、僕が一番重傷だったらしい。左腕が肩から吹き飛んじゃって」
「え……」
僕は一気に血の気が引いた。つい先日、キースから聞いたばかりだ。欠損の範囲が大きいと魔術でも治せない、と。ラシャは僕の表情を見て悲しげに微笑み、続けた。
「驚くでしょ。僕自身、病院に運ばれてからの記憶が曖昧なんだ。後から聞いた話だと、レナ院長が4時間掛けて元に戻してくれたらしい。本来なら不可能なことだったから、動かせないのも仕方がないよ。形だけでも戻ったことに感謝しないと」
「でも、いずれは治るんですよね? 時間が経てば……」
僕は祈るような気持ちでそう言った。
「分からない。また動かせるようになるかもしれないし、一生このままかもしれない。だけど僕は後悔していないんだ。おかげでメニ草畑にいた子供を一人守れたから。あの子の命が奪われるより、こっちの方が全然いいよ。……あれ、どうしてベスが泣くの?」
僕はこの感情をどう表現していいのか分からなかった。ラシャの言葉は本心なのだろう。しかし、腕がこのまま治らなければ魔導師を続ける上で大きな障壁になるし、恐らく第一隊のままではいられない。最前線で犯罪と向き合ってきた彼の悔しさを思うと、勝手に涙が出るのだった。
「やっぱり君は優し過ぎる。優し過ぎて魔導師に向いていない」
ラシャはそう言って笑うのだった。
「僕はそんなに悲観してないよ。ほんの少しずつだけど、感覚は戻っているような気もするし。子供が生まれるまでには少しでもましな状態にしてみせる。我が子は両腕で抱きたいしね」
「本当ですか?」
僕は頬を拭いつつ涙を引っ込めた。本人が前向きなのに、僕がこれではおかしいにも程がある。
「うん。君の周りではいつも奇跡が起こるし。そうだ、僕にもあのおまじない、やってくれる?」
彼は三角巾を外し、力なく垂れる左腕を右手で掴んでテーブルに乗せた。それを見ると、本当に動かないのだと実感して胸が痛くなった。
「……子供騙しですけど、いいんですか?」
「時には騙されるのも大事。よろしく」
ラシャが微笑む。僕は彼の手を取り、手の平に星を描いて握らせる。そして少々恥ずかしい気持ちになりながら「幸せになーれ」と呟いた。
「ふふ、ありがとう。次に会うときは動いてると思う」
ラシャはそう言いながら、三角巾の中に腕を仕舞った。
「……今は仕事、休んでいるんですか?」
「内勤にしてもらってるんだ。出来る範囲で第一隊の仕事をやっている。利き手は使えるし、現場に出ないこと以外はそんなに変わらずかな。ただベスの指導係はちょっと間に合わないかも。第三試験、通ったんだってね。おめでとう」
「あ、はい。ありがとうございます」
不意に祝われてどぎまぎした。
「第一隊で待ってるから。怖くなって逃げ出したりしないでね?」
いたずらっぽい笑顔でラシャはそう言うのだった。自分の腕が吹き飛んだ話をした後でこれを言うのだから、やっぱり彼はスパルタ精神の持ち主らしい。
蜥蜴の台頭はもう疑いようがなく、自警団の被害も大きくなりつつある。僕らはそこへ飛び込むのだ。チェス教官が頭を抱えていた理由も今なら分かる。
怖くないはずはないが、僕は1人ではない。仲間もいるし、心には常にジョエルがいる。何よりも僕を強くしてくれる存在だ。
「逃げません。だって……二回も奢ってもらいましたし」
僕が言うと、ラシャは声を上げて笑ったのだった。




