80、ベスとミシェル
ハーパーたちが食事の場として選んだのは、キペルで最も高級なレストラン『ファム』だった。ドレスコードがあるとのことで、僕は彼らが用意した服に着替えることになった。この歳で三つ揃いのスーツは大いに着られている感があるが、ハーパーもキッシャーも似合っていると大絶賛する。親族の色眼鏡だとしても少し嬉しかった。
洗練された雰囲気の店内には室内楽の生演奏が優雅に流れていた。そして周囲の客人はどう見ても上流層の人ばかりだ。僕の身形だけは申し分ないとしても、やはり場違いに思えてしまう。
「堂々としていいんだよ、ベス。君も一応ソーン銀行頭取の孫なんだから」
肩身の狭さから縮こまって歩く僕に、ハーパーがこっそりと言った。だがそれもそうかと思えるほど僕は豪胆ではない。ウェイターの案内に従って二階へ上がりながら、小声で彼に尋ねた。
「兄さんたち、普段から高級な店にしか行かないの?」
「僕はそんなことないけど、お祖父様は行かないんじゃなくて行けないのさ。地位には常に品位が伴わないといけない。もしお祖父様がその辺のバルにいるところを見られたら、ソーン銀行の顧客は半分くらい離れるだろうね」
「……庶民らしさが出ると信用を失くすってこと?」
「はは、そういうことだよ。君は鋭いね」
前を歩いていたキッシャーが振り向いて笑った。室内楽の音に紛れて聞こえていないと思っていたが、年齢の割に耳はいいらしい。
「印象というものは時として本質よりも重んじられる。我々のような信用商売は特に」
「大変なんですね……」
僕とはかけ離れた世界の話に、月並みな感想しか出てこなかった。しかしこうも思う。だからこそキルデのように印象だけはいい人間が上手くやっていたのだろう。本質は言うまでもなく、ただの狂人だった。
そうこうしているうちに部屋に到着した。全体的に暗い色味の、落ち着いた空間だ。天井のシャンデリアが紺のテーブルクロスの上に並ぶ食器類を煌めかせている。いつも学院の食堂で使っている物とは違い、傷もないしくすんでもいなかった。
僕らが席に着くと、ウェイターはまずキッシャーにメニューを示しながら尋ねた。
「ワインは何になさいますか」
「酒は結構だよ、ありがとう。今日は大切な話をしなければならないから。しかし……土産品として、これとこれと、これをボトルでお願いしよう」
馴染みの店員なのかキッシャーは親しげにそう話す。高そうなワインを3本もだなんて、太っ腹だ。更にさりげなくチップを渡すことも忘れない。かしこまりましたと一礼し、ウェイターは下がった。
「酒が入った状態で話すのは君に失礼だからね、ベス。君はまずロエナのことを知りたいのだと、ハーパーから聞いているが……」
キッシャーは僕を見て微かに目を潤ませた。
「はい。母はどんな人でしたか? 僕は何も知らないんです。僕らのことを愛していたということ以外は、何も」
それだけ知ることが出来れば十分だったのだが、時間と共に欲が出てきたのだろうか。キッシャーの口から母の話を聞けば、骨としか対面が叶わなかった僕でも生身の母を想像出来るかもしれない。そう思ったのだ。
キッシャーは一度横を向き目頭を押さえてから、また僕に向き直った。
「そう、君たち、だね。双子の兄弟だと聞いている。君が弟で、ロエナが付けた名前は……」
「ミシェルです。僕の命を救ってくれた兄は、ジョエルといいます」
僕はこうしてジョエルのことを堂々と紹介出来るのが嬉しくもあった。今は生きていなくとも、僕の兄弟であることに違いはないからだ。
「あの子らしい良い名前だ。……どうかな、ベス。失礼を承知で言うが、この場でだけは君をミシェルと呼ばせてくれないだろうか」
キッシャーは切実な表情でそう言った。可愛がっていた姪が付けた本当の名前で僕を呼びたいのだろう。僕も嫌な気はしなかった。自然と笑みすら溢れる。
「もちろんです、お祖父様」
それからキッシャーは、僕の母ロエナ・エヴィングについて語った。母は僕が写真で見た印象通り、大人しい人だったそうだ。幼い頃から虫も殺せぬほど心優しい子で、母親の言うことを良く聞き、滅多にわがままも言わなかった。本を読むのが好きで、年に一度エヴィング家に顔を出したときにはキッシャーの書斎に入り浸っていたという。内向的なところは僕も似ているのかもしれない。
あの子は思い悩むとすぐに食欲を失くすのが心配だったとキッシャーは言った。思わず笑ってしまい怪訝な顔をされたが、僕もそうなんですと説明すると納得したようだ。親子揃って難儀な性格だねと同情された。
そして母の目は僕と同じ、灰色がかった青だった。キッシャーの母がそうだったらしく、世代を飛び越えた遺伝なのだろうと彼は言った。ハーパーも同じ目の色である理由が分かり、少しすっきりした。
「母が読んでいた本って、どんなものでしたか?」
僕は少しでも母の人柄を知れたらと思い、そう尋ねてみた。
「ほとんどは小説だった。気に入ったものがあれば持っていきなさいと言ってあったから、今もロエナの部屋にあると思うよ」
「母の部屋……」
それはエヴィング家の屋敷の中にあるのだ。母を知るためには見てみたい気もするが、僕や母がキルデにされたことを思うと、まだあの家には近付けそうもなかった。
キッシャーもそれを感じたのだろう。少し思案してからこう言った。
「あの子の部屋にある本を、全て君に届けさせようか。それほど多くはないはずだ」
「お願いします」
僕は彼の気遣いに感謝した。今は忙しくて無理でも、試験勉強が落ち着けばじっくり目を通せる。どんな小説なのか少し楽しみでもあった。
「私に出来ることがあれば何でも言ってくれ。もちろん金銭のことでも構わない。君に補償をしたいという気持ちは今も変わらないんだよ、ミシェル」
キッシャーは真剣な目で僕を見る。とはいえ、僕の気持ちだって変わってはいないのだ。
「補償は受け取れません。でも……」
一度は落胆した彼の表情が、ぱっと明るくなった。
「何でも言ってごらん」
「母の墓についてお願いがあるんです。一度お祖父様の申し出を拒否しておいて図々しいんですが……」
「気にすることはない。どんなお願いだ?」
「母を出来るだけ綺麗な墓地に埋葬してあげたいんです。でも学生の僕には、金銭的に難しくて。僕の代わりに墓を建てて貰えないでしょうか。費用は働き始めてから必ず返します」
意を決して言うと、キッシャーは微かに目を見開き、とんでもないと口走った。
「ミシェル、君はまだ子供だろう。費用云々は私が何とかすべき話だ。返すなんて言うものじゃないよ。ああ、真面目なところまであの子に似て……。もちろん墓は建てよう。綺麗な墓地に、立派なものをね。最初からそのつもりだ」
彼はそう言って、涙ぐみつつ微笑んだ。僕も一気に肩の力が抜けた。
「ありがとうございます。そういえばお祖父様は、母の遺骨と……」
「ついこの間、会ったよ。自警団には感謝しなくてはならない」
キッシャーは遺骨について深くは触れなかった。息子である僕の手前、余計なことを言わないようにしてくれたのかもしれない。
「はい。色々と配慮してくれましたから」
僕を彼らの作戦に利用した罪滅ぼしと言えなくもないが、決してそれだけではないはずだった。カイやエスカ、それから僕が出会った自警団の隊員たちの人柄を知るとそう思える。
「来年にはベス……ミシェルもその一員か。楽しみだね」
空気を読んだのか、ハーパーが話題を変えた。
「僕も9月からの復学が決まったんだ。君より遅れるけど、ちゃんと卒業してみせるよ。いずれはお祖父様の右腕になれるといいんだけど」
「頼もしい孫たちだな。隠居するのはまだまだ先になりそうだ」
キッシャーは嬉しそうに頬を弛めるのだった。キルデによって不幸のどん底に叩き落とされた僕らだが、気付けばこんなに暖かい時間を過ごしている。勝った、というのも変だが、もう彼に支配などされていないと実感出来た。
それから僕は食べ方の分からない高級料理に苦戦しつつ、家族として彼らと過ごした。これをガレット家と比べようとは思わない。ミシェル・エヴィングもベス・ガレットも、どちらも僕だ。
「……あっ」
僕が無理に外そうとしたエビの頭が、宙を飛んでキッシャーのスープ皿に飛び込んだ。それを見たハーパーが吹き出し、流石に眉を顰めると思ったキッシャーも大笑いしていたのだった。




