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79、唾棄

 僕が門限の10分前に寮の部屋へ戻ると、キースはいつものように机で山のような課題をこなしていた。彼は物音に気付くとすぐに顔を上げ、僕を見て安堵の息を吐く。


「冷や冷やさせるなよ、ベス。あと5分待って帰って来なかったらグルー教官に言いに行くところだったぞ」


 僕に門限破りの前科があるからそんな言い方になるのだろう。無論、キルデに監禁された時のことだ。


「心配してくれてありがとう。でもハーパーはいい人だったよ。強くて優しい兄さんだった」


「そう。臓物を浴びせることにならなくて何より」


 キースはそう言って笑う。ハーパーがとんでもない奴だったらそうしてやろうと以前に二人で話していたからだ。

 僕も笑い返し、それから今晩のことについて逐一キースに報告した。ふと時計に目を遣ると時刻は22時直前だ。話に夢中であっと言う間に時間が過ぎたらしい。

 僕らは急いで廊下に並び、いつものようにグルー教官の点呼を受ける。教官は去り際に「()()()ちゃんと帰ってきたんだな」と呟き、ため息混じりに歩いていった。顔には出さないが心配してくれていたようだ。


「なんだかんだ、俺たちの代は教官に恵まれてるな」


 部屋に戻るなりキースはそう言った。


「……そうだね、尊敬出来る教官ばかりだし。でも教官って基本的にそういう存在じゃないの?」


 僕はそれを疑ったことはないのだが、キースは首を振って否定した。


「ルカ医長に聞いた話だけど、彼の代には自分の気に入らない生徒を(おとしい)れて退学にさせようとした教官がいたんだってさ」


「最低だね……。退学になっちゃったの? その生徒」


「いや。結果的には教官が謹慎を食らって、その生徒は無事だった。でもその教官から謝罪が無かったことに激怒して、荒れに荒れて、別の理由で退学寸前になったらしい。同期が骨を折って何とか卒業出来たって」


「いい同期だね。僕らの同期もそうだけど」


「だな。全員で卒業出来たらこんなに嬉しいことはないよ」


 キースはやけに素直にそう言った。しかし照れ臭くなったのか、すぐ課題に目を落として無言になる。からかうのも野暮だと思い、僕はくすりと笑ってベッドに入ったのだった。



 そして埋葬の日が訪れた。僕は最後の一時限の授業を休み、急いで私服に着替えて西4区の墓地へ向かった。簡易的な喪服である黒い外套とつば広帽子が、馬車の窓から射す8月の西日を余す所なく吸収する。じわりと汗ばんでいるのはそのせいなのか、これから初めて祖父であるキッシャーと顔を合わせるからなのか、よく分からなかった。

 墓地の手前で馬車が止まると、入口の門の向こうからハーパーが駆けて来るのが見えた。こちらは上から下までしっかりとした喪服だ。


「代金は僕が」


 彼は僕が降りるよりも先に馭者(ぎょしゃ)に代金を支払っていた。


「帰りもどうぞ()()()()で。お気を付けて」


 そう微笑みながら更に追加でコインを渡している。乗せた客について口外するなという、リスカスでの暗黙のルールだ。馭者も微笑み、深々と礼をして去っていった。


「運賃くらい自分で払ったのに……。袖の下は別として」


 僕が言うと、ハーパーはとんでもないとばかりに首を横に振った。


「呼んだのはこっちなんだし、ベスに払わせるわけにはいかないよ。喪服、わざわざ用意したの? 私服で十分だったのに」


 彼は僕の外套に目を止める。これはキースに借りたものだ。僕の物も実家にあるのだが、キルデのことはまだ家族には秘密だし、そもそも取りに帰る暇もなかった。


「友達に借りたんだ。一応、父親の埋葬だし。形だけでもきっちりお別れしておけば忘れるのも簡単かなって。敬意なんて小指の先ほどもないよ」


 思わず辛辣(しんらつ)な言葉が出たが、ハーパーは笑って流してくれた。


「さ、行こうか。キルデの埋葬なんておまけだから、さっさと終わらせてしまおう。君との食事の方がメインだ」


 そう言って墓地の門をくぐる。やはり荒れた印象を受ける墓地だった。空気は湿っぽく、所々雑草が覗く石畳の通路の左右には、これまた風雨で角の削れた墓石が並んでいる。名前も読み取れるかどうかといったところだ。


「質の悪い墓石はそう何年も()たない。数年後にはキルデの墓もそうなるけど、あの人にはお似合いだ」


 僕の視線の先を追ってハーパーが言うのだった。僕は彼の後ろを歩きながら、母の墓について考えていた。リスカスの補助制度を受けて墓を建てるとしたら、それほどいい墓石は選べない。となると、いずれここの墓たちと同じようになってしまうのだろうか。

 ふと向こうに黒い人影が見えてきた。喪服を着た集団、といっても4人だけだ。老齢の紳士が1人、後はその執事とおぼしき中年の男性と、若い男女。キッシャーと使用人たちだろうか。お互いの顔がはっきり見えるほどに近付くと、緊張に襲われて僕の足は止まった。


「……彼がお祖父様のキッシャー・エヴィングだよ、ベス。お祖父様、こちらがベス・ガレットです」


 ハーパーが僕らを双方に紹介した。キッシャーも使用人たちも帽子の下でじっと僕を見ている。不意に怖くなり、俯いた。彼らは何を思っているのだろう。キルデが従姉妹を手懐けて生まれ、更に彼の手で殺されかけた哀れな子供に対して。


「ベス」


 少し(しわが)れた優しい声がした。衣擦れの音に続いて、俯いた僕の視界に皺の多い手が入り込む。その手が恐る恐る僕の手を握る。少しかさついているが、温かい手だ。

 顔を上げると、茶色い瞳を涙で潤ませたキッシャーがそこにいた。いつの間に帽子を取ったのか、撫で付けた総白髪がはっきりと見て取れる。年老いた柔和な顔はキルデと少し面影が似ているが、不思議と拒絶しようとは思わなかった。


「ベス、ああ、君が……」


 キッシャーは絞り出した声でそう言って、(あな)が開きそうなほどに僕の顔を見つめた。


「こんなにもロエナに似て……、あの子と同じ目だ。とても綺麗な目だ」


 彼はまばたきの度に大粒の涙を溢しながら、握る手に力を込めた。


「すまなかった。本当にすまなかった。キルデのせいで苦しい思いをさせてしまって。何と詫びればいいのか……」


 言いながら崩折(くずお)れそうになったキッシャーを、さっきの執事らしき男性が側に来て支えた。

 僕はもう、キッシャーに対して悪い感情は抱けそうにもなかった。彼は善良な人だとハーパーが言っていた意味を、実際に会ってみて理解したのだ。


「そんなに謝らないで下さい。それに僕は、ガレット家で今までずっと幸せに育ててもらいましたから。……今日、会えて良かったです。お祖父様」


 自然とそんな言葉が出た。


「おお……、私をそう呼んでくれるのか。可愛いベス、私の大切な孫息子……」


 キッシャーは感極まったように僕を抱きしめ、嗚咽を漏らした。横で見ていたハーパーも執事も、それから使用人たちも、そっと涙を拭ったようだった。

 荒れた墓地には似つかわしく無い感動的な場面だな、と考えながら、僕も思わず涙が滲む。血の繋がりがあるにせよないにせよ、自分を大切に思ってくれる人がいるのは嬉しいことだ。

 しばらくしてキッシャーは僕を離し、ハンカチで顔を拭って咳払いをした。


「取り乱してすまないね。我々はやるべきことを済まさねば。来たようだ」


 彼が門の方向へ顔を向けると、6人くらいの男性が黒い棺を運んでくるのが見えた。実際に遺体は入っていないはずだが、そんなに重いのだろうか。そう思っていると、ハーパーが僕にこっそり耳打ちした。


「あれ、人の重さと同じくらいの木材を入れてあるんだ」


 深く掘られた墓穴の前に棺が到着した。キッシャーが頷くと、棺を運んできた男たちはロープを使って黙々とそれを穴に下ろす。

 本来ならそこで棺の上に花を投げ入れるのがリスカスの習わしだが、今は誰も花を持っていない。もちろん僕もだ。

 すると、ハーパーが静かに穴の前へ進み出た。


「さようなら、お父さん。二度と会わずに済んで光栄です」


 そして彼は墓穴に唾を吐き入れたのだった。使用人たちが小さく悲鳴を上げ、キッシャーも流石に顔をしかめてハーパーを見た。


「埋めて下さい」


 ハーパーはそれを気にも留めず男たちに言った。彼らは今の行動に何も思わないのか、表情も変えずシャベルを持って穴に近づく。


「待って下さい」


 僕も穴の前に進み出た。やることは決まっている。


「さようなら。間違っても天国には行きませんように」


 そう言って唾を吐く。こんな冒涜的なことをしたのは人生で初めてだが、はっきり言って気分爽快だった。息子二人に唾を吐かれたと知ったら、キルデはどんな気分だろう。流石に怒りを覚えるだろうか。

 淡々と棺に土が掛けられていく。僕とハーパーはそれを最後まで見ずに墓地の門を出た。


「僕ら、後でお祖父様に叱られるだろうね」


 ハーパーは帽子を取り、空を見上げながらくすりと笑った。その表情は明るく、清々しい。


「悪いことをしたとは思わないけどな。どうせあの中は空なんだし。僕らが味わった地獄に比べたら可愛いものだよ」


 僕も空を見上げてみる。快晴だ。涙雨なんて一滴も降りそうにない。


「気が合うね、僕ら」


 ハーパーがそう言って僕を見たところで、キッシャーと使用人たちが門から出て僕らの方へ歩いて来た。その表情と雰囲気で、あ、これは叱られるなと察する。


「ハーパー、ベス、いくらなんでもさっきのは――」


「お説教は聞きたくありません」


 キッシャーの言葉を遮り、僕らは声を揃えていた。思わず顔を見合わせて大笑いする。気が合うのは間違いないようだ。

 実の父親の埋葬でこんなに笑っているのは僕らくらいだろう。でも、これでいい。今日を限りにキルデのことは忘れて、彼に奪われたものを少しずつ取り戻していくのだ。

 呆れ顔でため息を吐くキッシャーをよそに、僕らはしばらく笑いが止まらなかった。

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