77、仕上げ
空腹の僕を気遣って、ハーパーは部屋に食事を手配してくれた。彼も夕食はこれからだったらしい。さっきの部屋とは別にダイニングルームもあり、そこにある大きな窓からは点々と明かりを灯すキペルの街並みが見えた。
「ベス、寮には門限があるの?」
ハーパーは僕に尋ねながら、手慣れた様子で肉料理を切り分け口に運ぶ。所作も綺麗で無駄に皿を汚すこともない。それに対して僕は動きがぎこちなく、皿の端にも肉汁が飛んだりしていた。これが育ちの差というものだろうか。少し恥ずかしく思いながら質問に答えた。
「……うん。21時だよ」
敬語は外していいとハーパーに言われていたから、いつもガレット家の兄たちと話すように話した。これだけでもぐんと距離が縮まったように感じる。
ハーパーは部屋の時計を見る。時刻は19時を回ったところだった。
「それならまだ時間はあるね。ベスと話したいことが沢山あるんだ。お祖父様のこととか」
お祖父様、つまりキルデの父キッシャー・エヴィングのことだ。僕は思わず手にしたナイフとフォークを置き、ハーパーを見た。睨みに近かったかもしれない。彼が微かに怯むのが分かった。
「そんなに怖い顔をしなくても……」
「キルデの親でしょう。僕は関わりたくない」
きっぱりと言ったが、意外にもハーパーは引き下がらなかった。
「君はお祖父様のことを知らないだろう、ベス。彼はとても善良な人間だよ。誓ってキルデとは違う。僕が彼と違うようにね」
諭すような彼の口調に僕は思わず口をつぐむ。ハーパーを兄だと認識しているからか、反射的にそうなった。ガレットの兄たちに叱られているときの態度が身に染み付いているのだ。
「お祖父様は今回の件で、一切キルデを庇うことはなかった。もちろんショックは受けていたけど、実名が報道されて銀行が潰れても、自分が世間からの非難を浴びても構わないとまで言っていたんだよ」
「でもそれじゃ、従業員はどうなるの?」
キッシャーが頭取を務めるソーン銀行は大銀行だから、支店も含めれば従業員の数は相当多いはずだ。兄のレイもその内の一人だった。
「当面の補償は私財で何とかするって。それに銀行員なら身元は堅いから、再就職もそれほど難しくない。お祖父様は後先考えずに発言したわけではないよ。結局は僕と君の今後を考えて自警団に止められたけど」
ハーパーは言った。確かに、エスカがその辺の話をしていた気がする。てっきりキッシャーが保身のために報道規制を提案したのかと思っていたが、自警団からだったようだ。それだけでだいぶ印象が変わった。
「そうなんだ……」
僕が呟くと、ハーパーはほっとしたように頷いて続けた。
「うん。お祖父様は君にとても会いたがっている。自分の孫で、可愛がっていた姪の子供でもあるから。君に補償をしたいと言ったのも心からの謝罪の意なんだ」
詫び金として補償を受け取ってほしいとエスカから伝え聞いていたのを思い出す。一生生活に困らない程度の額と言っていたが、僕は自分の食い扶持くらい自分で稼ぐし、キッシャーに謝罪されたところで心が安らぐわけでもない。僕が心から反省して欲しい人間は収監されようが死の間際になろうが、絶対にそんなことはしないだろう。もはや諦めるしかなかった。
「お金は受け取れないけど……、会うのは嫌じゃないよ。僕も会ってみたい。会って、お母さんのことを聞いてみたい」
そう言うと、ハーパーは微かに目を潤ませた。
「そうだね。僕はベスのお母さんを知っているはずなんだけど、まだ小さかったからほとんど記憶になくて……。ごめん」
「謝らなくていいよ、仕方ないことだし。それに兄さんのお母さんだって……」
言葉が途切れ、部屋の空気が重く沈んだ。僕らの母親はキルデに奪われた。その虚しい事実だけはどうしようもない。
ハーパーが目を伏せながら、ぽつりぽつりと話し出した。
「母さんがああなる前に止められたんじゃないかって、今まで何度も後悔してきたんだ。母さんは僕の生活を守るためにキルデの側にいた。貧乏になってもいいから家を出ようって、僕が言えていたら……。あの人は世間体を考えて絶対に許さなかっただろうけど。その内に母さんが邪魔になって、何かを吹き込んで窓から飛び降りさせた。あの日のこと、今でも思い出すんだ。地面に倒れている母さんの姿……」
顔を覆ったハーパーの両手が小刻みに震えていた。目の前で大切な人の死を見るのは、僕が母の遺体の写真を見たときよりも衝撃だったはずだ。そしてふと思った。
「兄さん、精神の治療を受けたことは?」
彼は顔を上げ、諦めたように首を横に振った。
「ないよ。キルデが世間体を気にしていたから。彼の意に沿わないことをすれば僕も殺されるかもしれない、そう思うと恐ろしくて。あの人はそんな存在だったんだ」
「でも……、お祖父様はお母さんの死を不審に思わなかったの? 兄さんに何もしてくれなかったの?」
この怒りはハーパーへの同情からくるものだろうか。キッシャーが知っていて何もしなかったのであれば、やはり許すことは出来なかった。
「キルデはお祖父様に平然と嘘を吐いたんだ。妻は実は重い病を抱えていて、人生に絶望していたなんて。全くのでたらめだけど、母さんはたまにヒステリーを起こしたり寝込んだりもしていたから、何も知らない人からすれば真実味もあったんだろう。そもそもそうなったのはキルデのせいなんだけどね……」
ハーパーは小さく息を吐き、続けた。
「お祖父様は僕を精神病院に連れて行こうとしたけど、僕が断ったんだ。その場にキルデがいたし、彼の目が怖くて。今だって、彼が目の前にいたら僕は足がすくんで動けないと思う。弱い人間なんだ。もう獄所台から出てくることはないと聞いても、まだ怖いと思ってしまう」
「兄さんは弱くないし、仮にキルデが出所したとしても僕が守るよ。これから魔導師になるんだから」
大言壮語だろうか。いや、出来なくはないはずだ。僕の心が折れさえしなければ。守りたいものが沢山ある今となっては、きっとその心が折れることもない。
ハーパーは少し驚いたように目を見開き、それから笑った。青白かった彼の頬に赤味が差していた。
「ベスはとても強い子だね。きっといい魔導師になれる。……僕もしっかりしないとな。休学している場合じゃないか」
「休学?」
そういえば、彼が今何をしているのかを聞いたことはなかった。学生だったらしい。
「うん。王立学校の初等科を出てから、そのまま高等科、大学と進んでね。金融と経済について学んでいたんだ。2年前に母が亡くなってからずっと休学していた。本来なら三年生だけど、僕の頭の中は一年生のままさ」
彼はそう言って苦笑した。王立大学に入れるなんてリスカスではよほどのエリートだが、彼もその一人だったようだ。
「てことは、兄さんはソーン銀行を継ぐつもりなの?」
「まさか。僕にはお祖父様のような経営手腕も才覚もないし、キルデみたいに人付き合いも上手くない。エヴィングの一族として当然みたいな流れだったから、そこに入っただけだよ。でも今は」
ハーパーは照れたように目を伏せた。
「少しでもお祖父様を手伝えたらいいなって。それに弟が卒業するのに、兄の僕は卒業出来ないっていうのも恰好悪いし」
「学校が違うでしょう」
僕が笑うと、彼も視線を上げて笑った。
「それはそうか」
「うん。……あ、兄さん。もし良かったらさ、僕の卒業式に来ない?」
ふと思い付いたことだった。無事に卒業するところを実の兄に見てもらえるなら、僕ももっと勉強に気合いが入りそうだ。二次試験と三次試験に向けて今が頑張り時でもある。
「もちろんだけど、行っていいの? 君の家族も来るんだろう。僕の存在が知られれば、君はキルデのことを家族に隠し通せなくなるよ。あまり顔を合わせない方が――」
「兄さんも僕の家族なんだけどな。確かにガレットの家族にはキルデに関連する話はしていないけど、卒業までにはちゃんと話す。けじめは付けるつもり」
彼らにとっては恐らく相当な衝撃だろう。僕がグレーン乳児院放火事件の生き残りだということは、既にレイから両親や他の兄姉に伝わっていると考えていい。問題はその先なのだ。真実を知った彼らはキルデに対する怒りよりも先に、実の父親に殺されかけた僕のことを思って心を痛めるに違いない。
「……それなら、その場に僕も同席させてほしい。兄としてベスだけに重責を負わせるつもりはないよ。一緒に説明する」
ハーパーは真剣にそう言うのだった。僕は学院の仲間や今の家族だけではなく、実の兄にも恵まれたらしい。嬉しさに思わず涙が滲んだ。
「ありがとう……」
「泣くことはないじゃないか。当然のことだよ。それに僕は、ベスをこんなに優しい子に育てた家族に会ってみたいんだ。……ああ、これからの予定が沢山出来てしまったね」
彼は頬を染めて嬉しそうに笑う。最初に見た暗い表情の青年とは別人のようだった。
「ベスが成人したら、一緒にお酒が飲めるといいな。特別なワインを用意しておくから」
「今日みたいに、金に物を言わせて?」
そんなことを言ってからかってみると、ハーパーは初めて声を上げて笑った。
「言うねぇ、ベス。確かに今日はお金が掛かっているよ。この階の全部屋貸切だし。でも僕の安心のためなんだ。まだ最後の仕上げが残っているから、その前に君と僕の関係を記者に嗅ぎ付けられると困る」
「最後の仕上げ?」
僕の問いに、彼は真顔に戻ってこう言った。
「キルデが急に姿を消して、彼の顧客や関係者は不審に思い始めている。今は急病で倒れたことにしてあるけど、いつまでもそれで通すわけにはいかない。だから、死んだことにするんだよ」




