68、安らぎ
「ノア……?」
僕は信じられない思いでそこに立つ彼を見つめた。両手でドアの枠にしがみつき、微かに膝も震えているが、それでも自力で立っていることに変わりはない。以前会ったときはそれこそ人形のように動かず、立つどころか視線を合わせることすらままならない状態だったのに。
「ベス」
ノアの口から今にも消えそうなか細い声が聞こえた。彼は一生懸命に表情を動かし、僕に向かってぎこちない笑顔を作る。
僕は思わず立ち上がって側に駆け寄った。驚きや心配よりも、今は感動が勝っていた。
「ノア! 喋れるようになったの? いつから動けるように?」
両手で彼の体を支えながら言った。ふと見れば、廊下には彼の車椅子が置いてある。流石に子供たちがいる棟からここまで歩くのは不可能だったらしい。
「君と会ってからだよ、ベス。あの日からノアは信じられないくらいの回復をしているんだ」
エドマーがにこやかに答え、ノアの横でネリーがぶんぶんと頷いた。
「すごいでしょ? 少しだけなら一人で歩けるの!」
「君の状況を見て詳細を伝えようとは思っていた。でも、この姿を見れば分かるね」
エドマーの言葉通り、ノアがどれだけ回復したのかは一目瞭然だった。メニ草畑という地獄で過酷な目に遭い、廃人に近い状態だった彼が今、こうして目の前で笑っている。僕は胸が熱くなり、思わずノアを抱き締めた。
「良かったね、本当に良かった……!」
「おまじ、ない……」
途切れ途切れのかすれた声でノアが言った。長いこと言葉を発していなかったせいだろう。僕は体を離して、彼の顔を見つめた。
「おまじない?」
「ベスが、掛けてくれた、おまじない。効いたの」
ノアはきらきらと輝くような目で僕を見返す。おまじないとは、僕がいつも兄たちに掛けてもらっていた幸せになれるおまじないのことだ。確かにノアと初めて会ったとき、彼にもそれを掛けた。まさかこんなに目に見える効果を発揮するとは、思ってもみなかった。
「本当に……?」
「本当だよ。ありがとう、って、言いたくて、来たんだ」
ノアの笑顔がぼやけて見えるのは、僕が泣いているからだろうか。彼は心配そうに眉尻を下げ、こう言った。
「ベスは、どこか、病気なの? とても、悲しいこと、あったの?」
「……少しだけね。でも大丈夫。エドマー先生に治してもらったから」
僕は自分の目元を拭って微笑んだ。
「それに、ノアとネリーの顔を見たら元気が出たよ。来てくれてありがとう」
そう言うと、二人は良く似た照れ笑いの顔をした。さすがは双子だ。……僕と双子の兄弟の笑顔も似ていただろうか、などと余計なことを考えて、胸がちくりと痛んだ。
「ねえ、ベス。ベスも私たちのヒーローだよ」
ネリーが言った。
「ヒーロー?」
「うん! 一番のヒーローはカイだけどね、二番目はベス。きっと優しくて強い魔導師になれるよ。お勉強頑張ってね。私たち、ベスの卒業式、見に行くからね!」
突然の報告に驚いた。学院の卒業式には基本的に生徒の両親や親族が招かれたりするが、それ以外の人間が立ち入り禁止というわけではない。ネリーたちも行こうと思えば行けるのだ。
「これで、無事に卒業しないわけにはいかなくなったね」
エドマーがいたずらっぽく僕を見る。身が引き締まる思いだった。試験に落ちて退学なんて真似は、間違っても出来ない。
「……頑張るよ。二人に格好いいところ、見せなくちゃならないからね」
ネリーとノアにそう言うと、二人はまた良く似た顔でにっこりと笑うのだった。客観的に見れば僕は不幸の真っ只中だが、この瞬間は間違いなく幸せな気分だった。
夕方になってキースが面会に来た。彼は病室のドアを開けて僕の顔を見るなり、長いため息を吐いたのだった。
「……失礼な奴だな。人の顔見てため息なんて」
僕が茶化すと、キースは苦笑しつつ側へ来て、ベッド横の椅子にどさりと腰掛けた。
「ほっとしたんだよ、思ったよりも元気そうで。俺がどれだけ心配したと思ってるんだ? 門限になっても君が外出から戻って来ないし、かと思えば点呼のときにグルー教官が君は入院したなんて言うし。詳しい説明も何もなしだ」
彼はその美しい顔をしかめて僕を見る。それが窓からの西陽に照らされて、いつものことながら絵になる光景だ。彼はそれ以外にも何か言いたげだったが、僕の言葉を待つことにしたようだった。
「ごめん。……教官たちからは、何も聞いてないんだよね? 僕のこと」
そう尋ねると、彼は頷いた。
「君がここへ入院していることも、俺からしつこく聞かなきゃ教えて貰えなかっただろうな。部屋に置いてあった手紙……ごめん、勝手に読んだんだ。もしかしてあの人絡みで何かに巻き込まれたのかと思って」
僕が部屋に置いておいたキルデからの手紙のことだ。名前をぼかすのは、僕を気遣ってのことなのだろう。
「僕はもう大丈夫だよ、キース。治療はほとんど終わってる。今なら他人事みたいに話せるんだ」
「……顔、げっそりしてるけど?」
「そりゃ、治療の後に吐きまくってたから。君にも分かるだろ?」
「まあ、それなりに」
キースは素直に言って、すぐに険しい顔をした。
「15年前の心の傷だけじゃないんだろう。治療でそんなに窶れるなんて。……何があったんだ?」
聞いていいものなのか迷ったのだろう。とても遠慮がちな尋ね方だった。
「全部話すよ。君もたぶん、予想が付かなかったことなんじゃないかな。僕を見る目が変わるかもしれないけど」
「今さら変わらない」
彼は僕を真っ直ぐに見て断言した。
「ベスが今ここで裸で踊り出したって、変わらないよ」
「さすがにそんなことはしないけど……」
思わず笑ってしまい、いい意味で肩の力が抜けた。確かに今さらな気がする。僕はキースの前で泣いたり失神したり、窓から飛び降りて血まみれになったり……とうの昔に見る目が変わっていてもおかしくないことをしているのだった。
僕は深呼吸して、これまでのことを彼に話した。キルデが僕の父親であること、蜥蜴と関わっていたこと、彼が放火事件の犯人であったこと、既に母を殺していたこと……。常に冷静なキースでもこれには絶句していた。しかし彼は、最後まで話を聞いてくれた。
「一つだけ言えるのはさ」
長い沈黙の後、キースが口を開いた。
「ベスはベスだよ。父親がキルデ・エヴィングでも、本名が他にあったとしても。俺が知っているベス・ガレットは君だ」
聞いたことのあるような台詞だ。僕が以前、殺人を犯そうとするキースを止めたときに言ったことと似た内容だった。
――僕が知っているクライド・リューターは君だ。本物もクソもあるか。僕が大切な友人だっていうなら、逆の立場で考えてみろよ。僕が偽者だったら、失踪しても君は心配しないのか? 偽者だったら人を殺そうとしていても止めないのかよ! 馬鹿野郎っ!
大層なことを言ったものだと思う。しかし、間違いなくそのときの本心だった。
「……真似したな?」
僕がにやりとすると、キースはくすっと笑った。
「ばれたか。でもそう思っているのは本当だよ。今まで通り学生生活を送って、一緒に卒業しよう。君が首席でっていうのは……まあ無理だと思うけど」
「おい」
思わず突っ込んでしまったが、これだけ授業を欠席していたら実際問題として無理だろう。時は既に8月に入っていて、下旬には筆記の第一試験が控えている。合格するだけで手一杯だ。
「例えベスが試験でクラスの最低点を取ったとしても、見る目は変わらない」
キースは真剣にそう言うのだった。
「そういう問題じゃないんだけど……」
ネリーとノアに格好いいところを見せるなんて言ってしまった以上、成績にはこだわりたかった。が、高望みしすぎな気もする。こうしてありのままを認めてくれる友人も家族もいるのだ。まずは無事に魔導師になる。色々と問題を抱えている僕の最低ラインはそこだろう。
「余談だけど、監察科の同期はベスが成績のことで胃潰瘍になるくらい悩んでいたと思っているみたいだ。どうやって励まそうかみんなで真剣に考えていたぞ」
「えっ。ちゃんと止めてくれた?」
「止めようがないだろう、俺も本当のことは知らなかったんだから。……そういえば、みんなにはこのまま胃潰瘍で通すのか?」
キースに問われ、僕は考え込んだ。同期に真実を話すべきなのか。父親が放火殺人事件の犯人で、僕はその生き残り。それ故に心を病んでいるのだと。
「……どう思う?」
そう問いかけながらも、僕の中で半ば答えは出ていた。
「俺に聞くな。君自身のことだ」
キースはきっぱりと断る。以前にもこんな場面があった。彼は突き放したのではなく、僕が前に進むためにこう言っているのだ。おかげで決心が付いた。
「そうだね。僕は……みんなに本当のことを話そうと思ってるよ。僕自身が道を踏み外さないためにも。父親とは反対側に居続けたいからさ」
僕がおかしな真似をしないよう仲間に見張っていてもらう。他力本願でずるいやり方かもしれないが、一番効果があるような気がしたのだ。
「……君は勇気があるよ。俺なんかより全然、強い人間だ」
キースはそう言って笑うのだった。
「一応、横断幕作っておこうか? 『おかえり、ベス』って」
「いや、いらない」
そんなやり取りをして笑い合い、トワリス病院にいるとはいえ、今までで一番安らいだ気分になったのだった。




