51、頼れる人々
迫り来る固い地面に僕は死すら覚悟したが、間一髪で自分を取り戻して魔術を使うことができた。ただし地面に打ち付けられる直前だったから、十分に落下速度は削れず、全身に衝撃が走った。
「……っ!」
胸を打ち付けたせいで一瞬息が詰まる。そのまましばらくうつ伏せの状態で動けなかったが、どうやら致命的な怪我はしていないようだ。手足も動くし、意識もはっきりしている。鼻の辺りが猛烈に熱く感じた。触れてみると、手にどろりと粘り気のある液体が付いた。
「ベス!」
遥か頭上から声がして、僕の側に誰かが降り立った。一人ではなく、数人だ。頭を持ち上げることは出来ず、僕は地面に伏したまま視線を動かした。寝間着姿の生徒の脚が僕を取り囲んでいる。
「ベス、生きてるか!」
「待て、まだ動かさない方がいい」
「教官は?」
「グルー教官をアベルが呼びに行った。医務教官も呼ばないと……」
「おい、担架持ってこい!」
5、6人はいるだろうか。全員、聞き覚えのある同期の声だ。もちろんキースもいる。あんな大声を出した上に窓まで割って、しかも飛び降りたなんて、騒動にならないはずがない。ああ、グルー教官やチェス教官が処分されなければいいが……とぼんやりした頭で僕は考えていた。
不意に誰かの手が僕の背中に触れた。大丈夫そうだ、とその人物が言う。
「キース、そっち持て。ゆっくりだぞ。せーの……」
リローの声だ。彼の合図で僕は仰向けにひっくり返される。同期が何人か、はっと息を呑んだり悲鳴に似た声を出した。あのどろりとした液体は血だったようだ。仰向けにされたことでその血が喉に流れて噎せ返り、思わず吐き出す。目の前にスプラッタな光景が広がり、今度は明らかな悲鳴が聞こえた。
「おっと、横向けろ、横。まだ喋るなよ、ベス」
リローが僕の体を横に向ける。キースがすぐに顔を覗き込み、僕の鼻に触れた。
「……鼻骨が折れてる。とりあえず止血するから、リロー、他の部位を確認してくれ」
「了解」
医療科の二人は冷静に処置を始める。昨日の車両横転の現場でもそうだったが、なんとも肝が据わっている人たちだ。喋るなと言われたから、僕はただじっとしていた。
ややあってグルー教官が到着した。教官は地面に飛び散った血を見て目を見開き、次いで僕を見た。
「無事なのか?」
すぐさまキースとリローに説明を求める。
「鼻の骨ががっつり折れたのと、肋骨と両手首にヒビですかね。他は大丈夫そうです」
リローが答えた。そんなに骨折しているのに、頭がぼんやりしているせいか痛みは感じなかった。
「説明は後で聴く。とにかく医務室だ。キースとリローは着いてこい。後の奴らは憶測で話を広めるなよ。そして部屋に戻れ! 直ちに!」
教官が厳しく言って、他の生徒たちは僕に視線を残しつつ戻っていった。僕は担架に乗せられ、医務室に運ばれていく。今更になって折れた箇所が痛み出す。思わず呻くと、担架の頭側を持つキースが「大丈夫、もう少しだ」と慰めてくれた。
「止血だけで、整復と接着はしてません。俺たちの技術では曲がったままになる可能性もあるので」
医務室に到着すると、キースが女性の医務教官にそう説明した。
「えっと、何をしたらこんなに骨折するの?」
医務教官は驚きつつも素早く診察を済ませる。そして僕を見て、こう言った。
「折れた箇所を整復したいんだけど、凄く痛いから気絶しておいたほうがいいね。ちょっと失礼」
有無を言わさず額に指を当てられ、僕の意識はふっと途絶えていた。
目を覚ますと、傍らにキースの姿があった。医務室の中は既に燦々と日が射して明るい。あれから結構な時間が経っているようだ。
「痛みはどうだ?」
キースは僕の顔を覗いて心配そうに尋ねる。
「全然、ないよ。迷惑掛けてごめん。……今何時? キース、授業は? あっ、部屋の窓壊れたままだ。教官に説明とか――」
僕が慌てて起き上がると、彼はふっと息を吐いて笑い、言った。
「人の心配してる場合なのか? 今は昼休み。今朝の記憶はあるってことでいいんだな?」
「うん。はっきり覚えてる。でもあれは全部、自分の意思じゃないんだ。君に暴言吐いた辺りから、誰かに体を乗っ取られたみたいになって……。何が起きたんだろう?」
キースに聞いても知るはずがないとは思ったが、彼は冷静にこう返した。
「昔、君が精神の治療を受けた時の魔術の効果が、あのタイミングで切れたんだよ。それで一種の錯乱状態になった。医務教官も恐らくそうだろうって。一時的なものだから、心配しなくていいってさ」
医務教官も、ということは、彼女も僕が過去に精神の治療を受けたことを知っているのか。
「先に謝っておきたいんだけど」
キースは真剣な顔でそう前置きし、続けた。
「ベスのことは医務教官だけじゃなくて、グルー教官とチェス教官にも説明した。グレーン乳児院放火事件で生き残った子供かもしれないって。たぶん、もうベスの力だけではどうにもならないと思ったから。今朝だって、危うく死ぬところだったしな」
「そっか……」
僕は特に、怒りも感じなかった。全て彼の言う通りだ。
「教官たち、何て?」
「グルー教官は『何かあるなら相談しろと一年のときに散々言っただろうが。お前たちふざけてんのか』って怒って、チェス教官は『私は勉強の面倒を見るためだけに存在するのではありませんよ』って」
二人がどんな顔でそれを言ったのか想像が付く。言葉は違えど、どちらも僕を心配してくれているのだ。思わず目頭が熱くなった。
「抱え込まずに、もっと誰かを頼れば良かったんだな。俺もベスも」
キースがそう言って、僕の背中を軽く叩いた。
「……あ、でも、ちょっと待って」
僕ははっとした。グレーン乳児院放火事件の生き残り、つまり僕はガレット家の実子ではないと教官たちに知られたことになる。僕がこの学院に入学する際、提出書類には実子と記載されていた気がする。実際は養子なのだから、虚偽申告だ。何らかの処分はあるかもしれない。
それを説明すると、キースは首を傾げた。
「赤の他人に成り済ましていた俺がお咎めなしで、実は養子だっただけの君が処分される理由が分からないけどな」
「そういうものかな……?」
「うん。そんなことで退学になるなら、今度は監察科のみんなが学院長に詰め寄ってくれるよ」
キースがそう言って笑うから、僕も肩の力が抜けた。
「そういえばリローとか、あの現場にいた生徒に何て説明したの? 僕が飛び降りたこと」
「チェス教官が、昨日の車両事故で頭打って、少しおかしくなっていたってことにしてた。魔力の暴走によるただの事故ってことで落ち着きそうだ。リローは全然、納得してないけどさ。ほら」
忙しない足音が廊下から聞こえてくる。医務室のドアを開けて飛び込んできたのは、リローだった。
「ベス!」
彼は早足に僕の側へ来ると、がしっと肩を掴んで揺すった。
「飛び降りるくらい思い悩んでるなら話せよ。同期だろ? クライドがキースだったみたいにさ、もし仮にベスがベスじゃなかったとしても、俺たち仲間だぜ」
真剣に勘違いしているのがおかしくて、僕は思わず笑ってしまった。それに、リローの言っていることは当たらずとも遠からず、僕が本当の意味でベスじゃないのは事実なのだ。
リローはぽかんとした表情で僕を見ていた。
「え、……違うのか?」
「違うよ。自分の意思で飛び降りたんじゃない。教官の説明通りだ」
「おい、なんだよ、びっくりさせんなよ。あの場では冷静だったけど、後から震えて仕方なかったんだぜ。もしかしたらベスが死んでたかもしれないって……」
リローは彼にしては珍しく、泣きそうな表情をしてキースに顔を向けた。
「なぁ? お前だってそうだったろ?」
「覚えてない」
キースは決まりが悪そうにリローから顔を逸らした。そうだったと肯定しているようなものだ。あのときは肝が据わっているように見えた二人だが、やはり年相応に恐怖心はあるらしい。思えば僕らはまだ15歳、人の生死に関わるには幼い。
しかし、ここを卒業すれば否が応でもそれに向き合うことになる。魔導師という道を選んだ以上は覚悟しなければならない。それでも、学生時代に弱音を吐くくらいは許されていいはずだ。
「僕だって死ぬのは怖いよ。目の前で人が死ぬのも怖い。そうならないために僕ら、毎日教官にしごかれてるんだよ。『舐めているんですか』って言われながらさ」
「回復したのは喜ばしいですが、大事なことをよくも黙っていてくれましたね、ベス。私を舐めているんですか」
その声で僕らは一斉にドアの方へ顔を向けた。チェス教官が、後ろに自警団の男性隊員を一人伴って入ってくるところだった。




