50、異変
僕らが門限を20分ほど過ぎて寮に帰ると、玄関先で腕組みをしたグルー教官が待ち構えていた。彼は僕らの姿を見て安堵の息を吐き、玄関の扉を開けてくれた。
「さっさと入れ。鍵閉めるから」
教官は言葉少なにそう言うが、相当心配してくれたのだろう。腕組みしたときに無意識に握っていたのか、彼の制服の肘辺りにやたらと皺が寄っている。
「今回は巻き込まれただけなんです、グルー教官」
キースが弁解するように言うと、グルー教官は少しだけ笑った。
「だろうな。こんな短期間に生徒が何度も事件を起こしたら、担任だった俺とチェス教官の首が飛ぶっつーの」
「え、教官が責任取らされるんですか?」
キアラが目を丸くする。
「当たり前だろ。担任を持ってから俺が何回教育局に呼び出しを食らったか……、まあいい。お前たちはさっさと部屋に戻れ」
教官は背を向けて行ってしまう。僕らの知らないところで教官たちが責任を取らされていると思うと、今後は卒業まで問題を起こさないようにしなければと気が引き締まった。
「グルー教官」
キースが彼を呼び止め、すかさず言った。
「俺、教官のこと尊敬してます」
「あ、俺も!」
リローがそこに乗っかり、他の生徒と僕もちゃっかり乗っかった。教官は振り返らず、少し首を掻いてからこう言った。
「そうでなきゃ困る」
そして早足に行ってしまった。あれは照れている、と僕ら全員が確信し、顔を見合わせて笑ったのだった。
翌朝、僕は珍しく6時の鐘が鳴り響く前に目を覚ました。時計を見ると5時半だ。キースはいつものように起きていて、薄明かりの中、ランプを点けた机に向かって勉強していた。
「……おはよう。キース、眠れた?」
ベッドから足を下ろしつつ声を掛けると、彼は振り向いて言った。
「おはよう。死んだように寝てた。ベスは?」
「うーん、よく分からない。ずっと変な夢見てた気もするし……。そういえばさ」
僕は昨夕、あの現場で『蜥蜴』の人間に銃を向けられていたことを話した。その後医務官に治療してもらった際、過去に精神の治療を受けたことがあるのではと言われたことも。
「そんな危険な目に遭ってたのか。ほんと、無事で良かったよ。……で、治療を受けた痕跡があったってことか。シーズリーさんだろ?」
キースはそう尋ねた。あのときの医務官は確かにシーズリーと呼ばれていた。僕が頷くと、こう続けた。
「たまに授業しに来てくれるけど、ベテランの優秀な医務官だ。診断ミスってことはないと思う」
「じゃあ、僕が過去に精神の治療を受けたことは確定なんだ……」
どんよりと気分が重くなった。治療の痕跡は真実に近付くための手掛かりでもあるが、同時に、僕が何か精神の治療を受けなければならないほどの目に遭ったということの証明でもある。赤子だった僕が、グレーン乳児院で放火の現場を見てしまった――考えられる理由はそれしかない。
「そんなに落ち込まなくても。その治療のおかげで今無事に生活出来てるんだからさ。トワリス病院で実習してよく分かったんだ。過去の心の傷が人間を壊すこともあるって。普通に起きて、食べて、話して、眠る。それが当たり前に出来るのは幸せなことだよ。あ、ベスを責めているわけじゃなくて」
キースが少し慌てたから、僕は思わず笑った。
「大丈夫。僕もそう思うし。……君、いい医務官になれるよ」
「なんで?」
「雑誌の『青葉』でベロニカ院長が書いた記事を読んだんだけど、自警団の元医長の言葉で締めてあってさ。キースって、その通りの人だなって思ったんだよ」
――傲ることなく、人として命に向き合え。医務官として患者に向き合え。魔導師として、苦難に立ち向かう勇気を忘れるな。
それを話すと、キースは納得したように頷いた。
「中央病院のレナ院長の言葉だな。あそこで実習したときに、俺たちも言われた」
「えっ、まだ現役なの?」
彼女の年齢がいくつなのかは知らないが、勝手に引退したものだと思っていたから驚いた。
「自警団の医長こそ引退したけど、医務官としてはまだまだ現役だ。間違いなくリスカスで一番の医務官じゃないか?」
それを聞いた僕はふと思い立って、尋ねた。
「自警団の医長、何年くらい務めたんだろう?」
「軽く20年は超えると思うけど……なんで?」
「いや、グレーン乳児院の事件について、レナ院長は何か知ってるかなって。例えば当時、僕に精神の治療をした医務官のこととか」
医長という立場なら色々な情報が入ってきてもおかしくはない。あの放火事件はスタミシア支部管轄とはいえ、実際キペル本部からも医務官のルカが駆り出されている。何も知らないということはないだろう。
「ベス、あのさ」
キースはじっと僕の目を見た。
「俺はもちろん君の味方だけど、少しグレーン乳児院のことから離れた方がいいんじゃないかと思うんだ。出自を知りたい気持ちは良く分かる。でも君、最早そのことに取り憑かれていないか?」
ぐさりと刺さる言葉だった。取り憑かれている……確かに、最近の僕はそのことばかり考えて過ごしていた。
目を伏せて黙り込んだ僕に、キースはこう続けた。
「ベスが真実に近付く程に危険が増すんだったら、俺はこのまま、君が何も知らないでいてくれたほうがいい。友人としてはそう思うよ」
優しい言葉だ。本当に、なんていい友人を持ったのだろう。そう思った次の瞬間だった。
ぷつん、と何かが切れたような音がした。歯をくいしばったときに顎の辺りがぴきぴきと鳴ることがあるが、そんな感じのものだろうか。別にどこも痛くないし、気にも留めなかったのだが。
「……ずっと悶々としていろってこと?」
そんなつもりはなかったのに、攻撃的な言葉が僕の口から出た。視線を上げるとキースの顔が微かに強張っているように見える。違う、僕は彼と喧嘩をしたいわけじゃない。すぐに弁解しないと……、そう思っているのに、またしても口が僕を裏切った。
「君にとっては他人事だからな。口ではそんなこと言って、本当は面倒だから余計なことをするなって思ってるんだろ」
「ベス……?」
キースが困惑している。いや、僕自身も困惑していた。誰か別の人間に体を乗っ取られたみたいに、言葉が勝手に口を衝くのだ。自分がどんな表情をしているのかも分からなかった。
「放っておいてくれよ! 僕のことなんだ。僕が僕自身のことを知ろうとして何が悪いんだっ!」
周囲の部屋の生徒が目を覚ますくらいの大声で、僕は怒鳴っていた。だめだ、完全に抑えが効かない。この状況を傍観することしかできない。一体、何が起きているのだろう。
そのとき部屋のドアが強くノックされ、隣室の生徒の声がした。
「どうした! 何かあったのか!」
「……すぐにグルー教官を呼んできてくれ」
キースはドアに向かって冷静に言うと、僕に近付こうとする。何かに気付いたのか、もう困惑の表情はしていない。
「来るな」
僕は弾かれたようにベッドから立ち上がり、壁際に逃げた。もちろん自分の意思ではない。既に言葉だけでなく体の動きまで言うことを聞かないようだ。
キースは止まらずに近付いてくる。そのときだった。
部屋の窓が外側に向かって、木っ端微塵に吹き飛んだ。転落防止のために普段は数センチしか開かないようになっている窓が、今や窓枠だけを残して大きく口を開けている。
突然のことにその場で固まるキースを突き飛ばし、僕はその窓から外へと飛び出していた。ここは四階だというのに、魔術で落下速度を削る余裕などない。地面が、もう眼前に迫っていた。




