46、回転
両親とシェリーの涙の理由は、今まで反抗などしたことのない僕が家族に意見出来るようになったことが嬉しいから、だった。結果的に両親はシェリーの恋人と一度会うことになった。結婚に向けて一歩前進したようだ。シェリーに背骨が折れそうなくらいの感謝のハグをされ、その日の夜は満たされた気分で眠りに就いた。
翌日、夏休み三日目は穏やかに過ぎた。夜になって部屋で勉強していると、微かなノックの音が聞こえた。あまりにも小さくて気のせいかと思ったが、耳を澄ませるとやはり音は聞こえる。
「誰かいるの?」
ドアに向かって声を掛けると、細く開いた隙間からトニーの顔が見えた。
「まだ起きてたんだ。入っておいでよ」
そう言うと、トニーは遠慮がちに部屋に入ってきた。寝間着姿で、小脇に自分の枕を抱えている。時刻は22時、8歳の彼はいつもならとっくに寝ている時間だ。
「僕がいたら勉強の邪魔になる?」
トニーはもじもじと枕をいじりながらそう言った。
「全然。どうしたの? 一人じゃ眠れなかった?」
「そんなことないもん」
トニーはすぐに否定した。彼なりのプライドがあるのだろうか。かわいらしいなと思った。
「ベスが明日学校に帰っちゃうから、一緒に寝たかっただけ」
「そっか。確かにね」
家で眠るのは今晩で最後だ。のんびり出来るのも今日限り、明日には寮に帰って朝6時の鐘で飛び起きる生活に戻る。
「ちょっと待ってて。僕も寝る支度をするから」
僕がそう言って立ち上がると、トニーは嬉しそうな顔をしてベッドに入り、枕を置いて自分の寝床を確保した。弟たちが幼い頃はよく一緒に寝ていたとはいえ、大きくなった今となってはベッドが窮屈だ。朝になったら寝相の悪い彼に蹴落とされているに違いないが、それもまた思い出だろう。
寝支度を済ませてベッドに入ると、トニーはこちらに体を向けてじっと僕の顔を見た。枕元のランプに照らされて、彼の茶色の目がきらきらと光る。
「ベスの目って、綺麗な青だよね。でもどうしてみんなと違うんだろって、ずっと思ってたんだ」
「ヒューゴにも言われたことがあるよ。……親が違うって聞いて、びっくりした?」
そう尋ねると、トニーはぶんぶんと頷いた。
「だって、考えたことなかったもん。ベスが違う家から来たなんて。それ聞いて、いつかその家に帰っちゃうのかなって思った」
彼の表情が翳り、その手が僕の腕をぎゅっと掴んだ。
「ねえ、ベス。本当のお父さんとお母さんが見付かったら、そっちに行っちゃうの?」
「まさか。行かないよ」
すぐにそう答えたが、僕は内心、動揺していた。今まで考えもしなかったが、もし本当の両親が僕に戻ってきてほしいと望んだら……僕は断るだろうか。恐らくどちらの家族も大切にしたいと思うはずだ。
「……行かないけど、会って話したりはすると思う。それくらいならいいでしょ? こっちの家族ともう関わらないなんてことは、絶対にないから」
正直に言うと、トニーは少し考えた後で頷いてくれた。
「うん。僕ね、ベスのお父さんとお母さんは優しい人だと思うんだ。ベスがすごく優しいから」
「それは今のお父さんとお母さんが優しくしてくれたからだよ。あと、兄さんや姉さんも。トニーとヒューゴもね」
そう言いつつ、僕はトニーが言ったような可能性も考えていた。もし本当の両親が優しい人たちで、彼らが今も生きているのなら……。期待しない方がいいと分かってはいるのだが。
トニーは微かに目を潤ませて、僕の腕を握る手に力を込めた。
「行かないでね。いい子にするから、これからも僕のお兄ちゃんでいてね」
「大丈夫。トニーがいい子じゃなくても、ずっとお兄ちゃんだよ」
兄たちが僕に言ってくれたことを、僕も弟に伝えた。彼はようやく安心したのか、大あくびをして布団に潜り始める。
「良かった。おやすみなさい、ベス……」
「おやすみ」
夜更かしをして相当眠かったらしい。ランプを消すとすぐに、トニーの穏やかな寝息が聞こえたのだった。
翌朝は案の定、トニーにベッドから蹴落とされて目を覚ました。打ち付けた肩をさすりながら時計を見るとまだ5時で、窓の外は薄明かりだ。すやすやと眠るトニーを横目に、僕はこっそりと帰り支度を始めた。
ここからキペルの学院へ帰るには汽車に乗らなければならない。結構な距離だから4時間はかかるし、明日の授業の準備もあるから遅くとも21時にはあちらに着いていたかった。なんだかんだで日が落ちる前には出発しなければならない。
僕は机の前に貼っていた成績表を剥がして、鞄に仕舞った。結局、休みの間に大して勉強は出来なかった。他のこと……グレーン乳児院のことで気が散りすぎて。やっぱり首席は無理だろうか。自警団に入ってから、地道に第一隊を目指す方が現実的かもしれない。
しかし不意に、墓地で聞いたジョエルの声が頭に甦った。頑張ってね、と。
「駄目だ、駄目だ」
ぶつぶつ呟きながら頭を振った。僕は簡単に諦めることを許されるような境遇じゃない。手を抜くのはこの家族への恩を仇で返すようなものだ。気負わなくていいとみんなは言ってくれるのだろうが、それでは自分が納得出来なかった。
朝食を終え、この日も帰る時間ぎりぎりまで弟たちと遊んだ。そして毎度のことだが、両親と弟たちは今生の別れぐらいにしんみりした空気で駅から僕を見送った。汽車の乗降口で手を振り返しながら、僕は本当に愛されているんだなと実感する。
夕暮れの中で駅舎が見えないくらいに小さくなり、僕は荷物片手に空いている席を探した。通路を挟んで左右に座席が並ぶ三等席は、そこそこ混雑している。誰かと相席するしかないだろう。
通路を進んでいると、ふと僕を呼ぶ声があった。
「ベス、こっち空いてるよ」
声のした方へ振り向くと、見慣れた美少年の顔が座席から覗いていた。
「キース!」
僕は驚きながらすぐに側へ寄った。キースは僕の鞄を受け取って軽々と荷物棚に乗せ、にこりと笑う。側の席にいた少女たちが、やや嫉妬の籠った視線を僕に向けた気がした。
「久しぶり。この駅でベスが乗ってくるんじゃないかって思ってた」
「びっくりしたよ。どこから乗ってたの? キースの家ってキペルじゃ……、あ、もしかしてクライドのお墓に?」
僕は座席に収まりながら声を潜めたが、車内の喧騒で掻き消されたのか、聞き返されてもう一度繰り返した。キースは頷き、こう答えた。
「西6区から乗ってた。墓には初日に行ってきたよ。今日は、俺がいた孤児院に行ってきた。養子の手続きに必要な書類があってさ。孤児院の先生、驚いてたな。俺はとっくの昔に死んだと思ってたわけだから」
「だろうね。……向こうからしたら笑い事じゃないよ?」
僕はくすくす笑いを漏らすキースをちょっと窘めるように言った。ただ、孤児院訪問が彼にとって苦痛ではなかったということは分かる。そこはほっとしていた。
「まあ、確かにな。余計な心労を掛けたのは申し訳なかったって、ちゃんと謝ってきたよ。……で、ベスは有意義な夏休みだったわけ?」
彼は探るような視線を僕に向けた。恐らく勉強のことを言っているから、ぎくりとした。
「たぶん君の想像通りだよ。勉強には集中出来なかった」
「知ってる。あの雑誌、こっそり鞄に入れるの見てたし」
キースが笑った、その時だった。耳をつんざくような爆発音と激しい揺れに続いて、僕の体は座席から投げ出された。何が起きたのか分からない。数秒の間に全身をくまなく打ち付け、揺れが収まってもぐらぐらと目眩がしていた。
痛みを堪えて何とか目を開ける。ランプは全て消え、沈み切る前の夕陽が辛うじて車内を照らしていた。180度回転した視界に映っていたのは、惨劇だった。




