41、声の主
実家に顔を見せるのは新年の休暇以来だった。キペルとスタミシアで距離があることもあって、ほぼ半年、帰ってきていなかったことになる。
家の佇まいは何も変わらない。その辺の家よりは少し大きな造りで、玄関前の庭では乳母兼使用人のデンバス婆さんが洗濯物を干している。婆さんなんて呼び名だが、それはモーリスが冗談で言ったのがきょうだいの間で定着しただけで、実際はまだ40代くらいだ。もちろん、本人に向かって婆さんと言う人はいない。
「あら、ベス坊や!」
デンバスがぱっと表情を輝かせ、作業の手を止めて僕の側へ駆けてきた。いつものように焦げ茶色の髪を後ろできっちりと纏め、地味な灰色のワンピースにエプロンをしている。幼い頃からの記憶にあるのは、寸分違わずこの姿だ。
「おかえりなさい! 奥様が昼食作りを張り切ってらしたから、そろそろ着く頃かとは思ってましたけど。まあ、この間より逞しくなって。あらあら」
はしゃいだようにデンバスは捲し立てる。彼女は僕が養子であることを当然知っていたのだろうと余計なことを考えたが、それはさておき、いつでもこうやって歓迎してくれるのは嬉しかった。
「ただいま。お母さん、いるの?」
「それはもちろん、奥様も旦那様も、ヒューゴ坊やとトニー坊やも。夜にはお兄様とお姉様も集まるでしょうね。昨夜はあなたが帰ってくるって話で持ち切りでしたから。ほら、中に入って手を洗って。荷物は? 部屋に運んでおきましょうね」
デンバスは僕の荷物を受け取り、玄関を開けて「ベス坊やがお戻りですよ!」と声を大きくした。すぐに二階から騒々しい音がする。弟たちだろう。上のヒューゴが10歳、下のトニーが8歳だ。
「ベス!」
思った通り、ばたばたと階段を駆け下りてきたのは弟たちだ。彼らは僕を突き飛ばすくらいの勢いで抱き着いてきた。直前まで喧嘩でもしていたのか、ヒューゴの頬には引っ掻き傷、トニーの頬には涙の跡が光っていた。
「おかえり! ねえベス、ヒューゴが僕のおやつ勝手に食べた!」
トニーが言うと、ヒューゴも負けじと被せてくる。
「この間俺のケーキ食べただろ! おあいこだ!」
「あなたたち、ベス坊やのお休みは短いんですよ! こういうときくらいは仲良くなさい」
デンバスが窘めると、二人とも唇を尖らせて黙った。僕はあまり彼女を怒らせたことはないが、本気で怒るとずいぶん怖いとアリッサが言っていた。弟たちも経験があるのかもしれない。
「よろしい」
彼女は満足そうに言って、僕の荷物を手に階段を上がっていった。
「ベス、夏休みなんでしょ。何日家にいられるの?」
トニーが目を輝かせて尋ねる。
「今日を入れて4日だよ。明明後日には寮に帰らなくちゃいけない」
「えー、やだぁ! 短いよ。僕の夏休み20日もあるんだよ?」
「そうだよ。俺ももっとベスと遊びたい!」
トニーとヒューゴはご不満のようだ。二人ともまだ初等学校生だから、遊びたい盛りなのは分かる。
「出来るだけたくさん遊ぶつもりだけど……」
試験のための勉強もおろそかには出来ない。結局、荷物の半分が教科書になったくらいだ。
「夜は勉強しないといけないからね。昼間、一緒に遊ぼう」
二人はきゃっきゃと沸き立ち、左右から僕を引っ張って居間に入った。
いい匂いが鼻をくすぐる。どうやら、僕の好きなミートパイを焼いてくれたようだ。弟たちが騒々しいので台所から母がひょっこりと顔を出し、僕を見てすぐ笑顔になった。
「おかえり、ベス。お腹空いてるでしょ?」
母の態度はいつもと変わらないが、僕が養子の事実を知っていることは既にレイから聞いているはずだ。ただ、弟たちはきっとまだ何も知らない。ここでそのことについて母に尋ねるのは気が引けた。
「ただいま。ぺこぺこだよ。お父さんは?」
「部屋で何かしてるはずだけど。あ、来た来た」
ドアを開けて父が入ってきた。彼は僕を見て微笑むと、軽く手招きした。
「なに……?」
「ちょっとおいで。ヒューゴとトニーはデザートの用意を手伝いなさい。……つまみ食い出来るぞ」
父が弟たちに耳打ちすると、彼らはにんまりとして台所に駆け込んだ。
「さ、行こうか」
父は僕を連れて自分の書斎に入る。そしてドアが閉まったのを確認し、真剣な顔でこう切り出した。
「細かいことはレイから聞いたよ。……ごめんな、ベス。お前が養子だってのをずっと黙っていて。いつかいつかと思いながら先伸ばしにして、お前に辛い思いをさせた」
父は泣きそうになりながら言うのだった。レイの説明が足りなかったのか、僕がよほど深刻に捉えていると思っているようだ。
「大丈夫だよ。みんなが僕を心から愛してくれていること、ちゃんと分かってる。気にしてないって言うのも変だけど、大したことじゃないなって思ってるから。僕のお父さんはあなただし、僕の家はここ。それでいいでしょ?」
僕が笑ってみせると、父は目頭を押さえて僕に背中を向けた。しばらくして向き直り、何度か頷きながらこう言った。
「そうだな。お前の家はここだよ、ベス」
「うん。それで聞きたいんだけど、ヒューゴとトニーはこのこと、知ってるの?」
知らないのだろうと思っていたが、父の返答は違った。
「しっかり説明したよ。隠し通すことも出来たかもしれないが、あの子たちも大きくなればいずれ気付くことだ。父親としてこれ以上の隠し事はするべきじゃない、責任を持って伝えるべきだと思ってな」
「えっ、じゃあ、知っててあの感じなんだ……」
僕は驚いた。二人の態度は本当に、普段と何も変わらなかったからだ。父は声を出して笑った。
「びっくりだろう。最初に話したときは二人とも驚いて、じゃあもう一緒に暮らせないの、なんて方向違いの想像をして泣いていたが。今までと何も変わらない、ベスはお前たちのお兄さんだと言ったら、良かったと喜んでいた。そんなものらしい。あの子らにとっちゃ、血の繋がりよりも一緒にいて楽しいことの方が重要なんだ」
「それじゃあ、この休みの間はたくさん遊んであげないとね」
僕は自然と笑顔になった。兄姉から掛けてもらった愛情を、僕もそのまま弟たちに与えればいい。単純なことなのだ。
愛情といえば、父に確認したいことがあった。
「……ジョエルのことも聞いたよ。お墓、スタミシアにあるんでしょう?」
父はジョエルの名で胸が痛んだのか、唇を軽く噛んでから頷いた。
「ああ。一度もお前を連れていったことはないが」
「僕、ジョエルのお墓に花を手向けに行きたい。僕にとっても大切な人だから。駄目かな」
「駄目なんてことはないさ。ジョエルも喜ぶ」
父は潤んだ目を細めて笑った。
「午後になったらヒューゴたちと一緒に行こうか。あの子らもジョエルの墓には連れていったことがなくてな。……これでようやく家族全員、揃ったような気がするよ」
ジョエルが眠る墓地は小高い丘の上にあった。眼下に様々な作物を繁らせた畑が広がる、見晴らしの良い場所だ。
「ここだよ」
父が小さな墓石の前で立ち止まる。花と小鳥たちの姿を彫った、可愛らしい墓石だった。そこにジョエル・ガレットの名と『永遠に愛する息子』の碑文が刻まれている。
いつもは騒がしい弟たちも神妙にその墓石を見ていた。初めて存在を知った兄に何を思うのか、僕には分からない。けれど、実は他人だった僕の存在をすんなりと受け入れたように、二人はジョエルのことも大切な家族として受け入れるのだろう。
僕は一歩進み、墓石の前に膝を着いた。
「はじめまして、ジョエル」
手にした花束を墓石の前に置く。背後で父が鼻を啜る音がした。僕は言葉が溢れるまま、ジョエルに話し掛けた。
「僕は君の代わりにはなれないけど、君の分まで精一杯生きることは出来る。頑張るから、見守っていてほしいな」
それに答えるように爽やかな風が僕らの頬を撫でた、その一瞬。
――頑張ってね、ベス。
死者は歳を取るのだろうか。僕の耳に届いた優しい少年の声は、ジョエルのものに違いなかった。




