4、知らない姿
なぜクライドは『枯れ草』編集部の住所を書き写したのか。考えたところで僕に分かるはずもなかった。
「雑誌の発売日は一昨日だ。君はいつ、これを買った?」
僕の動揺をよそに、カイはそう尋ねてきた。
「昨日です。放課後、街に出てそれを買って、寮に戻りました」
正直に答えた。というよりは、嘘を吐けるほど頭が回らなかった。
「なるほど。それで、夜、課題を終わらせた後に読んだ。課題が終わったのは何時だ?」
「21時……10分くらいです」
「それまで雑誌はどこに?」
僕は思い返す。書店でそれを買って、鞄に入れて、寮に帰った。課題が終わるまで取り出してはいないはずだ。
「ずっと鞄の中でした」
「とすると、クライドが住所のメモを取ったのは君が洗濯室へ行っている間だろう。これは几帳面な字だが、少し走り書きだ。時間が無い中で急いで書き取ったんだと思う」
カイは雑誌のページに残る文字の跡を指差した。
「そして彼は、開いてあった雑誌を閉じた。恐らく、いつもの癖だろうな」
僕は思わず頷いた。彼の言う通り、クライドは本を開きっぱなしにしてその場を離れるなんてことはまずなかった。例えトイレに立つ僅かな時間でも、しおりを挟んで閉じるのがいつもの彼だ。
「……カイ副隊長は、クライドが自分で失踪したと考えているんですか?」
我ながら生意気な口の利き方だと思った。相手は自警団の上の人間だというのに。僕はたぶん、混乱しているのだ。自分の知らないクライドがそこに存在しているかのように思えて。
「今のところは五分五分だ」
彼の返答は冷静だった。そのとき、どこからともなくナシルンが部屋に入ってきた。魔導師が連絡に使う青い鳩だ。触れることで、相手がナシルンに吹き込んだメッセージを聞き取れるらしい。教官が使っているのを何度か見たことがある。
ナシルンはカイの肩に止まった。彼はメッセージを聞き取り、渋い顔をして立ち上がる。
「悪いが、ベス。ちょっと席を外す。一旦休憩だ。ラシャ、少し彼の緊張を解しておいてくれ」
「また『無垢な労働者』の連絡ですか?」
ラシャは記録の手を止め、カイにそう尋ねた。無垢な労働者……確か、違法に過酷な労働を強いられている小さな子供たちのことだ。
「そうだ。俺が遅くなるようだったら、ベスに食堂で昼食を。それでも戻って来なかったら、もう学院に帰してあげていい」
カイは急ぎ足で部屋を出ていった。副隊長というのはずいぶんと忙しいようだ。
「……緊張を解してと言われてもね。ここにいるだけで緊張するよね」
ラシャはそう言って、僕に笑いかけた。それから今までぴんと伸ばしていた姿勢を崩して、軽く机にもたれる。おかげで、僕も肩の力を抜くことができた。
「君、これだけ名前が長いと、試験のとき大変じゃない?」
ラシャは記録に目を落としてそう言った。
「はい。省略が許されないので……」
公式な書類や学院の試験では、略称は禁止だ。不便なことこの上ない。
「どうしてこんなに長い名前になったの?」
ラシャは人懐っこい顔で僕に尋ねる。そんなに嫌な気はしなかった。
「兄が3人いて、それぞれが付けたがった名前を全部付けたそうです。だから、長兄は僕をテディ、次兄はベネディクト、三番目の兄はヘイデンと呼びます」
ややこしいが、僕は馴れている。困るのは周りの人たちだ。大抵の人は、その三つがそれぞれ別の人物の名前だと思っている。
「愛されてるねぇ。4人兄弟?」
「いえ、他に姉が2人、弟が2人です」
「大家族! もしかして君の家はお金持ち?」
ラシャはずけずけと聞いてくるのに、やはり嫌な気がしないのは不思議だった。
「一般的に言ったらそうかもしれません。父がスタミシアで製粉工場をやっていて」
うんうん、と彼は興味深く頷いた。一介の学生の話を自警団の人が熱心に聞いてくれるなんて、ちょっと嬉しかった。それが相手の作戦だとしてもだ。
「そっか。魔導師になるの、反対されなかった?」
「大反対されました。やっぱり、危険だからって。でも、ガベリアが甦ってからよっぽど平和になっただろって、兄たちが父を説得してくれました。……僕は正直、ガベリアが甦る前のリスカスをよく知らなくて。授業では習ったんですけど、現実味が無いというか」
「君は15歳だっけ。『後の世代』だもんね」
後の世代。僕らが、大人たちによく言われた言葉だ。ガベリアの悪夢の後に生まれた世代を指す。
「はい。生まれたときには既にガベリアが無くて、でも物心付いたときには、甦っていました」
僕らにとってガベリアは存在するのが普通で、魔力の秩序が保たれているのは当然のことだった。巫女が存在していたことや、ガベリアが人の踏み込めない呪われた地で、魔術で人が傷付けられるようになっていたなどと聞いても、上手く想像が出来ない。魔導師を目指している僕でさえ、だ。
「過去のクーデターとガベリアの悪夢についてはもちろん、学院で学びました。元近衛団長の犯した罪とか、当時の号外も読みましたし……」
「そうだね。自警団に入ったら、嫌でもその詳細を知ることになるよ」
ラシャの表情が少し曇った。
「僕は『前の世代』だけど、全てを知ったのは自警団に入ってからだった。あ、今25歳で、副隊長の一つ下なんだけどさ。悪夢の当時が8歳で、甦った時が15歳、君と同じ魔術学院の二年生だった」
ガベリアが甦ったのは10年前。僕はその頃のことをあまり覚えていない。大人たちが興奮した様子で何か話していたな、くらいだった。
「あれは複雑で闇が深くて、悲しい。人間はどこまで残酷になれるんだろうって……ああ、ダメだね。こんな暗い話。緊張を解してって言われてたのに」
ラシャは明るく笑った後、眉尻を下げた。
「だけど友達が行方不明ってときに、明るい話をする気分でもないよねぇ……。でも安心して。クライドのことは昨夜から、僕らもちゃんと探している。それに目的を持って自分で失踪したのだとしたら、生きている可能性の方が高いからね。副隊長はそういう見解だよ」
そう聞くと少し安心出来た。僕自身も何故か、クライドが死ぬことはないという気がしてくる。彼は頭が良いのだ。きっと、僕には想像も付かないような目的で動いているに違いない。
「ありがとうございます。……あの、一つ聞いてもいいですか?」
僕はふと気になったことがあり、ラシャに尋ねた。
「うん」
「もし無事にクライドが見付かったら、彼は何か罪に問われますか?」
「うーん。今のところただの失踪、まあ、寮の部屋を汚したってのはあるけど、それだけだからね。厳重注意と、何日かの停学くらいかな?」
ラシャは記録を目で辿りながらそう答えた。監獄のある獄所台に送られることはないと分かって僕はほっとしたが、続く言葉にどきりとさせられる。
「鹿の殺害と解体容疑については、詳しく調べないといけないけど。あと、失踪後に何も罪を犯していないことが重要……あ、ごめん。不安にさせるようなこと言って」
血の気が引いた僕の顔を見て、ラシャは慌てた。
「きっと大丈夫だよ、担当はカイ副隊長だし。ちょっと早いけどお昼にしよっか? ね!」
そう言うと、少し強引に僕を部屋から連れ出したのだった。