35、おかえり
意識を失っていたのは短時間だったようだ。はっと気付いたときには点呼の数分前で、僕は慌てて廊下に整列し、何事もなく点呼を終えて部屋に戻った。特に体調が悪いわけでもなく、失神したという実感も今はない。頭に浮かんだあの光景は覚えていても、どこか他人事にしか思えなかった。何だったのだろうと不思議に思いつつ、僕は眠りに就いた。
翌日の月曜日は特に問題もなく過ぎ、ついに火曜日がやってきた。キースが帰ってくる日だ。僕は早朝から目を覚まして、そわそわと部屋の掃除を始めたりした。そんなに散らかしてはいないはずだが、几帳面なキースがいない間に部屋が荒れたと思われるのは心外だ。
朝食の席でリロー達と計画の最終確認をして、僕は校門に向かった。一限目に間に合うように、キースはトワリス病院から帰ってくる予定だった。
天気は快晴で、朝の風も穏やかな日差しも心地好い。彼の再出発にはもってこいだ。僕は時々つま先立ちになりながら、道の向こうに目を凝らした。
数分経って、こちらへ向かってくる馬車が見えた。馬車は僕の前に停まり、キャビンの扉がゆっくりと開いていく。少し驚いた顔のキースが荷物の鞄を手に降りてきた。僕は嬉しさで顔がにやけそうになるのを、必死で堪えた。
「ベス、わざわざ出迎えに……?」
「おかえり、キース。僕が一番に言いたかったからさ」
そう笑い掛けると、彼は恥ずかしそうに視線を下げた。口元は笑っている。以前の彼と比べるとなんと素直になったのだろう。これなら、サプライズを見たときの反応も期待出来そうだ。『絶対笑うぜ』とリローは言い、『無表情かもよ?』とジジは言っていた。僕は、泣くんじゃないかと思っている。
「荷物、持つよ。行こう」
僕は彼の鞄を受け取って、正面玄関へと歩き出す。
「いや、そっちからは……」
案の定、彼は裏口から入るつもりだったようだ。その場に留まって動こうとしない。
「なんで? 君は正式に復学したんだぜ。こそこそする必要なんてない。みんな待ってるんだから」
「みんな、って?」
「行けば分かる。ほら、行こう!」
「ベスってそんなに強引な人だったか?」
キースは怪訝な顔をする。僕は別に、計画を失敗させたくないわけじゃない。彼に堂々としてもらいたかったのだ。
「君が変わったなら僕も変わらないと。この先も友人でいようと思ってるんだからさ。で、どうするの?」
「……分かった、行くよ」
呆れたように笑って、彼は歩き出した。校門から延びる通路を右に折れれば正面玄関だ。僕は緊張しながら彼の横を歩く。もう少し、あと数歩……。
「え……」
キースが校舎の上を見て足を止めた。屋上から、大きな横断幕が垂れて風に揺れている。『おかえり、キース・アルバ!』と。
彼はじっと横断幕を見ている。驚いているのか、今のところ反応は無しだ。次の計画を僕が待っていると、屋上にわっと人影が現れた。
医療科、監察科の級友全員だった。彼らはそれぞれに、こちらへ手を振っている。
「はい、せーの!」
不意にリローの号令が掛かる。
「キース、おかえりー!」
全員が声を揃えた。事情を知らない一年生が何事かと窓から外を覗くくらいに、その声は大きく響き渡っていた。
「これ……」
そう呟いたキースの横顔を見る。当たったのは僕の予想だった。いや、リローもだろうか。彼は笑いながら、涙を流していた。
級友達は返事を待っているのか、「おーい」とか「もっかい言おうかー?」とか言っている。この距離では、キースの顔はよく見えないのだろう。
「おかえりって言われたら、返事は一つだよね」
僕はそう言ってみた。キースは僕を見て困ったような顔をし、一度目元を拭った。
「ちょっと待って……」
そして深呼吸し、再び顔を上げて級友達を見た。
「ただいま!」
彼はこんなに大きい声が出るのかと、今度は僕が驚いた。級友達はわっと盛り上がり、拍手や口笛の音まで聞こえてくる。やがて玄関口から医療科の生徒が走り出てきた。彼らはキースを取り囲み、喜びを爆発させてわいわいと騒ぎ立てる。
「おい、泣いてんのかよ。今まで散々ポーカーフェイス気取ってたくせに!」
リローのきつい冗談に、キースは笑顔を返した。
「嬉しかったから」
「ええっ! あなたの口から嬉しいって言葉が出てくるなんて……泣けてくるっ!」
ジジが目を赤くし、ヒルダも涙声で言った。
「あのね、キースが休んでたときの授業のノート、まとめてあるんだよ」
「金取ってやれ! 俺たち散々迷惑掛けられたんだから!」
リローが言い、キースがまた素直に謝ると、彼らは更にわいわいと騒いだ。屋上も玄関先も騒がしくなり、グルー教官が来て「お前ら騒がしいぞ! 教室戻れ!」と怒鳴るまで、僕らは幸せを噛み締めていたのだった。
夕食後の静かな部屋で、僕らは机に向かって勉強している。隣を見れば長い睫毛の美しい横顔がある。いつもと同じ、何度も繰り返してきた日常だが、僕は横にいる彼を見る度ににやけてしまうのだった。
「……気持ち悪いよ、ベス」
不意に、キースが僕にしかめ面を向けた。視線がうるさかったのだろう。
「ごめん。でも嬉しくて。一人の部屋って結構寂しかったんだぜ」
「そう。この二週間近く、どんなふうに過ごしてた?」
キースはペンを置き、体ごと僕に向けてそう尋ねた。
「どんなって言われても。色々あったよ……」
僕は彼が入院してからの出来事を話せるだけ話した。父が自警団本部に呼ばれたこと、チェス教官との面談、カイの息子や彼の家に呼ばれたことなど。まだまだ話したいことはあったが、あっという間に点呼の時間になってしまった。
「じゃあ、続きは消灯後に聞かせてくれよ」
キースはそう言って微笑んだのだった。
廊下に整列すると、グルー教官が点呼を取りながら歩いてくる。そして僕たちの前に止まると、小さくため息を吐いて言った。
「ようやく揃ったな。お前たちには迷惑を掛けられ通しだ。204号室、ベス・ガレット、……キース・アルバ。返事は?」
教官がにやりとする。キースは少し涙ぐみ、僕らは二人で威勢よく返事をしたのだった。




