3、筆跡
自警団本部の中に入ったのは、一年生の頃にあった見学実習以来だった。石造りの本部はおよそ400年前に建てられ、そこから修繕を繰り返して今に至るらしい。灰色の外観は少し物々しいが、中は塗装や装飾が施されていて綺麗だった。
広間の中央にある大階段は、奥の壁に接する広い踊場を挟み、そこから左右に分かれて上へと続いている。紺制服の隊員たちがそこを忙しなく行き来していた。
「緊張してるのか?」
僕を連れて階段を上っていたカイが不意に立ち止まり、振り返ってそう言った。僕がずっと無言だからだろう。
「はい……」
「君だって、来年はここにいるかもしれないのに」
彼はくすりと笑うが、嫌な感じは受けなかった。場を和ませようとしてくれているようだ。案外優しい人なのかもしれない。
「僕は本部の隊に入れるほど、実力がありません」
正直に言った。努力はしているが、監察科の他の生徒と比べたら実力は下の方だった。
「そうか? 根性はありそうに見えるけど。こっちだ」
階段を上り切って、彼は廊下を右に折れる。そのまま進んで、奥の部屋に案内された。聴取と言っていたから窓もないような薄暗い部屋を想像していたが、そこはちゃんと陽の差し込む場所だった。中央にテーブルがあって、奥の窓側に椅子が一脚、こちら側に二脚。その一つには、既に人の後ろ姿が見える。彼は立ち上がって振り向き、僕に会釈した。若い男性隊員だ。ブロンドの髪の下に、利発そうな目と眉毛が覗く。僕もおずおずと敬礼を返した。
「待たせたな、悪い」
カイは彼にそう言ってから、僕を奥の椅子に座らせ、自分も隊員の隣に腰掛けた。
「さて、始めようか。昼食の前には君を帰してあげたいから」
「学院の食堂よりは、ここの食堂の方が美味しいですよ」
隊員が口を挟むと、カイは顔をしかめた。
「やめろ。帰さないみたいに聞こえるだろ」
「すみません」
隊員が苦笑すると、カイも表情を弛める。自警団の上下関係はもっと厳しくて殺伐としたものかと思っていたが、そうでもないようだ。
「あ、僕は記録係のラシャ・アモンズです。よろしく」
差し出された手を取ると、彼はにこりとした。好感度は抜群だ。見習いたい。
カイが目配せをして、ラシャは紙の上にペンを置いた。俄に緊張してきて、僕はごくりと唾を飲む。
「じゃあ始めようか。まず、君の所属と名前、年齢をもう一度教えてくれ」
「はい。高等魔術学院二年生、監察科、学籍番号4826、ベネディクト・テディ・ヘイデン・ガレット、15歳です」
煙が出そうなほどの速度でペンが動いている。特に、名前のところ。それ以降はベスでいい、とカイがラシャに指示していた。
「チェス教官に話したことは省略して構わない。俺も聞いている。君の友人、クライド・リューターだが」
カイは机に置かれた資料に目を落とした。
「医療科の首席なんだな」
「はい。頭が良いというか、賢いというか……僕もよく、勉強を教えて貰っています」
「どんな性格をしている?」
カイの目が僕に向いた。チェス教官とはまた違う鋭さがある。どちらも、心の中を見抜かれているみたいでどきりとするのだった。
「勉強に関してはとにかくストイックです。真面目で几帳面で、部屋も常に綺麗にしていました。髪の毛一本残さないくらい」
「なるほど。それでか」
「え?」
「彼の髪の毛があれば追跡の魔術を使って居場所を特定出来る。でも、君たちの部屋を探してもそれは見付けられなかった」
追跡の魔術。学院では概要しか習わない魔術だ。卒業して魔導師になって初めて使うことが許されると聞いている。
対象の足跡から、今現在対象が見ている映像を観ることの出来る初歩。血液や髪の毛など対象の体の一部を利用し、様々な形をした発光体が対象を追う応用。更に上級になると、対象の現在地を地図上に点で表すことも出来るようになる。
かなり有用な魔術だが、自警団の人たちはそのためにあの血塗れの部屋を捜索したのだろうか。僕は見ただけで卒倒したけれど、今、どうなっているのか……。そんなことを考えていたら目が泳いだらしい。カイが言った。
「君は血が苦手なのか? あの部屋を見て倒れたと聞いているが」
「いえ、そんなことはないんです。あの時は、あれがクライドの血かと思ったから……」
思い出すだけで体が勝手にぶるっと震えた。鹿の血だったから良かったものの、だからといってクライドが無事だという証拠にはならない。不安がどんどん大きくなってくる。僕は膝の上できつく手を握った。
「一方的に聞かれるだけじゃ、不安にもなるか。君にも少し情報をあげないとな」
僕の気持ちを察したように、カイは言った。
「点呼のあった22時、部屋の状況は君が見た通りだった。いつからその状態だったかは不明だ。誰も物音を聞いていない。不審者の情報もない。そもそも、寮には生徒か教官以外は入れないようになっているしな」
彼は腕を組んで椅子の背にもたれた。
「寮の部屋の窓は人が通れるほど大きく開かない。君の部屋の窓が壊された形跡もない。とすると、クライドが外へ出たのは必然的に玄関からということになるが、記録には何も残っていなかった。彼がどうやって消えたかは、今のところ不明だ」
寮への出入りは全て記録が残る。生徒の安全のためだとは言われているが、実際は、門限破りの生徒を見付けるためではないかと僕は思っている。
「鹿の血や臓物が撒かれていたのは、何故なんでしょうか」
そこが最大の謎だ。何のためにあんなことを?
「何かの目眩まし、と考えるのが妥当だ。その何かは今のところ不明だが。昨日、医療科では鹿の治療をする授業があったそうだな」
「はい。暴れて大変だったと。もしかして、その鹿の……なんですよね」
チェス教官にあの血や臓物が鹿のものだと聞いたときから、嫌な予感はしていた。
「恐らくそうだ。授業で治療を終えて、裏庭の小屋に繋いであった。外側から扉に閂を掛けてな。今朝、森に帰す予定だったらしいが、既に鹿の姿はなかった。扉の閂は掛けられたままだったから、誰かが鹿を連れ出して再び閉めたのは間違いない」
カイは溜め息を吐き、腕をほどいて姿勢を正した。
「医療科の授業が終わったのが15時。鹿はその後すぐ、小屋に繋がれた。19時に世話係が様子を見に行ったときには、まだちゃんといたそうだ。つまり、鹿が解体されたのは19時過ぎから遅くとも21時の間と考えられる。この間、クライドは君と一緒にいたか?」
「クライドを疑っているんですか?」
思わず尖った声を上げてしまった。彼が理由もなく無垢な動物を殺すはずがない。……理由があれば、するんだろうか。考えたくなかった。
「ただの事実確認だ。突っかかるな」
カイが困ったような顔をし、僕ははっとした。向こうも仕事なのだ。あらゆる可能性を疑って、対象に確認しなければならないと授業で習った。確認された方は逆上することもある、そうも習った。まさに今の僕だ。
「すみません……。でも、その時間は部屋で彼と一緒にいました。二人で課題をやって、僕は先に終わったので雑誌を読んでいました。クライドはずっと、机の前にいました」
「その間、どちらかが部屋を出たことは」
「僕が一度、トイレに。21時前くらいでした。それだけです」
トイレは共同で、同じ階の中央にある。行って帰って五分とかからない。
「分かった。では、君が読んでいた雑誌だが」
カイがラシャに目配せすると、彼はあの雑誌、『枯れ草』を取り出して机の上に置いた。
「君の部屋にあったものだ。これで間違いないな?」
今月の最新号だ。間違いない。
「はい」
「グルー教官によると、発見時は閉じた状態で君の机に置かれていた。でも君は、開いた状態で置いたはずだった」
「そうです。真ん中辺り、このページです」
僕はあの、馬鹿馬鹿しいベッケンス博士の記事を開いた。ラシャが首を伸ばして内容を読み、ぷっと吹き出す。
「睫毛がふさふさって」
「いいから、記録係は記録を取れ」
カイはラシャを押しやる。彼自身は真剣に目を通し、見開きの右のページを注視した。つまらなそうなゴシップと、下の余ったスペースに、三行の文章がある。
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キペル北6区16ー9 ゲイジハイム2階
枯れ草編集部
「ここに、筆圧のかかった跡がある」
そう言って、カイはページの中央辺りを示した。ぱっと見ただけでは分かりにくいが、斜めにして明かりに翳してみると、確かに文字のようなものが見える。誰かがこのページの上に紙を置いて、何か書き記したということだろう。
「キペル……、北6区……、この住所と一緒だ。これを紙に書き写したんだろう。一応聞くけど、君か?」
「違います」
「じゃあ、この文字に見覚えは? クライドの字と比べてどうだ」
彼がページの跡の上を指先でなぞると、空中に青白く光る文字が浮かび上がった。
僕は口をつぐんでしまいたかった。几帳面なその字はどう見ても、彼のものだったからだ。
「クライドの字だな?」
カイは確信したように言った。僕は、頷くしかなかった。