20、もう一度
初等学校へ通い始めて以降、僕は父の製粉工場に足を踏み入れたことはなかった。父の仕事にそれほど興味もなかったし、僕が跡取りになるわけでもないからだ。だからこんな形で再び中に入ることになるなんて、思いもしなかった。親友が殺人を犯すのを止めるため、だなんて。
「俺の後ろから離れるなよ」
カイが小声で言って、工場の裏手にある事務所のドアを押した。普通は鍵が掛かっているはずなのに、ドアは軽く軋んでいとも簡単に開く。中に人の気配はない。雲間から顔を出した月光が、ドアノブにべっとりと付着した赤黒い何かを照らしていた。
「血……」
僕が思わず呟くと、カイが言った。
「ちょうどいい、追跡に使える」
彼が指先でその汚れに触れると、どこからか青白く発光する燕が姿を現した。追跡の魔術だ。
「それ、誰の血でしょう。クライドかステイシーが怪我を?」
「俺が思うに、このドアを開けたのはクライドだ。魔術で解錠した痕跡がある。怪我をしているのは恐らく、売人だろう」
カイは答えながら、室内に踏み込んだ。僕も慌てて追う。部屋には机と棚、雑多に置かれた木箱がいくつかあるだけだ。父が普段詰めている事務所……そう思うと、胃が痛くなった。どうかメニ草の組織とは無関係であってほしいのに、この現実を見るとそうもいかないような気がしてくる。
「……二人が、売人に危害を加えたってことですか?」
父のことは考えないようにして、そう尋ねる。カイは燕を追い、部屋の奥、廊下へ続くドアへと進みながら答えた。
「あの二人にとって売人は殺してやりたいほど憎いんだから、怪我させるくらい何でもないはずだ。連れ去るときに殴ったか何かしたんだろう。気を抜くなよ、ベス。覚悟を決めた人間は、例え友人にだって牙を剥く」
「クライドはそんなこと……」
しない、と言い切れなかったのは、僕の中で彼が得体の知れない人間に変わってきているせいかもしれない。僕はそこそこ幸せに生きてきて、クライドが見てきたような地獄を知らないから。だとしても。
「何をされても何を言われても、クライドを止めたいんです、僕は。大切な友人ですから」
「そうだな。俺もそう思うよ。……急ごう」
カイの言葉にはどこか切ない響きがあったが、僕が深く考える前に彼は廊下を走り出した。突き当たりのドアを蹴破るように開け、大型の機械が並ぶ作業場に入る。窓からの月光が埃をちらちらと輝かせる空間で、魔術の燕は機械の間を縫うように飛んでいく。
それを追って僕らが機械の裏側に回り込むと、まさに今、目の前に最悪の状況があった。
床に仰向けに倒れている男、あれがきっと売人だ。額から派手に血を流し、目は閉じられている。そしてそこに馬乗りになり、両手で握ったナイフを売人の胸元に突き立てようとしているのは――
「クライド……っ!」
僕がほとんど悲鳴のような声を上げたのと、隣にいたはずのカイが突如として消えたのは同時だった。何が起こったのか分からなかった。
クライドは動きを止め、ゆっくりと僕の方へ顔を向ける。乱れた髪の間から覗く目が、この距離でも分かるくらいに血走っていた。
「クライド、駄目だよ。駄目だ……」
すぐにでも飛び掛かるなりなんなりして止めなければいけないのに、僕はその場に突っ立ったまま、情けない声しか出せなかった。今まで見たことのない憎しみに満ちたクライドの顔が、恐ろしかった。
「もう分かってるんだろ。俺はクライド・リューターじゃない」
地を這うような低い声で、彼は呻くように言った。それから冷たい目で売人を見下ろし、ナイフを構え直した。
「……復讐しなければ終わらない。クライドとして過ごした全てを、捨てたって構わないんだ」
ナイフの切っ先が光る。その瞬間、違う、と叫ぶ声がした。僕自身の声が頭の中で響いたのだ。
弾かれたように体が動いた。僕はクライドに飛び付くようにして、もろともに床に倒れ込んだ。ナイフが落ちる音がし、左肩の辺りに何かひやりとした感触があったが、そんなことはどうでもよい。僕は仰向けになった彼の胸倉を掴んで上体を起きあがらせ、真正面からその顔を見た。
「捨てるって、なんだよ」
なんて震えた声だろう。でも、言葉は止まらなかった。
「散々引っ掻き回して、止めて欲しい素振りなんか見せておいて、捨てるってなんだよ」
「ベス」
冷静な声が答えた。クライドは死んだような目で僕を見て、ため息混じりに笑った。
「分かったんだ。俺はどこまでいってもキース・アルバなんだよ。魔導師を目指す優秀な生徒なんかじゃない。本物のクライド・リューターならそうなっていたはずだから、それを必死に演じて来ただけだ。実際は無垢な労働者で、自分をこんな目に遭わせた人間を憎み続けてきた、卑劣な――」
「うるさい、黙れッ!!」
僕は人生で初めて怒鳴った。弟が危険なことをして叱った時ですらこんなに大きな声を出したことはない。クライドも流石に驚いたように、少し目を見開いて口をつぐんだ。
「僕が知っているクライド・リューターは君だ。本物もクソもあるか。僕が大切な友人だっていうなら、逆の立場で考えてみろよ。僕が偽者だったら、失踪しても君は心配しないのか? 偽者だったら人を殺そうとしていても止めないのかよ! 馬鹿野郎っ!」
広い工場の中に、僕の声がわんわんと反響した。それから、自分の激しい鼓動が聞こえそうなくらいの沈黙が続く。クライドは目を伏せている。そして僕は、いつも見とれていた彼の長い睫毛に、涙が光るのを見た。
僕はクライドの胸倉を掴んでいた手を離し、自分の頬を拭った。泣いていたのは、僕も同じだった。
「無事で良かった、それだけだよ。……痛っ」
左肩に鋭い痛みが走った。見れば、制服がすっぱりと裂けて結構な血が出ている。さっき、クライドに飛び付いたときにナイフがかすったのだろう。それだけ鋭く研いであったに違いない。彼は本気で売人を殺すつもりだったのだ。
「ベス!」
クライドが焦った声を出して僕の肩に触れ、真剣な表情で傷口を観察する。その瞬間、僕は思った。やはり彼は、医務官を目指す僕の友人、クライド・リューターなのだと。
「治すから、動かないで……」
彼はそう言って、傷口を指先でなぞる。次の瞬間には痛みがすっと引いて、傷口も塞がっていた。
「流石、医療科の首席だね」
僕が言うと、クライドは顔を上げて泣き笑いの表情を見せた。
「もうそれも終わりだよ。俺は退学だ。友人を騙して、学院にも自警団にも迷惑を掛けた。魔導師になる資格なんかない。……止めてくれてありがとう、ベス。俺も君が殺人を犯そうとしていたら、必死で止めたはずだ。もし偽者だとしても」
「残念だけど、僕は正真正銘のベネディクト・テディ・ヘイデン・ガレットだから。君みたいに人を騙すなんて出来ないし、中身も見た目も、そのまんまだよ」
皮肉を返してやると、クライドは一瞬面食らった後、目元を拭いながら笑った。
「うん。ベスのそういうところ、嫌いじゃない」
そのとき、背後に気配を感じた。まさか売人が目を覚まして……と慌てて振り返ったが、そこにいたのはカイと、黒髪の大人しそうな少女だった。泣き濡れた顔をしたその少女がステイシーだろうか。彼女はうす緑の縦縞が入ったワンピースに白いエプロン――キペルでよく目にするお針子の格好をしていた。
「心配はしていなかったが、二人とも無事だったか」
カイは僕とクライドに目を走らせて、安堵の息を吐いた。クライドの顔が俄に緊張したように見える。倒れていた売人は、いつの間にか捕縛用の銀色のロープで縛られていた。
「まさかステイシーに連れ去られるとは思わなかったよ。説得に応じてくれて助かったが……君の指示だな、クライド。いや、キース」
「はい。今回のことは全て、俺が指示したことです。ステイシーは何も悪くありません」
クライドは毅然と答えた。ステイシーは何か言いたげに口を動かしたが、カイがさっと手を上げて黙らせた。
この事件、ステイシーとクライドの間でどんな会話がなされたのか僕には分からない。けれど、二人は同じ地獄を見た仲間だ。逃れられない強い絆があるに違いない。そしてカイも、過去に彼らを助け出した関係者。そこに関しては、僕は傍観者でいるしかなかった。
「俺が怒っているように見えるか? だとしたら、それは勘違いだ」
カイは表情を弛め、クライドに言った。
「怒るとしたら自分の不甲斐なさにだよ。君たちを本当の意味で救うことが出来ていなかった。もしベスという存在がいなかったら、君は今頃その売人の返り血に塗れていたかもしれない。……魔導師一人に出来ることなんて、たかが知れているんだ。それでも俺は逃げるつもりはない。もう一度君たちに向き合わせてくれるか、キース」
「……はい」
クライドの目が涙で曇り、雫がいくつも彼の頬を伝った。ステイシーは両手で顔を覆い、小さく肩を震わせている。
僕は心からほっとしていた。何はともあれ、もう大切な友人が殺人者になることもないし、誘拐された子供も洞窟にいた子供たちも救出された。僕もやれるだけのことはやったはずだ。
そう思うと不意に気が抜けて、僕は卒倒した。




