2、意外
目を覚ますと、ぼやけた視界の中で誰かが僕の顔を覗き込んでいた。女性だ。凛とした顔立ちで、灰色がかったブロンドを後ろで纏めている。視界が晴れてそれが担任のチェス教官だと分かるまでに、一分くらいかかった。
ここは学院の医務室のようだ。窓の外は明るい。意識のない間に、朝になってしまったのだろうか。
「大丈夫ですか、ベス」
気遣うような優しい声音だった。それだけで少し安心する。が、僕ははっとして、ベッドから飛び起きた。
「クライドがっ!」
「安心しなさい。あの部屋の血と臓物は、鹿のものです。クライド・リューターではない」
チェス教官は落ち着き払ってそう言った。最悪の予想をはっきり否定されたから、どっと肩の力が抜ける。
「そして、彼は行方不明です」
「えっ……?」
わけが分からなかった。あの出来事が起こるほんの少し前まで、僕はクライドと話していたのだ。行方不明。誰かがあの部屋に入って、鹿の臓物と血をぶちまけ、彼を誘拐した?
「君の反応を見る限り、何も知らないということで合っていますか」
チェス教官は僕の目を見据えて、そう尋ねた。
「もちろんです」
僕は首が取れるほど頷いた。
「クライドは何処へ行ったんですか? 無事ですか?」
「落ち着きなさい。まず、君が最後にクライドと話したのはいつですか?」
「消灯の、確か3、40分前です。僕らは部屋で課題をやっていました。あ、いえ、僕は雑誌を読んでいたんですけど……」
そこは正直に言った。チェス教官に嘘を吐いたところで、すぐに見破られる。彼女は頷き、先を促した。
「それで、クライドが僕に頼み事を。明日病院実習だから、白衣を洗濯してほしいと。僕は引き受けました。課題、大変そうだったし」
「そして部屋を出て、洗濯室へ行った。それからのことは他の生徒から聞いています。ベス、部屋を出る前に、クライドに変わった様子は?」
僕は思い返してみるが、彼はいつも通りだった。ポーカーフェイスではあるけれど、ずっと同じ部屋で暮らしているから、今日はちょっと落ち込んでるだとか、嬉しそうだとかは分かる。昨夜は至って普通だった。
「いいえ、全く」
「君は雑誌を読んでいたと言いましたね。どんなものですか」
「えーと……『枯れ草』です」
リスカスの中でも低俗な方のゴシップ誌だということは知っている。ただ、そこの連載小説が奇抜で面白いのだ。それを読むためだけに、僕は周囲の目を気にしつつ、毎月『枯れ草』を買っている。
チェス教官は特に表情を変えなかった。魔導師を志す学生が読むには相応しくないものだと非難する教官もいるが、彼女は違うらしい。
「なるほど。クライドも、それを読みましたか?」
「まさか。彼があんなもの、読むはずないです」
自分であんなものと言ってしまった。苦笑する。でも、クライドが読みそうもない雑誌なのは確かだ。時間の無駄、と彼ならはっきり言うだろう。
「その雑誌は、君が部屋を出るとき、君の机の上に?」
教官がやたらと詳しく聞きたがるのは何故だろう。クライドの失踪と関係があるのだろうか。
「はい」
「表紙は閉じて? 開いて?」
「開いてあったと思います。ベッケンス博士の記事のページ……」
読んでいて、馬鹿馬鹿しいと思って放り投げた。そのページが開いたままになっていたはずだ。
「分かりました。君が倒れた後、舎監のグルー教官が急いで部屋に入ったとき、雑誌は閉じられていたそうです。君、部屋の窓は開けていましたか?」
「いいえ」
季節は6月、キペルだと外はまだ涼しいし、夜は寒いくらいだ。窓を開けるのは掃除のときくらいだった。
「では、風で閉じた可能性は無いですね」
「クライドが触ったか、クライドを誘拐した犯人が触ったということですか?」
チェス教官は、じっと僕の顔を見た。
「君は、彼が自分で失踪した可能性についてはどう思いますか」
「え?」
僕は虚を突かれたように固まった。クライドが自分の意思で失踪? そんなこと、あるだろうか。誰よりも勉強熱心で、医務官になることに情熱を燃やしていた彼が。
「……分かりません。もし彼が自分で失踪したとしても、思い当たる理由がありません」
「そうですか。ベス、君は今日の学課は全て休んで結構です。これから、この失踪事件について自警団の聴取を受けてもらいます」
自警団。自分が目指している組織とはいえ、聴取を受けるとなると心臓が縮み上がった。何も悪いことはしていないのに。
チェス教官は表情を和らげ、僕を安心させるように言った。
「誰も君を疑ってはいませんよ。クライドの最後の目撃者として、あるいは寮の同室者、友人として、話を聞きたいだけです。彼を見付けるために協力して下さい」
クライドを見付けるためなら、僕はいくらだって協力する。何より、彼の無事が気掛かりだった。自警団が動いてくれているなら少しは安心だ。
「分かりました」
「聴取が終わるまで、他の生徒との接触は禁止です。口裏合わせ……が君に必要とは思っていませんが、念のため。朝食は食べてからで結構ですよ。あまり緊張せずに。私が信頼する魔導師に、君のことを任せましたから」
医務室で朝食を済ませて、昨夜のままの部屋着から制服に着替えた。グルー教官が部屋から持ってきてくれたようだ。クローゼットに掛けておいたから、幸い、あの血を浴びずに済んだらしい。何となく臭いを嗅いだ。獣臭は染み付いていなかった。
医務室の鏡の前で身なりを整える。灰色の制服は形こそ自警団の制服と同じで、ダブルブレストの立ち襟だ。ただ、ボタンも地味な黒だし、左胸の刺繍も無いし、とりあえずぱっとしないのである。
生徒はいつかはこの灰色が、紺、ひいては臙脂色に変わるのを夢見ている。ただ、夢半ばで灰色さえ脱ぐことになる者も多い。魔導師不足と騒ぎつつ、卒業させてもらえるのは入学時の生徒の4割程度。審査の基準は決して揺るがないらしい。
医務教官が僕の体調の最終チェックをしていると、廊下で足音がした。自警団の隊員がここへ迎えに来ると聞いていた。僕は姿勢を正してその人を待つ。
チェス教官は、僕を担当するのは第一隊の副隊長と言った。優秀な魔導師が集められた第一隊の、しかも副隊長。絶対、年嵩の怖い人に決まっている。
控え目なノックに医務教官が応えると、ドアがゆっくりと開いた。その人を見て、僕は少々、面食らった。
若い男性だった。まだ20代だろうか。少しだけ長めな栗色の髪を後ろで束ねて、どことなく生意気だが愛嬌のある顔立ちをしている。背は僕よりも高いが、威圧感を受けるほどではない。
がちがちに緊張した僕の敬礼に、彼は軽く答礼してこう言った。
「君がベネディクト・テディ・ヘイデン・ガレットか」
「はいっ。ベ、ベスと呼ばれています。長いので」
僕が初対面の人に必ず言う台詞。それを聞いて、彼はふと笑顔になった。そして、僕に手を差し出した。
「じゃあ、ベス。俺は第一隊副隊長、カイ・ロートリアンだ。よろしく」