11、おまじない
ベロニカ院長の書いた記事は、メニ草に関する現実を浅くしか知らなかった僕の心にぐさりと刺さった。学院で学んだ知識として頭にあっただけで、僕は実際、被害者のその後まで考えたことがなかったのだ。売人や栽培人を捕まえて終わりではない。そこから更に何年、何十年と苦しむ人たちがいる。目を開かされたようだった。このままではいけない、ちゃんと理解したいという気持ちが湧き上がってきた。
「……とても勉強になりました。あの、記事に書かれている廃人のようになってしまった子供って、まだここにいるんですか?」
雑誌をエドマーに返しながら尋ねてみる。会ってどうしようというのか、自分でも分からなかった。しかしこの目で現実を見ない限り、被害者の気持ちは理解できないと思ったのだ。
「うん、いるよ。会ってみる? 少しショックを受けるかもしれないけど、君は現実を知りたいって顔をしているから」
「はい、お願いします」
僕が大きく頷くと、彼は微笑んで廊下を進んでいった。ラシャがぽんと僕の肩を叩き、「顔付きが変わったみたいだね」と囁いた。
階段を上り、三階に着いた。エドマーが『遊戯室』の札が掛かったドアを開けると、そこから子供たちの喧騒がわっと溢れてくる。
「初等学校へ入る前の、4、5歳の子供たちがここで遊んでいるんだ。それ以上の子は勉強も必要だから、別の教室で学んでいる。途中からでも外の初等学校へ通えるようにね」
エドマーが説明した。広い部屋には遊具やぬいぐるみ、積み木などのおもちゃが沢山あった。15人くらいいる子供たちが思い思いに遊び、それを2人の世話役が見守っている。遊びに集中しているのか、子供たちは僕らの方には見向きもしないのだった。
でも、ここは幼稚園ではない。彼らは皆、何らかの理由で心に傷を負った子供たちなのだ。
「この病院、というか児童院にいるのは、9割近くがメニ草畑から救出された子供たちなんだ。残りは親からの虐待であったり、不慮の事故で両親を亡くしたりした子供。あんな笑顔を見ていると、忘れてしまいそうになるけど」
エドマーはそう言いながら、部屋の奥へと歩いていく。そこには車椅子に乗った男の子と、その横に立って彼に一生懸命話し掛ける女の子がいた。この部屋にいるのは4、5歳の子供と言っていたが、彼らはもっと大きく、7歳くらいに見えた。
「やあ、ネリー。ノアのご機嫌はどうだい?」
エドマーが女の子に優しく話し掛ける。ネリーが女の子、ノアが男の子の名前らしい。ネリーもノアも綺麗な栗色の髪で、顔立ちもどことなく似ていた。
「全然変わらない。でも、おやつは食べてくれたよ。ね?」
ネリーはノアに話し掛けるが、ノアは遠くを見つめたまま無言だった。彼には表情らしい表情が全くなく、辛うじてまばたきがあるというくらいだ。何も見えていないし聞こえていない、そんな印象を受ける。彼が記事に書かれていた子供だと、すぐに分かった。
僕は自分の弟たちを思い出す。数分の間にころころと表情を変え、うるさいくらいに喋って、外を自由に走り回る。この子だって本当は……。魂が抜けてしまったようなノアの顔を見ていると、苦しいくらいに胸が締め付けられた。
「エドマー先生、この人、はじめましての人?」
ネリーは純粋な目で僕をじっと見て、首を傾げた。
「そうだよ。ベスって言うんだ。魔導師の学校に通っている。ノアとお話ししたいんだって。いいかい?」
「いいよ。ねえ、ノア、お話ししよーって」
ネリーが腕を揺するが、やっぱりノアは何の反応も示さなかった。それでもネリーはにこりと笑い、僕に言うのだった。
「嬉しいみたい」
本当だろうか。僕が表情の変化を見落としているだけ? 困惑する僕に、エドマーが言った。
「じっくり話してみてごらん。ノアにはちゃんと、言葉が届いているって分かるから。ネリーの話も沢山聴いてあげるといい。私たちは仕事の話があるから、また後でね」
そしてラシャを連れて行ってしまった。ネリーは部屋の隅から椅子を二つ持ってきて、一つを僕に勧めた。まだ幼いのに、よく気の利く子だ。
「ノアは変なんじゃないよ。お喋りの仕方、忘れちゃっただけなんだ」
ネリーはそう言って、ノアの隣に椅子を置いて腰掛けた。僕もノアの正面に椅子を置いて、座る。まばたきをした彼の視線が、ほんの少しだけ動いたような気がした。
「君たちはきょうだいなの? 今、何歳?」
「そうだよ。双子で、ノアがお兄ちゃん。7歳だよ」
僕の問いに、ネリーは翳りのない、人懐っこい笑顔を見せる。この子が『無垢な労働者』だったなんて、言われなければ分からないくらいだ。
「ベスは、魔導師になるの? 魔導師の学校にいるんでしょ?」
「うん。そうだよ」
「すごいなぁ。ネリーね、魔導師の人は好きだよ。ネリーたちのヒーローだもん」
「ヒーロー?」
「そう。あの怖いところから、助けてくれたの」
彼女の言う怖いところとは、きっとメニ草畑のことだ。そこで彼女たちがどんな目に遭ったのか、想像するだけで胸が痛かった。ネリーが暗い顔をしたから余計に。
僕が何も言えないでいると、彼女はそっとノアの手を握り、ぽつりぽつりと話し出した。
「ネリーのママは、メニ草でおかしくなっちゃったんだ。ネリーとノアのこと、いつも、いらないって言ってた。だから悪い人が迎えに来たの。目隠しをして馬車に乗せられて、全然知らないところに連れていかれた。黄色い花がいっぱい咲いているところ。子供がいっぱいいた。みんな悪い人を怖がってた。だって、鞭を持っているんだもん。泣いたりすると、それで背中を叩かれるの。だからみんな、悪い人が見ていないときに、声を出さないで泣くの」
ネリーはまだ7歳とは思えないくらいに、淀みなく淡々と話す。メニ草のことも理解しているようだ。賢い子であるのは確かだけれど、それだけではない気がした。話の出来ないノアの分まで一生懸命伝えようとしているのかもしれない。僕が頷いてみせると、彼女はこう続けた。
「ノアはいつも、大丈夫だよってネリーを撫でてくれた。ノアはとっても優しいの。だから、鞭で叩かれている子のことも守ってあげようとした。死んじゃいそうなくらい叩かれていたから。やめろって言って、悪い人に飛び付いたの。悪い人は怒って、ノアを殴って、変な飲み物を飲ませたんだ。それで……こうなっちゃった」
涙を堪えるようにごくりと唾を呑み、ネリーはノアの顔を見つめた。変な飲み物とは、メニ草から抽出した液体だろう。子供にとっては劇薬だったのだ。
「だけど先生たちに診てもらって、少しずつ良くなってる気がする。ね、ノア。たまにカイが来て、ノアをおんぶして、庭を散歩してくれるの。そうしたら、ほんのちょっとだけ笑うんだ」
「カイ副隊長が?」
「うん。ネリーたちを助けてくれたのもカイだもん。ヒーローなの。ネリーもノアも、他の子供たちも、みんなカイが大好きなんだよ。あ、でも病院の先生たちも好きだし、ラシャも優しいから好き」
ネリーはにっこりと笑った。魔導師は、彼女にとっての救いだったに違いない。
「そうなんだ。僕も、カイ副隊長は好きだよ」
話を合わせたわけではなく、僕の本音だった。だからこそ、彼がメニ草とどんな因縁があるのかは気になっていた。
「えへへ、一緒だね。あっ、ノア、お薬の時間だ」
ネリーが壁の時計を見て声を上げる。時刻は11時を回るところだった。
「先生にお薬もらってくる。ベス、ちょっと見ててね」
そう言ってノアの手を離し、駆けていく。すると彼の視線がネリーを追い、その手が少しだけ持ち上がった。
「大丈夫、すぐ戻ってくるよ」
僕は優しくノアの手を握った。
「君はネリーが大好きなんだね」
彼の視線がゆっくり僕に向く。表情は変わらないが、その澄んだ目は間違いなく僕を見ていた。
「……あのね、ノア。君はきっと良くなる。喋れるようになるし、笑えるようにもなるよ」
自然とそんな言葉が出てきた。
「僕は小さい頃、よく兄さんにおまじないをかけてもらってたんだ。いいことが一つ起きる、おまじない。こうやって、掌に星を描いて……」
僕はノアの掌に指で小さな星を描き、そのまま軽く拳を握らせ、僕の両手で包んだ。
「幸せになーれ、って。とってもよく効くおまじないだから、ノアにもきっといいことがある。一つだけじゃなくて、沢山。君は勇敢で優しい子だもの」
言葉は届いただろうか。ノアはゆっくりとまばたきをしただけで、やはり表情は変わらない。けれど微かに、僕の手の中で彼の指先が動いたような気がした。