まあ、良くない!
「まあ、いっか」
私にはそんな言葉で、日々の憂鬱を誤魔化してしまう癖がある。
例えば、気になる男の子に話しかけたいな、と思う気持ちをうやむやに誤魔化して、諦めたとき。
私は同じクラスの洲崎君に憧れている。
窓際の前から三番目の席に座る洲崎君は、今日もクラスのトップメンバーに囲まれていた。
男の子の髪質だとは思えない、柔らかな栗毛と気まぐれな猫のようにシャープな瞳。そのアンバランス感が彼の唯一無二の容姿を作り上げていた。洲崎君は、私の通う中学校の中でも、目立った存在の男の子だと思う。
ある日を境に私は彼のことを目で追ってしまうようになった。
友達には見ているだけじゃなくて、自分から話しかければいいじゃん、といわれる。
でも、私にはそれができるだけの勇気がない。
私は卑屈な性格なのだ。
周りの女の子よりも頭一つ分背が高い私は、かわいいとはかけ離れているからだ。
あまりの背の高さに、よく男と間違えられる。間違える相手に悪気なんかないし、間違いに気づいた相手は申し訳なさそうに「ごめん」と謝ってくれる。
いいえ、いいんですよ、とにっこり笑って私が水に流せればいい話だ。なのに、私はその間違えを心の傷として一つ残らずキャッチしてしまう。そんなところだけは、まるで埃を一つ残さず、吸い込んでしまう掃除機みたいに高性能だ。些細な傷は少しずつ、私の『女の子』としての自信を奪っていった。
ただでさえ大女の私が、みんなみたいにキャーキャー言うのは、画面的におかしいもん。そう一度、思いこんでしまったら、その考えは自分を縛る呪いになる。
「えー! 葉月はかわいいよ」
「そうそう。目元の黒子もセクシーだし。背が高いのも、すらっとしていて綺麗だなって思うけど?」
仲の良い友達の中にはそういってくれる子もいるけど、私は心のどこかでそれを信じることができないでいる。彼女たちは私より、何倍もかわいいから、私の気持ちなんかわからないんだと、一方的に拒否してしまう。
気がついたら、私は気になるクラスの男の子に挨拶もできないくらいの小心者になっていた。
それでも……。
──まあいっか。と思ってしまうから、私は駄目だ。
*
それに、私のこの気持ちは多分、恋じゃないのだと思う。
周りのみんなは彼のことを『イケメン』と囃し立てる。確かに私も彼の顔はカッコいいと思う。でも私が『いいな』と思ったところはそこではない。
国語の授業でディベートが行われた。テーマは『刑事事件を起こした犯人は実名報道を禁止するか、否か』だった。
一言では結果が出ないような難しい問題だ。
私のクラスではほとんどの人が『否』といった。洲崎君はクラスの中では少数派だった。それでも、洲崎君は「刑事事件を犯した人間にも人権はある。それに冤罪だった場合、その後の社会復帰が難しくなる」と、自分の意見をはっきりと言っていた。私だったら、少数意見をあんなにはっきりいえないだろう。そういうところ……かっこいいな、と思ったのだ。
でもその一瞬の感情が恋なのか、と聞かれると首を捻ってしまう。それはまだ育ち切っていない感情の蕾のような、些細な好意でしかない。
その感情の動きを誰かのそれと対比すると、私の心の動きがいかに些細なものかがよくわかる。
「私、絶対先輩に告るから!」
そう顔を真っ赤にして宣言した友人の目はキラキラと輝いていて、力強かった。私の蕾とは違う、完全なお花畑……。と言ってしまうと、馬鹿にしているように思えるかもしれないが、私は友人を見て、素直に感動してしまった。彼女の感情の動きに、揺れに、振れ幅に。
私も彼女の勇姿には素直に頑張れ、と言いたくなったし、恋というものはこういうハッキリとした色彩を持っているんだな、というサンプルを得た気がした。
彼女と比べると私の感情はどうだろう。薄ぼんやりとした冬の霧のようで、色も淡い。
何がなんでも自分のものにしたい! という確固たる情熱があるわけでもない。
それに私が勇気を出したところで未来が変わるわけでもない。私みたいな子が洲崎君の彼女になれるはずがないし、彼の周りにはもっとかわいい子がいる。
授業終わり、彼の方へ視線をやる。ほら。今も洲崎君の周りにはかわいい女の子が溢れている。廊下で窓に寄りかかりながら談笑するその姿はまるで学校紹介パンフレットに載るような、理想的なシーンだ。私みたいな大女が入り込む隙もない。
──まあいっか。
私はその言葉を、また心の中で呟いて、青ラインの入った、スリッパ型の上履きに目を落とす。私は俯いたまま、洲崎くんの横を駆け足で通り抜けた。
*
「ううん……。え、うそ。もう二時半⁉︎ 早く寝なくちゃなのに。明日、中間テストだよ〜!」
月のあかりと、スマホの画面だけが明るい真夜中。私は自分の部屋のベッドに寝転びながら、何度も寝返りを打つ。「寝られない、寝られない」とうんうんと唸っていた。きっと寝汗をかいているせいで、水色のシーツはより濃い青に滲んでいるに違いない。
……今日はなんだか、本当に寝付けないな。
今日学校であったこと──恋をして瞳をキラキラと輝かせる友人の姿、難しい授業。なんとなく晴れない私の心模様……。色々なことを考えていたら、モヤモヤが止まらなくなって眠れなくなってしまった。
うーん。今日はそういう日なのかもしれない。そう、自分を納得させるように、ぼんやりと天井を眺めていると、チカリと何かが光った気がした。
え? 何?
私は目を瞬かせる。今、光った。間違いなく光った。
天井を見つめた私は、ピントを合わせるように目を凝らす。すると最初は点のように見えていた光はだんだん広がっていった。天井をカッターナイフで一直線に切ったかのように、線状に広がっていった。
何、何、何? 一体どうなってんの⁉︎
あ! わかったこれは夢だ。眠れないと思い込んでいただけで、本当の私は眠っているんだ。これは明晰夢なんだ。
そう思ったのに、やけに感覚がリアルなのが気になり始める。掌にはじっとりとした汗が握られていた。線状の光は、ある程度まで伸びると動きをとめ、カパっと瞳型に開かれた。それはまるで、チャックが開いたかのような状態だ。
驚きの光景に思わず、目を瞠った。
穴からなんと女性の足が出てきたのだった。
長くすらりとした生足。それを彩るように艶かしいワインレッドのエナメルハイヒールが履かれている。
「あら、ここ、天井? 壁だと思ったのに。気をつけて降りないと。……はあい、葉月ちゃん」
手をひらりと振って、イタリア人のような陽気なテンションで現れたのは、少しねっとりとした声、大人の女─
─そんな言葉がよく似合う人だった。
瞳の印象が強い。美しい流線のアイラインが彼女の瞳を際立たせる。ピタリと体に張り付くようにあつらえられた、ミニ丈のワンピースは彼女に似合っていた。
道ですれ違ったら見惚れてしまいそうな女性だが、今は悠長に見惚れることなんてできない。なんてったって、この女性は私の部屋の天井から出てきた、不審者なのだから。
「あ、あ、あ……あなた誰⁉︎」
私は腰を抜かした状態でベッドの真ん中からフレームの方へ後ずさる。怪奇現象を目の当たりにした私を見て、謎の美女は顎に人差し指を添えてクスリと悪戯に笑った。
「あらら? 本当に私のことがだれだか、本当にわからない? 顔を見れば嫌でも気がつくものかと思ってた」
「気がつく? なんのこと……」
バクバクと音を立てる心臓をなんとか諌めながら、女性の姿を観察する。長い手足、右目の下にあるほくろ……。
──そういえばこの人。私に似ている。
夢だ、夢だ、夢だ。これは夢だ。だからこそ現実ではあり得ない展開があり得てしまう。
「あなたはもしかして私?」
所々、震える声で、私は言葉を紡ぐ。
その言葉に女性はハートが飛ぶようなウインクを見せた。
「そうよ、私はあなた。葉月ですっ」
ひえっ! かわいい!
私、こんなにかわいい微笑みを作れる人になるんだ! ハイヒールの彼女は私がコンプレックスだと感じていた大きな身長を完全に自分の魅力として使いこなしていた。服のセンスもいいが、多分より素敵に見えるためにトレーニングを積んでいるに違いない。服の間から見える筋肉は引き締まっていた。大きいというより、手足がスラリと長くてモデルさんのように見えるのだ。
──なんて『素敵な私』なんだろう。
これは、夢だ。都合のいい妄想の一部。……でも、夢だとわかっていても嬉しかった。
「あの……参考までに聞いておきたいのだけど、あなたは今、どんなご職業に?」
「ん? 私? 今は大きな身長を生かしてモデルになったの!」
「モデル……⁉︎」
モデルさんみたいだと思っていたけれど、本当にモデルだった! 私は驚きで声も出なかった。コンプレックスだった大きな身長は今の彼女にとって大きな武器になっているらしい。背筋もピンと伸びていて、キリリとしている彼女は今の私から見ても美しかった。
「でも、今日きたのは私だけじゃないの。ねえ、みんなこっち!」
その言葉にびっくりしていると、全く同じ声質の声がまるで合唱するように、重なり合って聞こえてくる。
「はいはい! 待ってましたよ!」
「呼ぶの遅いよ!」
「えー! 中学生だって〜! 懐かしいんだけどー!」
驚く私の目の前に、瞳型の穴からわらわらと人が出てきた。後から出てきたのは三人。みんな、それぞれ違う服装をしているし、メイクも異なっているが、ベースの顔は変わらない。間違いなく私だ。
「紹介するね! 私が『早めに結婚して主婦になった私』」
その女性はピンクベースにチェック模様が入った、キティーちゃんのエプロンをつけていて、いかにも『主婦』って感じ。
「私はバリバリ働いて『キャリアウーマンになった私』」
次の女性はストライプの入った紺色のパンツスーツをビシッと着こなしていて、いかにも仕事ができそうな感じ。銀色のオーバル型メガネも彼女のキリッとした感じを引き出している。……こういうのもいいかも。
「私は海外旅行をしながら『放浪系カメラマンになる私』」
おお! この人は国際的な感じだ。動きやすそうなカーゴパンツに、チェックのネルシャツ。それに背中を覆うほどに大きなバックパックを背負っていた。
私英語苦手なんだけど、きっとたくさん努力したんだろうな。
みんな、私だけど全然違う未来を辿っているらしい。
どの私になっても楽しそうだ。ほわあ……。と惚けていると、どこかから視線を感じた。ヒヤッと背筋が凍る思いをしながら、天井の穴を見上げるともう一人分の人影が見えた。
*
「……るっせーな。今、やっと推しガチャが弾けそうだったのに……。邪魔すんじゃねーよ」
え……。あまりに低く、威圧感丸出しの声に私は慄き、身を縮める。最後に出てきたのは猫背でぶくぶくと太った女だった。元々の背が高いせいか、太るとさらに重量感を感じさせる。
天井から降りてくる際、どしんとスプリングを軋ませた後、ベッドの材に当たる部分がみしりと嫌な音を立てた。
長く……というか、だらしなく伸びた髪で顔が見えない。でも、その髪の隙間からこちらを眼光鋭く睨んでいるのが見えた。まるで、私自身に恨みがあるみたいに。
溢れ出す陰のオーラに喉がヒクリと鳴ってしまう。
「わわわ! また来た⁉︎ こ、こっちはだれ⁉︎」
この展開だと、なんとなくわかってしまうけど……。私の顔が青ざめていくのに対して、ハイヒールを履いた『素敵な私』はにっこりと笑顔を作った。
「こちらは『何かがあった場合のあなた』よ」
「何かがあった場合……?」
「あたしゃねえ。とある事件から、引きこもりになったんさ。……あの時の出来事は昔の私にだって語りたくないね」
一体何があったんだ……。私は改めて最後に出てきた──『何かあった場合の私』を観察する。ボサボサ頭に贅肉が今にも隙間から漏れてしまいそうなパツパツのジャージ姿──しかもその緑色のジャージはすっごく見覚えがある。
私が現在使っている中学校のジャージだった。生地はくたびれて薄くなっているけれど、この形状は間違いがない。胸元にはもう禿げてほとんど残っていない、中学校の校章がうっすらと見えた。
──こんな中年にもなって、中学校のジャージ着ている大人……やだな。
「さあ、全員揃ったわ! 見て、葉月ちゃん。これがあなたの想定できる『未来の私』総勢五名!」
私は『未来の私達』を端から確認する。やっぱり一番素敵だな……と思うのはハイヒールの私。で、一番なりたくないのは……、もちろん『何かあった場合の私』だ。
「今日はね、あなたの『まあいっか』根性をみんなで叩き治しにきたの!」
『未来の私たち』は顔を見合わせて、明るい口調でねー! と言い合う。
「はあ? 私なんかが、『まあいっか』を辞めても、何かが変わるわけじゃないじゃん」
私は私に反抗した態度をとる。すると……。
「それはどうかな?」
ハイヒールを履いた私はふふんと鼻を鳴らす。
「洲崎君、かっこいいよね。で、葉月ちゃんは彼の『意見をはっきり言えるところがかっこいいな〜』って思っているんでしょ? 私だけが知っている、洲崎君のかっこいいところって……」
「そうだよ。なんか文句ある?」
「でもね、葉月ちゃん。残念だけど……。みんなそれ、知ってるから」
「え……」
私はポカンとしてしまう。
「そそ。洲崎くんのかっこいいところだけじゃない素敵さにみんな気がついているから、勇気を出して話しかけてるのに……。私って意気地なしだったわあ〜。そう言う部分で他の女子と、どんどん差がついていくんだよー!」
「ねー! 『まあいっか』を言うたびに、自分がだめになっていくんだよ〜」
「ええええ〜! そんなぁ〜!」
その容赦のない言葉に涙目になってしまう。
「大丈夫。今のあなたは行動次第で、何にでもなれる。だけど……。今みたいになんでも『まあいっか』諦めるようだと……こう」
『素敵な私』が手を差し出した方向には『何かあった場合の私』がいた。
「私は運が悪かっただけ……。ていうか、もともと私可愛くないし。私が暗いのは……悪いのは全部、社会のせいだし」
『何かあった場合の私』は暗い顔をしながらぶつぶつと、呪怨じみた言葉を口にしている。
その姿に今の私はヒヤリと背筋を凍らせた。
今、私が友人たちに向けている、かわいいレベルの妬み。その延長線上に彼女はいるのだ。
みんな私よりかわいいから、私よりも恵まれている人に私の気持ちなんかわかるもんか。
そんな他者への嫉妬や恨み、憧れ……そんなものを煮詰めて、最終的な敵を社会にしてしまったのが『何かあった場合の私』だ。
間違いなく、彼女は私だ。本当に『何かあった場合』はああなるだろう。
うっかりあり得てしまいそうな、リアルな未来が目の前にいる。
「わわわ! 人を恨んでぶつぶついう人間にだけにはなりたくなーい!」
あんまりな最終形態に耐えられなくなって、私は頭を抱えて、ベッドに丸まった。
「ふふふ、そうでしょう。でもね。あなたが抱える『まあいっか』はいわば、感情の負債なの。それを放置して、隠して、見て見ぬふりをして……。を繰り返していくうちに、どんどん『素敵な私』からは離れていく」
そう言ったのは『素敵な私』だった。その言葉に『そのほかの私』もうんうん頷いている。多かれ少なかれ、彼女たちにはその経験があるらしい。
その姿に今の私は不安に見舞われる。
「まあ、いっかって言い続けてたらこうなっちゃうの……? 私……ハイヒールを素敵に履着こなしているあなたが素敵だと思う。あなたみたいになりたい。でも……なれるかな」
私は『素敵な私』の顔を見上げた。自身に満ち溢れた顔。……彼女みたいになれる自信はちっとも浮かんでこない。どうなっちゃうの、私の未来。そんな考えばかり浮かんでしまう。
多分、混乱もあるのだと思うけど、今、無性に泣き叫びたくて仕方がない。
そんな感傷に浸り気味な私に優しく声をかけたのは『素敵な私』だった。
「大丈夫だよ。あなたはすぐに私にはなれない。だけど、少しだけ、勇気を出したら、確実に今より素敵になれる」
「本当?」
「それはもちろん本当! でもね……。覚えておいて、葉月。あなたは何にでもなれる。あなたがなるのは私じゃなくてもいい」
「え?」
私はその意味がうまく理解できずに、目を瞬かせる。『素敵な私』の目は愛しいものを見るように、優しく弧を描いた。
「私のことを『素敵』だって、言ってくれて嬉しい。けど、私は不確定な未来だから、あなたが少しだけ勇気を出したら、もっと素敵になることだってできるの。あなたは何にでもなれるの!」
「もちろん、今の私よりもだらしなくもね!」
話に割り込んできた『何かあった場合の私』はニヒルな笑みを見せた。
「……ちょっとあんたは黙っていようか」
女王様スマイルを貼り付けたまま、青筋を立てた『素敵な私』が『何かあった場合の私』の耳を叱りあげるみたいに引っ張り上げている。
私と私が話している。それを私が見ている。摩訶不思議な光景だ。でも、ちょっと面白いって、笑っちゃう。
「でも、あなたって懐疑的な性格だし……。それにしょうもないくらいに、小心者。このまま私たちが真っ直ぐに帰ったら、これが夢だって結論付けちゃいそう。何か証拠みたいなものが欲しいな……」
その言葉に、私はぎくりとする。このまま起きたら私は「変な夢見たな〜。うーん、でも夢だし? まあいっか」
と言っていつも通りの日常を過ごすに違いない。
さすが『私』だ。私のことをよくわかっている。
『素敵な私』がうーんと唸りながら、頬を撫でる。『それ以外の私達』も同じように悩んでいた。
一瞬の沈黙。それを破ったのは『何かあった場合の私』だった。
「あ、私。ポッケに飴ちゃん入ってた。こっちの世界の新商品。……これでも持っていきな」
『何かあった場合の私』のクリームパンみたいな手が私の左手をつかむ。飴をぎゅっと無理やり握らされた。
ポカンとした顔をした私に向かって『何かがあった場合の私』は、「私みたいになるな、幸せになれよ!」と言って、ニッと歯を剥き出しにして笑った。歯は虫歯だらけで、何本も抜けていたけど……。見なかったことにしよう。
手に握られた飴は、見たことのない形状をしていた。包装のプラスチックは見たことのない虹色に光っていた。
「あ、もう時間だ。じゃあ私たち帰るから。またね〜」
「じゃあね〜!」
「未来で会えるかな?」
「無理でしょ」
手を振った『未来の私達』はそのまま光の穴へとよじ登って帰っていった。 残された私は何がなんだか、わからなくなっていた。呆然としていると、だんだん意識が薄れていった。
耳の奥で『未来の私達』の楽しげな笑い声がまだ聞こえた気がした。
*
窓の外から鳥の鳴き声がする。眩い光が差し込む朝。ベッドに寝転んでいた私は、寝不足で重い瞼をがんばって開く。
起き上がって部屋を見渡すけど、特に変わったこともなく、天井に穴なんて空いていない。もちろん『未来の私』なんてのもいない。
「は……。やっぱり夢か……」
起き抜けの私は気が抜けたように声を出す。あくびをしながら、左手で頭を掻く。すると、掌に異様な感触があることに気がつく。
「ん? 私、何か握って」
左の掌を見てギョッとする。掌には夢でみたのと全く同じ虹色の包装がされた、飴が握られていた。
朝日に透かすようにして見ると、私が勉強の合間などによく食べる菓子メーカーのロゴが見えた。
でも、こんなの見たことないよ……。まさか本当に未来の私がここに来たってこと?
「まさか……」
どうしても自分の体験が信じられない私は、自分のスマホでこの商品が存在しているか、検索をしてみる。けれども、メーカーのホームページをいくらスクロールしてもそんな飴の画像は見つからない。
「やっぱり……夢じゃなかったの……?」
頭の中で混乱はしていた。
でも、いくら悩んだって、あの体験がなんだったのか、答えは出ない。
悩んでいても仕方がないので、とりあえず、口の中に飴をほいっと入れてみた。口の中でコロリと音を立てた飴は、フルーツとは違うふんわりとした綿飴のような甘味と、今までに感じたことのない口中に広がる爽やかな酸味──未来の味がした。
「葉月! いつまで寝ているの? 遅刻するよ〜」
一階のリビングから、母の声が響く。我に帰って時計を見ると、もう出ないと遅刻してしまう時間だった。
「はーい!」
慌てて身支度を整えた私は、朝食も食べずに飛び出すように玄関を出た。
いつもの通学路を走る。息が上がって苦しい。変わらない日常。……のはずなのに、なぜか私の目には景色が輝いているように見える。
『私は何にでもなれる』
その魔法の言葉を『未来の私』が教えてくれたから。
ギリギリ遅刻を逃れた私は、校門をくぐり生徒玄関へと向かう。
生徒玄関にはなんと偶然、洲崎君がいた。
しかも、いつもは誰かが周りにいるのに、今日は一人だ。
──どうするの? 話しかける?
『おはよう』と一言、言えばいい。
けれどもたったそれだけのことが、私には高いハードルに感じる。
あまりの緊張に唾をゴクリと飲み込む。いつもなら、まあいっかで済ませて、立ち去ってしまうところだ。
でも……。ここで、勇気を出さなかったら、私は?
覚悟を決めて息を大きく吸う。そうすると、私の足は勝手に前へと動き出した。
「まあ、良くない!」
勇気を出せ! 私は『素敵な私』に……。いや『もっともっと素敵な私』に会いに行きたいんだから!
「あの……。洲崎くん! お、おはよう!」
緊張で裏返った私の声が、生徒玄関に響く。