043.お姉ちゃん
「やぁやぁ、ソーマくん。お姉さんは会いたかったよ」
「うおっと!」
急に掛かる負荷で、俺は後ろに倒れそうになる。
反射的に前屈みになるようにして、俺は重心のバランスをとる。
突然に力をいれたため、腹周りの筋肉がチリチリ痛む。
しかし、柔らかな感触が俺の背中に生まれ、爽やかな柑橘系の香りが俺を包み、それを忘れさせる。
「風の噂を聞いて、お姉さんに会いに来てくれると信じて待っていたのに、ソーマくんはぜーんぜん来てくれない。お姉さんは悲しいよ」
「あ、アリシアさん! な、なんでここに?」
三つ編みにしたグレーの髪が、俺の視界の隅で跳ねる。
俺に背中から抱きついているのは、シノさんの行きつけの飲食店で、俺もお世話になっている『ワイルドベアーの巣穴』の看板娘、アリシア=ヴォレットに違いない。
つまり、背中に感じる柔らかく温かな感触は――。
俺はそこで思考を停止する。
深く考えてはダメな事案だ。
ひんやりとした空気を肌で感じながら、俺はテトラの様子を確認する。
上品に佇みながら、微笑むテトラの姿。
それなのに得体の知れない悪寒が背中を駆け回り、威圧感に全身の筋肉が強ばってしまう。
笑いたいわけではないのに、表情筋が引きつって、勝手に口の端を持ち上げていく。
「ひっどいなー。前に商業科に通っているって、ソーマくんに教えたじゃないかー」
俺の背中にしがみつきながら、俺の視界に入るように、ヒラヒラと手を振るアリシアさん。
ふにふにと、制服の布越しに背中に感じる柔らかい何か。
俺は唇をキツく結び、顔をしかめて耐える。
少しでも気を抜けば、全身の筋肉が弛んでしまいそうだ。
鼻の下を伸ばすことは、紳士らしくない。
「おやおや、ソーマくん、何を緊張しているのかなー? おっと、そこにいるのはテトラっち。ハロハロー、制服姿も可愛――」
アリシアさんの声に反射的に、俺はテトラの様子を確認する。
次の瞬間、疾風が吹き抜ける。
それは刹那の踏み込みから、テトラが正拳を俺の方に打ち込んだからだと、遅れて認識する。
テトラの動きに、微動だに出来なかった俺の背中から、柔らかな感触と温かみが消失する。
それが何だったのか思考することは憚られるが、俺の中に一抹の悲しさが生まれてしまう。
不可抗力だ。
俺は悪くない。
「何してるのですか、アリシアさん」
テトラは目が笑ってない笑顔で、拳を引き戻しながら、アリシアさんに声をかける。
その声音は淡々としており、俺の体はブルブルと震えてしまう。
俺はぎこちない動きでアリシアさんの様子を確認する。
彼女はいつもの天満な笑顔で、軽いステップを刻みながら、俺の横に移動する。
グレーの三つ編みが犬の尻尾の様に揺れていた。
「――危ないなー、テトラっち」
「……チッ。相も変わらず、見事な身のこなしですね、アリシアさん」
「ありがと、テトラっち。これくらい出来ないと、お店の手伝いが出来ないってわけなのよ。アタシとしては、上品な雰囲気のお店にしたいのだけど、お父さんの見た目がアレでしょ。類友というか、日が落ちるとお店にヤンチャなお客も増えちゃうのよね。乱闘とかで怪我しないように動ける必要があるってわけね」
心底、忌々しそうな顔のテトラに対し、得意顔のアリシアさん。
うん、テトラのイヤミはアリシアさんに全く通じてないな。
しかし、テトラの一撃を軽々と避けるのは、凄いの一言しかない。
俺だったら、顔面のど真ん中を拳でぶち抜かれている自信がある。
そこで俺は、ふと思い付いたことを口にする。
「テトラ、アリシアさんをチームに誘わない? あまり付き合いのない生徒をチームに誘うより良いと思うんだけど」
「おっと、ソーマくん。やっとその話題をお姉さんに振ってくれたね。チームは当然、武芸大会のヤツだと、お姉さんは信じてるんだけど」
「はい、そうです。一チーム五名なんですけど、あと一名足りなくて。誰かを誘おうとしても、そもそも学園に知り合いが少なくて……」
俺は思わず苦笑いしてしまう。
クォートと一緒にいることが多いから、生徒が声をかけてくる事は多いけど、リズに威嚇されて退散するパターンばかりだ。
たまに、リズに追い返されない生徒もいるのだけど、既に武芸大会にエントリーしていたり、荒事に向いてなかったりで、チームに誘えなかった。
「メンバーも個性派揃いで、チームに誘うのは誰でも良い、って感じじゃないんでしょ」
「よ、よく知ってますね。アリシアさん、って情報通ですか?」
「アハハハッ、まさか。そもそも、ソースくんたちは、学園で有名人だよ。一般教養科まで噂が広まっているよ」
「あ、やっぱ、そうなんですか……」
遠目で眺められたり、廊下ですれ違う度にヒソヒソ話をされたりと、何となく察してはいましたよ。
「あ、アリシアさんは、武芸大会に参加してますか? もしも、武芸大会に参加したいなければ……」
「やっと、ソーマくんから、その言葉が聞けた。お姉さん、ソーマくんのお誘いは、とても嬉しい。でも、武芸大会の期間は、友だちと出店で一稼ぎする約束があるんだよね」
「そーなんですか、先約があるなら無理ですね……」
先約があるのか。
商業科だし、学祭みたいなイベントで出店するのは、普通だよな。
俺は思わすため息をついて肩を落とす。
「ちょ、ちょ、ソーマくん! そんなに簡単に引き下がっちゃうの?」
「だって約束は大切ですよ。約束を反故すると信用されなくなりますよ」
「ま、まあ、そーなんですけど……」
ポリポリと指で頬を掻くアリシアさん。
彼女は、一度、深呼吸して仕切り直すと、えくぼを作りながら、クリクリとした瞳で俺を眺めた後、テトラに一歩近づく。
「でも、テトラっちが、どーしてもって言うのなら、お姉さんは断れないなー」
「……何を言ってるんですか? 理解できません」
テトラが柳眉を露骨に寄せて、若干低い声でアリシアさんに返す。
俺ならばビビってしまうところだが、アリシアさんは無邪気な笑みを崩さない。
「テトラっちって、いつも冷静で『何でも一人で出来ますけど何か?』みたいなところあるじゃん。そんなテトラっちから、お願いされるなんて、お姉さんはグッとしちゃうよ」
手を胸の前で組んで、上目遣いでテトラを見るアリシアさん。
まだ、テトラの彼女に対する新密度が低いのかな。
親しくなってくると、テトラが油断するのか、彼女のヘッポコな姿をよく目撃するようになる。
俺がそんなことを考えながら、二人の様子を一歩引いた感じで見守る。
アリシアさんに見つめられるテトラ。彼女の頬がピクピクと小さく動いている。
普段、経験していない状況に遭遇して、いっぱいいっぱいになっているテトラの心情が手に取るように分かる。
俺の視線に気づいたテトラが、横目で俺に助けを求めてくる。
思わず笑いそうになってしまうが、俺は口許を手で押さえて耐える。
ゆっくり深く息を吸って、笑いを鎮めてから俺はテトラに助け船を出す。
「とりあえず、クォートに会わせてみれば? チームに加えるかどうかは、クォートの判断に任せればいいじゃない」
「……そうね」
俺の言葉にどこか安堵したようなため息をこぼすテトラ。
彼女は身なりを整えると、すまし顔でアリシアさんに向き直る。
「リンタローのいう通り、アリシアさんをお兄様にお目通しします。チームにお誘いするかどうかはそれからです。よろしいですか?」
「んー、テトラっちから誘われた感が薄れるけど、贅沢は敵かな。お姉さんはテトラっちの好感度アップチャンスを逃したくないので、それでいいよ」
うんうん、と頷きながら了承するアリシアさん。
ホッと胸を撫で下ろすテトラ。
「よし、ソーマくん。お姉さんを案内したまえ」
「は、はい。って、アリシアさん! 腕にしがみつか――」
「騒がしいですよ、二人とも」
俺の腕に抱きついたアリシアさんの顔めがけて、テトラが正拳を躊躇なく打ち込む。
当然、アリシアさんはテトラの拳がかすることなく、ヒラリと避ける。
そんなやり取りを何度か繰り返しながら、俺たちは、クォートが居るであろうルドルフ研究室に向かうのだった。
ちなみにラズは完璧に気配を消して、景色と同化していた。
彼の存在に気づいたとき、本気で腰を抜かすほど驚いた。
この前の件を反省した結果の態度なのだろうが、せめて居るかどうか俺が分かるような状態で待機してほしいと思うのだった。




