040.従者ラズ②
「ッ! ぁぐ……」
痛みはなく、ヌルリと体に異物が入ってくる嫌悪感。
俺の胸に突き立てられた短刀の刃は、カチンと小さな金属音を立てて、柄から外れる。
音もなく、刃の表面に縦にヒビが入ったかと思うと、無数の小さな蛇のようになって、俺の体に潜り込んでいく。
「あががっ……」
体の内側を無数の何かが這いずり回る気持ち悪さに、俺は膝から崩れ落ちる。
こみ上げてくる嘔吐感に、俺は反射的に両手で口を押さえる。
「そ、ソーマ様! ラズ、やり過ぎよ!」
「やりすぎじゃない! そいつが悪いんだ!」
俺に駆け寄ってきたリズが、ラズを諌める。
ラズに悪びれた様子はなく、柄だけになった操り人形・短刀――魔導具を握りしめたまま、俺を見下ろしている。
一度、息を吸い込み、リズが唄うように詠唱する。
<癒しの風よ、彼の者を苛む禍を退けよ>
「無駄だよ。中級までの魔術で解除が出来るほど、操り人形・短刀は、ちゃちな魔導具じゃないから」
ラズの悪態が響く中で、周囲の空気がざわめき、淡い燐光を放ちながら俺を包み込む。
同時にスーッと嘔吐感が和らぐ。
俺の顔色が良くなったことに安堵するリズと、露骨に不機嫌そうに顔を歪めるラズ。
「チッ、無駄なことを。さあ、僕の人形になりなよ!」
「ラズッ!」
ラズが刃のなくなった短刀を俺に向ける。すると短刀の柄頭に嵌め込まれた紫色の宝石が怪しく輝き始める。
そして、再び何かが体の内側で蠢き出す。
「ぁがっ……ぐっ……」
体の内側で何かが暴れまわる。
熱病にうなされたときのように、視界がぐにゃぐにゃと歪み始める。
平衡感覚すら危うくなっていく。
――ソーマ様!
――ハハハッ、さっさと跪けよ!
ぐわんぐわんと声が頭の中で反響する。
誰が何を言っているのかすら理解することも困難だ。
くそったれが! 何でこんな目に俺が遭わなきゃいけないんだ!
ヒューヒューと喉が鳴く。
空気を吸っているのに、酸素を肺が取り込んでいない。
このままでは窒息死する。
――術式解析完了。侵入してきた異物の迎撃を行います。展開中の仮想回路を自壊。それにより侵入してきた術式を解除します。
そんな声が聞こえてきた気がした。
同時に視界が鮮明になる。
「さあ、まずは何をさせようか。犬のように四つ足で這わせるのは、紳士的ではないね」
「ラズ! 今すぐ解除しなさい!」
踞る俺を覗き込むようにして見下ろすラズの姿が見えた。
俺は静かに息を吐き、弓を引き絞るように、体のバネを溜める。
「……るせぇんだよ! くそったれ!」
「――ッ!」
伸び上がるようにして、ラズの顎に掌底を叩き込む。腕に伝わる衝撃と吹き飛んでいくラズの姿。
本棚に背中からぶつかったラズの上にバサバサと本や書類が降り注ぐ。
いい気味だ。自分に比べて劣るヤツに一撃喰らうなんて、屈辱だろうよ。
「なんで、なんで、なんで! お前は僕に逆らえるんだよ!」
「知るか。魔導具が不良品だったんじゃね?」
「調子にのるな!」
体に乗っていた本や書類を吹き飛ばし、俺に飛びかかってくる。
瞬時に新しい操り人形・短刀を取り出し、俺に突き刺す。
「マグレは二度はないぞ!」
「――ッ!」
同じように、柄から刃が外れ、無数の蛇ようになって俺の体に潜り込んでいく。
体の内側がざわめき、嫌悪感が生まれる。
が、先程と違い、すぐに嫌悪感は霧散する。
「二度目があったみたいだな!」
「なんでだよ!」
右拳をラズに打ち込むが、感触はなし。さすがに二発も喰らってくれるほど、容易い相手じゃないか。
ラズは素早いステップで俺から離れる。
「くそっ! くそっ! くそっ! 手加減してやっていれば調子にのりやがって!」
ラズが両目を見開く。放たれる濃密な殺気に一気に毛穴が開き、脂汗が噴き出す。
ヤバい。さっきまでは格下相手に油断があったに違いない。
ラズが本気で襲い掛かってきたら、俺の実力で対処できる自信はない。
「ハッハッハ! そこまでにしておけ!」
「ッ! クォート様!」
研究室のドアが開いたかと思うと、俺とラズの間にクォートが滑り込んでくる。
同時にリズとラズがひれ伏す。
「趣味が悪い、とは思いましたが、クォート殿の思惑通りと言うわけですか」
「ふ、二人とも、どうして……」
「ふむ、リンタローよ。状況が掴めておらぬようだな。簡潔に言えば、一芝居うたせてもらったと言うわけだ!」
「何が! 言うわけですか! お兄様ッ!」
疾風が吹き抜けたかと思うと、クォートが派手に吹き飛んで本棚に叩きつけられる。
代わりにふわり、と金髪を宙に舞い上がらせながら、右拳を突き出すテトラの姿があった。
クォートは、先程のラズとの違いは、降り注ぐ本や書類を片手で受け止めて積み上げていく。
「なかなか素晴らしい一撃だぞ、妹よ!」
「……うっさい」
クォートは受け止めた本や書類を床に下ろし、右手をヒラヒラと降りながら立ち上がる。
半分は俺の想像だけど、テトラの一撃を左手で受け止めつつ、自分で後ろに飛んで衝撃を逃がしたのだろう。
理屈はわかるけど、目で追えないテトラの一撃に対して、反応するクォートは凄まじいな。
「て、テトラ様……僕は、僕は……」
「戯れ言を聞くつもりはない。何をするつもりだったのか、正確に述べなさい」
ラズは項垂れたまま、言葉を口にしない。顔を青ざめさせたまま、打ち震えている。
「……クォート殿以外には話していなかったが、この部屋は外部からの干渉を受けることはない。だが、正式な手順であれば内部の状況を確認することは可能だ」
ルドルフさんは、部屋の片隅に置かれた鳥かごを見る。中には剥製の文鳥みたいな小鳥が止まっている。
なるほど。小鳥が部屋の状況を送信する魔導具というわけか。
「ラズ、貴方が優秀な従者というのは、重々理解しているわ。お兄様の従者を務めるなんて、並の才能では無理でしょうから」
「妹よ、我輩を素直に褒めるとは嬉しいぞ」
「……少し、黙ってください、お兄様」
ギロリ、とテトラはクォートを睨む。クォートは慌てて両手で口を押さえる。
テトラは一度、息を吐く。
研究室の空気は静かで冷たい。
「ラズ、弁解はあるの?」
「ぼ、僕は、テトラ様が、テトラ様がリリーシェル家に、お戻りになれるように――」
「私がそれを、いつ望んだというの」
「ッ!」
感情の感じられない、冷たく鋭利なテトラの言葉。
ラズは言葉を詰まらせ、青ざめた顔に脂汗を更に滲ませる。
「て、テトラ様。ラズは、ずっとテトラ様のご帰還を切望しておりました。それで、それで……」
「従者が主の行動を決める権限があると言いたいの?」
「い、いえ、リズは決してそのようなことは」
テトラの言葉に、ラズを弁解したリズも顔を青ざめさせて頭を垂れる。
貴族としてのテトラ。
それは、普段のどこか間の抜けた感じのある彼女とは違い、どこまでも冷たい印象を受ける。
「……そこまでにしてくれ、妹よ。従者の不徳は、主の責だ。リンタロー、利用して済まなかったな」
「お兄様?」
非難的なテトラの視線に、クォートは肩を竦めてみせる。
「リズはともかく、ラズが不憫でな。区切りをつけさせねば、先に進めぬ状態になっていたからな」
「……それがリンタローを危険にさらす理由になるとでも?」
物理的な圧を覚えるほど、テトラの言葉。
俺は反射的に後ずさってしまうが、クォートもルドルフさんも、さらりと受け流す。
「アキツシマ師がいれば大抵のことは解決できる。ゆえにリンタローが、命さえ落とさぬように気を付けるだけでよい。ただ、リンタローが魔導具を無力化したのは、予想外だ。大金星だぞ、リンタロー!」
「ふむ、私もその点には、同意ですな」
うんうんと頷くルドルフさんをテトラが睨み付ける。ルドルフさんは、スッと視線をそらす。
兄弟子にも容赦ないな、テトラ。
「お兄様、冗談もほどほどにしてください」
「我輩は冗談を口にしたつもりはない。従者を救うのも主の務めだ。妹がアキツシマ師に救われたようにな」
「……」
クォートの言葉に、一瞬反論しかけたテトラだったが、テトラは口を噤む。
「さて、ラズよ。顔を上げよ」
「ハ、ハッ!」
「妹が何を望んでいるのか、わかったであろう」
「し、しかし……」
食い下がるラズ。
クォートは一息つくと、表情を引き締める。
「くどいぞ、ラズ。潔く、現実を受け止めよ」
ラズはうつ向いたまま、奥歯を噛み締める。
俺は少し憐れに思えてしまう。
テトラは静かにラズに歩み寄る。
「て、テトラ様……」
「貴方がリリーシェル家を離れた私を慕ってくれていることは、有り難く思うわ。でも、私はリリーシェル家に戻ることはないわ。私は、錬金術師として生きることを選んだの」
テトラは跪くラズの肩に手を置く。
「私が錬金術師として、大成することを、ラズは願ってくれないのかしら」
「そ、そんなことは、ありません! 僕はテトラ様が大成することを、心より願っております! 僕に出来ることがあるのであれば、どんなことでもお手伝いいたします!」
見上げるラズに、テトラはニコリと微笑む。
ラズは高揚し、瞳は輝き、頬は赤く染まる。
俺の頭の中で「悪女」って単語が浮かび上がってきた。俺の気のせいだよな。
その後、クォートとリズ、ラズに改めて謝罪された。
テトラは不機嫌そうで、ラズを領地に帰すことを主張し、それに対して、クォートが学園で過ごす間だけ、テトラに仕えることを滂沱しながら懇願するラズ。
そんな彼の姿が憐れで、俺が今回の件を水に流し、ラズがテトラに仕えることを許すように、やんわりと助け船を出す。
俺の提案を渋々受け入れるテトラ。
これで、一悶着が解決し、俺はホッと胸を撫で下ろした。




