033.トラブルは朝餉と共に②
「……お兄様が、学園にくるの」
「へ? お兄様?」
テトラの口から飛び出した予想外の単語に、俺は一瞬呆けてしまう。
貴族と言えば、跡取り問題やお家騒動が基本だよな。血が絶えないように子沢山ってやつだよな。
でも、テトラは実家から勘当されているとか言ってなかったか?
「リリーシェル家から、迎えでもくるのかえ?」
シノさんの双眸がスッと細まり、周囲の空気が静まっていく。空気が物理的な圧迫感を与えてくる。
「ち、違います。非公式ですけど、公務です」
テトラが慌てて弁解する。彼女の慌てる姿をみたことあるが、ここまで狼狽するのは珍しい気がする。
「公務とは何ぞや」
「その……」
シノさんの淡々とした声。テトラは一瞬、俺の方を見てから俯く。
俺、なにか変な反応とか顔とかしてたか?
テトラは口を噤んだまま、天井を仰ぐ。ふぅーと深く静かに息を吐くと、顔をシノさんに向き直す。彼女の表情は一転して凛とした雰囲気を放つ。それは初めて会ったときのメイド然とした態度とも違う。
「レヴァール王立学園に、王家の方がお通いになるようです。我が兄は学園の安全性を調査するために、非公式の公務で学園に来るようです。表向きは長期休暇を利用し、息抜きのために一学生として学園に通うとなるようです」
ああ、なるほど。と俺は心の中でも呟く。
今、俺の前にいるのは錬金術師見習いのテトラではなく、貴族のテトラ=リリーシェルなのだろう。
それにしても王族の動向なんて、かなり機密情報だと思うんだけど、俺を退室させなかったのは何故だろう? シノさんに対する配慮か? いや、シノさんに配慮する必要性がないよな。
「汝に接触や協力要請はあったのかえ?」
「接触は一度だけ。使いの者が、兄の手紙と先ほど、お話しした理由を情報漏えいを防ぐため、口頭で伝えられました」
「事前の調査とは、ずいぶんと軟弱で過保護なことをやるものじゃ。降りかかる火の粉を己で払う胆力がなければ、この先生きてゆけぬぞ」
気だるそうに、ぞんざいに、シノさんは言葉を口にする。
俺の知っているどんなシノさんよりも、尊大で粗野な姿。じわりと恐怖心に似た何かが身体の芯から染み出して来る。
「まぁー、よい。今、汝の面倒を見ているのは妾じゃ。不躾なことを言うてきたら、すぐ妾に伝えるのじゃ。よいな」
「……わかりました」
一瞬、躊躇するテトラ。
シノさんの柳眉がピクリと動く。一度、彼女は嘆息すると、流し目でテトラを射貫く。間髪いれずにテトラの体が緊張で硬直する。
「よいな」
「御意」
シノさんの言葉にテトラは頭を垂れながら即答する。テトラの態度に満足したのか、部屋を支配していた硬質的な空気が霧散する。
俺は額に滲んだ汗を拭いながら、息を吐く。
「さて、妾は二度寝じゃ。凛太郎、昼餉も期待しておるからの」
口許を手で隠し、大きなあくびをしながら席を立つシノさん。ふらふらと頼りない足取りで、ダイニングから出ていく。
シノさんの足音が聞こえなくなってから数秒後、横のテトラから盛大な息もれが聞こえ始める。
「フゥーーーーーーーーーーッ。怖かった……本気で怖かった……」
「あ、テトラも怖かったのか。凛としていたから、慣れているのかと思ったよ」
「な、慣れるわけないでしょ! あの威圧感、怒ったお母様の数倍はあった」
緊張の糸が切れたのか、顔を青ざめさせてガタガタと震えるテトラ。もし、シノさんの威圧感が直接、俺に向けられていたら失禁して失神していたかもしれない。
今更だけど、シノさんって何者なんだろう。保護してもらっている身の上、尋ねにくい。
俺はテトラに少し温くなった緑茶の入ったカップを渡す。彼女は受け取ると、カップを両手で包むようにして、ズズーッと一口飲む。
「ふぅ……、落ち着く……。初めて口にしたときはビックリしたけど、飲み慣れると美味しいね、この緑のお茶」
「緑茶はリラックス効果あるからね。元の世界では年寄りくさい飲み物って敬遠してたんだけどね」
元の世界にいた頃は、緑茶を飲むくらいなら、炭酸飲料ばっか飲んでいた。でも、異世界で一番口に馴染むのが緑茶なんだよな。
俺は思わず自嘲してしまう。
「……リンタロー、どうかしたの?」
「いや、この緑茶も美味しいんだけどさ、元の世界では、玉露――もっと美味しい緑茶があったんだよ。もっと飲んでおけば良かったなーってね」
「そっか……。リンタローは、元の世界に戻りたいの?」
テトラは何とも言えない表情で、俺を見つめてくる。俺は緑茶を一口飲んでから、言葉を続ける。
「戻りたいって思うけど、正直それが俺の本心かと問われると自信がないんだよな」
元の世界の両親や友だちに会いたい気持ちはある。読んでた漫画の続きは気になるし、途中のゲームもやりたい。炭酸飲料やスナック菓子、ハンバーガーとかのジャンクフードを飲み食いしたい。
でも、渇望しているわけじゃない。
ただなんとなく、元の世界に戻ることが道理のような気がするから、そう考えている気がする。
よくよく考えてみれば、俺は今の不自由な生活が、存外好きだと思う。
シノさんは人が奇跡を起こすための秘蹟『虹の雫』があれば、元の世界に戻れるかもしれないと言っていた。
それが手に入ったとき、俺は喜んで元の世界に帰れるのだろうか。
「変なこと聞いて、ごめんなさい」
「へ? いやいや全然変じゃないよ」
テトラが泣き出しそうな顔で謝ってきた。俺は慌てて弁解する。それでも彼女の表情は曇ったままだ。
「普通に考えれば、訊ねるべきことじゃなかった。元の世界に戻ることが、一番幸せよね……」
「ちが、そうとは――」
「凛太郎!」
どんより湿った部屋の空気を、シノさんの快活な声が吹き飛ばす。
突然のことに、俺とテトラは目を見開いて、声のしたダイニングの入り口に顔を向ける。
そこには仁王立ちしているシノさんが立っていた。とても愉快そうな全開の笑顔で。
素直に二度寝をやっていた顔には到底見えない。
俺とテトラは一度、顔を見合わせるとジト目で同時にため息をつく。
シノさんのあの笑顔は碌でもないことを思い付いたサインだ。俺かテトラか両方か、何かしら苦労する羽目になる。
俺たちの心中はよそに、シノさんの狐耳は世話しなく動き、尻尾もフサフサ音を立てている。
「……お師様、どんな悪巧みを思い付いたのですか?」
「失敬じゃな、テトラは。妾がいつ悪巧みをしたというのじゃ」
フフン、と鼻を鳴らすシノさん。テトラは一度、わざとらしいため息をつくとスカートのポケットから手帳を取り出す。そしてページをパラパラと捲る。
「まず年の始めに、普段は流通の少ないヒクイドリの肉が食べたいと駄々こねて、手に入らないとわかると、嘴と爪が滋養強壮に効果があると情報屋を使って噂を流しましたよね」
「ぐぬっ! わ、妾は嘘は申しておらぬぞ」
「でも、適切に処理しなければ効果がない系でしたよね。お陰で一時的にヒクイドリが市場に溢れ返って値崩れしましたよね」
「て、適切な処理を出来ぬ方が悪いのじゃ」
「その次の月に、スラム街に近い道路が汚れているから掃除しろと大量の使い魔を使って嘆願書を投稿したそうですね」
「汚れは病魔のもとじゃ。だから、妾が――」
「お師様の暇潰しですよね? 担当してた兵士さんがノイローゼになったらしいですよ」
「ち、ちゃんと治療して治したのじゃ。古傷とか色々まとめて治してやったので、逆に感謝されたのじゃ」
手帳に目を落としながら、淡々とした口調で喋るテトラ。シノさんは分が悪そうな顔で口をへの字に曲げている。
ほんの少し前にみたいに二人の光景が嘘のようだ。
「その次の――」
「あーもーうるさいのじゃ! 凛太郎、レヴァール王立学園に、しばらく通えるように手配するので、後で必要なものを買い出しに行くので準備しておくのじゃ」
そう言い捨てるとシノさんは逃げるように自室に戻っていった。
俺とテトラはしばらく呆然とシノさんが立っていた空間を見つめる。
「……どゆこと?」
思わず俺の口から飛び出た質問に答えたくれる人はいなかった。