032.魔狼の巣穴③
「うむ、大人しく帰ってきたようじゃな」
魔狼の巣穴に戻った俺と魔狼を、腕組みしたシノさんが出迎えてくれた。
何時も通りの笑顔のシノさん。だけど、少しピリピリとした空気をまとっているのは、俺の気のせいではないはず。
魔狼は俺を地面に下ろすと、身を低くし、ビクビクしながら寝床に戻る。寝床で小さく丸くなる姿は、殺されかけた時の威圧感が嘘か幻のように感じ取れない。
相対的に俺が弱いことが強調されてしまっている気がして辛い。
俺は口には出さずに、自分を励まして、気を取り直し、手にしていた魔導具――水汲み用の袋を、シノさんに見せる。
「シノさん、この水――神水は魔力が濃くて、人にとって猛毒に近いって教えてもらったんですけど……」
「そうじゃよ。でも、才があれば、飲んでも激痛に苛まれた後、魔力量があがる効果があるのじゃ。才があればな」
シノさんは扇子で口許を隠しながら、「ヒッヒッヒ」と魔女のように笑う。
そばで作業をしていたテトラの手がピタリと止まる。
「……お師様。それをリンタローに教えていたのですか?」
「教えておらぬよ。そばに碑文が置いてあるのじゃ。『水を求めし者よ。汝に資格あれば、秘めたる力が目覚めるであろう。資格なき場合、命を落とすことになるだろう』とな」
「お師様、その碑文をリンタローが必ず見つけるとお思いですか? そもそもリンタローが碑文を読めるとお思いですか?」
得意気な顔をしていたシノさんだが、テトラの静な問いに、「ハッ、しまった!」というような顔をする。彼女の反応をみて、テトラの口の端が持ち上がる。三日月のように。
「おーしーさーまー」
「す、すまぬ。久々に山に入って気分が高揚して失念してたのじゃ。悪気とか一切なかったのじゃ。そもそも、無闇矢鱈に飲むやつが現れぬように、そこの駄犬に見張りを任せているのじゃ。碑文を読めなくても駄犬が説明するという二段構えで、妾に抜かりはないのじゃ」
ダラダラと脂汗を流しながら、一気に捲し立てるシノさん。
テトラの反応がなく、オロオロしている姿に俺はほっこりしてしまう。
しかし、本当に一緒に過ごすほど残念度が上がっていく人だな、シノさんは。
どちらが歳上なのか、どちらが師なのか、悩んでしまう光景に、気づけば俺はこめかみを指で揉んでいた。
「ハァーーー。今後、生死に関わるような情報を伝え忘れないようにしてください、お師様」
「わかったのじゃ。忘れぬように善処するのじゃ」
テトラの言葉にコクコクと頷くシノさん。もうテトラがシノさんの保護者に見えてくる。
とりあえず、俺は水汲み用の袋をテトラに手渡すことにする。
「リンタロー、ありがとう。リンタローは、この神水、飲んでないよね?」
「ああ、飲んでないよ。飲んで無事でいる自信は全くないから。ついでに言うと、俺は神水に触れるだけで気持ち悪くなった」
「む、そうなのか。凛太郎は魔力がないゆえに、神水を飲んでも何の効果もなし、という可能性もあり得ると思っていたのじゃがな」
「……お師様、先ほど弁解と齟齬を感じるのですが?」
「――ッ! き、気のせいじゃ! それよりも早く処置を始めてしまうのじゃ。凛太郎、駄犬の毛を近くに持ってくるのじゃ」
テトラから、じわりと染みだし始める怒りの気配に、シノさんは慌てて俺に指示して話題をそらす。
俺は苦笑しながら、山になっている魔狼の抜け毛を両手で抱えて、シノさんのそばへ運ぶ。
「とりあえず、ひと山持ってきたけれど、全部運んだ方がいい?」
「最終的には全て処置が必要なので、運んでほしいのじゃが、まずは処置の方法について見るのじゃ」
「……魔力がない俺でも作業が出来るものなの?」
「うむ。この作業自体は魔力の有無は関係ないのじゃ」
シノさんが頷き、テトラに視線を送る。テトラは手早く必要なものを並べていく。魔石の粉末に、途中で採取したゼノフロースの花とシロガネゴケ。小型の薬研に乳鉢、ビーカーにフラスコ、試験管などの器具。
割れないように梱包して、背負子で運んでいたけど、よく壊れなかったと感心してしまう。梱包材に衝撃吸収などの効果が付与されていたのだろうか。
「まず、ゼノフロースの花からじゃ。適量を薬研に入れて潰す。浸るか浸らないかの綺麗な水を注ぎ、再び潰す。しばらく置いた後、濾せばゼノフロースはよしじゃ」
「わかりました、お師様。水は神水でよいのですか?」
「神水を使うと別物になってしまうのじゃ。普通の綺麗な水でよい」
「普通の……。リンタロー」
「はいよ」
俺は手桶を取り出すと疑似魔術で水を生成する。まずは手桶を簡単に水洗いしてから、手桶に水を貯める。
半分くらい手桶に水が貯まってから、テトラのそばに手桶を置く。
「ありがとう、リンタロー」
「どういたしまして」
ニッコリと微笑むテトラ。俺は頬が弛みそうになるが、イケメン顔(自称)で微笑み返す。
テトラはゼノフロースの花びらを無造作に掴んで薬研に入れていく。一つまみ、二つまみと、表情に大きな変化はないが、彼女の柳眉はピクピク動く。勿体ないと思っているんだろうな。
ゴリゴリと薬研車が動き始めると同時に、バニラとハチミツを混ぜたような甘い香りが漂い始める。
テトラとシノさんの香りに顔を綻ばせ、魔狼は顔をしかめて前足で鼻を押さえる。
短期間なら良いけれど、長時間この香りを嗅ぎ続けるのは、俺も辛いかもしれない。
「お師様! この香り!」
「ゼノフロースの代名詞といってよい香りじゃ。今回は香水に加工するわけではないので、ざっと成分を抽出しておるが、やはりそれだけでも良い香りじゃ」
「お師様……」
「ならんぞ。許可なく取り扱うと面倒なことになるからの。さっさと次の工程に進むのじゃ」
テトラは少し頬を膨らませながら、慎重に手桶から薬研に水を注ぎ、再び薬研車を動かす。
水分を加えたせいか、香りが若干薄まる。
「お師様、これでどうですか?」
「うむ、良き感じじゃ。それほどキッチリ濾す必要はないので、ガーゼを何枚か重ねて濾してしまうのじゃ」
テトラはガーゼをビーカーに被せると、俺に視線を送ってくる。
一瞬、悩んだが、俺は薬研を持ち上げると、ゆっくりと中の液体をビーカーに注ぐ。
甘い香りが再び周囲を包み、むせてしまいそうになるが、俺は何とか耐える。
「さすが、リンタロー。わかってるね」
「……まあね」
満面の笑みを向けてくるテトラ。その眩しさに少し顔を背けてしまう。半信半疑だったけど、当て外れの行動にならなくて良かった。
ビーカーには薄いピンクから濃い赤に、ランダムに変化する液体が四分の一ほど出来ていた。
時間経過で色が変わる液体なんて摩訶不思議で、さすが異世界。
「濾すときに使ったガーゼは、ゼノフロースの滓と一緒に後で焼却処分じゃ。次はシロガネゴケを粉末にして、少しずつ先ほど作った液体に混ぜる。混ぜる量は、液体の色が赤系から緑系に変わった瞬間じゃ。見落とすでないぞ」
テトラは乳鉢にシロガネゴケを入れて擂り潰していく。少し水分があるはずなのに、シロガネゴケは、簡単に砂のようになる。
俺は撹拌用のガラス棒を手に取ると、ビーカーの液体を静かに混ぜる。それを見て、テトラがシロガネゴケの粉末を少しずつ液体に加えていく。
「……お師様、だいたい何つまみくらい加えるんですか?」
「参考値など、あてにならぬぞ。作業している場所や作業しておる者の魔力など、いろんな要素で必要な量が変化するのじゃ」
「そんな……」
期待を裏切られ、テトラは情けない声を出す。俺はジッとビーカーの液体を凝視する。
気のせいかもしれないけど、なんとなくそろそろ色が変わりそうな気配がする。
俺はテトラに左手を差し出す。
「テトラ、シロガネゴケの粉末を一つまみ乗せてくれないか?」
「……これくらいでよい?」
「もう少し減らして。気持ち今の量より少し少な目で」
俺の指示に、テトラは指でシロガネゴケの粉末を広げた後、柳眉を眉間に寄せながら、真剣な眼差しで量を調整する。
こそばゆくて、反射的に手を払いそうになってしまうが、俺は何とか耐え抜く。
テトラの調整してくれたシロガネゴケの粉末を無造作にビーカーへ投入する。
「ッ! リンタロー!」
「凛太郎!」
同時にテトラとシノさんが声をあげる。俺は気にせず、カラカラとガラス棒で液体をかき混ぜる。すると、すぐに液体がエメラルドグリーンに変わり、キラキラと輝き始める。
「っし! 直感通り、うまくいった!」
思わずガッツポーズをしてしまう。
テトラとシノさんは、当然ポカーンと呆けていた。
「り、凛太郎、どうやって適量を見抜いたのじゃ? 妾でも適量を見抜くのは至難の技じゃ。完全に正しい量を加えねば、こんなに輝くことはない」
「リンタロー! 私にも教えて!」
「えーっと……」
二人の熱視線に俺は思わずたじろぐ。
俺以外に通用しないコツだと思うが、隠す必要もないので、正直に伝える。
「液体を見つめていたら、何か色が変わりかけているような感じがあって、シロガネゴケの粉末を見たら、何となくこれくらいで入れれば良いような気がした」
「なにそれ! もっと私に理解できるように言ってよ!」
当たり前だが、テトラは頬を膨らませて抗議する。それ以上の説明が出来ないので、俺は反論はできない。
俺が困っているとシノさんが助け船を出してくれる。
「騒ぐでない、テトラ。凛太郎は魔力を持たぬがゆえ、魔力に敏感じゃ。この様に魔力に富んだ素材を扱う際、凛太郎は妾たちと違う視え方をしておるのだろう。これは妾も想定以外じゃ」
「……リンタロー、ズルい」
頬を膨らませて不満全開のテトラ。可愛い。
「ここまで、見事に処理が済んでしまえば、後は楽勝じゃ。調整のために魔石の粉末を混ぜる必要もなしじゃ。神水と作った液体を一対一で合わせて、霧吹きで駄犬の抜け毛に吹き掛け、馴染ませるように揉み込めば終わりじゃ。多少、液体が掛かってなくとも、時間とともに馴染むので、ざっくりで構わん。処理が済んだ抜け毛を袋に詰めて終わりじゃ」
よほど俺の処置が見事だったのか、シノさんは上機嫌で一気に説明してしまう。
シノさんの嬉しそうな顔は、とても魅力的で、俺は魅入ってしまう。
「リンタロー、さっさと終わらせて帰ろう!」
「お、おう!」
テトラの声で我に返り、少し間の抜けた返事をする俺。そんな俺を見て、シノさんか口許を隠しながらクスクス笑う。
良いところを見せ損ねた、俺ダメじゃん。
それから俺とテトラは黙々と魔狼の抜け毛を処理するのだった。帰りは魔狼が街のそばまで運んでくれたので、移動に半日もかからなかった。
シノさん、初めから魔狼に頼んでくれていれば良かったのに。
そんな感じで、今回の冒険は幕を閉じた。




