032.魔狼の巣穴①
『小僧、もう少し強く梳いてくれ』
「……了解、です」
魔狼の低く体の芯に響くような声に返事をしながら、俺は現状を整理する。
場所は移り、俺たちは魔狼が寝床にしている洞窟にいた。
入口付近にはなかったが、壁に埋まっている無数の鉱物が仄かな光を放ち、昼間のように明るい。そのせいか、地面には柔らかな草が生い茂り、寝転がっても気持ちがよい。
そんな場所で、俺は命のやり取りをした(と俺は思っている)魔狼の背を、シノさんから渡されたブラシを使って梳いている。
『うむうむ、よいぞ、小僧。そのまま、くまなく頼むぞ』
ぼふぼふと魔狼は丸太のようなサイズの尻尾を地面に叩きつけるように振る。無意識の行為なのだろうが、アレが直撃すれば無傷ではいられない気がする。
俺は「ふぅ」と息を吐き、残りの作業面積を確認する。
先ほどから目一杯、腕を大きく動かしてブラッシングをしているのだが、魔狼のサイズか大きくほんの一部しかおわっていない。背中をブラシで梳き終わるのに、一時間はゆうにかかりそうだ。
チラリと俺は背後を確認する。そこには魔狼の抜け毛が既に山になってる。あと山が何個出来上がるだろうか。
「で、お師様。弁解は何かありますか?」
「あ、あるのじゃ! 大いにあるのじゃ!」
声のする方に視線を向けると、正座させられたシノさんが、腕を組んで見下ろすテトラに向かって声を張り上げていた。そんなシノさんを冷たい瞳のまま、見据えるテトラ。
ほんの数メートル先で繰り広げられる光景にに、ゾクリとした悪寒が俺の背中を駆け上がる。
やっぱりテトラは怒らせたら怖いな。
俺は改めてテトラを怒らせないようにすると心に誓う。
「で?」
「こ、これから危険なダンジョンに挑むことも増えるじゃろ。リンタローは荒事に慣れておらぬ。だから、妾が御することが出来るダンジョンに挑ませて、経験値を――」
「で?」
「だから、妾は凛太郎のことを思って――」
「で?」
感情が一切含まれていないテトラの言葉が、シノさんの弁解を遮る。
体感温度が二、三度は下がり、シノさんの端正な顔を冷や汗が覆っていく。
『あの小娘、我に挑んできたときにも思ったが、なかなか強き者よ。アキツシマ、様を押さえ込むとは』
「な、なんだかんだ言っても、シノさんはテトラに頭が上がらないんですよ」
魔狼の感嘆の声に、俺はおどおどしながら相づちを打つ。
昨日の敵は今日の友と言うが、命のやり取りをした相手と普通に会話する体験を俺がするとは思わなかった。
俺はテトラとシノさんを眺めながらも、魔狼をブラッシングする手は止めない。事前の情報通り、換毛期なのか、どんどん抜け毛が溜まっていく。
「あーもー! 妾が悪かったのじゃ! 最近、凛太郎に尊敬されておらぬかったから、ここらで一発逆転と思ったんじゃ!」
テトラの凍えるような視線に耐えかねたシノさんが、瞳を潤ませながら涙声で叫ぶ。
ぐすぐすと鼻を鳴らすシノさんを、しばらく眺めていたテトラだったが、「はぁぁぁ」と深いため息を吐く。ため息と一緒にテトラから漂っていた凍えるような空気を薄れていった。
「リンタローに尊敬されたいのであれば、普段から規則正しく模範になるような生活してください」
「ぜ、善処するのじゃ……」
「何か思惑があれば、例えば今回の件であれば、私かリンタローのどちらかに話をしておいてください。私は、リンタローが死んじゃうと思って……グスッ」
下唇を噛むテトラ。瞳から一筋の涙がこぼれ落ち、慌てるシノさん。
「わ、わかったのじゃ」
シノさんは立ち上がるのテトラを抱きしめて、頭を優しく撫でる。テトラが落ち着くまで、しばらく静かな時間が流れる。
『……アキツシマ、様。そろそろ、処置をせねばならぬのではないか』
「おっと、そうじゃった。危うく、このまま帰るところだったのじゃ」
「……処置?」
魔狼の控えめな一言に、シノさんはテトラから離れてポン! と手を打つ。
状況がわからず、俺とテトラは首を傾げる。
「そこの駄犬の毛じゃが、魔力に富んでおる。しかし、抜け毛になれば徐々に魔力が抜けて粗大ごみに成り下がるのじゃ。ま、これは抜け毛だからというわけではない。当然のことじゃ。魔物から切り離された部分は魔力が循環せぬから、当たり前の話じゃ」
「……ということは、例えばドラゴンの牙とか爪とかも、処置しないと劣化するということ?」
「うむ。さすがは凛太郎。目の付け所が良いのじゃ。魔物の種類や部位によって、魔力の抜け方は様々じゃ。ドラゴンは全体的に魔力が抜けにくいので、採取しやすい素材になる。ドラゴンを倒せればの話じゃがな」
そう言って、懐から取り出した扇子を開き、口許を隠してシニカルな笑いを披露する。
やっぱりドラゴンは魔物の中で別格なんだろうな。いくら扱いやすくても、手に入れるのが困難であれば意味ないよな。
俺があれこれ考えていると、背負子から道具を引っ張り出して、テトラがテキパキと準備していた。
「簡易錬成陣シートに魔石の粉末、他に何が必要ですか?」
「あとは、ゼノフロースとシロガネゴケ、ちょいと特殊な清涼な水が必要じゃ。しかし、テトラは運の良い経路を選んだものじゃ。既に採取しておるだろ」
テトラは驚いた表情で俺の方を見る。
出発時に地図を二人で覗き込んだときに、何となく選んだルートだったので、俺も若干驚いてしまう。
俺はブラッシングで腕が使えないため、視線で俺の背負子の場所を指す。テトラは笑みを浮かべると、軽い足取りで俺の背負子にたどり着くと、ゴソゴソと中を漁り、目的の物を取り出す。
「お師様、この量で足りるんですか?」
「足りるか足らぬかはテトラの腕次第じゃな。駄犬、だらしなく股をおっぴろげて、だらけるでないのじゃ。ちょいと凛太郎を背に乗せて、"枯れた大木"までひとっ走りしてくるのじゃ。あそこで汲んだ清涼な水が必要じゃからな」
『何故、俺様がそんな面ど――』
スパァァァァァン!!
シノさんがいつの間にか取り出した巨大ハリセンで魔狼をしばく。瞬間移動でもしなければ、不可能な動きだった。
シノさんは巨大ハリセンを肩に乗せ、口の端を持ち上げて愉しそうに笑う。
「妾の頼みが聞けぬと言うのか。そうか、そうか、それならば致し方ないのじゃ。貴様の股ぐらのブツをもぎ取って、錬金術の素材の一つにしてくれようぞ。なぁに、気にするでない。超貴重な素材じゃから、大事に扱ってやるのじゃ」
『――ッ!』
「――ッ!」
魔狼は反射的に伏せて縮こまり、俺も無意識に股の息子を手で隠していた。
シノさんは瞳を爛々と輝かせ、愉快そうに笑う。妖艶な美しさに、いつもならば見惚れるところだが、ただただ背筋が寒く、震えが止まらない。
ひとしきり笑ったシノさんは、懐から長刀をスルスルと取り出す。
『小僧! いくぞ! 背に乗れ!』
魔狼が俺の服を口で咥えると、ポーン、と自分の背に放り投げる。間髪いれずに魔狼が動きだし、俺は慌てて魔狼の毛を掴む。
「リンタロー! お願いね!」
「ああ、任せとけ」
テトラが投げてきた水汲み用の袋――魔導具――を受け取り、俺は魔狼にしがみつく。
直後に圧倒的な加速度が俺に襲いかかり、意識を失いかけた。




