030.崖の細道①
「リンタロー、大丈夫?」
「ダ、ダ、ダイジョウブ……」
肩越しに振り返りながら、俺の様子を伺うテトラ。空のように澄んだ青い瞳に、俺は若干平常心を取り戻し、岩肌の壁に張り付きながら応じる。恐怖で引きつった顔と小鹿のように震える足。声が裏返らなかったことを褒めてほしい。
「たぶん、ここが"崖の細道"だよね」
「ソ、ソダネ」
俺は生唾を飲み込みながら、壁の左側を目を細めて覗く。切り立った崖に、推定二百メートルほど下にチロチロと流れる川が見える。川の深さはわからないが、落ちれば間違いなく無事では済まない。
テトラは平然とした顔で歩いているが、"崖の細道"という名前の通り、道幅は最大で俺の肩幅二つ分くらい。狭いところは俺の肩幅も道幅がない。
勿体なかったが、食料を少し破棄して挑んでなかったら、途中で詰んでいたかもしれない。
偶々なのか、そういう気象のエリアなのか、風が穏やかなのが、せめてもの救いだ。少しでも重心を左に寄せると、そのまま谷底に吸い込まれそうな感覚があり、突風が吹き荒れる場所だったなら、ものの五分で谷底にまっしぐらだったに違いない。
歩くのに絶対邪魔になる盾とかを持ったまま、すいすいと歩くテトラの姿が不思議でならない。
俺の視線に何か感じたのか「ん?」という感じで、テトラが小首を傾げる。さらさらと金髪が流れ、陽光に煌めく。
場所が場所でなければ見惚れてしまうところだった。
「テトラ、ここで魔物に襲われたら、戦える?」
「んー、厳しいけど、迎撃くらいならなんとか。アンカーは持ってきてるけど、自由に動き回れるほど長くないから」
そう言ってテトラは腰のポシェットから、返しのついた杭を取り出して見せる。タコ糸みたいな細い糸が杭に結んであるのだが、荷重十トンみたいなファンタジー素材だろうか。
不意にテトラがスッと腕を持ち上げ、一点を指差す。俺は眉間にシワを寄せながら、テトラの指の先を睨む。
鳥がニ、三羽、飛んでいる姿が見えた。距離がだいぶ離れているのに、カラスくらいの大きさに見える。
「な、なあ、テトラ。あの鳥、でかくない?」
「うん、でっかいよ。たぶんロック鳥だと思う。翼幅八メルトルはあるはず。リンタローくらいなら片足で掴んで飛び上がれると思うよ」
「八メルトルって……」
巨大な鳥に掴まれ、巣まで運ばれて、ヒナのエサになる自分を想像して血の気が引いてしまう。
そんな俺とは違い、テトラは眉をひそめてロック鳥の姿を見つめている。どこか納得いかないとようだ。
「……テトラ、何か気になることがあるの?」
「普通、こんな足場の悪いところに生き物がいたら、格好の餌食よね。空を飛べる鳥型が襲ってくる気配はないし、崖に爪を立てて移動できるリザード型の魔物も見かけない」
「単に運良く魔物の生息域からハズレている場所なんじゃない?」
テトラが静かに首を左右に振る。
「あのロック鳥たちは、間違いなく私たちを認識してると思う。でも、近づいてくる気配がない。かなり不自然」
「こっちの様子を伺ってるって言われれば、そんな気もしてくる……」
鳥たちは空を自由に飛び回っているわけでもなく、羽ばたいて一定の場所に留まっている。テトラの言う通り、顔がこちらを見ている気がする。
「鳥型の魔物は臭いに鈍いことが多いから、カースハウンドみたいに悪臭玉で追い払えないから」
「え? 嘘でしょ。俺の新たな力なんだよ」
「魔物によって最適な魔導具を選ぶのが、錬金術師としてのセンスの見せ所よ。それに全ての魔物に効果がある魔導具なんて、商売あがったりでしょ」
そう自信ありそうな感じで言いきるテトラ。
錬金術師が目指す霊薬エリクサーは万能薬とかだよな。エリクサーがあれば、他のボーションいらないんじゃないか? と俺は思ったが、口には出さないでおく。こんな狭い場所で口喧嘩とかやっている間に足を踏み外したそうだし。
「とにかく、魔物に襲われないなら、チャンス。リンタロー、今のうちに"崖の細道"を通り抜けるよ」
「うん、そうだね」
テトラの提案に、俺は即賛同する。背負子の位置を直して気合も入れ直す。極力左側は見ないようにする。
俺の様子を確認してから、テトラが歩き始める。俺とは違い、堂々とした足取り。崖に張り付いたような細道を歩いているとは思えない姿だ。
体幹とか鍛えればバランス感覚が良くなって、平均台みたいな細道でも普通に歩けるようになったりするのかな。
俺は右側の崖に体を預けるようにしながら、一歩一歩慎重に足を進めていく。
背負子の重さはもちろんだが、足を一歩前に出すだけで、精神的なプレッシャーに疲労が確実に溜まっていくのがわかる。
冷や汗が頬を伝っていくが、下手に動くとバランスを崩してしまいそうなので、汗を拭くこともままならない俺。
汗に滲む視界に、テトラの手のひらが映る。止まれと言うことなのだろう。
俺は「ふぅー」と息を吐く。座るとタチアガレナクなりそうなので、崖に全体重を預けるように寄りかかる。
「テトラ、何かあったの?」
「うん。でも、その前に――」
テトラは肩幅より少しは広いくらいのみちはばしかないのに、器用にくるりとターンを決めて、俺と向き合う。
俺が首を傾げていると、テトラは懐から浅葱色のハンカチを取り出すと、俺の顔にあてる。
「ッ! ちょ!」
「リンタロー、暴れたら危ないよ。大人しくして」
反射的に飛び退きそうになったが、テトラの言葉で、自分がどこにいるのか思い出す。
テトラはクスクスと小さく笑いながら、俺の顔に浮かんでいた汗を拭いていく。
香水とは違う、錬金術の素材となった薬草の柔らかい香りが鼻腔をくすぐる。じわりと耳が熱くなっていくのを俺は感じてしまう。
「はい、終了。リンタロー、汗が目に入ると視界を奪われるから、注意しなよ」
「……わ、わかったよ」
ドギマギしながら、なんとか返事をする俺。テトラは満足そうな笑みを返してくる。その笑顔の眩しさに俺の心臓が跳ねる。
「リンタロー、ちょっと難易度が上がるよ、この先は」
「難易度って……」
首を伸ばすようにして、テトラ越しに道の先を確認する。
「げっ、マジで……」
思わず声が出た。崖の右側がなくなっていた。その部分の細道は立派な橋が掛かっていた、橋幅は狭いけど。
テトラは、俺が橋を認識したので、体の向きをかえて、橋の袂へ近づく。そのまま彼女はしゃがみこむと、コンコンと橋を拳で叩く。
「んー、煉瓦ぽいけど、何か違う。つなぎも見えないし、錬金術で造ってるみたい」
「材料もまともに運ぶのも難しい場所なのに、頑丈な橋なんて造れるの?」
「橋の主材料は土みたいだから、腕の良い錬金術師なら、手ぶらで来ても問題ないと思うわ。崖から錬成していけばいいだけだから」
「そんなことしたら崖の途中が抉れて、上の方が崩落するんじゃ……」
「そうならないように調整と補強をするのが腕の良い錬金術師よ。お師様なら一瞬でやってのけるわ」
グッと握り拳をつくり、自信に満ちた顔で宣言するテトラ。可愛い。
テトラはショートソードを鞘に納めたまま、手に取る。橋を剣で叩いて確認しながら、渡っていく。ものの数分で、二十メートルほどの橋を渡りきった。
「リンタロー、強度に問題なさそうだから、早く渡ってきて」
「しょ、承知しました」
橋の袂で躊躇していた俺は、反射的に敬語で応じる。視界には容赦なく谷底が映り、スッと血の気が失せていく。同時に悪寒が背筋を駆け上がっていく。
橋の幅は俺の肩幅より広いけど、手すりは設置されていない。ふらついたら谷底に一直線の未来しかない。
俺はゴクリ、と生唾を飲み込むことしか出来なかった。




