023.レアな素材③
「気持ち悪ぃ……」
油断した、と口に出す間もなく、俺は水面のような床に膝をつく。
"転移の泉"が淡く輝き始めたと思った瞬間、俺はノックアウト。身体の内側をグチャグチャにかき混ぜられるような気持ち悪さに耐えれる方がおかしい。
全身に力が入らない状況で、顔面から床に倒れなかった俺は褒められて良いはず。
「リンタロー、大丈夫? 立てる?」
「むり……かな……。体に力が、はいら……ない……」
「わかったわ。とりあえず、"転移の泉"から降りるわよ。私に掴まって」
テトラが心配そうな顔で、俺の様子を窺ってくる。息もかかるくらいの距離に、いつもならドギマギしているところだけど、そんな余裕は今の俺にはない。
テトラが脇に腕を差し込んで俺を立たせてくれる。
くっ、生まれたばかりの小鹿よりも頼りなくプルプル震える自分の足が情けない。
超慎重に"転移の泉"から、石造りの床に降り立――
「ぶべらッ!」
「ご、ごめん! リンタロー!」
埃っぽいフロアの床に俺は顔面からダイブする。俺のヘタレっぷりがテトラの予想を越えていたようで、俺の体を支え損なったようだ。
テトラは慌てて俺をひっくり返すと赤くなっているであろう俺の顔面を、見つめてワタワタし始める。
「……テトラ、落ち着くのじゃ。凛太郎の顔が腫れ上がっても崩れてもおらぬ。支えて立ち上がらせてやるのじゃ」
シノさんがため息をつきながら助言する。
コクコクとテトラは頷く。俺の様子を確認すると一瞬、逡巡するような素振りを見せる。
一呼吸おいて、テトラは俺の体と床の間にスッと腕を差し込み、そのまま何の抵抗もなく立ち上がる。
つまり、お姫様抱っこされる俺。
「ちょ、テトラ、立てるから、俺は立てるから」
「そう言って、リンタローは、また倒れるつもりでしょ。私、騙されないんだから」
釣り上げられた魚のように暴れようとしても全然力がはいらない。砂浜に打ち上げられた海草のように、俺はテトラになされるがままになる。
俺は助けを求めるようにシノさんに視線を向ける。
「テトラや、凛太郎の男の矜持というものを考えてやるのじゃ」
「男の……きょうじ……?」
シノさんの言葉に首を傾げるテトラ。
うん、全然通じてないよ、シノさん。
一瞬、唖然とした表情になるシノさんだったが、右手で軽くテトラを小突く。
「とにもかくにも、凛太郎を下ろしてやるのじゃ。それで、とりあえずは解決するのじゃ」
「……なんで? せっかく抱き上げたのに」
渋々といった感じで、俺を下ろすテトラ。俺は床に足がついたことに安心感が生まれる。
思ったより、体の調子は回復して、テトラの補助なしで立つことが出来た。
ちらり、とテトラの様子を確認すると不満たっぷりと言う感じだった。
改めて考えると、かなりバカなことをしたんじゃないだろうか。
美少女にお姫様抱っこされるという激レアな体験。元の世界で何回人生をやり直しても経験することはなかったはずだ。
そんな機会を放棄してしまうなんて……。
ショックに内心うち震えながら、俺は横目で、"転移の泉"を確認する。
バトルブルグの"転移の泉"と同じく、直径一メートルほどの魔方陣の上に極限まで薄くした泉が浮かんでいた。
真横から見ると線にしか見えない。元の世界ではありえない、ファンタジー感満載の泉だ。
どういう原理で存在しているのか、全くわからない。
"転移の泉"を観察していると、むず痒さを感じて視線をむけると、シノさんが俺を眺めていた。口の端に滲む柔らかな笑みにドキリとしてしまう。
「ふむ、もう立てるとは、さすが凛太郎じゃ。さすが妾が見込んだ男じゃな」
「お師様、茶化すようなタイミングじゃないです。もっと空気を読んだ発言してください。歳を踏まえた発言してください」
「ずいぶんと笑えないことを言うものじゃな。空気を読む? 年相応? くそくらえじゃ」
ニヤリと妖艶な笑みを浮かべるシノさん。形のよい犬歯が、赤い唇の隙間から覗いている。
テトラの挑発をシノさんは楽しそうに受け止めている。展開は火を見るより明らかだ。
「あー! あー! 腹減ったなぁ! 最寄りの町に行って、夜食でも食べようよ!」
大根役者だと言うことは重々承知しているが、俺はバサバサと大きなわざとらしい動きでシノさんとテトラの間に割り込む。
耳元で「チッ」と舌打ちが聞こえた気がしたが、気にしない。
「……たしかに、小腹もすいてきたから、何か食べたいかも。一番近い街――スヴィールはトカゲ料理が絶品だったはず」
「と、とかげ?」
テトラの言葉に思い付いたのは、手のひらサイズのトカゲを串刺しした姿焼き。頭からボリボリ食べるようなゲテモノ料理しか思い付かない。
食卓に並んでいたら、気づかないふりして箸をつけない自信がある。
「今、何時と思うておる。スヴィールはそれなりに大きな街じゃぞ。街は防壁で囲まれておる。日が落ちて半刻もすれば門がしまって中には入れぬ」
「へ? 聞いてないですよ、シノさん。これから夜明けまで、どうするんですか?」
「……野宿の準備なんてしてないですよ、お師様。そのあたりの準備はスヴィールでやる予定だったんですから」
ジト目でシノさんを睨むテトラ。彼女はいつ戻り、テトラの視線を気にした様子はない。
「街には入れぬが、門のそばには簡易的な宿泊施設くらいあるのじゃ。それに見てくれにこだわらなければ飲み食いにも困らないのじゃ」
「えーっと、俺はこだわりが強いわけじゃないけど、衛生的な場所がいいです……」
「私もリンタローの意見に賛成。ノミが飛び回るような場所に近づきたくないわ」
うんうん、と力強くうなずくテトラ。
元の世界と比べて衛生観念が低いのは仕方ないと思う。元の世界でも起きてから寝るまで、石鹸で手洗いをする習慣がない地域はざらにある。
頭で理解はできるけど、納得ができるのは別問題。いつ洗ったかわからないような食器に料理が無造作に盛られてくるような場所は御免被りたい。
「やれやれ、冒険者として登録しておる者が情けないことを堂々と口にするでない。鼻が曲がるような悪臭や目を背けたくなる不快な光景など、世界に溢れかえっておるのじゃ」
「お師様、それはそれ、これはこれ。まだ冒険は始まってないから。冒険が始まっていれば我慢するけど、冒険が始まってないのに我慢はしたくない」
真顔でキッパリと言いきるテトラ。
テトラ、実に漢らしいよ。シノさんも一瞬、呆気にとられてしまう。
「くっくっく、なるほどのー。まだ冒険は始まっておらぬか、それならしかたあるまい」
シノさんは口の端を持ち上げて、心底楽しそうに笑う。その無邪気な笑顔に俺もテトラも看取れてしまう。
「スヴィールなら、まだあやつがおるかもしれぬな。よし、二人ともついてくるのじゃ」
笑い続けながら、軽い足取りで"転移の泉"が浮かぶフロアから出ていくシノさん。
俺とテトラは一度顔を見合わせると慌てて後を追いかけるのだった。




