87.決着
「――すまヌな、相馬殿」
無音の世界に響く春陽さんの声。
刹那の時間が無限とも思える時間に引き伸ばされていく。
――主様!
脳裏に響く人工精霊――ノルンの声。
それは悲痛なものではなく、自信があり、何かを求めていた。
俺は、脳裏に浮かんできた言葉を反射的に口にする。
《我は舞う! 天と地の狭間! 時及ばぬ場所で!》
――主様ノ言霊ヲ確認しましタ! 詠唱変換、疑似魔術回路に魔力充填、魔術式展開! 実行しマス! 別位相空間の展開に成功しましタ。虚数界面に模造体構築、実空間ヲ反転します!
ノルンとの同調率が高まっているおかげか、ノルンが何をやろうとしているのか、瞬時に理解が出来た。
疑似魔術で、別位相空間に俺のダミーを構築、速やかに俺と入れ替える。
わずかに座標をずらして――ダミーから一、二歩後ろ――実空間に復帰する。
春陽さんの放った高速の一撃――突きが微かに喉に触れた痛みがあった。
間一髪――そんなことに安堵する時間など、俺には残されていない。
俺の喉を春陽さんの黒刀が的確に貫いている。
春陽さんの姿は、俺の姿で見えない。
だけど、狙うべき一点はハッキリと視えている。
音も色も置き去りにした静寂が支配する空間で、俺は愛刀を握る右手を弓矢の様に引き絞る。
《穿て!》
疑似魔術の身体強化と、愛刀自体を斥力で撃ち出す。
人体だけでは到底生み出すことの出来ない速度に達する。
全身の筋肉がブチブチと音を立てて千切れていく。
それでも、俺の繰り出した一撃は、寸分の狂いもなく、狙いを貫く。
――パキン
ガラスの割れる様な澄んだ音が空間に響く。
ダミーが霧散し、春陽さんの姿が露わになる。
俺の愛刀は、春陽さんの胸部――封魂玉を貫いていた。
「勝負ありじゃ」
――術式緊急解除しまス! 主様、反動ありますケド、許してくダ……
ノルンの声が途切れると同時に、激痛と疲労感が一気に襲ってくる。
喉の奥から溢れだしてきそうな泣き言を、奥歯を噛み締めて飲み込む。
気を抜けば、一瞬で意識が飛んでしまいそうだった。
千切れそうな細い糸を手繰り寄せるようにしながら、意識を保っていると、ぐらりと身体が傾く。
「リンタロー! 大じょ――」
「テトラよ、すまんが、今回は妾の役目じゃ」
ふわり、柔らかなものに包まれるような感覚。甘い蜜のような香りが、全身の筋肉痛の痛みを和らげてくれる。
「凛太郎、よう頑張ったのじゃ。さすが妾が見込んだ良き男子じゃ」
「し、シノさんっ!」
離れた位置にいたはずのシノさんが、倒れかけた俺を受け止めていた。そのままギューッと俺を優しく抱き締める。
シノさんの深よかな胸の双丘の柔らかさ。そして、鼻腔をくすぐる甘い香りは濃密になる。
俺の心音は早まり、思考がままならなくなっていく。
「ちょ、し、シノさん! ち、近い、近いです!」
「気にするでないのじゃ。妾の言葉を偽りにしなかった凛太郎を労っておるだけじゃ」
シノさんが口の端を持ち上げながら、優しく微笑む。
ただそれだけなのに、俺は全てが報われたような気がした。
シノさんは、俺の頭を優しくひと撫ですると、右手を軽く持ち上げる。
胸部に俺の愛刀が刺さったままの春陽さん――千陰が、棒立ちしていた。
シノさんがパチン、と指を鳴らすと、するりと俺の愛刀が春陽さんの胸部から抜け、続けて拳大の宝玉――封魂玉が飛び出てシノさんの右手に納まる。
「なかなか良き一撃じゃったぞ、凛太郎。まさか一時的、局所的な時間逆行を発生させて、因果を断つとは、恐れ入ったのじゃ」
「因果を、断つ……?」
距離の近すぎるシノさんにドギマギして、思考がまとまらず、俺は独り言のように尋ね返す。
「封魂玉を植え付けられた素体は、朽ち果てるまで解放されることはないのじゃ。本来の肉体に宿っていた魂を、無理やり別の肉体へ差し替えるからの。例えるなら、卵の入った器に、別の卵の黄身を入れて撹拌する様なものかの。黄身の薄皮――卵殻膜が破れしまえば、黄身をそれぞれに分けることは出来ぬし、黄身と白身も綺麗に分離することは、至難の業じゃろ」
「お師様、錬金術ならば、混ざり合った卵の黄身と白身を分けることは可能です、たぶん――あいたっ!」
「錬金術師を名乗っておるのなら、たぶんなど曖昧なことを申すでないのじゃ」
いつの間に取り出したのか、閉じた扇子で、テトラの頭を叩くシノさん。
テトラは頬を膨らませ、恨めしそうな目で睨む。恨んでいるとかではなく、叱られた子どもが親を睨むような雰囲気に、思わず頬が緩んでしまう。
「おっと、忘れていったのじゃ。そろそろ時空の歪みが修復されて、其奴も解放される頃合いじゃ」
シノさんの言葉が終わると同時に、春陽さんの体がぐらり、と傾く。
慌てて動き出そうとしたものの、俺の体はシノさんがガッチリ抱きしめられて固定されている。
そもそも俺の体は、身体強化の無茶がたたって、ピクリとも動かなかったのだが。
「春兄っ!」
弾かれたように、六花が駆け出し、ゆっくりと倒れる春陽さんを抱きとめる。
「六花……面倒ヲかけ、たナ……」
「春兄、良かった……」
涙を滲ませながら、六花は春陽の胸に顔を埋める。
春陽さんは、少し困った様な顔で、まだ自由に動かせない手を震わせながら、優しく六花の頭を撫でる。
しばらく二人の様子を眺めてから、シノさんは春陽さんに、いつもの尊大な感じで声を掛ける。
「気分はどうじゃ、榊の小倅。汝は、封魂玉を身体に埋め込まれて、三年程度は過ごしておったようじゃな。汝の胆力がなければ、とうに自我など無くなっておったところぞ」
「いやはや、助かルとは思――っ! これハ失礼を。六花」
春陽さんは六花に補助されながら、片ひざをつき、シノさんに頭を垂れる。六花もそれに倣う。
「御屋形様、お目にかかレた事は至極恐悦の極みでゴザいます。ワタシは、榊春陽でございまス。御屋形様がお社を去られて幾星霜、御屋形様のお姿を目にすることが、榊一党の悲願でございマした」
「そ、某は、み、未熟者ですが、じゅ、十九代目当主を拝命して、ます、六花と申します。御屋形様、におきましてはお日からも良――っあ!」
平静さを取り戻した様な春陽さんに対し、六花は誰が見てもテンパっているのが分かる六花。口上を述べている最中に舌を噛んで悲鳴を上げる。
苦笑する春陽さんに、微笑ましく見つめるシノさん。
「ここは妾の國ではないのじゃ。堅苦しい挨拶は要らぬ。二人とも顔を上げるのじゃ」
シノさんの言葉に、二人は恐る恐るといった様子で顔を上げる。
二人の顔を見て、シノさんは頬を弛ませる。
「ふむふむ、二人とも基実と市松の面影があるのじゃ。あやつら、息災だったようじゃな。重畳重畳」
シノさんは、目を細めながら、懐かしそうに六花と春陽さんを見つめる。
彼女は閉じた扇子をちょいちょいと動かして、二人に立ち上がるように促す。
「まあ、積もる話もあるかもしれんのじゃが、ここでするのは無粋の極みじゃ。後始末は悪ガキとルドルフに任せて、日を改めようぞ」
「お、御屋形様、お言葉でございますが――」
「安心するのじゃ、妾は逃げも隠れもせぬのじゃ。だから、心穏やかに休むのじゃ」
シノさんの号令に、六花と春陽さんは素直に従う。
しばらくして駆けつけてきた王国騎士団とルドルフさんに後を任せて、俺たちは帰路に着くのだった。
あとでアキツシマ錬金工房に顔を出したクロードに、しこたま小言を言われる事になった。