85.提案
「囀るでない。まだ慌てる頃合いではないのじゃ」
パチン、と扇子を閉じる音が響く。
そして、音もなくシノさんを包んでいた漆黒の光が消え去る。
一瞬の間を置いてから、千蔭が右手で掲げていた殺生石も、音もなく塵に変わり、サラサラと床に落ちる。
「テトラよ、要石の魔術陣に接続するのじゃ。、ほれ、急ぐのじゃ。魔眼封じを動作させることを忘れるでないぞ」
「は、はい! お師様!」
驚愕の表情で硬直する千蔭をよそに、シノさんがテトラに指示をする。
彼女は弾かれたように、魔術陣の中央で浮遊する巨大な水晶――王国の結界の要石に両手をつく。
一度、大きく息を吸い込んでから、テトラは真剣な眼差して力を込める。彼女の腕から手と淡い光――魔力が伝わり、じわじわと要石を包んでいく。
「うむうむ、良い感じじゃぞ。分断したところを迂回して回路を繋ぐのじゃ。そうやって応急処置をしておけば、結界は安定動作するのじゃ」
「はい! お師様!」
額に汗を滲ませなが、テトラがハキハキと返事をする。普段の調子と変わらないシノさんの態度に、ピリピリしていたテトラも平常心を取り戻したようだ。
「巫山戯ルなッ! 何を暢気な話ヲし――」
「騒ぐな」
シノさんが右手に持つ扇子で千蔭を指す。間を置かずに、彼は片膝をつき、両手を床につく。
「これ、ハ……御屋形様ノ……秘術、重力制御……」
「ほう、覚えておったのか。重畳、重畳。昔は悪さをした童に、妾から賜物として片っ端から、お見舞いしておったからの。重力制御を貰っておらぬ童は、おらぬかもしれんの」
「この、程度……すぐに術式ヲ、解析……して……」
「ほほぅ、狂うておらぬ部分が、少し残っているようじゃな。心の臓が百回脈打てば、術式が自壊する様に仕込んでおったが、五百回まで術式を維持する様に書き換えてやるのじゃ。勤むがよい」
シノさんは、そう告げると千蔭から目を離し、周囲を見渡す。
黒刀が刺さった水晶――結界の要石を安定させるために集中しているテトラ。千蔭の暗示で動けず、全身から悔しさを滲ませる六花。
そして――
「ほれ、忘れ物じゃ、凛太郎」
「へ? あ、ありがとうございます」
シノさんが流れるような動きで、袖から取り出した物を放り投げてきた。
一瞬、呆気にとられてしまうが、俺は慌てて放物線で向かってくる物を受け取る。
受け取った棒状の物は鞘袋に包んだ刀の様だった。
布越しだけど、伝わってくる感触に、俺は確信じみた何かを感じる。
俺が視線をシノさんに戻すと、彼女はニヤリと悪戯っ子のような笑みを浮かべる。
「ドルガゥンのナマクラじゃ。丸腰よりは千倍マシじゃろ」
「ナマクラなんてとんでもない。俺には勿体ないくらいの名刀ですよ」
「酒をかっくらいながら打ったような刀なんぞに、魂は宿っておらぬ。ゆえにナマクラと称しても問題ないわけじゃ。もう少し凛太郎の腕が上がれば、ドルガゥンにひと月ほど酒を絶たせて、一振り打たせようかの。きっとナマクラと出来栄えが違いすぎて、驚くこと間違いなしじゃぞ」
扇子を開いて口元を隠しながら、シノさんは「カカカッ」と快活に笑う。
シノさんがナマクラと言うけれど、物凄い切れ味の無銘の刀。
これ以上に切れ味のすごい刀なんて手にしたら、上手く扱えずに、自分で自分の手足を斬り飛ばしてしまうかもしれない。
豆腐のように簡単に斬れてしまう自分の腕を想像し、俺はおもわずゾッとしてしまう。
俺が顔を青ざめさせていると、シノさんはスタスタと六花に近づく。
彼女は少し身をかがめると、脂汗を滲ませながら、見上げる六花の頭をやさしく撫でる。
「――っ! お、御屋形、様! そ、某のか、髪など触られては、お手が汚れ――」
「水を張った田で遊んでおったわけではあるまい。汚れのうちに入らぬのじゃ」
そう言って、シノさんは六花に微笑みかけながらクシャクシャと頭を撫でる。
呆然としていた六花の頬に朱が差し、顔色が良くなっていく。
「解術したが、汝が無理に抵抗したため、氣の流れが乱れておる。治癒するまではないが、まともに動けるようになるまで、少し時間がかかるじゃろ。大人しくしておるのじゃぞ」
「承知いたしました」
シノさんが六花の頭から手を離すと、彼女はフラリと立ち上がると、覚束ない足取りで一礼し、後ろに下がる。
素直に従った六花の姿を満足そうに眺めたシノさんは、軽い足取りでテトラに歩み寄と、軽く握った拳で、コンコンと水晶をノックする。
「テトラや、カタナの刺さった部分を包むように、術式を編むのじゃ。魔力は絞り、髪の毛よりも細くなるようにイメージをするのじゃ」
「はい! お師様!」
シノさんの言葉に、テトラは元気に返事をする。玉のような汗が、宙に舞ってキラキラと輝く。
若干、鼻息荒くなりつつ、テトラは集中力を増していく。
水晶に触れたテトラの手のひらから、淡い光が水晶に流れていく。
絹糸のような細い光が無数に絡み合い、黒刀の刺さった辺りを包みこんでいく。
傷痕が繭のように包まれるまで一分も掛からなかったと思う。
「うむ、良い出来じゃ。ちとカタナを抜くが、作業を続けるのじゃぞ」
「わかりました! お師様!」
テトラの返事を待ってから、シノさんは慣れた手つきで黒刀を水晶から抜き取る。一振り――血振りをしてから、黒刀の刀身を形の良い白磁の様な指で一度なぞる。
「模造品じゃが、手入れは良く行き届いておるの。結界の術式と干渉しても、付与術式に乱れはない。良き品じゃ」
シノさんは、そう口にすると、無造作に黒刀を放り投げる。
「ちょ、シノさんっ……」
俺は、シノさんの唐突すぎる行動に、思わず声が出た。そのまま黒刀を目で追ってしまう。きっと口は開けっ放しだったに違いない。
黒刀は、ゆっくりとクルクル回転しながら、放物線を描いて移動していく。
そして、身動き出来ない千蔭のすぐそばに、綺麗に突き刺さる。
「どう、いう……つもり、ダ……」
「どうもこうもないのじゃ。得物がなければ、ナマクラとはいえドルガゥンの打ったカタナの相手は出来ぬじゃろうて。ほれ、そろそろ術が解除されているじゃろ」
シノさんがニヤリと含みのありそうな笑みを作る。同時に俺は嫌な気配を感じ取る。今すぐこの場から離れた方が良い気がしてくる。
顔色が悪いまま、ふらりと立ち上がる千蔭。慣れた手つきで、黒刀を抜き取ると鞘に納める。
千景はシノさんを警戒しているのか、右手を軽く黒刀の柄に添えている。
シノさんは、軽い足取りで俺に近づくと、ポンと肩に手を置く。
「妾を連れてゆきたくば、凛太郎を負かしてみるのじゃ」
「へ? あ? むりぃぃぃぃぃぃ!」
俺は叫ぶ事しか出来なかった。




